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hasunoha 問答検索結果 : 「托鉢」
検索結果: 109件

日本人の食べるということに対する意識

私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。

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お釈迦さまが自殺をとめられた話について

インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」

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あの人は本物?偽物?

変な時間に目が覚めてしまって(^▽^) 久しぶりに質問させていただきます。 私の祖父母は昔、祇園で八百屋を経営しておりました。(今はやってません)小さい頃は配達について行ったりしていたため、四条大橋を通ることがよくありました。その四条大橋でよく、笠をかぶって、お坊さんが来ているような黒の衣を身にまとって、お経のようなものを唱えている一人の(たぶん)女性がいました。その方が本当にお坊さんなのか自分で確かめていないので、よく分かりません。そしてお金が入れられるような箱を首から下げていて、人が寄ってくると説法なのかよくわからない話を始めて、それでお金を集めていた方で小さい時、祖母に「あの人お坊さんなのー?」って聞いたら、「偽モンやで、寄らんとき」って言われて、ずっとあやしい存在でした。地元でも知られていて、確かによく見てみるとその人の話に耳を傾けてる人はだいたい観光客で、地元の人はみんなスルーでした。 私が高校生くらいの時には見かけなくなったので、お亡くなりになられたのか、どこに行かれたのかわかりませんが、暑い中、寒い中も一日中立っている人でした。もし本当に偽物ならあんな、やり方で金を集めるなんて許せません。最近、偽の募金集めもよく見ます。 そういうことをするお坊さんっているんですか? お坊さんではないと思うんですが、、、 京都特に四条大橋大橋近辺にお住まい、または橋を利用されるお坊さんで知ってる方居られませんか?ほんの10年前の話です。ずっと気になっていたので質問させていただきました(❁´ω`❁)

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学校を休みがちになっています…

高校2年の女です。本当は3年ですが1年休学していたのでもう一回2年生をしています。 復学した時はとても不安で緊張しましたが幸いにもとても少数ですが友達もでき、夏休みまでは順調に学校生活を送っていました。 しかし2学期に入ってから友達とイザコザがあり学校を行くのが辛いです…。 私は友達を作るのが下手で仲良くなれたとしても2、3人くらいしかできません。 それにそこまで深く仲良くなれるわけでもないのでいつも上辺ばかりの友達でした。 でもイザコザがあった友達とは趣味は正反対なのに気が合いとても仲良くなれました。 その子と仲良くなってからは毎日学校に行くのが全然苦にならずむしろ楽しみにしていまた。 でも今はその子とはよそよそしい感じなので学校がとてもつまらなく感じます。 その子以外にも友達はいるのですが私よりも仲のいい子の方へ行ってしまうのでその間私は一人でポツンとしています。 その間は何をするわけでもなくボーッとするかトイレなどに行って時間を潰しています。 本でも読めばいいと思うのですが、いつも読んでいるわけでもないのでいきなり読み始めたら不思議に思われるんじゃないかと思い読めません。 学校に一人でいるととてもつまらないし、惨めな気持ちになるし恥ずかしくもなるしで行きたくありません。 私の他にも一人でいる子がいるので、その子とも仲良しですが話を振っても返事が少なく喋っててもつまらないです。 なので9月になってから一週間に1回、多いときは2回も学校を休んだり早退をしてしまい、単位や学費を払ってくれている親の事を考えると焦りや罪悪感が出てきて辛いです。 なら行けばいいと自分でも分かるのですが、どうしても行く気が起きず、行ったとしてもなせが辛く、苦しくなり途中で早退してしまいます。 進路は就職希望なので出席日数が大事なのに休んでて親に本当に申し訳ないです。親はそろそろ定年になる年で体調をくずしているしそのためにも早く卒業して就職して親を楽にさせてあげたいのに…。 学校に行かなきゃだめなのにそれすらできない自分が嫌です。 どうなってもいいやと考える自分とそれじゃダメだと思う自分もいてもうよく分かりません。 私はどうすればいいのでしょうか。どうか回答よろしくお願いします。

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◯◯断ち、というお願いの仕方の今後の続け方について。

初めまして。断ち祈願の今後の続け方についてお伺いしたく投稿させて頂きました。 よろしくお願い致します。 一昨年の3月頃、夫の不倫問題、家族問題に悩みどうしても家族再生をしたく色々な神社にお参りをしに駆けずり回り、そんな時に「断ち祈願」というお参りの方法をインターネットで目にしました。 渥美清さんが仕事に悩んでいた時にタバコを一生吸わないからいい役柄に巡り合わせて、と願掛けをした所、その後すぐに寅さんの役に巡り合った、というエピソードを目にし、その神社にすぐお参りに行きました。 私の一番大好きなものと言えばお菓子だったので、お菓子を食べないから家族問題を解決して下さい、とその神社にお参りをしました。 他にも地元の神社に、他の神社にも断ち祈願をしました。他の神社は特に断ち祈願で有名な所とかでは特にありません。 ですが、私がざっくりとお菓子という断ち祈願をした為にどう線引きをしていいのかわからないのと、お菓子の断ち祈願というのは対人関係において色々と支障が出てしまっています。 と、いうのも、友人と会ったり、来客があったり訪問した時等、お菓子を勧められたり出される場面が多いからです。スナック菓子じゃなくとも、和菓子だったりケーキだったり、毎回断るのも大変ながら何とかここまできました。 幸い家族問題は解決でき、今後この断ち祈願をどういったかたちで進めていけばいいのでしょうか?? 願ほどきをしたら何かよくない事が起こるのでは、と怖くて願ほどきもできません。 神社に問い合わせた所(断ち祈願で有名な神社の方です)願いが叶ったから、はい、今日から断ち物はやめます、は神様に失礼。然るべき儀式をやった上で止めるべき、とは言われました。 先程気付かず「菓子パン」と菓子という名前が裏に書かれたパンも食べてしまい、気付かずとは言え大変な事をしてしまったのでは…とビクビクしてしまいます。 ちなみにその寅さんの断ち祈願で有名な神社は断ち物の約束を破ると本人ではなく家族や大事な人に災いが起こる、と噂のある神社でもあり、そういう事もあり尚更怖いです。 ただ、現実問題、今後何十年とお菓子の断ち祈願を行うのも無理があるのかなという気もします。 今後どうしたらよいのでしょうか?? 是非アドバイスをいただきたいです。 よろしくお願い致します。

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2023/07/22

忍辱と我慢の違いについて

過去に相手方の勘違いにより誤った認識をされ、周囲に後ろ指をさされてしまう様な出来事がありました。 此方としては、実際に確認されればその場で誤った認識による部分は訂正し真実を伝えるつもりでしたが。 相手方と仲のいい方たちは『○○さんが言ってるし』とか『自分の認識や考え方と同じ人(仲間)も周囲にいるし』ということから、『事実確認』をせずに誤った認識をして、批判され続けたことがありました。(心理学でいう所の確証バイアスとエコーチェンバー現象そのものと言えるものなのですが) 此方としては『○○さんに○○された』とか『それ、嘘の情報なんだよ』等という訂正する内容を此方からペラペラ喋ることをせず、先に記した様に『確認して来た上で誤った部分に対して訂正する』気持ちのまま、なんだかんだで約10年近く経ちました。 仏教では『忍辱』という概念があると思いますが、『聞かれた時に“話す”為に説明できるよう準備をしておく』という行動は“忍辱”ではなく、単なる“我慢”になるのでしょうか。 (流石にこれ程長い期間、此方から主張できる“内容”があるのに、それを口に出さず白い目や悪い噂をたてられ、後ろ指指され続けるのに、少々疲れてしまいました) この様な行動を取り続ける私は“忍辱の修行をしている”と言えるのでしょうか。  それとも、単に“自分勝手な被害者意識を持っている”だけなのでしょうか。 いい歳してこの様な稚拙な悩みを口にし、申し訳ありません。 そのうえで可能でしたら、何かお知恵を授けて頂けませんでしょうか。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 7
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