私が生きたくても社会は私に生きるなという。それでもしぶとく生きるという選択をし続けるには。 ちょっときいてください。今日も明日も不採用通知を受け取るためだけに生きていかねばならない。無能すぎてできる仕事がない。虚しくなってきました。 私はうつ病と発達障害です。大学卒業後、病状が悪化し、通院と食料品の買い出し以外ほぼ部屋から出られないのでインターネットでちょっと稼いではいるものの、一人暮らしできるほどの稼ぎはなく、借金まみれです。 実家には帰れないです。父親が精神的経済的DVの末に愛人作ってどっか行っちゃったので崩壊しているためです。よくわからない理由でナイフが飛んできたりした、そんな記憶のある場所に帰る気もないですし。 どうせ行動しても無駄なんだと思います。履歴書の空白すごいし、動物的本能で生きるための行動はとれますが、それ以外の人間らしいことを私はできていないようです。動物なら狩りをせいっちゅう話ですが、現代日本で人間の形をしている生き物が狩りなるものをやったら警察がきそうなのでイマイチ踏みきれません(そもそも、鳩とかカラスとか食べても大丈夫なのでしょうか?)。 過去1番切迫詰まった際、もう食べるものがないんですと面接で土下座したコンビニや飲食店も不採用でした。法律スレスレ反社と関係ある系ブラック企業ですら私を採らない。まぁそんなとこで働いても、うつ病悪化して死ぬだけだと思いますが。死ぬと分かっててわざわざそこに飛び込んでいくほど死にたいわけではないし、電車に飛び込むとか、痛い死に方はしたくないんです。 行き着く先は自殺か生活保護か。とは言うものの、生活保護は窓口で追い払われるし女性なら風俗を勧められるとききます。潔癖症とトラウマがあるので風俗は難しいし採用されないと思う。(余談ですが、今の風俗って、若くて綺麗な女の人がいっぱいいますね。修正もあるとは思いますが、まじまじとサイトを見てしまいました。あんなに素敵な女の子たちは報われてほしいと思います。) 衣食住保証されるなら刑務所もありかな?と思い始めていますが、誰かを傷つけてまで生きるくらいなら自殺の方がいいと思っています。でも痛い死に方は嫌だし基本的に生きたい。けどどこにも採用されないので死ぬしかない。でも生きたい。この状況下で生きるという選択をし続けるにはどうすればいいのか。ちょっとめげそうです。
家を購入するにあたり、義両親が資金の援助をしてくれます。 夫が建売の物件を気に入り購入することになりました。 義父、義母それぞれから援助があるのですが、義父から義母に対して「贅沢しましせんのでよろしくお願いします」と言ってと言われています。 以前から嫁いびりがあり、旦那も誤解をといたり庇ったりしてくれず、私が好き放題買い物をしていると思われているようです。 内容としては、産後一ヶ月たたない時に夫が義母に私が寝ていて何もしないと愚痴り義母から「引っ越し準備も家事も育児もおまえがひとりで全部やれ!」と言われたり、第二子の産後2日目に子宮が戻っておらずお腹がまだ出ていたので「まだ一人産み忘れがいるんじゃないの」と言われたり、私が好きな動物が載ったポケットティッシュを義父が出したら「やめてよ、その動物をみせたら孫も変な人間になるじゃないの」と食事会中に言われたり。 2週間前の惣菜をもらったり、色んなことがありました。 贅沢に関しては、お金の管理は夫がしており、私が使用する車が壊れて部品を変えても直るか分からないと言われ、夫が選んで購入してくれた中古車に乗っていますが、新車を買ったと思われているようです。 夫に事実でないところは訂正してほしいと頼みましたが、思い込んでるから無理でしょと言うだけでした。 私の両親にも相談し、母は激怒で養父は夫婦で喧嘩していくしかないという反応でした。 義母は働いたことがないのでお金を出してもらうのは悪い気もするし、過干渉が増すと辛いので義母からの援助は辞退してほしいと夫に提案しましたが夫が怒り話し合うことが出来ませんでした。 お金管理は私ではないので贅沢も何もしていないのですが、「贅沢しましせんので」と言ったほうがいいでしょうか。 普段から私の意見は通らず夫が決めたものだけなので辛いのです。 さらにみじめなセリフまで言わなければいけないでしょうか。
はじめてご相談させていただきます。 職場で私の発言がトラブルになってしまいました。 動物病院に勤務しているのですが、よく来院される方(Sさん)が「動物関係の学校を出ているがどんな仕事につきたいか迷ってる」と、受付で世間話のような感じで就活の話題が出ました。 病院は興味ないのか聞いたら「資格がないから無理だと思ってたが働けるのですか?」と聞かれたので、「資格が無くても、雇ってくれるくれるところはあるかも。実際うちの病院でも以前はいましたよ。本気で考えているなら、応募してみたら?」とアドバイスしました。 その後、来院した際、うちと取引のあるペットショップで働き始めたと聞いたので喜んでいたのですが、突然「院内の見学をさせてもらえたりするんですか?」と聞かれたので、「院長に聞いてOKが出れば」と伝え、確認しておきます。と話は終了しました。 その後院長に伝え、別に構わないとのことだったので返事をする予定だったのですが、翌日Sさんの上司でペットショップの店長さんから電話があり、「Sさんがそちらで働かないかと誘われたと言っている。どういうことですか?うちで働いているの知ってるんですよね?」と苦情がありました。 もちろん、寝耳に水です。就活の話は勤める前の事で誘ってもいませんし、見学の話は返事をしてません。 Sさんは、一月前の話をうちの病院に応募してみたら?と取り、店長さんは見学することを就職前の下見と取ったようです。 そこから、ただの世間話だと思っていたのが、病院とペットショップでの問題になってしまいました。院長は店長に「何も知らない」と伝えたそうです。 そうなると私が「そこをやめてうちで働きなよ。一度見においで」と誘ったことになります。 店長さんに直接話をしようかと思いましたが、これ以上余計なことは言わない方がよいかと悩んでる間に、Sさんから「店長と話し合いました。この話はなかった事にしてください。」と連絡があり、とりあえず解決しましたが、結局私は何も弁解もできず、非常識な人として信頼を失いました。先日店長さんにお会いしたので謝罪をしたらつっけんどんに話も聞かずにもうほっといてくれと冷たく返されました。 職場に迷惑をかけ、信頼も失い、何がいけなかったのかいまだにわからず納得がいきません。いつまでも、不満だけが残ります。消化できない不満にどう対処したら良いのでしょうか。
私は1歳になったばかりの娘を育てています。 相談内容は先日の母と妹のやり取りで悩み自殺を考えています。 母には子育てのことをなんでも相談していました、妹は子供はいませんが保育士をしています。 娘の服を買いに行った際、動物モチーフの服をみかけるとついつい可愛くて自宅には動物モチーフの服が4着程あります、もちろん普通の服もたくさんありますが、それを見た妹が母に、子育てを舐めている、子供のことを着せ替え人形と勘違いしている、母親として自覚がない。と言っていました。 妹が言うには、発育に沿った服を選ばないといけないらしいのですが、発育に沿った服がなんなのか私には分かりません、 もし動きやすさなどのことを指しているのであれば、 襟にうさ耳やネコ耳が着いた程度なので動き回るのに不便など不都合は無いと思います。 また、私の夫は服が汚れやすい仕事をしていて、 普段は娘と夫の服を分けて洗っているのですが2回ほど夫の服が紛れていて娘の服が汚れてしまったことがあり、 それを母に見られていて、いつもは分けてるんだけど紛れちゃったみたいと言ってすぐ漂白などで落としたのですが、 妹には、旦那さんの服と一緒に洗濯してるからいつも薄汚れた服を着てる。と言っていて、2人で、可哀想、子供をなんだと思っているんだ、と言われていました。 私はこの1年未熟ながらも娘のことを一番に考えて一生懸命育ててきたつもりでしたが、外から見たら私は自分の欲のために娘を着せ替え人形のように扱い所有物かのように接しているように見えていたんだなと思いました。 夫に相談しようかと思いましたが、夫に話したら殴り込みに行きかねません。 父に、とも思いましたが既に精神的に参っているのに父が味方をしてくれる保証はありません。 自殺を考えるほど辛いと言ったところで、自殺するって軽々しく言うな、お前も悪い所があるなど言われると思います。 この出来事はたまたま聞いてしまったのですが、毎日思い出し毎日泣いています。 朝が来ても、なんで生きているんだろうと思ってしまいます。 信頼できるからと思ってなんでも話していた母と妹にこのように言われてとても辛いです。 割り切り方、前の向き方、自信の持ち方がありましたら教えていだだけないでしょうか。
人間不信、社会不信が募りぐずぐずとした感情が続いています。 「幸せそうな人」に出会う経験に乏しいためか、誰もが不平不満をこぼしながら、そんな自分を誤魔化しながら、他人をこき下ろしながら生きることが当たり前のように思います。誰も幸せじゃないけど、生「まれて」しまった以上仕方なく生きている。「皆そうなんだから、皆でずぶずぶ泥沼に溺れて破滅しようよ」 生きることは幸せになることではなく、ただただ消費されることなのではないかと考えてしまいます。肉食動物が草食動物を食べるように、害虫を潰すように、何か自分よりも大きなものの都合で弄ばれることが「生きること」のように感じてしまいます。救いなんてない、命とは何かの玩具でしかない。いらなくなったらゴミ箱にポイ。そんな風に命の選別が行われる時代ではないかと思います。生きることがどんどん難しくなり、生き残るために蹴落とされる人間がどんどん増えていくはずです。 生きてさえいなければ、生きているという意識さえなければ、誰もが憂うことなくいられた筈なのに。対人関係で躓き、組織というものに絶望し、存在さえ尊く思えなくなったことで、生きることが非常に難しいです。しかし生きている以上、社会的存在としての役割を果たさなければなりません。「皆辛いから社会はあなたの保障はしないけど、あなたは社会に貢献してね。生かしてあげてるんだから」 誰も幸せになれない世界で、 いのちの選別が行われる時代に、 これから悪くなっていく将来のために、 何も知らない茹で蛙となって弄ばれることが求められる。 けれど、結局はこれも言い訳なのでしょう。生きることは矛盾の中を進むことであり、決して全てが満たされることはなく、それでいながら奇跡を望んでしまう私が浅はかなだけでしょう。救いを求めていながら頑なな私は一体何なのでしょうか。自分で自分が嫌になります。 生きる気力が危ういです。「どうにかなる」と「どうにもならない」の狭間を大きく揺れ動いています。何度も同じ言葉を繰り返しては、関わる人々を困らせてしまいます。何を言ったところで、何をしたところで、結局は自分の在り方が原因なのでしょう。 自分を含む何もかもを憎んでいるのかもしれません。信じられるのは空想の世界だけでした。諦めたくないけれど、現実の何かを信じることが難しいです。
愛猫が亡くなり、もうすぐ4カ月が経とうとしています。 私が離れがたいのと、納骨について迷っていたために、四十九日も百カ日も納骨せぬまま今に至ります。 まず、以前何かで「いつまでも死んだ猫の骨を手元に置いたり、寂しいとか思っていると成仏できずに化け猫になってしまう」という文章を見たことがあるのですが、本当でしょうか。 今でもつい「もっとこうしていれば、今も生きてくれていたかも」と後悔したり、「●●ちゃんがいなくなって寂しいね。天国から会いに来てくれるかな」と息子と話したりしてしまいます。 離れがたくて納骨していないと言っておきながら、死後しばらく経ってからはお参りもお供えも毎日はしておらず、たまにお線香をあげて手を合わせたり、食べ物や花をお供えしたりするだけです。 供養という面では、人間が仏壇にご飯やお茶をお供えするのと同じようにするほうがよいのでしょうか。 缶詰をお皿に盛って置くこともありますが「仏さんに肉や魚というのもどうなんだろう」と考えたり、もう死んでしまったのにあげても仕方ないなと虚しく感じたりしてしまいます。 私の願いは、愛猫が次生まれ変わる時まで天国でのびのびと幸せに過ごしてほしいということ。そしてもし望んでくれるならば、生まれ変わったらまた私たちとともに、今度はもっと長く幸せに暮らしてほしいということです。 ペット供養をなさっているお寺は、近くに3軒ほどあります。合同のお墓に毎日お経をあげてくださったりはしないのかもしれませんが、それでも民間業者の霊園よりはよい気がしています。 ただ、最初から合祀のみだったり、数年間個別で納骨した後に合祀だったりで、結局合祀されることに抵抗があります。 最近は人間も樹木葬などがあり、自分自身が選択するのは全然よいと思うのですが、いざ愛猫のこととなると、他の動物たちの骨とごちゃ混ぜにされるというのが受け入れがたいのです。 また、うちには幼な子がいるのですが、合祀の場合、家族でお墓参りに行った時に、元の飼い主さんにお参りしてもらえず寂しい思いをしている動物の霊たちが、子どもたちについてこないか心配です。 どのように供養するのが、愛猫にとってベストなのでしょうか。 個別でも合祀でも死んだ側には関係ないのでしょうか。 ちなみに我が家はマンションですので、埋められません。実家は庭がありますがとても離れています。
私の中学生の時の「将来の夢」は、「動く植物を開発すること」でした。 一番興味があったのが、『地球温暖化』全般。一番、地球温暖化を促進されるのが牛のゲップと聞けば、「ゲップし難いエサ(植物)の開発」を、生き物(動物)が出すCO2を吸収しているのは緑(植物)だと習えば、「とんな場所でも行ける緑(植物)の生き物(動物)の開発」を、と考えてきました。 自分が排出するCO2は、自分のペット(動く植物)に吸収してもらい、酸素をまかなう。そういう世の中、地球に優しい生き方が出来る社会にしていきたいと思っていました。 それで、中学生の時も高校生の時も、農学部に行きたい!新しい環境作りに貢献したい!と思い続けていましたが、幸か不幸か、何故か勝手に出された推薦入試の願書→受かったら辞退出来ない受験に合格してしまい、長年の夢を変更するしかないという形で幕を閉じました。 でも、高校1年生の時に被災(阪神淡路大震災)した記憶のせいか、医学を学ぶのも楽しかったので、新たな道を歩む決意をしたのです。 そして、「只今」違う生き方をしながらも、ふとしたことから、また「動く植物」が必要なのではないかと思い、過去の自分の夢を思い出すようになりました。 西日本豪雨災害に遭ったからからです。もちろん、根本的には『地球温暖化』が背景にありますが、今回は『豪雨による土砂崩れ』でたくさんの尊い命が失われた背景から、人の手が入らない山、森の木々たちが、自分で動いて、土砂災害を防ぐ働きをしてくれたなら、少しは亡くなる方が減らせたのではないかと思ったのです。 でも、人間が、自然・地球をこうなるまで放置し、対策を練らなかったのもまた事実。 私は有馬温泉の近くに住んでいます。避暑地でもあります。が、最近、自分の部屋にデジタル式の温度計を置くようになり、自分の部屋の温度が、冬と夏で「なぬっ!!!」と思う程、寒暖差があることが判明しました。(昔と明らかに違うと肌でも感じられますが)。 この今年の猛暑、酷暑。北の端の1番涼しいハズの部屋の温度が、35度に到達しているではないですか。この前の冬には、部屋の中なのに氷点下になっていたのにです。 何故、もっともっと『地球温暖化』のことをちゃんと考えてこなかったのかと痛感している毎日です。 お坊さま達も、お寺さんの中で熱中症になっていませんか? 地球温暖化をどう捉えていらっしゃいますか?
離婚してから仕事に打ち込むこと5年、もう自分には自然に出会える人なんて現れないだろうな、と思っていました。 そんな矢先、仕事とプライベートを分けるために通い始めたジムのインストラクターと仲良くなり、2度程デートをしました。 1度目はスーパー銭湯で、2度目は少し遠方の動物園へ行きました。それぞれ、帰ってきてから飲みに行ってカラオケに行って楽しく過ごしました。 しかし、2度目のデートの後からラインがそっけなく、回数も少なくなり、今ではもう連絡が来なくなりました。 1度、最近冷たいなー、とジムで会った時に言ってみまたしたが、そんなことないよ、で終わりました。 2度目のデート前までは、恋愛観や他愛もないことで毎日ラインをしており、恋愛観については自己開示を多くしてくる人だったので、自分がその立場であれば、というようなやり取りをしていました。 2度目のデート日、彼は朝早くに仕事をしてから早めに切り上げて動物園に往復して運転してくれました。 飲み会の後、どうしても帰りたくなかったのでまだ帰りたくない、と言ったらカラオケに付き合ってくれました。彼が疲れていそうなのはわかりました。 その自分のわがままがよくなかったのではないか、とずっと後悔しています。 相手から連絡が来るまで、私も元のペースに戻ろうと旅行をしたり、友人と話したりしましたが、結局同じところに戻ってきて、モヤモヤと考えてしまいます。 彼の気持ちを知ることは聞くしかないし、ましてや恋人ではないので、聞くのもなんだかおかしいかなと思ってずっとモヤモヤしています。 5年間の仕事の打ち込み期間が長過ぎたのと、デート前後の彼の態度の変わりようにあまりにも心が乱されてしまい、食欲が一気に落ちたので体重も一気に減りました。 毎日会う会社の人にも指摘されるくらい落ちてしまっています。 彼の気持ちが嬉しくて、一緒に過ごした時間も楽し過ぎて相手の気持ちも考えずにいたのかもしれません。 今回の彼のような存在が現れると、仕事で認められるより遥かに存在価値を見出す特別な人物として相手を見てしまいます。 満たして欲しい、寂しい、もっと一緒にたくさん楽しい時間を過ごしたい、どんどん欲が出てきてしまいます。 今はもう相互に連絡は取っていないですが、毎週ジムで会うので辛いです。 どのように自分の心を持てばいいでしょうか。
毎回お答えいただいてありがとうございます。 今回は、昔飼っていたペットの話についてです。 子供の頃にハムスターを飼っていたのですが、ある日祖母の家から帰る車に向かっている途中にハムスターが入っているお出かけ用のカゴ(?)を手にもっていたのですが、 そのカゴを手から離してしまい、そのカゴが宙を飛んでそのまま落ちました。 その際にそのハムスターは足を負傷してしまってしまいました。 その後は病院に連れていく事もせずに、そのままにしてしまってただただ足を引きずっていたハムスターを見ていた気がします。(昔の話なのでどうだったか自信がないので多分そんな感じだったかな・・と) 後々ハムスターも亡くなってしまって・・、そのあと確か土に埋めて埋葬したと思います・・(ここも自信がないのですみません・・。) 今にして思えば、子供の頃に何故あのハムスターを病院に連れていってあげなかったのか・・。病院に連れて行って治療してあげればまだ変わっていたのかもしれません。 今となっては罪悪感と後悔しか残っていません。 そして、今うちには犬がいます。その子に関しては、何か異常があったり、不定期ですが病院に連れて行って見てもらっています。 何故ハムスターの時には出来なくてうちに飼っている飼い犬に関しては出来ているのか・・、本当に酷いやつだなって思います。 昔飼っていたハムスターには動物虐待・・。飼い犬に関しては可愛がっているつもりですが、自分の身勝手に飼い犬のしっぽを引っ張ったりしたこともありましたし、他にもちょっとひどいことをしてしまった事もあります。 本当にこんなひどい飼い主で、動物たちは幸せなんでしょうか。 というか、こんなに酷い事してる私は地獄に行く資格があると思います・・。 自分でも本当に反省してるのか、しないように努力してるのか、中途半端なところもあるような気がします。 お坊さんの皆さんはどう思われますか教えてください。
初めて相談させていただきます。 私は子供の頃から極度の人見知りで、なかなか友達を作れず、幼少期から学生時代までは背が低いことや天然パーマのことなど容姿のことで周りからいじめに遭い苦労しました。 親や家族はそんな私のことを理解してもくれず「お前は何をやってもダメだな」などと言われとてもつらい思いをしましたがその中でも祖母、伯母、叔父は私の個性を理解してくれた人でした。 特に伯母は「私は○○ちゃん(私の名前)が一番好きよ」と言ってくれたり、叔父は「○○ちゃん、これ好きだろ?」と言って毎週毎週私の好きな食べ物を有名店で買ってきてくれたり、 動物が好きで動物関係の勉強がしたいと専門学校に進んだ時も祖母、伯母、叔父の三人はとても喜んでくれたのに 親は「そんなことのために金を出せないから早く辞めろ、いつになったら退学するんだ」と言われたり、私につらく当たる家族に一喝してくれたりもしました。 ところが私が高校2年の時に伯母がガンで亡くなり、翌年には母方の祖母もガンで亡くなり、その2年後に父方の祖母も亡くなり、それから叔父にも末期ガンが見つかり亡くなってしまい、私の理解者が数年のうちに全員他界してしまいました。 そして今年私が病気になり、現在地元のクリニックで紹介された大きい病院に半年前から通院中です。 うちの家族は体調が悪く寝ている私を見ては「いつになったら治るの!?」など罵声を浴びせてきます。 体調は悪いし親も高齢だし、自分の将来もどうなるかわからず毎日とてもつらいです。 最近は毎日天国にいる祖母、伯母、叔父や飼っていたペットを思い出しては泣き、そして死ぬことばかり考えてしまっています。 今後生きていても何もいいことがない気がして本当につらいです。 自分なんか生まれてこなかったら良かったのにとさえ思います。 どうすれば生きる希望が見い出せるでしょうか? 世の中には病気や事故などで生きたくても生きられなかった人たちが大勢いるのはわかっています。 どうしたら死にたい気持ちから抜け出せるでしょうか?
5年前くらいの話です。当時私はかなりストレスフルな職場で働いていて、加えて一人暮らしの寂しさに耐えきれず、寂しさを埋め、癒しを求めてペットショップでインコを1羽買ってきました。 しかし、事前に必要な予備知識など持たずに勢いで買ってしまい、寒さにものすごく弱いことを知らず、自分寒い部屋に置いておいてしまいました。 そして、鳥はずっと食べるということを知らず、あまりにもずっと餌を食べている様子に心配して餌を控えめにしてしまいました。 すると、飼って3日目くらいの夜、仕事から帰宅すると硬直して死んでいました。私はとてもショックで、まさかこんなにすぐ死ぬとは思っておらず、気が動転してあろうことかインコを燃えるゴミに出してしまいました。 というのも、夜でもうどこのペット霊園もやっておらず、田舎なので調べても鳥を供養してくれるところが見つからず、こんなこと誰にも相談できずに途方に暮れ、元々生き物が腐っていくさまにとてつもない恐怖を感じるので早く死体を処理したいという自己中心的な思いで燃えるゴミに出してしまったという次第です。 今考えると人間としてあるまじき、鬼畜生のような所業だと思います。自己中心的な想い出一つの命を殺し、挙句の果てにはゴミにだしてしまいました。 そして、この期に及んでこのことを誰かに許されたい、このような場所で許しを得たいなどと、これまた死んだ鳥のことよりも自分のことしか考えてないような考えに自己嫌悪を覚えます。 とても苦しいです。 こんな私は普通の人と同じような幸せ、誰かと関わって、家庭を持ってなどという幸せは永遠に得られないのかと思います。幸せになる資格なんてない。人間とも動物とももう正面切って向き合えない。誰かや何かを大事にすることなんて自分にはできないんだ…と思い、誰かと笑い合って関わるときにもふと思い出して辛くなります。 私はどのように生きていけばよいのでしょうか?世の中や、死んだ鳥や、人間、動物、ありとあらゆるもののためにできることはまだあるのでしょうか?私はまだ、友人や恋人や家族を作って良いのでしょうか? 長々と申し訳ありませんが、ご回答いただけますと大変助かります。よろしくお願い致します。
#ペット・大切なものの死 恋人と2人で小動物を飼いだしました。 ですが遠距離になってしまったため、私が預かりお世話をしていました。 飼いだした頃は常に人がいたので、寝る時以外はゲージから出していました。 運動量の多い動物だったためゲージ内はストレスになる子も多いと聞き、飼い始めからゲージで過ごすことが少ない子でしたので、本格的に放し飼いを始めようと思い、経験者の記事などで調べ危険にならないように対策しました。 放し飼い3ヶ月ほどは毎日家にいたので様子を見ることができ、危ない事もなく安心しきっていました。 ですが先日、私がいたにも関わらず昼寝をしてしまい、チャイムで目を覚まし宅配便を受け取りました。その後部屋に戻ると姿が見えず、寝ぼけて居たため部屋のドアを締め切れてなく、外に出てしまったのかとも思い、家中、そして外まで探しにいきました。 1時間ほど探し、また部屋を探しました。そしてマットレスの中で動かなくなっているその子を発見しました。 その子は冬眠の準備の本能のためか、よくマットレスに穴をあけ中のクッションを出し掘り進めながら探索していました。 しかし、見つけた場所はまだ掘られてない狭いマットレスの生地とクッションの間でした。少し生地にハサミを入れただけでは、人間の力でも手が届かない様な所で慌てて周りの生地を切り、その子を抱き上げました。 マットレスの生地を噛み切ろうとしたのか歯が絡まっていました。まだほんのり体温が残っており、私が探すために必死に名前を呼んだから、出てこようとそんな所に行ってしまったのではと…。 ゲージ内で飼っていれば、多少ストレスはあったかもしれませんが、命を奪う結果にはならなかったと悔いても悔やみきれません。 今年生まれたばかりの子を、平均寿命であと6~10年生きられた命を私の慢心で奪ってしまいました。 世間的にはペットかもしれませんが、恋人と2人で我が子のように大事にしていたのに、殺してしまったで許される訳がありません。もし人の子だったら、不注意で死なせてしまったではすまされないのです。 同じくらい大切な命なのですから。 彼にもすぐ伝えましたが、私への怒りが収まらない感じでした、当然です。彼は会えてもないのに知らぬ間に命を奪われ、その子と彼の事を思うとやり切れないのです。辛いという言葉すら吐いてはいけない気がします。
初めて書き込ませていただきました。 私は、去年最愛の娘を私の不注意で事故で亡くしました。たったの6才でした。 悲しみが癒える事はなく、これから娘が味わえたであろう、小学校、中学校、高校…恋もしたかっただろう、どんな仕事に就いたのかな?結婚したかな?ママとランチや買い物に行って、女子トークしたかな?友達と旅行行ったりしたかっただろうな… 娘の人生は、全て私が奪いました。この先感じた、喜びも悲しみも幸せも怒りも、様々な経験も、全て私の不注意で奪いました。 私は、私が殺めたと思っています。 溺水でした。 蘇生後脳症で意識が戻らないまま、脳死状態で数ヶ月心臓は動いて、最後は多臓器不全で亡くなりました。 私の元に生まれなければ、私の娘じゃなかったなら、きっとずっと幸せな人生を歩んでいただろうに、私の娘になったばかりに、可哀想で可哀想でどうしようもありません。代わってやりたい。私が死ねば良かったのに。 自分でランドセルも選び、何度も背負って見せ、小学校への入学を楽しみにしていた数ヶ月前に亡くなりました。 あの笑顔が忘れられません。 何度も後追いを考えます。私が行ってあげなきゃ一人で淋しい思いをしていないかと、いつも涙が溢れます。 ただ、他に子供がいて逝けません。 1年少し経った今でも、息をするのも辛く、美味しい物を食べるのも、旅行やお出かけも、いつも常に淋しさと後悔で全く楽しめません。 神様は、私に「苦しみ地獄を生きろ」と言われてるのだと思います。 沢山居た娘のママ友達も、居なくなってしまいました。 私は、何かバチが当たったのでしょうか? 私は、動物や小さな虫にも優しくしてきたつもりでした。動物愛護募金もしてきました。夏のアスファルトの上を虫が歩いていたら、そっと木陰に連れていく事を毎回やっていました。 子供の虐待や事故死を自分の事のように涙を流して泣いていました。 間違っていたのでしょうか? 今は、何をしても悲しみが押し寄せてきます。喜びや楽しみも、最後には悲しみに変わります。もう腹の底から笑う日はないんだと思います。 いつ死んでも構いません。残った子供が私と同じ想いをしないように生きてるだけです。 虐待で亡くなる子供たちに私の命を捧げてあげたい。ちっとも惜しくないです。 私のせいで死ななきゃいけなかった娘が、せめて今、仏様に神様に大事にされている事を祈るしかありません
何度も何度もごめんなさい。けれど、もう生きることも死ぬことも辛いです。 9月卒業予定の大学院生です。小学生頃からずっと周囲と馴染めず、大学時代に完全に生きることが辛くなりました。 大学では思う存分自分の心と向き合い、ようやっと自分が「どうして生きるのが辛いのか」という疑問に対し、「社会的に求められている努力が出来ない」「そもそも社会的能力が低い」という結論を出し、「仕方ないよね」と自分を慰めようとしましたが、結局それは生きる権利を放棄することでした。 視点を極限まで狭め、「私」と「あなた」という一対一の関係を長い時間をかけて構築することが許された院生時代では生きていける気がしたのですが、いざ卒業を前に就職活動を考え現実を見ると、「まとも」に就職活動や業界研究をしてきた人々から大きく離されていることを感じ、怖くなります。 そうでなくとも、私はこれからの社会に生きる権利が残されているとは到底思えないのです。人口に対し資源が少なくなった現代では人々の余裕が無くなり、這い上がらなければ淘汰される時代です。逃げ切れなかった草食動物が肉食動物の餌となることと同じです。 どうにか「生きていること」に対して希望を持ちたいと院に進んだのですが、結局は何も変わりませんでした。親に多大な経済的負担を強いていながら、その恩を返せる気もしません。けれど結局は私の努力不足による自業自得であるため、誰も助けてはくれません。助ける余裕が社会に無いのです。 現実のニュースを見れば見るほど、この世界から余裕が失われていくこと、生きる権利を持つ人間が限られていくことしかわかりません。本当は、社会は「役立たず」を排除したいはずです。「役立たず」を生かしているから「まとも」な人間の取り分が少なくなる、と考えているはずです。 思考で腹は膨れません。呼吸が苦しいです。皆辛いことを我慢して頑張っているのに私は頑張れないでいます。他人に対して安心できません。それが家族であっても。 もう嫌だ。弱くてごめんなさい。生きていてごめんなさい。死んだ先が本当に何もないならもう死にたいです。死んだ先にまだ「生きさせられる」と思うから死も選べないでいます。生きていることも死ぬことも辛いです。全て投げ出す? 許されません。死ぬしか楽になる方法は無いのに死んでも楽になれません。もう何もかも壊れてしまえとさえ思います。ごめんなさい。
8年ほど前、家に寄り付いた野良猫が子猫を生み、里親を探しましたが見つからず、山に放しました。 その時は家では犬と猫を飼っていたのでこれ以上は保護できませんでした。いけないことと思いながらも見捨てられず、餌を与えてしまったら庭に住み着いてしまったようで、最初は人間を警戒していましたが私たちには心を開き、子猫を連れて戻ってきたのだと思います。可愛いので庭にいてくれることも嬉しく、しばらくの間見守っていました。 しかし近所の方にも迷惑になるし、これ以上子猫を産んだら良くないと思いましたがどうすることもできず悩んでいました。すると親が、野良猫がたくさん住んでいる山に放せば、生きていけるだろうと言いました。(餌をやりにくる人たちもいる山です。) 今から思えば不法遺棄になるのでやってはいけないことですが、その当時は猫のためにも私たちのためにもそうするしかないと思いました。 捕まえて車で連れて行きましたが、捕まえる時に逃げ惑った猫の姿があまりに可哀想で、ごめんねと泣きながら連れて行きました。山に放した途端猫たちは怯えて母猫と子猫はバラバラに走って逃げました。母と子猫は一緒に暮らせると思っていた私は、初めて酷いことをしてしまった、これでは生きられないかもしれないと思いました。 人間に裏切られた猫の気持ちや、怖くて寒くて寂しい思いをした子猫たちの気持ちを考えると今でも自分を強く責めてしまいます。 もっとよく考えて懸命な行動をすればよかった、猫を見殺しにしてしまったも同然だと後悔の念に苛まれています。 家族みんな動物が大好きですが動物を愛する資格もないと思います。こんな私はこれからどのような思いでどんな償いをして生きていけばいいでしょうか。
中学生のときに飼っていたペットを安楽死させてしまいました。 病気というわけでもなく、よく脱走しており他の動物にも噛みついて危害をくわえるからという理由です そうさせてしまったきっかけとしては何度目かの脱走のときに私が近所のおばさんから「もう保健所に渡すことになるかもしれない」と言われたからです その時はなんとか捕まりましたが、その夜に親が「ペットのことどうしたい?」と聞いてきたため私はおばさんから言われたことをそのまま話しました なんとなく親もペットに手を焼いているということは思っていましたが私がそういうことを口に出すとは思っていなかったようで驚いた顔をしていました 私は保健所に行った動物がどうなるのか当時知っていたため「でもそれはかわいそうだと思うから安楽死っていう方法も聞いたことがある」と言いました それからは私の知らぬ間にペットは他の人の家に預けられ、病院で処置される日を待っているようになりました 処置される日は学校がある日で、当日母から今日病院に連れていくと知らされました 私は「そうなんだ」とだけ答えました 止めるなら今しかないということはわかっていましたが、他者に危害を加えてしまうことにハラハラする毎日に嫌気がさしていました 選択が正しかったとは当時も今も思っていません ただ自分には何もできないから言っても仕方ないと諦めていました 病院で処置が済んだ後は母が火葬場につれていき合同墓地に埋葬してきたそうです その後は実家ではペットの話はタブーになりました 飼っていたペットと同じ犬種がテレビに映ったら誰も何も言わなくなります 私は実家を出るまでこの件に蓋をするように過ごしてきましたが、出て同棲するようになってから一気に記憶が押し寄せてきました そして今まで墓参りにもまともに行ってやれませんでしたが、最近は墓地に赴き、自宅にも簡易的ではありますが仏壇を置いて毎日水を汲み、お鈴を鳴らしています ですがこんなことはただの自己満足であるという自責の念が消えません まだ思い出しては涙が出てきます 楽しかった思い出、嬉しかった出来事を今になって思い出して後悔するばかりの毎日です 過去に戻れるとしたらペットを飼いたいと言っていた自分のことをひっぱたいてやりたい。 そうしたらあの子はこんな目に合わずに、どこかで幸せに暮らせていたかもしれないのに。 怒りや悲しみでいっぱいです
いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。 我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。 誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。 そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。 動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。 特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。 特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。 「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。 特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。 結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。
いつもお世話になっています。 我々の悩みはすべて頭の中で、概念からつくられた「言葉」で作られていると実感しています。 現生人類の祖先であるホモ・サピエンスは喉頭上部から口までの管状が長いことよって多様な音声を発声できます。今の人類が生存している要因の一つとであるとの説があります。 「言葉」が生まれる以前は、分割・分離されていない「自然=全体」だけが眼前にあったと思われます。自分たちの食料や自分たちを脅かすものや有益なものを識別するために共通の「音=発声」によって作られた「言葉」が生まれたと思われます。 全てがフラットであり区別・差別のない全体であったはずです。あらゆるものには「意味」がくっついていて「言葉」になったのではない。全体から選ばれ分割したものに「名前」をつけ「意味」づけされていった。 この特定の「名前」が通じる集団内に「意味」があり、他の集団にとってはなんの「意味」もないただの「音」だけかもしれません。 私たちが、まったく知らない国の言語で話されているドラマを字幕なしに見ていると、よくこうもデタラメを次から次へと喋れるなあと感心することがあります。 人間ほどうるさい生き物は地球上に存在するでしょうか。他の動物が人間を観察すると、朝から晩まで休むことなく口をパクパク動かして意味のないことを発声していることがわかります。観察している動物やペットは、うんざりしているかもしれません。 あらゆるものに最初から「意味」はくっついていません。あらゆるものに最初から「ラベル=名前」はありません。人間が勝手に分割して勝手に「名前」を付けて勝手に「意味」づけしています。対象としたものに対して個人個人が個別に「意味」があるかどうかを判断しています。 「庭前柏樹子」(無門関第三十七則)で、ある僧が「祖師西来意」と問いましたが、ただ、祖師が来たという事実だけではないでしょうか。「祖師西来」に「意味」はくっついていません。「意味」があったかなかったかは個人個人の心境によります。 他人が感得した「意味」を聞いても自分の心境とはなりません。「意味」を聞くことは「無意味」です。「庭前柏樹子」も最初から「意味」をもっていたり「意味」のあるものではありません。 実際は、頭の中で実体の無い「言葉」や「概念」を巡らせて無意味に遊んでいるようです。
怖いこと 自分の命が有限なんだと 毎日ふとした時に感じられて 今在る私がいつかバラバラになるのだと思ったら 怖くて怖くて仕方がない。 目の前の現実世界が 崩壊していく様な気がして そうなるとそれ以上耐えられなくて 思考も動作も停止して、 背中が冷たくなるようです。 動物のひた向きに生きる姿は、 尊敬に値するものだと思ってます。 一生懸命生きている、 素晴らしい存在です。 しかし最近、 某福祉施設内で個人的に可愛がっていた老犬が 恐らく病気で死んだことや、 道の途中で事故にあったらしい猫の死体を見たことで、 死というものは誰にも容赦なく 愛しい存在でさえ突然命を奪っていくのだ、という 現実に向き合わされました。 それが翻って、 私にもいつかその番が、と思ったら 怖くなりました。 この世界から、 ある日消えて無くなるという現実が 急に見えたのです。 私は既にいい大人ですが、 昔から体が弱く気も小さく 器量が悪くて会話も下手で、 他人から嫌われて暴言暴力に遭うことも多いので、 明日がくることは恐怖でしかなく、 自殺を考えることも多いのですが。 現実の「死」はあまりに残酷で心で 受け止めることができない。 犬は病気で苦しかったのでは? 猫の遺体は酷い怪我をしていたので、 想像つかないほどの痛みの中で、 亡くなったのかと思うと、 本当に本当にかわいそうで、 そのような「死」が重過ぎるのに、 死の世界は実は日常と隣り合わせであり、 怖いという感情に襲われます。 仏教ではこういう問題には どのように考えますか? いつか必ず死ぬ運命を どのように受け止めたらよいですか? 動物に執着し過ぎるのは 良くないという意見は 人間の都合しか考えてないと思いますので、 ご遠慮頂けますか? 地球上で今もたくさんの家畜が 人間の為に犠牲になっていると思うと 暗澹たる気持ちになります。
質問を読んで下さり感謝いたします。ペット供養のお供え物についてご意見をお聞かせ下さい。 供養には「ペットの好きだったものをお供えしましょう」とよく言われますが、お肉やお魚が大好きでした。 しかしお供えするうちに「この牛の供養はどうなっているんだろう」「お魚の魂は供養されてるのかな」「肉と魚の切り身になってくれた命を供養せずにペットだけ供養するのは許されるのだろうか」と悩みが生じてきました。 人の供花だって花の命を奪っているのに花の供養をしている話は聞いたことがないし、細かい事を言えば人のお供えのお菓子に卵が使われる事もあるだろうし気にするのがおかしいのかな?と自分をごまかしてみたりするのですが やはり仏前に供える肉や魚に対して居心地が悪く、供養とは何だろうと悩みが強くなってまいりました。しかしフードやお菓子をペットは食べなかったのでお供えしても喜ぶ顔が全く思い浮かびません。 いっそ肉や魚にもありがとう、頂きます、成仏して下さいとお祈りするのが良いのかとも思うのですが肉や魚の一切れにお祈りして大元の個体に届くのかどうか… 肉や魚に供養と言いながら写真なども飾らず言葉と気持ちだけで祈るのは自己満足なのではないか…とか でも仏壇に見ず知らずの牛や魚の写真はシュールだよなあ…とか そもそも魂になったペットに他の命の体をお供えしてペットは喜ぶのか?とか 毎日の自分の食事で供養云々考えた事もないのにこの感情はなんなのだろうとか 理屈を言い出したら何もお供えできなくなるのではとか…お供えする度に堂々巡りに悩んでいます。 便宜上ペットという言葉を使ってはおりますが心情的にはかけがえのない家族であり、人生最高の相棒であり、魂の一部と言っても過言ではないくらい感謝している存在なので大切に供養したいのです。 お坊様からのご助言をお願い出来ましたら幸いです。宜しくお願いいたします。 (もし動物や植物など自然界のために祈るためのお経や仏様がいらっしゃいましたら重ねてご教授頂けましたら助かります。)