こんばんは、いつも質問に答えていただきありがとうございます。 2つ伝えたいことがあります。 私は今部活から飛び出して顔を出さずにいます。https://hasunoha.jp/questions/33367 こちらに書いてある通りです。目を通していただければと思います。 私はいつもぐるぐるとこの時質問したようなことを考えていました。そして自分は競技を続けていこうという気が自分にはもうなく諦めていると思いました。 体調が悪くなってしまうのはこの事から自分が許されようと思っている事からくるものだと思います。 私はこのことを部員に伝え今まで黙っていた事を正直に告白したいと思っております。 また散々迷惑をかけたことと今までお世話になった感謝の気持ちを伝えられたらと思います。 今の私に足りないものは前の質問で丹下覚元様がおっしゃった通り自分と向き合うことだと考えています。自分と向き合うために皆さんはどのような事をされているのでしょうか、また参禅をして自信と向き合うとありましたがこれはどの様なことを指すのでしょうか。答えていただけると幸いです。よろしくお願いします。
煩悩がいかによくないことであるかは解ったのですが、人生苦しむことなく、つまり、煩悩が芽生えることなく、膨張することなく、上手に生きていくひとたちは、多く居るものですか? そういうひとたちばかりであるなら、煩悩だらけであった自分が恥ずかしくて、情けないです。 それとも私と同じように、だれだって成長するにつれて、煩悩も増えていってしまうものですか? 私は、仏教を知るまでは、煩悩だということに気づくことが出来ませんでした。それがとても情けないような気がしました。
煩悩を無くすように努めると、喜怒哀楽等の感情も薄れるように思います。 煩悩と感情は同じものなのでしょうか。
御釈迦様が教えたかったのは、煩悩に悩まされないためには、自分自身で煩悩の存在に気付き、自分の心の中に生まれた感情を観察して、自覚をした上で、感情に執着しないことを常にすれば煩悩に悩まされる事は少なくなるということでしょうか? 一切の煩悩を自己の中から消し去るのは、難しいですが、無意識に生まれた煩悩や自発的に生まれた煩悩など自分の心の中で生まれた煩悩に気付き、執着しなければ偏見のない純真な心で周りを見る事が出来て、真の人の気持ちが感じ取れて、自分を含む周りの人の心を幸せにするには何をすれば良いのか解る。これが悟るということになるのでしょうか?
初めてhasunohaを訪れた際、アカウントに『私の煩悩:』を記す欄があったので、何となく、ふと思い付いたことを書きました。 私が書いたのは、『よく「未来は自らの手で切り開くもの!」と言われるが、未来に希望が見出だせないでいる。』というもの。 ただ「解答用紙に、何か書かないと」というような思いだけで書きました。いい加減な書き方をして、すみません。 しかし、訪れて10日ぐらい経った今、「何か違う」「なら書き直そう」と思いました。ある投稿を読んだのがきっかけです。ここからが、私が未熟であるからこそ生まれた煩悩になります。 新しい『私の煩悩:』 (来世なるものを自ら決められるのだとしたら)次は男に生まれてみたい、という煩悩が生まれたこと 変更理由:①私が今、女であるから。②私は男として生きたことがないから。③なってみなきゃ分からないことがあるはずだから。 以上。 しかし、来世に、また人間として生まれてくる可能性も確率も分からぬまま、容易くそんなことを言えた義理じゃありません。もし人間になれたとしても、今の、現世の「女」の記憶が残っているものでしょうか。 以前、私は『プチトマト』というタイトルの質問を致しました。「私の前世はプチトマトだ!」と小2の私が直感的に思ったことを書きました。ですが、残念ながら「プチトマトの記憶」はありません。ただ「ハッ!」と閃いただけだったのでしょう。 今は、煩悩も「心境の変化は日常茶飯事」と同様の仕組みではないかと感じております。 哀しくも、女の私には、男のことは分かりません。それと同じように、男の人も、女のことは分からないのではないでしょうか。 「どちらが有利・不利」など、両者を経験した者にしか分からないことです。つまり、「そんなこと言っても仕方ない」「誰にも分からないのではないか」と思っています。 そんなことに腹を立てているから、「怒という煩悩」が生まれてしまうのではないか、と、只今感じております。 しかし、まず性別が「男と女しかない」と思っていること自体、『無知』であり『偏見』『差別』ではないでしょうか。 この時代に「男になりたい」「女になりたい」というのは、短絡的過ぎるような気がしてなりません。それなのに、私の頭にムダな煩悩が浮かびました。 どんなご意見でもご批判でも、受け止めます。皆様のお心の内をお聞かせ下さい。
煩悩とは欲の事を示すのですか?自利? それなら「ひとの役に立ちたい」「優しくなりたい」も欲のうちに入りますか? よく、無の境地と言いますがなにも思い描かない心が無欲という事ですか? 今まで誰かの役にたてればと強く思い生きてきましたが 最近では違和感を感じます。他人の為にと願う気持ちも実は自利ではないのかと.... 無欲とは心にいっさいの願望を思い浮かべない事なのかと。仏教の解釈、お坊さんの解釈で結構ですので参考にしたいです。
お世話になっております。 浄土真宗では煩悩をどう捉えているのでしょうか。 煩悩を自覚することで慚愧し、内省するのですよね。具体的に、慚愧とはどういうことなのでしょうか? 例えばですが、僕も男(人間)ですから性欲というものはありますが、性に関する煩悩を自覚した時には性欲をどうするのですか?消そうと試みるのですか?(煩悩を否定的に捉える)まあ、いいやと開き直るのですか?(煩悩を肯定的に捉える)その辺がよく分かりません。 ちなみに、煩悩を消そうと試みる場合は、それはもはや「菩薩」という概念になってしまうように思います。 また、仏教においては分別心があればそれは煩悩ですよね。好き嫌い、善悪、優劣など。 しかし、そういうものに関しても慚愧するのでしょうか?僕達は人間ですよ。嫌いな人もいれば、好きな人もいます。そもそも、「好き」という感情が無ければ恋愛さえできないのではないですか。 僕はまだ学生ですが、将来仕事する時にも良し悪しを判断しなければいけない。もちろん、世間的(主観的)な善悪に過ぎませんが。でも生きていくためにはどうしても必要な判断ですよね。なので、人間の知恵も大切だと思うのですが...。 詳しい方、回答お願い致します。 南無阿弥陀仏
今、私は「女性とお付き合いしたい」「癒されたい」「寂しさから逃れたい」などといった『煩悩』??とでも言えばよろしいのでしょうか、そういった感情・欲求が激しい状態でして、非常に悩まされています。 そこで私が今考えているのが、現在、悩まされている『煩悩』を理性で律したいというものです。 以前、どこかで聞いた話なのですが、『煩悩』=『欲望』だとして、それがある状態から無い状態に変わったとしても、「有」への執着が、「無」への執着に変わっただけで、本質は何一つ変わっていない、というお話を聞いたことがあります。 ですので、私はそういった『欲望』を無くすのではなく、理性で律していきたいと考えています。 そこで、皆さんにご質問なのですが、私のこの悩みはどうしたら解決できるのでしょうか?どう対応したらよいのでしょうか? また、このような悩みに対してアドバイスをしてくださる埼玉県内のお寺などはないでしょうか? 私の希望としては、プチ修行のようなものを体験してみたいです。 どうぞ、宜しくお願い致します。 追記:車は持っていないので、電車で行ける所でお願い致します。また、住んでいる所は春日部市です。
煩悩を消そうとしたり 見ないふりをしようとしたりしてきました 良くない言葉や 良くない出来事 黒いものを見た時に 自分の中にある悪の感情に 蓋をしようとしたり 見て平気になろうとしたり でも見ていい 見て認め 聞いて見て感じて 考えて感情にのまれない 心配は仕事のようにやってくるけど 見守り乗り越えてゆく 全てあって良くて ありのままを 愛する事 今にしか気付きは来ないこと 全ては宇宙の采配 安心していなさい 煩悩とはこれを知るためのものでしょうか?
見返りを求めずに生きていこうと心掛けていますが…煩悩が邪魔をしてしまい、結局悪い結果になってしまいます。 修行を積んできたお坊さんでも、煩悩があるのでしょうか? 自分にとって悪い煩悩が出てきた場合は、どのように対処しているのでしょうか? お寺に行くだけでも清らかな気持ちになるのでしょうか?
以前、こちらに相談させていただいた金平糖と申します。 悩みへのご回答をいただけたことで、少し気持ちが軽くなりました。 本当にありがとうございました。 そして、また質問をさせていただきたいと思います。 自分の欲、煩悩をコントロールする方法を教えていただきたいのです。 色んなサイトを見たのですが、こちらでも方法を是非聞いてみたいと思いました。 私は、すぐに「自分が~自分が~」というように自分にとって 利益になるものに向かって、走っていくタイプに思えます。 なので、冷たい人間と思われることが多くあります。 煩悩を捨て、自身をコントロールすることで 自分だけじゃなくて、周りの人達のことを考えられる人間になりたいです。 どうぞ、宜しくお願いいたします。
淋しかったり苦しかったり、楽しいより辛い事が多く 振り返ってもやることなすこと失敗だらけ。 思い出すたび気が滅入るような恥の多い人生で もう消えてしまいたい、死にたいと思ったら・・・ ちょっと待って! せっかく稼いだお金を使ってからにしましょう。 食べたい物は食べつくしたい。 世界中行きたいとこへ旅行して あれもしたいこれもしたいとやりたいことを次々思いつき 私は一人ですので、仕事や身の回りのことを済ますと 好奇心のおもむくままに、忙しい日々を過ごしています。 煩悩いっぱいの このような生活で良いのでしょうか?
いつもありがとうございます。 ハスノハで相談するようなって、人間にはいくつもの煩悩があり、それが悩みや苦しみを生んでいた事を知りました。 自分が辛いとき、これは煩悩なのだと気付く事ができれば少し気持ちが楽になる気がします。 でも自分ではない相手の、悪の心?が煩悩のせいだとはなかなか思えなかったりします。 かといって相手を変える事はできないし、自分だけが相手の全てを受け入れるような事も難しい。 欲・怒り・怠け・プライドに慈しみの目を持つにはどうしたらいいのでしょうか?
おせわになります。 初めて質問させていただきます。よろしくお願いします。 このサイトのある質問の答えの中に、怠けの煩悩という言葉を見かけました。 これは、私たくさんあるぞと思いました。とにかくなんでも面倒くさいと思います。 「怠けの煩悩」これはどういったものなのかご教授お願いしますm(__)m
hasunohaは勿論、さまざまな仏教関連のわかりやすい本を読む機会もあり、少しでも心穏やかに正しく生きていきたいと思っております。そこで、例えば洋服を着飾ったりして少しでもよくみせたい、子供をどこかの遊び場に連れて行って喜ぶ顔をみてみたいというのはやはり煩悩のあらわれなのでしょうか。実際に結果的にうまくいかなかったときにつらい思いをするのは自分であり、ちょっとしたことでうつ気味になってしまうことも少なくありません。良い処方箋を頂けますでしょうか。
休めないことに罪悪感があります。頑張っていない状態が許せず、かといって成果が出るわけでもなく、ただ無理して我慢して疲れ切っているのが現状です。 私は周りの評価に依存して生きているので、いい子ちゃんを演じて背伸びをしています。自分の意見や意志に基づいて動けないのです。なのでいつも勝手にキャパオーバーになって、泣いています。出てくる言葉は「疲れた」「つらい」「休みたい」ばかりです。 どこかのサイトで、休めないこともまた煩悩なのだと知りました。 自分は出来るという奢り、もっと評価されたいという欲、頑張っている自分を褒めて欲しい慰めて欲しいという甘え。そういう考えがあって休めていないのかなと思います。 頑張っていない、怠けている、出来ない奴だと思われるのが怖いです。でも、本当は全然頑張りたくありません。私ができる範囲のことをやればいいのに、他人に評価されることに躍起になって、自分の心を疎かにしているのが苦しいです。 完璧にできない自分を受け入れて、自分に期待しすぎないで生きるには、どうしたらいいのでしょうか。
先日、告別式がありました。 その時、3人のお坊さんが来て、読経をしてくれた一人のお坊さんが髪が長く、ポマードをつけ、出棺のときに自分の白いスポーツカーに乗ったまま、ゴツい時計をして、タバコをぷかーとしてました。 一仕事終えたって感じでした。頭剃って、車は国産でいろ、タバコは吸うな、時計は安いものにしてと言っているわけではありません。けど、出棺のときは神聖な大事な時です。そんな無神経なお坊さんを見て、すごく嫌な気がしました。 僕は意識しすぎでしょうか? お坊さんは物欲とか煩悩を超越した存在でいてほしいと思うのは僕の思い込みでしょうか?教えて下さい。
どうしても女遊び(風俗に行くことです)の事ばかり考えてしまいます…また音楽が好きで好きで好きで仕方ないため普通に売っているCDやDVDだけでなく海賊版(アーティストが許可を出していない音源、映像)も欲しくて欲しくて欲しくて仕方なくなります。どうすればこの様な煩悩から離れられますでしょうか…⁉️ 友達がほとんどいなく女性とお付き合いもした事がないためか風俗や違法な商品に心を奪われてしまっている様です…どうかこんな愚かな私にアドバイス宜しくお願い申し上げます。
仕事の相談でメールや電話をしても無視するくせに私のメールの返信が少しでも遅いと、残念なひと、だと言われます。 忙しいから無視をした、自分でこたえを出せそうだと思っての無視だった、私からしたら言い訳です。 私のメールの返信が遅れたのも、その考え方でいうなら、こっちはこっちの予定があり残念なひととは失礼です。 そう腹が立ち、考えてしまう自分を何とかしたいです。 煩悩やエゴがなかったら面倒くさい生き方をしなくて済むと思うからです。
以前もご相談させていただきました。ありがとうございます。 その際、後悔は煩悩だと言うお言葉をいただきました。まったくその通りだと思い、後悔していても、犠牲になった子も家族にも何の役にも立たないと、後悔を滅して、前を向いて今出来ることをしなければと思いました。 その一方で、私はこの事をしっかり悔い改めなければとも思っています。ただ過去は過去と割り切って前を向くのは違うと思うのですが、今回のことを考えると後悔ばかりが渦巻きます。 煩悩を払うのはとても難しいと感じています。