去年の7月3日の朝に父が突然亡くなりました。まだ56歳という若さでした。前日の夜、一緒に夕飯を食べ、テレビを見る、いつも通りでした。私達が発見した際は既に冷たくなっていました。解剖をしてもらい、告げられた死因は虚血性心疾患でした。その日の晩の入浴中、これまでの思い出が次々に浮かび、涙が止まりませんでした。これからしたかったこと、二年後には一緒に酒が飲めるなとかお前が運転してるところが見られるようになるなとか、そういったことを言っていたのにもう二度と叶うことはないのかと思うとやりきれません。父はとても優しく、人の悪口は決して言わない、そんな人でもありました。 ただ亡くなる前は、冷たく接してしまい、今となってはそれが一番の後悔となっています。今でもふと父のことを思い出し、涙が出てきそうになることもあります。 今は毎朝、仏壇に手を合わせています。ただ父は許してくれるのか。そんなことも思ってしまいます。少し話を聞いていただきたかったので書かせてもらいました。拙い文章ですが、回答のほどよろしくお願いします。
はじめまして。日々の中で疑問に思うことがあるのですが、痛ましい事件や災害に巻き込まれ亡くなった方や大きな傷を負った方々の手記や記録等を目にしてしまうとどうしようもなく無念な気持ちになります。 全く知り合いでもなんでもないのですが、突然の不幸の重みがあまりにも理不尽でやるせなくなります。初めて人の所業とは思えない犯罪に巻き込まれた被害者の事を知ったときせめて苦しまずに全てが終わればよかったのになど勝手な事さえ思ってしまいました。 そんなことを思うのならいっそニュースなんかを気にしないほうがいいのでしょうか? 身近なところでもアルバイト先の小さな嫌がらせや何かを受けて孤立している同期などを見ると程度は違えど似た気持ちになります。行動を起こすべきでしょうか。理不尽や苦しみに過敏になるのは間違いでしょうか。 何にせよ本人に原因がないにもかかわらず苦痛を受ける人がいる事実が無性に悲しくなる時があります。 この様な悲しい出来事に巻き込まれてしまうのも以前こちらのサイトの回答一覧にありました「縁」というものなのでしょうか?唯偶然だとしてもやるせないといいますか…。 この何だか勝手な悲しみへの向き合い方を知りたいです。宜しければご回答願います。
第二子の長女が生後9ヵ月で亡くなりました。四十九日を数日前に終えました。 元気でよく笑う娘でした。 旦那に留守番を頼んでいましたが、うとう寝てしまいその隙にお風呂の浴槽で亡くなっていました。 今は絶望の日々を送っています。 私にはもう一人、小学校低学年の息子がいます。とても妹を可愛がっていました。 旦那は私に気づかないように泣いているようですが、気付いています。 私は四六時中泣いていましたが、今は息子の前では泣かないように努めています。 そこで質問です。 息子は娘がいつも遊んでいたぬいぐるみを娘だと思って接しています。 気づけば、息子は死に大してあまり理解していないような気がします。 私は人はいずれ死ぬんだよ、遅かれ早かれ。たまたま妹は早かっただけなんだけどね。 こんな説明をしていました。 今後の未来もあるので、妹が亡くなったことをうまく説明できていなかったなと、ふと思いました。 小学校低学年頃の子供にどのような伝えると良いのでしょうか。
今月、母が亡くなりました。今年に入ってから離れて暮らしはじめたので、仕事帰りに、毎日電話をかけるのが日課でした。自分では出られない母に父が電話を繋いでくれて、具合が良い日も悪い日も、声は聞けたのに。もう、それができないということが、苦しくて、苦しくてたまりません。実家に帰っても、母の着ていた服、使っていたものが、あの日からすべて遺品と言われるのにも、改めて母が他界してしまったのだと感じてしまい、辛くて仕方ありません。皮肉にも、遺影は素敵な笑顔でほほえんでいて、見るたび、もう楽になれたかな、痛みから解放されたかな、良かったのかな、、と思っては、そこから明るく話す声が聞こえず、亡くなったあの日の、まだ少しあたたかかった肌のぬくもりを思い出し、涙が止まらなくなってしまいます。決して高いものではなくとも、残された指輪やネックレス、これはどこで買ったものなの?誰に貰ったものなの?写真に一緒に写っているこの人は誰?生前気にもならなかった小さな事が沢山積み重なり、本人しか答えを知らない情報を、生きているうちに聞いておかなかった自分を責めて苦しくなります。頭では、そんなことを言ったところで生き返るわけでもなく、答えてくれるわけでもないと知りながら、やはりこの現実とのギャップに胸が潰れてしまいそうです。昔から、割と信心深い方でしたので、人が亡くなった後はこうなる、ああなる、等死後の世界のお話は全て信じていました。今も勿論信じてはいるのです。でも、母が亡くなってしまってから、心のどこかではなんだか全てが綺麗事としてしか捉えられなくなってしまい、遺影を見ながらお経を唱え、実際には食べれるわけでもない、飲めるわけでもない、母の好きだったものを仏壇に備えながら、私はいま、何をしてるんだ?と考えてしまうことが多くなってきてしまいました。スーパーに行けば、母の好きだったお菓子を手に取っては悲しくなり、昔一緒に行った店に行っては、母とこんな話をしたなと思い出して悲しくなり、お母さんと並んで歩く子供と街中ですれ違っては、心を引き裂かれたような気持ちになってしまいます。まわりの方は、優しく声をかけてくださいます。自分が精一杯生き抜くことが最高の供養だ、母が必ず見守ってくれているのだと言われても、今、とても、とても苦しいのです。呼びかけても母が返事をしてくれない現実に、頭がおかしくなりそうです。
昨年の1月に母方の祖父を、9月に父方の祖母を亡くしました。 どちらも本州なので遠隔地ではありましたが葬儀には無事いけました。 今月、母方の祖父のほうの一周忌の法要がありました。幼い頃は本州に住んでいたため、祖父母の家へよく遊びにいきましたし、とても可愛がってくれていたのを覚えています。就職した時もとても喜んでくれて、電話もしてくれました。 葬儀の時はショックすぎたのか、あまり泣けませんでした。冷たい人間かと思われるかもしれませんが、葬儀や法要といった場は緊張してしまいうまく感情が出せないです。火葬・収骨の時はなんかテレビドラマを見ているようでした。 葬儀ではロクに泣かなかったくせに、今現在、一人になったり気が抜けるとすごい泣いてしまいます。昨日法要が終わってすぐ飛行機で北海道に帰り、両親が暮らす札幌にいたのですが、昨日はずっと泣いてて頭が痛くなりました。 今年は転職をしようかな、と考えていたこともあり、考え事が重なってしまったのかもしれません。 それに向けて予定を立てていましたが、まともに考えることができず予定をキャンセルしてしまいました。 1年も経つというか、だいぶ時間が経ったと思ったのに未だに辛くてたまりません、むしろ1年経って実感したのかもしれません。いつまでも泣いてばかりで亡くなった祖父にも申し訳ないです。 落ち込んで頑張れない、弱い自分が嫌になります。それでも勝手に涙がでてくるし、何かやろう!と思っても気が乗らないです。それでまた自己嫌悪に陥ってしまいます。 だめな状態の自分をなんだか許せないです。情けなくなってしまいます。 受け入れるべきなんでしょうけど…。 やはり家族や話せる人に話した方が良いのでしょうか。一人でずっと抱え込んでいるのは良くないなと感じてます。 1年経ってようやく実感が湧いて落ち込んでるのは、おかしいことでしょうか。 ただ、母には遠慮してしまいます。 母も父親である祖父を失って私よりもっと辛いんだろうと思うとどうも二の足を踏んでしまいます。 気持ちの整理の方法や元気になる方法などありましたら教えていただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
私は中学生の時に不登校になりました。その後、全日制の高校に行きましたが中退。通信制高校に行って卒業しました。音大に行きましたが、適応障害になって休学中です。 中学生の時に不登校になった理由は、居場所がないと感じたからです。全日制の高校を中退した理由は、悪口を聞こえるように言われ続けて病んだからです。音大では、体力不足と人間関係に悩みがちな性格が原因なのか、適応障害になってしまいました。そして休学しています。 こんな状態で、将来が不安で仕方ありません。引きこもりになって孤独のまま死ぬ未来しか想像できなくて、凄く辛いです。最近は毎日2時間くらい寝て、朝起きて物凄く不安になって、ご飯も食べれません。 家に居場所はあります。 ですが、社会では一生居場所がないのかと思うと、涙が止まりません。 もし音大も中退になったら、私を雇ってくれるところなんてどこにもないだろうって思います。そうなったら、生活保護になるのかなって思うのですが、どんどん生活保護の基準も厳しくなっていくだろうし、生活保護を受けられずに餓死するのかもしれないと考えてしまいます。 家では家事を手伝っています。 調子がいい時はピアノを弾きます。 ですが、最近は自殺のことしか頭にありません。 このまま食べないで衰弱死できればいいな、とか、このまま寝て死ねないかな、とかずっと考えています。包丁を見ると喉を刺そうかな、と考えたり、車を見ると飛び込もうかな、と考えます。 でも、結局死ねないと思います。 ここに相談したのも、アドバイスを貰って楽な気持ちになりたいって甘えているからです。 生きていて親に迷惑かけて、さっさと死んだ方が親のためにはなると思いますが、こんな娘でも親は大事だって言ってくれます。でも、その度に苦しくなります。 年齢は19歳です。 人生を後悔しています。 人生、詰んでいるように思えて、毎日辛いです。 私の人生は詰んでいますか? 私は変われるでしょうか?
肺がんで数年間闘病してた主人が昨年12月に突然なくなり覚悟はできてたはずが受け止められず日々後悔したりそれでよかったと思ったりなかなか前に進めない 主人は希望していた通りなくなる数日前まで仕事してましたが自立歩行出来ず食事も難しい中家族に隠れ煙草吸っていた事実が発覚私はあらゆる言葉で責めてしまいました 自分自身精一杯したつもりでいましたが今は何故優しくできなかったのか涙します この気持ちを乗り越えるには何をすべきでしょうか
はじめて質問致します。 先日、母を突然亡くしました。まだ若かったのに。母の姿を見て同職種について仕事でもプライベートの悩みも分かり合える大好きな母でした。 私は離れて暮らしており頻繁には会えなかったですが、よく電話しており数時間前も電話とLINEをやりとりしていました。 春頃から環境の変化に伴い、母の体調が崩れ始めました。できる限り母の話を聞いたりアドバイスしたりしていたのですが。 もっと話を聞けば良かった等の自責の念もありますが、それ以上に母が生前苦しんでいた悩み等がなくなり安らかに過ごせるかが心配です。母も突然のことで後悔して自分でも信じられないと思います。それを考えると辛いです。母はどのようにして過ごすのか、どうしたら安らかに過ごせるでしょうか。私達遺族ができることは手を合わせて祈ることしかできないと思いますが、考えるだけで辛く遺族の気の保ち方も教えていただきたいです。 また離れて暮らしてるので実家にも仏壇は置くのですが、私の家にも写真やおりんを置いて手を合わせても大丈夫でしょうか。
本日、13歳8ヶ月で愛犬が亡くなりました。 具合が悪くなってから亡くなるまでの10日間、あの子にとって最善の方法で治療が出来ていなかったのではないか、と強く後悔してしております。 食べなくなって5日目、その日にかかりつけの病院へ行き、今の状態を知り治療をする為に1泊入院する事になりました。 その時は入院が一番良い方法だと思い迷いもせずお願いしましたが、翌日に迎えに行った時のあの子は余りにも弱りきってしまっていました。 入院なんてした事のない子でしたので、入院がストレスになり体調悪化の引き金となってしまったのか、、、と考えてしまい眠れません。。 わたしがあの子へのストレスや気持ちを理解出来ていなかったんだな、、と思っています。 退院の翌日、あまりにも痙攣が酷いため身体を休ませたく先生と相談して痙攣を止める注射をして頂きました。 注射してすぐに痙攣は止まりスヤスヤと寝初めて安心し、あの子を連れて帰宅しました。 本日の朝に確認するとまだ息はしていましたがまもなくその時が来る、、と覚悟を決めました。。 私と主人が起きあの子の頭を撫で、父と母が実家から来てあの子の頭を撫で、主人と父が仕事へ行きその10分に本当に静かにスッ、、と息を引き取りました。 昨日までの痙攣の激しさが嘘のような、 本当に静かな最後でした。 亡くなった本日に合同火葬に出しました。 亡くなる前から骨は手元に残さない、他の動物たちと一緒に土の中で眠ってもらおう、と決めていました。 その代わりに、あの子の毛を刈り取って手元に置く、と決めました。 あの子をお気に入りのベットと毛布と一緒に箱へ収め、大好きだったおもちゃとご飯を入れ、あの子の周りを花いっぱいで飾ってお預けしてきました。 あの子の骨は他の子たちと一緒にきちんと供養塔に納骨されますから安心して下さい、と言って頂けました、、 後悔はしていません、と言いたいですが、入院させたこと、亡くなった当日に合同火葬へ出したこと、これらが本当に胸を張って正しい選択だったのかというと自信が持てません。。 悲しいです。 悔しいです。 苦しませてしまった。 辛い時に家ではなく病院という知らない場所で過ごさせてしまった。 骨も残さず預けてしまった。 家に帰ってきたかったかな? 色々な後悔が生まれてしまいます、、 わたしの選択は正しかったのでしょうか、、?
先週祖父が亡くなりました。 不慮の事故でした。 急過ぎて家族みんなが戸惑っています。 もっともっと生きれたのに、 どうしてこうなってしまったのか とても悲しくて悔しいです。 亡くなる当日祖母と2人で仕事場に行き 祖母だけ自宅に戻った数十分での出来事だったそうで 祖母がとても後悔しています。 私の家庭は母子家庭で 祖父母の協力がなければ孫達は 大学まで行けませんでした。 小さい頃は祖父が旅行に連れていってくれて お父さんのような存在でした。 数年前に脳梗塞を発症し それ以降は少しボケてしまいましたが いつも笑顔でとても優しい祖父でした。 1ヶ月程前に子供(ひ孫)と一緒に実家に帰り 少し話をしたのが最後になってしまいました。 脳梗塞の手術の成功する確率が低い中 見事成功したので もしかしたら本当はその時に亡くなるはずで 医療技術のお陰で長生きできたのかなと思う反面 まだ亡くなった実感が湧きません。 遺体安置室で見た祖父が忘れられません。 実家に帰ったら、笑顔でおかえりと迎えてくれそうです。 祖母がすごく後悔しており なんと声をかけてあげたらいいのか 分かりません。 もちろん私たち家族は祖母を責めていません。 何かありがたいお言葉をいただけたら ありがたいです。 また、たまに祖父の声が 聞こえるような気がします。 「お母さん(祖母)が心配。 これじゃあ、成仏できないよ」と 祖父を安心させるためにも 祖父がやっていた農業を孫達で継ごうと 相談しています。 祖父は成仏してくださるでしょうか? 長文乱文になってしまい申し訳ありません。 宜しくお願い致します。
昨年末に母を脳腫瘍で亡くし、母の百箇日法要の一週間後には長年認知症を患っていた父が後を追うようになくなりました。 母は、私と妹が独立した後すぐに父が若年性認知症であることが判明したため、子育ての後は、ひと息つく間も無く父の介護を担うことになってしまいました。 それでも母は、父の介護の合間をぬって認知症患者の家族の会に参加しており、その中でも他の認知症患者のご家族のサポートにも力を尽くしたような母でした。 母の葬儀には、その家族会からも多くの方が見送りに来てくださいました。 母が闘病している間、私は妹と協力し、母の看病と介護に精一杯努力し、両親をきちんと見送れたと思っていたのですが、父の百箇日法要が終わり、相続等の手続きもひと段落した頃から急に虚しさを感じたり、寂しい気持ちや悲しい気持ち、もっとできることがあったのではないか、というような感情に襲われるようになりました。 以前は仕事に打ち込み、現在も責任のある立場にあり、家族もおりますのでしっかりと地に足をつけて人生を歩みたいと思っていますし、両親に恥ずかしくない人間でありたいと思っているのですが、前向きな気持ちになれずにいます。 妻は、元々私が家族(妻自身と娘)よりも、母の看病や介護を優先することを快く思っていませんでした(そのことで何度も妻には責められ、涙を流しながら今だけは母の面倒を見させてれと頼んだこともあります。)ので、妻にも相談できず悶々としています。 このような気持ちは、時間と共に消化できるのではないかと思っているのですが、消化できるまでに自分自身を見失いそうな怖さもあります。 このような時の心の持ちようをご教示願えませんでしょうか。
先日母が倒れ救急車で運ばれ、手術室に運ばれる直前まで「お母さんは大丈夫だよービックリしたでしょ?」って笑って話していたのに 次に会った時はもう言葉なんて交わせない状態でした。 病院の先生に会わせて頂いたのですが その後すぐ母がは亡くなりました。なんの前触れもなく。 歳を重ねる事にいつまでも一緒に居れないんだろうなーとか、ちゃんと一緒に居なきゃとか 思っては居たけど、こんなに早くその日がくると思っても居ませんでした。 自分に大丈夫!と言い聞かせて 毎日やり過ごしてるけど、母が居ない。 何処にも居ない。 家の至る所に母の残像があって でも、きっとそれもいつか消えてしまう事も 辛くて心に穴が空いたように世界が白黒です。 お付き合いしていた彼が支えてくれていましたが、その彼もなんのタイミングかお別れする事になって本当に1人になってしまいました。 なぜ今みんな居なくなってしまうのでしょう。 なんの試練なんでしょう。 もう生きる意味も楽しさも見いだせません。 母が心配しちゃうと分かっていても 頑張ろう!と思っても心が限界で壊れてしまいそうです。
7月20日に友人が突然死しました。 気持ちの折り合いがつきません。 19日に友人とお茶をしたのが最後となりました。 あの時体調が良くないと言っていた友人を襟首掴んで病院に連れて行っていたら、あの日の夜息苦しいと言っていた友人宅に勝手に救急車呼べば、窓ガラス割ってでも室内に入っていたらと自分を責めてしまいます。なんで躊躇ったのか、どうしてできなかったのか、合鍵がないからといって家族に先に連絡しないで私が警察を呼べばよかったのに、苦しいと連絡があった時に終電があったんだから家に押しかければよかったのに。 躊躇わなければまだまだ楽しい時間を彼女は過ごせたはずでした。 街中を歩いても一緒に行ったカフェや次に遊ぶ時行ってみようと言っていたレストランを見ると「自分が彼女の人生の時間を台無しにした」と思ってしまって潰されそうになります。もしかしたらもう潰れているかもしれません。 友人を亡くしたのは初めてです。どうしたら心に折り合いを付けられるか全く分かりません。ご家族からは「貴方のせいじゃない、自分を責めないで」と言われましたが出来たことはあったのにやれていない自分が許せないです。
前回や前々回の相談からの心情の変化は、梅雨時期なので夜の辛さが辛いです。コロナの流行る前年の年末に風邪を引いたとかで正月を挟むので多めに薬出して貰って年明け1月か2月に定期的な血液検査と言われてた様でコロナが流り近所の開業医の内科に行きたがらなく成りました。昨年の2月の初め夜に風邪が悪化して様で翌朝救急車を呼んで救急病院に。検査の結果風邪をこじらせ肺炎で入院。夏の入院時も夜に悪化翌朝救急車で同じ救急病院に入院。体力も落ち寝返りも難しく成り急ぎで介護認定と訪問看護て自宅治療で退院予定と車椅子椅子でわ過ごせる様に退院楽しみにして母。退院後一月程で亡くなりました。無理やりでも内科に連れていき早めに対処してたらと。あの時こうしてたらと思い出してらと辛いです。
初めて投稿をさせて頂きます。 自分は子供の頃から毒親毒家族育ちでして、それが嫌で家族と距離を置きつつ、成人して一人暮らしを致しました。その後、伴侶にも恵まれ子供二人を授かり幸せな生活を送っていたかと思います。 しかし、住所を伏せていた毒家族に住所特定をされ毎日のように家凸や嫌がらせの電話等をされ、妻が病んでしまい実家へ帰り、そのまま離婚に至ってしまいました。 離婚の2か月前まではそろそろ中古でもマイホームを買おうか、、、等と話し合っていた幸せの最中の出来事です。 その後、私自身もこの離婚が原因でメンタルを患い、不安障害を抱えながら既に7年近くになろうかという状況です。 そんな折、昨年にメンタル不調で休職をしていましたが傷病手当が出ずに、今を生きる為に借金をしてしまいました。 また、休職中に絶縁していた両親が2週間の間にそれぞれ孤独死している事が分かり、その喪主を恨み辛みで妹夫婦(こちらも絶縁中)に丸投げしてしまいました。 その時にはメンタルが優れない状況の中で受け止めきれずの決断ではあったのですがこちらも非常に後悔しています。親の墓の場所もわかりません。 そんな折、復職にあたって家賃が払えなくなり友人宅に間借りをさせて頂いていたのですが、私のメンタル不調や性格の不一致で5月に追い出されてしまい、また、借金をして6畳あるか無いかの1ルームへ越してきました。 気が付けば、メンタル不調・天涯孤独・子供達にも会えない(着信拒否)・仕事も休み休みで収入が低く生活困窮・借金・友達にも見放され孤独、、、と何もかも失ってしまった自分に気づきました。 もう生きる意味もないし消えてしまいたいという感情が日に日に大きくなっています。 生活保護・自己破産という選択もあるのでしょうが、そこまでしてでも生きる意味があるのかとも思います。 いま、ひじょうにつらいです。
これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?
夜分失礼いたします。 夫が鬱病、本人が誰にも言わないで欲しいというので周りに 相談できずに共働きで生活していたのですが、病気によるものか本人によるものかDVがはじまり、 別居、離婚をし、その一年後に元夫が溢死をしたのですが、保険金の受け取り人が私であり、 相続が決まりました。夫と私が建てた戸建ての中で自死をしたそうで、 戸建ては義母が受け継ぐそうですが、義母も私と夫の結婚前から統合失調症にて入院しており、 住む予定、退院は今はないそうです。 せめて夫との思い出の詰まった家で暮らしたいので、購入したい旨を義母に人づてに 伝えても良いでしょうか? また、ずっと一人で私は暮らしていっても良いのでしょうか?自らの生き方、心の有りようがわからず、どうかご信託頂ければ幸いです。
母が亡くなって三七日となりました。 日毎に寂しさがつのり、この寂しさや悲しみがいつまで続くのかと困っています。 情けないのですが、朝起きた瞬間から母の不在が悲しく、夜も途中で目が覚めて不安です。 私たち親子は親友のような同志のような親子で、私が結婚してからも近くに住み、毎日の様に顔を合わせていました。 父の看取りの時、父の死後の母の生活の支えや私の子供の育児、母の闘病生活などいつも母と二人で頑張ってきました。 私が子供を生んだ15年前からは育児や家事も手伝ってくれ、5年前に病気を患ってからも「いつかは〇〇ちゃんにお世話になる時がくるから、元気な時は少しでも手伝ってあげたい。元気なうちに身体を使って〇〇ちゃんにお返ししてるよ。」と言って、私が仕事に出ている間にいつもうちに来て、洗濯をしたり、掃除をしてくれ、孫の帰りを楽しみにしてくれていました。 闘病生活中も辛い治療にも弱音をはかず、「苦労ばかりやったけど、今が一番幸せ。こんな病気になっても今が一番幸せやねん。ひ孫を見るまで頑張る。」と強く前向きに生きていました。そんな母を励まして支えてあげることが、私の生きがいの一つだったような気がします。 2月迄は元気で自転車にも乗れていたのに、3月に救急搬送され、4月20日に亡くなりました。病床で「もう一回家に帰って、ママのお手伝いをして△△ちゃんが学校から帰るのをお帰りって迎えてあげたい。おばあちゃんはそれが幸せやねん。今度はお婆ちゃんが△△ちゃんの子供に産まれるから可愛がってな。」と孫である私の息子に話していたそうです。 一度は峠を越え持ち直し、2週間頑張ってくれました。コロナで面会制限がされている中、付き添い許可を出して頂き、私と最愛の孫、母の妹が看取りまで一緒に過ごせたのですが、母は家に帰ることを夢見ていたのに、連れて帰ってあげることができなかったことが悔やまれてなりません。 生きることを諦めなかった母に死が近いことを気づかせたくなくて、最後まで希望を持たせてあげたくて、感謝の気持ちや家に帰らせてあげれなかったことを謝れませんでした。 そんな最後の入院中のことや家の中でも街の中でも母の姿が思い出され寂しくて悲しくて。 毎日仏壇に手を合わせて、母に話しかけています。母に気持ちは伝わっていますか? 遺骨はうちにご安置しました。母は今、私や孫の側で一緒に過ごせていますか?
息子が半年前に自死しました もう2度と揃うことのない家族。もう2度と声を聞くことも抱き締めることもできない現実に、時間が経つほどに苦しくなってきました。 彼はお墓に入りたくないって言っていたので、散骨にしようと思っています。粉骨も済ませました。でも、なかなか散骨にふみきれません。このまま家に置いておくのも彼の意に沿わない。いい加減、生きている時に助けてくれなかった毒親から解放されて自由になりたいって思ってるかも?と思うと早く散骨しなくてはと思うもののどうしたらいいのかわかりません。遺族が故人に執着していたら、成仏できないって言われたのですが、私は彼が死んでもなお、彼を苦しめているのでしょうか? わたしが執着している限り彼はあの世でも苦しんでいるのでしょうか? 家に遺骨を置き続けるのはあまりよくないのでしょうか?
お世話になります。 先日、母が突然亡くなりました。 実家の近くのマンションでの自死でした。 母はもともと昔から「寝れない」とよく言っていたのですが、ここ2年は特に睡眠時間も3、4時間程となっており、また去年の1月には雪道で転び骨折をし入院リハビリ後に歩けるようになりましたが、以前より脚が動かしにくかったりたまに気持ち悪さや貧血等が起きるようにもなり、心身の不調から外出に不安を抱いていたように思います。 また持病があることからコロナ感染の心配をよくしていたこともあり外出する機会はスーパーへの買い物くらいになっていました。 そうなるとなかなか息抜きもできず、さらにもともと心配性な性格であったため、自分自身だけではなく家族の心配もしてくれていました。 コロナが流行り出してからは母の気持ちが少しでも楽になればと思い母の好きなキャラクターグッズや喜びそうな物をプレゼントしたり、月に一度私が実家近くの美容室へ行くタイミングで母と待ち合わせて話をする等していました。 母の他に父と兄がいるのですが私が1番母と出かけることやLINEでのやりとりが多かったり、また母と私の好きな物が同じことも多い等、母と1番仲が良かったのかなと勝手に感じています。 ただ3ヶ月程前に私自身、仕事がうまくいかず精神的に厳しくなり退職し1月の半ばからは新しい職場での勤務が始まることがあり今思えば私は自分のことで精一杯で母のことに意識を向けられていなかったなと思いますし、母は自分のことでしんどい中で私の仕事のことも心配してくれてたんだな、自分は昔からお母さんから連絡がくると面倒くさいと感じたこともあったなと思い悪いことをしたなとずっと後悔をしています。 母はあの時どのように考え行動したのか自死するまでの映像を何回も想像しては怖かったり痛かったり寂しくなかったかと考え辛くなることが1日の内に何度もあります。 1日が長く辛くどのような心持ちでこれから過ごしていけばいいのか分からず、母の元へ行きたいとも考えてしまいます。 お坊さん方にお聞きしたいこととしまして、 母にあの時もっとこうしてれば、あの言葉をかけていればと後悔をしてしまうこと、 自死では地獄に行ってしまうと聞いたことがあり母の死後が不安なこと、 いずれ私が死を迎えた時にあの世で母に会えるのかどうか、 これから先どのように過ごせばいいのか お聞きしたいです。