3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。 煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。 今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。 その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。 ご教示よろしくお願いいたします。
私は身長145センチ、体重50キロです。 体脂肪は30%超えてしまい隠れ肥満です。 今ダイエット中なのに食欲の煩悩が強くて困っています。 特にソフトクリームやお菓子、外食などでお金を使ってしまい、「買いぐらい」が止まりません。 今日はソフトクリーム、その前はドーナツ、その前はアイスクリーム、その前も外食でアイスクリームとここ数日間「買いぐらい」が止まりません。 今病気で働けず、貯金を崩して生活しています。 幸い親元で生活しているので家賃や食費などはかかりませんが、外食や買いぐらいばかりしていては、そのうち貯金も底をつきます。 また世の中に食べ物は沢山あるので全部食べたがっていたらきりがありません。 食べることも楽しみの一つなので完全に止めるというよりは「節度を守って」食べることを楽しみたいと思います。 ほどほどにしたいのですが、どうすれば良いでしょうか?
1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も 総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。 有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。 2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか? 実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか? 3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。 また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。
年上の彼とお付き合いして1年ほどになります。 この間、穏やかな時間を過ごしてきました。 彼は、とても気遣いのできる人です。 誇り高い人でもあります。たぶん、煩悩なんてありません。 私は惹かれていくにつれ、彼の役に立ちたいという思いが強くなりました。 ただ、彼は、風邪をひいても看病させてくれず、彼自身が引っ越しをするときも手伝いをさせてくれませんでした。 彼の役に立てないのがつらく、先日、その思いをぶつけてしまいました。 そうしたらところ、数日待ってようやく来たメールに、「今は整理がつかないので、少し時間がほしい」と書いてありました。 彼を失いたくないのが本音ですが、このサイトを見ていて、「役に立ちたい」という思いさえ自分本位であり、慈悲の心に欠けていたのだと思い直しました。 これから、彼へ、思い直したこと、彼の気持ちを受け入れること、でも本心はそばにいたいこと、を伝えて、彼の整理がつくまで待とうと思います。 私はこれでいいのでしょうか。 こんな未練がましい気持ちを伝えることも、自分本位だからやめるべきでしょうか。 彼との関係はこれで終わるのでしょうか。
年の暮れの慌ただしい時に読んでいただきありがとうございます。 上司との関わりでの相談です。 その上司とは社長の奥様なのですが、私以外の女性社員(二人)には何かとちょっとした物(食品や日用品)等をよくあげています。私もいただく時もありますが、「あなたいる?」みたいな感じです。そう問われると、遠慮してしまいます。 以前は(今いる女性社員以外の時)きちんと人数分、分け隔てなく渡してくれていたので、何か変化があったのかもわかりませんが。。。 仕事面では、奥様の個人的なことも代わりに私がしていたりしているので、正直、便利屋的にされているのかなとか情けなくなります。社長の奥様以外にもある男子社員も同じようなことがありました。日頃、私に頻繁に頼み事をしてくるにもかかわらず、自分が外で頂いた物を他の女性社員にあげていました。 奥様にしろ男子社員しても、あげるのであれば、わからないところでしてほしいです。奥様にいたっては、「あの人に渡してね」と私に言付けしました。 こういうことが、度々あり気持ちが乱れます。私以外の女性社員も私と同年代なので年齢的なことで区別している感じはないと思います。色々と自分でも考えてみましたが私は承認欲求が強いのでしょうか? これも一つの煩悩というものであれば、どのような心持ちをすればいいでしょうか?新年を迎えるにあたり悶々としていますしまた来年以降も起こると思います。その時、心が乱れないようにするにはどうすればいいでしょうか? まとまりのない文章で申し訳ありませんが、どうぞ御教授よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 こちらに質問をしているうちに仏教に興味が沸き、自分なりに勉強しています。 今回は煩悩について教えてください。 私は今まで水子についてお聞きしてきました。その中で、水子(または産まれたばかりの赤ちゃん)はまだ人間社会に揉まれておらず、煩悩はない清らかな存在だと学びました。 では、煩悩はどのくらいの時期から沸いてくるのでしょうか? もうすぐ3歳と8歳になる子供がおりますが、幼いなりに悪知恵や欲(と言っても可愛らしいものです)がついてきたなぁと感じます。もちろん当たり前の事で、それも成長であり、嬉しく可愛らしく思っています。 大人に比べたら些細で他愛もないものですが、人間として生まれた以上全く無垢なままではいられません。 生れたての赤ちゃんはまだまだ無垢な存在だと感じますが、少し成長して自我が出てくる頃(一歳前後くらい)に煩悩は生まれるのかな?と思いました。
煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。
お坊さんの煩悩とは何ですか? 煩悩が生じた時にそれをどう対処されますか? 失礼過ぎてすみません。
いつも気づきを教えて頂き有難うございます。受験生の息子の机上に 子どもなりに目標をかかげ[貪欲に!今は脱,恋愛至上主義,不動心〉それを見て、ぼんやりと自分の煩悩は…幼い頃の無邪気な自分に戻りたいなぁと思い出しながらもクスッと笑ってしまいました。日常を過ごすなか煩悩だらけの日々、感情をバランスコントロール?!しながら出来るだけ丁寧にと生活しています。 貪欲,煩悩と 生きてくなかで、うまく付き合っていくには、ハスノハのお坊さま方は どう過ごされていますか? とりとめもない質問になりましたが教えて頂ければ幸いです。
最近ことあるごとに怒りや傲慢さ、プライドの高さを感じうんざりしております こういうことがあるとまず頭の中に親だったり知人だったり他人の顔をした人間が私のとこにきて「あーしろこーしろ」「こうしなさいよー」 「こんなことをするなんてなんてひどい奴だ」 とかなんとか言ってきます そこで僕は「お前の悩みはお前のとこに帰れ。俺にふるな」と一喝したり蹴り飛ばしたりしております。 こういう煩悩と付き合いかたは間違っていますか?
お世話になっております。煩悩即菩提は、よく懺愧の心から起こると聞きますが、親鸞聖人もおっしゃっているように、僕は無懺無愧の人間です。誠に自分勝手ですが、悪い心を持ってしても、全く恥ずかしいと思いません。何しろ、仏様の目から見れば善悪というのは相対的なものであり、人間(世間)が勝手に善悪と判断しているに過ぎません。仏様から見れば善も悪もないはずなのです。だからわざわざ懺愧する意味が分かりません。そもそも、極悪人や罪という言葉をよく仏教では使いますが、それも相対的なものであるはずです。何がどう罪深いのか分かりません。こういう僕には煩悩即菩提の境地は一生理解できそうにありません。
アラフォー男性です。今さらながら恥ずかしい質問ですがよろしくお願いします。 標記の質問です。親からは性欲は汚いもの、悪という考え方で育てられました。 何人かの女性とお付き合いし、結婚もし、子供も産んでもらいその後離婚しました。理由の一つがセックスレスだと思います。元嫁からはもっとセックスしてほしいと何度も言われましたが、そういう行為は恥ずかしいものだと思い、自分からは求めることはありませんでした。 もっと下品に相手に求めれば、結果は離婚になっても過程は違ったのではないか、と今でも思います。 煩悩を滅する、という言葉は習った記憶があります。でも、煩悩、特に性欲に関しては、本当に信頼している人としかできない最高のコミュニケーションではないかと離婚した後思いました。 仏教では性欲についてどのように考えているのでしょうか。もちろん犯罪にならないということは前提ですが。。 よろしくお願いします。
何かが好き、もっと欲しい、もっとこうしたい、ああなりたい、 というような気持ちは「欲」という煩悩だと思いますが、 こういった気持ちが全く何も無くなる時があります。 「欲」がなくなった状態とは、仏教的には良い状態なのではと思うのですが、 そういう境地の時は何かに執着している時以上に生きるのが辛いと感じます。 何もやりたい事も無く、求めるものも無いと無気力になり、 なぜ生きているのかと言う事を、より考えてしまいます。 欲を無くし、ただ辛い世の中だと思いながら生きるのは正しい生き方なのでしょうか。 私は今、何を求めていいのか何がしたいかもわからないです。 それもまた別の煩悩と言うのかもしれませんが。
いつもお世話になっております。 この度は、修行をする中で悩ましい問題が発生したので相談することにしました。 私は欲らしいものを持ちません。 お金も地位も名誉も何も興味を持てません。 しかしどうしても抑えきれない欲があります。 それは「知識欲」です。 幼い時から理由もなく知りたいという気持ちが収まりません。 一度疑問に思ったらとことん調べ、 答えがないときは自分で発明してまで突き止めてしまいます。 仏教を知る前は気にならなかったのですが、 仏教を知った今ではそれは煩悩なのかと悩むようになりました。 技術職を生業としているので知識欲がなければ務まりません。 かといって煩悩ならば捨て去るか、 コントロールするべきだと仏教は言っているように思えます。 どのように考えるべきなのでしょうか? どうか智慧を授けてください。
乗っけから乱暴ですみません。 ここでしか言えないので。周りの人は、 「怖いと思ったら、離れなさい。 それが今あなたにできる事」 と言います。 でも、私だって楽しみたい! 他の人みたいに、安心して遊びたいし、 歩きたいし! カワイイ子いっぱいいるだろ! 何で私なんだよー! 私からは、「とても感じのいい、 人から頼られやすい雰囲気」 「内面の良さが外面に」 出ているそうです。不思議です。 正体はこのザマですよ?描く絵だって 血生臭いし。結構物騒な事も考えて ますよ? 最近は、生来の防衛本能(霊感と 呼んでます)が大暴れしています。 一歩道を歩いて、男性とすれ違えば 下を向いて横目で警戒。 目を見なくても、 「こいつ、ヤベェぞ」 と頭の中で 警報が鳴ります。 いつ絡まれないか、手を出されないか。 現実、いきなり手を振って近づいて こられそうになった事もあります。 人混みに出て、後ろに男性が来れば、 ソワソワ落ち着きがなくなり、 睨みつけたり、徐々に離れたりと言った 目立った行動をとります。 あとは、防犯ブザーをちらつかせ たり、付属のレーザーライトを カチカチ点滅させてしまったり… これで、逆に話しかけられた事も あります。怖いんだよ畜生が! 要は威嚇です。 同性もしかり。私が前を通過すると、 目で追われたり。迷惑なんだよー! 最近は、この本能大暴れのせいで 今年2度目の風邪をひきました。 暴言三昧ですみません。 聞いて欲しかった、それだけです。
人間は欲がなくなった時死ぬと聞きました 欲が煩悩になるなら、 人間はどうして、死ぬまで終わりのない 苦しみを抱えながらでも生きる事が価値がある事だと言えるのでしょうか? そもそも、煩悩の意味もネット検索しただけで、そんなに、知識がない私ですが、 私たちから煩悩をとったら何もなくなってしまいます。 欲があって苦しみを感じる事ができて、 苦しみがあって欲が生まれるなら果てしないと思います。宇宙みたいです。 そこにある。という存在、生命が無くならない限り煩悩を消す方法はありません。 では、苦しみはなくならないのでしょうか。 煩悩を消すって可能ですか?
よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。
お坊さんは怒ったり、嫉妬したり、だれかを嫌いになったり、ぜんぶめんどくさくなったり、悲しくなったり、頑固になったりするのでしょうか。 私は時々、煩悩まみれの人間であることがいやになります。
煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。 生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。 例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。 欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。 また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。 そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。 欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。 併せてご教授いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
世界の裏側ではいつも悲惨な戦争が起きてます もしもお坊様が目の前で愛する人が殺されてもそれは執着、煩悩、雑念と切り捨て 悟りを開く無の境地になれますか?