ワンピースのカイドウも言ってます。 「死は人の完成だ」と。 お坊さん達にとって理想の死はどんな死ですか? 苦しむ死ですか?それとも安楽死ですか? それとも、もっと別の死ですか? 教えて下さい。
私の家は仏教で臨済宗です。 ふと思ったのですが なんで法事や葬式をするのはお坊さんでないといけないの? 確かに仏壇でお経を読むのは私達でもできますが、修行に行ったお坊さんには凄いパワーがあるのかな? 別にお布施がおしいとかそういう意味でなくてなんかパワーがあるのかなーと思いましたので質問です。
お坊さんは24時間365日営業ですよね。 タフですよね。 お坊さんの1日に密着してみたくなります。 ストーカーではなくて。 意外と、チッと舌打ちする時もあったりして。
高校生です。 最近、具体的な進路として、僧侶になることを志望しています。仏教系の大学に進学したいと考えています。 僕は、般若心経の教えに感動し、観音経には苦しかったときに救われました。みんなが幸せになれるようこの仏教の教えを広めたい!と考え、僧侶を目指しています。 そこで質問なのですが、僧侶のあるべき姿はどのようなものが挙げられるでしょうか。 上記の質問以外にも、いろいろ教えていただけるとありがたいです。
死について質問です。 今の私にとって死とは、必ず行き着く先であるからこそ、明日すら計り知れない今を頑張る源となっているように思います。 小学生の頃はずっと死にたくないと思っていたのに対し、大学時代は死にたいけれど自分から死ぬ勇気はない、そんなことで周りに迷惑もかけたくないと思っていました。 また一度だけどうしようもない気持ちがいっぱいで手で首を締めた時、少しの吐血で非常に驚き、やっぱり自分から積極的に死を選ぶことはできないと実感しました。 そうして死の捉え方が変わっていきながらも、今は明日死んでも、五十年以上後に死ぬことになっても、いつでも悔いなく安らかに眠れるような気がしています。 一方で医療職に就き人の命を救う立場でありながら、このような死の捉え方をしていることには、どこか自分や他人に嘘をついている気がしてしまうこともあります。 お坊さんがたは、お葬式などで死者を弔う役目を果たされながら、死をどのように捉えておられますでしょうか? どうぞお聞かせ頂ければと思います。 宜しくお願い致します。
当時の心境や、その現実とどう向き合い、現在どのようにして心を保っておられるのかを教えて下さい。 このような質問は大変不躾で無神経で非常識だと思います。ただ、周囲に自死者がいない方の客観的な回答(説法)ではなく、実際その苦しみを味わったお坊さんの話を聞かせて頂きたく質問しました。申し訳ありませんがよろしくお願い致します。
お坊さんが故の苦しみ お坊さんになって良かったことを教えてください。
このタイトルの質問は多くたくさんは拝見するのですが、少し私は考えが違うかもしれませんので、投稿させていただきます。長文御容赦ください。 私は死について考え出したのは小学6年生の時でした。 そのときは、死んでしまうともうこの世には帰ってこれないし、今楽しいと思うことはもう二度とできない。といったものでした。 そして、考え方は年々変化しました。 今は以下のことを考え、夜になると吐き気をもよおすこともあります。 ・死んだらどんな姿になるのか ・姿が変わっても親や妻、夫に会えるのか、また後から来る人にも会えるのか ・生まれ変わるというが、今実際前世何かだったという記憶も多分ありません… ・あの世でも老化ということがあるのか?あればどのくらい前の人まで会えるのか?なければ老けない姿でどうやって会いたい人を探すのか? ・なんといっても向こうでも働くのか?食べるのか?ずっと活動するのか? といったことがこれでも一部ですが、考えてしまいます… 誰も死に逢ったことはないし、わからないものです。 ですが、かといってこういうふうな捉え方をするなと言われてもできそうにはありません… ありがたきお言葉をお待ちしております……
外敵の脅威に晒されず、田畑をのんびり耕し、子どもは伸び伸び育ち、ご近所さんや家族仲間と笑いあい、物々交換しあっていた日の差す日本が羨ましい。 もうその頃の善意良心、温かみだけで成り立っていた世には戻れない。 「安楽死」の言葉、なんて魅力的。「安楽」が布団の中でぬくぬくすやすや眠るイメージ。 しかしやる事は自殺。それも他人様に殺人の罪を被せるわけだから制度として確立されるわけがない。 死ぬのは怖い。それでも知りたいのは自分の死期。委託殺人があった、制度が出来たら死ななきゃダメなの?みたいなクソ漫画もあった、海外と日本の考えが全く違うのも分かる。 希望は内側から開けられない、逃げられないカプセルの中に入り、瞬殺するガスのボタンを自らの手で押す。処理だけはお願いしておく。これが理想、これなら誰も悪くない。 自分の死期はここまでって選択として握っていたい。安楽死制度がもし出来たら私の守りになる。今より熱がきっともてる。明確なそこで死ぬというゴールが欲しい。 某占い師ばりに寿命を断言してほしい。 死期の知り方を教えてください。
お坊さんのお給料は、月(又は年間)幾ら位でしょうか。普通のサラリーマンと同じ位だと聞いた事が有るのですが、如何でしょうか。 又、お坊さんは税金を納めていますか? 偶に、「お坊さんは税金を払わなくていい」と聞きますが、それは本当なのでしょうか。 質問尽くしで申し訳有りませんが、どうか教えて下さい。お願い致します。
身内を2人、自死でなくしています。 私のせいだと思います。 キリスト教で言う、懺悔がしたいのです。 個人的な面会は出来るのでしょうか。
生きてる時の未来にはワクワクしません。 死後の世界を想像するとワクワクします。 きっと私は生きることには向いてないんだと思います。 お坊さん、ごめんなさい。
初めまして。 以前何かのきっかけでこちらのHPを知り、時々拝見させて頂いておりました。 本日はお坊さんの息抜きについて教えて頂きたいと思いまして、ご質問させて頂きました。 私は幼少期より、何故か周りから常に相談を受ける側でした。 それは老若男女職業問わずでして、ここ数年では特に、初対面にも関わらず重たいご相談を頂く機会がとても増えております。 勿論、報酬は頂いておりません。 ここからは私の勝手なイメージですが、基本的にご相談者は怒りや悲しみ等の「黒いモヤ」のようなものを大量に抱えていらっしゃいます。 その方が話し始めると、その方の体から黒いモヤが放出され、それを私が吸い取る事でその方の黒いモヤが少しずつ薄くなり、ある程度黒いモヤが薄くなると、その方は最初の頃よりスッキリした良い顔色になります。 反面、その黒いモヤを吸った私はとても重たくなり、時にはその方の怒りや憎しみ悲しみと同調してしまい、涙が溢れてきたり、頭痛やめまいに襲われる事もあります。 ここ数年は皆さんの悩みが重く、なかなか自分だけでは処理しきれず、私自身が他人から受け取る黒いモヤのせいで悩まされる事があります。 私は仏に仕える身ではございませんし、ごく普通の一般OLです。 見た目は怖そうだと言われますし、多少押しても倒れなさそうで強そうだと言われる程の体躯ではあります。 精神的にも強そうだと言われますが、それは不平不満を言ったところでなるようにしかならないと思っており、怒りや悲しみを持っても仕方がないので、それなら楽しい事を考えようと、自分のご機嫌を自分で取っているからそのように見えるのだと思います。 その為、自分が生み出した黒いモヤというものは割と簡単に放り投げる事ができるのですが、相手から相談として受け取った黒いモヤは時々しつこく、神社やお寺に行ってお参りをしたり、綺麗な景色を見ても取れない場合があります。 そのような取れない黒いモヤのカスが蓄積されていくと私自身も疲れていき、段々どうにもできないイライラが貯まっていきます。 そこでお伺いしたいのが、お坊さん方の息抜きについてです。 ご相談を受けられる事が多いと思いますが、その後の自分のメンテナンスはどのように行っていらっしゃるのでしょうか? 相手から黒いモヤを受け取っても、自分で処理できれば問題は解決できると思い、相談させて頂きました。
中学生男子です。 コロナウイルスの影響で学校が休みになってから、死を意識してしまい、食欲がなくなったりしています。他にも、母が死んだらどうしよう...、死んだらどうなるのだろう?などを考えてしまいます。 その事をインターネットで調べると、「大人になりたくないのでは?」と書いてありました。 ここで質問なんですが、死を怖がるのは考えすぎでしょうか?それとも、大人になりたくないと考えすぎなのでしょうか? 後、浄土宗では死んだ後、極楽浄土に行くと言いますが、念仏を唱えていなかったら絶対地獄行きなのでしょうか? 長文すみません。
死に対して気持ちが動きません。 父親の死は両親の離婚後何年も会っていなかったので他人事のように感じました。もう1つの理由に離婚前より母親から父親の悪口ばかりしか聞かず私なりの判断ができるほどの交流もなかったため父親像というものが母親からの話だけで固まってしまった事です。ですが長年可愛がっていたペットが亡くなった時もその瞬間は涙が出ましたが悲しみは長く続きませんでした。母親への感情も薄く扱い難い人なので死んでも悲しまないだろうと感じてしまう自分が嫌です。人として未熟なのでしょうか。
大切な人を亡くした時、どうすればこの悲しみが癒えるのでしょう。
解決しない悩みばかり抱えて辛いです。 何年も前から、死にたいって願望があり自分の体を傷つけたり首を絞めてみたりしています。 死にたくなったらどうしたらいいですか?
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
こんにちは! 素朴な疑問なのですが、いつもお坊さんはずっとお寺にいるイメージなのですが、お坊さん同士の交流や横のつながりはあるのでしょうか? 集会とかあるんですか?
お目通りありがとうございます。 私は精神科に通っていて、メンタル治療の本をよんだり、あまり精神科に関わらない人よりは、その道の知識がほんの少しあるとおもうんですが 前々からお坊さんと精神科医は似ているなぁ と感じています もちろん薬を出される出されないという点は、ハッキリちがいますが、、 これには少し理由があるんだろうなぁ と思ってます ご教示ください