今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。
まだ住職成り立てホヤホヤで、誰にも相談出来ず、恥ずかしながら、こちらにて、諸先輩方からの御指導頂きたく思います。 実は今日、檀家さんが相談事があるとのことで来寺されました。 その方曰く、『生前葬』をお願いしたい。 もう80で長くないし、どんな葬儀になるのか、また、自分の今までのご縁があった方が来るのか見たいとのことでした。 他にも様々な思いがある様子で、既に葬儀会館は押さえているようです。 私はその場では即答出来ず、教義的に可能かどうか、宗派の事務機関が、年末年始休みで問い合わせ出来ないと、その場しのぎの返答をしました。 個人的には、要は今回の件は、僧侶が、生前葬という名のエゴイズム丸出しの、パーティーのBGMに徹する事であろうと感じます。 お布施の誘惑と、宗教者としての確固たる立脚地との狭間で悩んでおります。 皆様はどう思われますでしょうか? 宗派を超えて、仏教者の忌憚ないご意見をお聴かせ願います。 追記 依頼者は裕福なお方です笑 あと、出来ればこの愚問の御解答は非公開だと嬉しいですが、如何でしょうか?
毘沙門天の開眼供養をして下さる関東の寺を探しております。 本尊毘沙門天を奉っている寺で、宗派は問いません。 関東に紹介して頂ける寺がない場合は、全国で 本尊毘沙門天を奉っている寺で、宗派は問わず、 郵送で開眼供養をして頂ける寺がありましたら紹介して下さい。 お願いします。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
こちらのサイトでは、同じ相談に対して、いろんな宗派のお坊さんからのご意見を戴けるのでとても参考になります。 ただ、いろんなお坊さんがいらっしゃるので、その文章・文体・内容から「合う・合わない」ということがあるなぁって実感しています。 「自分のことを理解してくれている、こういう言葉を聞きたかった」という場合と、「誤解されている、理解してくれない、質問の意図が違う」などという場合があり、ついつい、「自分に合う回答を重要視してしまう」という気がしています。 そこで、質問です。 世間に良くある「新興宗教や占いにハマってしまい、盲信してしまう人」の始まりは同じなのでは無いでしょうか? 自分に合わない意見は取り入れず、自分に合う意見ばかりを信じてしまう。 ふと気づけば、周囲の家族や世間一般の常識からかけ離れた考え方に染まってしまった「マインドコントロール」状態に入ってしまっている。 「この人の意見は合う、この人の意見は合わない」ということと、「この人の意見だけを信じる」というマインドコントロールの違い、ボーダーラインはどこなのでしょうか?
私は 以前 お不動さん、観音巡りもしたことがあります。五戒をおこさないようにと思い 写経をしたりもありました。 日蓮聖人の教えを弘教している人達に 会うことが 多くなり 仏教の教義 謗法について 回想することになりました。その時から 幻聴が始まりました。 救いや懺悔を 日蓮聖人のご本尊にすればよかったのでしょうが 攻められているようで 他の宗教や念仏に救いを求めてしまいました。 キリスト教の本を読んだりして 教会に行ってみたり 新興宗教から日本神話を読んでみたり 神社に行ったり しましたが 原因になった仏教が気になりました。 日蓮聖人は 法然さんを 立正安国論で 謗法といい 布施までやめるように 国に論じてました。法華経を捨ておき 念仏を信心しなさいと言われたから法華経に対する謗法だということでした。法然さんは 他のお坊さんからも意見が多かったようですが。法然さんは 他は 気にしないで 念仏をしなさいといっています。 法然さんの教義では 念仏以外を謗法とは言わず 雑行と言われてますが 気になります。 法然さんは 法華経を学ばれた上で 念仏を選びとられたのだと思いますが 私は 自分が救われるのかが不安です。かといって 日蓮聖人の教義に没頭するには 不動巡りや 法然さんに 執着があったのだと思いました。 お寺にいってもお坊さんには 聞きづらく またどういって伝えたらいいのかもわかりませんでした。 幻聴があることでの死への恐怖があります。克服したくて 介護の勉強 カウセリングの勉強をしています。 幻聴がなくなり 仕事として 役立てたいのです。が 幻聴があることで自信がありません。 幻聴は大分落ち着いたのですが 仏教を正しく学ぶことで 良くなることを願ってます。 メールで お話しできることが 救いです。 祈祷を頼むのもいいのかなぁと思ったこともありましたが 思いも定まってなく 内容も深そうで 迷惑かなぁとも思いました。 お墓は 宗派問わずとありますが 質問も宗派問わずでいいですか? 法華経と 念仏は 敵対してるのですか? 私は 宗派より 心が整理できて 赦され 勉強している介護やカウセリングが 人に役にたつ仕事が できるようになりたいのです。 よい方法はないでしょうか?
ユーチューブの「みすずの野望」チャンネルにて、住職の方がクラブのママと心霊スポットに出向き、クラブのママにお酒を飲みながら接客を受けるという企画を目にしました。 その企画を見た瞬間に、亡くなられた方を馬鹿にしているように見えてしまいました。とても不謹慎なことをしていると思いました。 住職がこのようなことをしても良いのでしょうか。
私は浄土真宗では無いのですが、今回母方の祖母が亡くなりました。お西さんでした。考え方と葬式での話になるのですがご了承ください。 浄土真宗では亡くなった後すぐに仏になるとありました。 そうすると、棺に手紙などを入れても結局遺族の自己満足で終わると言う事なのでしょうか。(冷たく考えればどの宗派でもそうなってしまうのかもしれませんが) 49日や各七日の考えも、故人の為ではないと言う事なのでしょうか? 私は父方が曹洞宗で子供の頃に習った話だと、こう言った法要は故人のためだったはずなのです。子供の頃の記憶なので完全に間違ってるかもしれませんが。 祖母にはとても愛されて居ましたし、私も大好きな祖母です。 祖母の為には何をしてあげれるのかと思うとちょっとわからなくなってきました。 今年は新盆ですが、お供えを故人の事を思って選んだ方が良いのか、適当で良いのか・・・ 私としては故人の事を思って選びたく思うのです。 また、納棺の際に他の遺族の連れ合いが壁に寄りかかりながら腕を組んで参加していたりしたのですが、お坊さん的にはこれってありなのでしょうか。 その連れ合いはまだ若いです。最近結婚したばかりなので、祖母ともそこまで面識がありません。 私からすると参加するのであればちゃんとした態度で参加した方が良いですし、そこまで人から見える場所に居る立場ではないとはいえそう言う事はやらない方が良いと思います。 これが母や叔母が憔悴しきって居てならまだ分かりますが、当日来たばかりで憔悴するような立場ではない人間なのです。 こうあるべきと言う考えが強いのかもしれませんが、ちょっと腑に落ちないのです。
お坊さんの年末年始は忙しいですか? 何をするのですか? 何日まで忙しいですか? 教えてください。
いつもお世話になっております。前回、「行者や僧侶が恐い」と質問した者です。私の「善行」が問題になっていないか、不安です… * 私は、人には笑顔で優しく接する。お寺では職員さんにはご挨拶。お困りの方には声をかける。周りをよく見た上で、小さなお手伝いをする。これは、道でもお寺でも変わらずやっています。 * 職員さんには、着席時は立ち上がってまでの礼はせず、微笑んでの会釈程度(お坊さんには合掌)に留めています。 目が合う時を狙っているのでだいたいは「ちわっす!」などと気持ちよく返していただけます。 誰か忘れ物をしたら「どなたか〇〇忘れてませんか~」とお声がけするようにしています。自分の動線にごみが落ちていたらそれも拾うようにしています。「供養は何時から?」「〇〇堂はどこ?」と聞かれたら、わかる範囲でお教えしています。 この前なんかは、「スミマセ~ン、そこ職員さんの通用口なんで一般の方は…」とお伝えし、正しい順路をお伝えしました。 * やりすぎですか? それと、「通い始めて日が浅いので、ここのことがよくわかりません><行事とかについてのの質問ってここですればいいんですか?」 と各種祈願、奉安手続きなどを受け付けている「総合受付」でお尋ねしても問題ありませんか? * 仕事の息抜きが仏様の御前しかありません!もうこれ以上縁を切りたくない!でも、「件の寺」以来、同じ宗派だからと 小さな事でも身構えてしまいます。 どうかお智慧をお貸して頂きたく存じます。
仏様を拝む意味を教えてください。 例えば、仏様を一生懸命拝んで合格祈願をしても、 全く勉強しなければ合格することはないように、 お願いごとをするために、つまり私利私欲の成就のために仏様を拝んでも、 意味がないように感じます。 (なお、本人が勉強すなわち努力しないと仏様は助けてくれない、 と言う人もいましたが、仏様がそんな選り好みをするとは思えないですし、 思いたくもありません。) むしろ、私利私欲の成就ために拝むならば、 たくさん拝むことはそのまま欲望の大きさにつながり、 これまた心の安寧という意味では意味がないどころか、 欲望を強める結果にもなってしまいそうです。 これらのことは、例えばお坊さんが、信者など誰かのために拝むことも、 そういう私利私欲のために拝むことになり、同様のように思われます。 (お坊さんには私利私欲なく、すなわち信者の願いが叶ってほしいとは 思っておらず、 信者の願いを仏様に伝えているだけ、 ということも考えられますが、この場合、お坊さんがそうする意味が よくわかりません。 お坊さんから伝わった方が、仏様は願いを叶えてくれるということは ないように思いますし、仏様がそうであるとは思いたくないです。) ところが、お坊さんを含め、多くの方が、仏様を拝んでいます。 その際、呪文のような言葉(真言?)や、お経を唱えていたりもします。 その内心はわかりませんが、お寺の絵馬には様々なお願い事が書かれており、 また、お寺ではご祈祷・ご祈願がなされていることからすると、 何らかの欲の成就のためのように思われます。 拝んでも願いは叶わないなかで、 ①仏様を拝む意味(祈願以外の意味)は何でしょうか。 ②なぜ、ご祈祷・ご祈願がなされているのでしょうか。 ③また、お寺では、お勤めとして、朝晩、お坊さんは仏様を拝み、 お経を読んでらっしゃるようですが、これは、何のためでしょうか。 (書かれているお経の意味を理解・確認等するためであれば、 仏様の前で木魚を叩いて音読するよりも、 自室で黙読すれば足りると思われます。) なお、②につきましては、宗派により考え方に大きく差があるようでしたら、 御回答いただかなくても結構です。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教大学に興味があります。 仏教の知識、智慧は広大無辺とはいえ4年間も何を学んでいるのでしょうか? お坊さんになられる方は皆、仏教大学に通われたのですか? お坊さんにとって仏教大学に通う事の重要性はどれほどのものなのでしょうか? 私は将来、お坊さんになるかも知れないので、お坊さまのご回答を参考にさせて頂きたいと思います。 よろしくお願い致します。
自分の苦悩を見つめてみると、大概、煩悩や愛情飢餓といったところに辿り着く気がしてます。 もう、いっそのこと、それらに強くなるために、自分も僧侶になりたいと思うようになりました。 ただし、お金もなければ、修行などは出来ない精神病状です。せいぜい勉強くらいしか出来ません。また、就労はしたいと思っています。 こんな自分でも、僧侶になる方法はありますか?ありましたら教えて下さい。自分でも少し調べはしましたが良くわかりませんでした。
真言宗の掛け軸 私以外の家族は信仰心が薄く、神棚と、棚の上に家族の宗派の仏壇がありますが、 私は真言宗が好きで、念珠も持ってお経も毎日読んでます。 ただ仏様を見て読みたいので 真言宗の掛け軸を自分の部屋に置きたいと思っていますが、ダメでしょうか 棚の上に仏壇なしになりますが…… 本尊様はどの仏様でも良いですか?(個人的にお不動さんが大好きです) また魂入れをやれないのですが、掛け軸に悪いものが入ってしまうのは嫌なので、できないなら、買わない方が良いでしょうか……? やはり開眼供養は必要ですよね……
50年前に祖母から死産で亡くなった子がいます。 死産だったため、当時は特に名前も戒名も付けずに知り合いのお寺の供養塔に入れました。長年、名前がなかったのですが、お坊さんから戒名をつけるよう勧められて戒名をつけてもらいました。 戒名をつけてもらった後も供養塔にお参りしていましたが、埋葬したのが共同の供養塔であったことと、俗名がないため戒名等は供養塔や石に彫られていません。 今から3年前、祖父が亡くなりお墓を選ぶことになったのですが・・・。 私の両親があまり信心深くないためにコスト面ばかりを重視した結果、この水子が入っているお寺とは別のお寺に、お墓を契約して祖父を埋蔵してしまいました。 祖父のお墓も「〇〇家の墓」というよりは供養塔のようなものです。 亡くなった方を複数人埋葬(血のつながり関係なくお寺と契約した人が入れる)していて、ここに埋葬された方は石に俗名や戒名、命日が刻まれます。 現在の状態だと、親子が別のお寺(宗派も違う)のそれぞれ違うお墓に入っていることになるので個人的にあまりいい気持ちがしません。 水子を現在入っている供養塔から祖父のお墓(こちらも供養塔のようなものですが)に移してあげたいと思うのですが、どうすればいいでしょうか? 50年も前のことですし、「人間」として生まれてきていないため、 この水子には何も形がないです。 おそらく儀式などは形式的なものになるのかとは思いますが・・・。 また、俗にいう魂抜きをして、移動先のお寺に移すとなった場合には石に名前や戒名を彫るべきなのでしょうか? (人の形をして生まれてこなかった仏様なので俗名がないです) それとも、形式的に移すだけで石に戒名などを彫らなくても問題ないでしょうか?教えてください。 ちなみに宗派は水子が入っているお寺が曹洞宗、 祖父が入っているお寺が真言宗です。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
数年前、祖母が生前にA寺にて戒名をつけていただきました。(A寺は代々お世話になっているお寺です。) 先日、そのA寺に、「生前に戒名をつけていると、大概の僧侶は葬式でお経を読むのを断る。読んでくれる人を見つけるほうが難しい」と言われました。同じ宗派でも断る人が多いとのことでした。戒名をつける際にはそのような説明はなかったので驚きました。 本当にそういったことがあるのでしょうか?僧侶の方は皆さん徳を積まれておられ、故人が安らかに召していけるようにしていただける方だと思っていたのですが、生前戒名をつけていたからお経を読んでいただけないなんて、祖母も大変心配しております。
六斎日に八斎戒を守る、というのを実践してみたいのですが、六斎日が正確にいつなのか、わかりません。 ある人は8日、14日、15日、23日、29日、30日だと言っていて、別の人は新月・満月・上弦・下弦の月の日なので、毎月変わると言っていました。どちらが正しいのでしょうか? また、正午以降の断食ですが、それは深夜まででしょうか、それとも次の日の日の出までですか?固形物を口にしない、ということですが、具なしの味噌汁、牛乳、栄養ドリンク、ウィダーゼリー、お粥などはセーフですか? ご回答お待ちしております。 ちなみに、私の宗派は真言宗です。
いつも心の支えにさせてもらっております。 このサイトに来て仏教という物に関心を持ったのですが、私はお寺に行くという事が滅多になく、どういうところなのかピンと来ません。 神社とか願掛けによく行っていたのですが、お寺は大晦日くらいです。 私の家の宗派は真言宗のようですが、宗派の違うお寺でも皆さん気にせず参ったりしてるようで、ほとんど観光って感じですよね。 日本人はあまり特定の宗派に信仰心が無いのは知っていますし、信仰心が文化レベルまで落ちついているとか言われてますが、寺に観光に行けば願掛けしたり、 健康になると煙を浴びたり、神社とあまり変わらないような、 ふと思ったのですが、みんな何しにお寺に行ってるのかと、 私は神仏に対する知識はほとんど無いけれど、なんとなくのイメージとして 本来寺院は煩悩を無くし、心を正すところと思っているのですが、 願掛けなどは煩悩で、それと真逆の事なのでは? 大抵の人がお寺に参拝するときはどういう心構えなのか気になりました。
六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております) 遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか? もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? よろしくお願い致します。