先日の俳優さんの死で、どちらかと言うと好きな芸能人の1人というだけだったはずなのに何故かすごく悲しくて、毎日何もやる気になれません。 お会いしてみたかったという気持ちがなぜかすごく湧いてきて、他の好きな芸能人が亡くなった時とは比べ物にならないくらい悲しくて、身内が亡くなった体験の次に辛いです。 身内にはいつか自分が死んだら会える、それまでは時々見守ってもらえていると思って頑張れるのですが、会ったこともない方には自分が死んだ後に会いに行くことは出来ないのですか? なぜ関わりのないそこまで大好きだったというわけでもない方なのにこんなに辛くて頭から離れないのでしょうか? また、その方は私が目指している世界で成功していた憧れの人(たくさんいます)の1人でした。そんな方がこんなに苦しんで自ら死を選んだということが衝撃的で、ただでさえ険しい道なのにそこを突破しても苦しむことになるのかと思うと怖くなります。そこまで行けなくても苦しいし、でも諦めて安定の道を選んでも後悔しそうで、生きることが億劫になってきました。アドバイスよろしくお願いいたします。
最近、死への恐怖がとても強いです。前から怖がりな性格でしたが最近、今日寝たら明日起きられないのではないか。そう考えて寝つけません。また、そういったことを考えているとふとしたときに動悸がしたり頭痛になります。その症状も病気なのでは無いかと不安でたまりません。 自分がおそらく健康なことはわかっています。ですが少しの体調の変化ですぐ怖くなってしまいます。 どうしたらそういった恐怖と上手く付き合っていけるのでしょうか?
去年の6月卵巣嚢腫が見つかり、 経過観察にしてもらってはいるのですが、お医者さんは手術を受けた方が良いと言ってきます。 自分でもその方が良いと分かってはいるのですが、 全身麻酔が怖くて決心がつきません… 簡単な手術だと言われてもやはり怖いものは怖いのです… こんな自分が情けないです…
前回も回答ありがとうございました。 今では前回よりもだいぶ前向きになれました。 私は今でも死ぬのが怖いです。 人はいずれ死ぬ。わかってます。理解もしてます。 できれば、おばあさんになるまで生きて今世に悔いがないように生きたいと思っています。 ですが、最近頭から離れないのは、災害での死です。 私は、東京に住んでいます。 いつ来るかもわからない、そもそも私が生きているときに来るかもわからない首都直下型の地震に怯えています。 今は建物もだいぶ強化されていて、被害は予想よりも少ないかもしれない。実際被害は予想より少ないかもしれない。 被害にあわれる方も、考え方が悪いかもしれませんが、一握りだけです。 最近は、その一握りに入らないように精一杯生きていこうと思っています。 ですが、もし建物が倒れてきてつぶされてしまったら、火災に巻き込まれて死んでしまったら、水害に巻き込まれて死んでしまったら、予想よりも被害が大きかったら。 最悪なケースしか考えられません。自分が生きている未来が見えません。 死んでも、死後で昔一緒に暮らしていた愛犬や愛猫、おじいちゃんたちが迎えてくれるかもしれない、そう考えると悪くないかなと考えることもあります。 でもやっぱり怖いものは怖いです。死ぬときのことを考えすぎて日々しんどいです。 想像するだけでも火災は熱いし、水災は苦しいし、潰されるのは嫌だし。 死について両親に言うと「考えるからだよ」「身近な人がいなくなると怖くなくなるよ」と言います。友人は「その時にならないと分からなくない?」と言います。言っていることはわかりますが、怖いものは怖いです。 一か月ほど前までは、周りの人と同じように楽しく暮らしていたのに、コロナで暇になった今、こういうことしか考えられなくなりました。 少しでも心を落ち着けるにはどうしたらいいでしょうか。前向きに生きたいです。 相変わらず読みにくい文章ですみません。
度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。
はじめまして。 わたしはタイトル通り死や病気に対しての恐怖心がとても強いです。 そのことについてお坊さん方のお考えをお聞かせいただきたく投稿いたしました。 わたしは様々な体調に関する不調があるとすぐにネットで調べて不安になり、病院にかけこみます。 医師から様子を見ていいと言われても『もっときちんと調べてもらった方が良かったのかもしれない』とまた別の病院を受診することもたびたびあります。 家族は『本当に心配性』『そんなに気にしてどうするの』『なったらなったで受け入れるしかない』と言いますし、私も頭ではその通りだと理解はしています。 しかし、病気になって、しかも余命宣告を受けるようなものだったらどうなってしまうのだろう。 自分がそうなったらその状況に耐えられるはずがない。 死んだらまだ幼い子ども達はどうなるのだろう。 そう思うと、病気が怖くて仕方がありません。 実際に婦人科系の疾患で経過を診ていたり、別のことで手術も経験しました。 さらには悪性を疑っての生検をしたこともあります。 子供がいるのに、そのたびにネットで調べ、この病気だったらどうしようと最悪の事態を考え、まだ病気と言われてもいないのに暗い表情で最低限の家事しかせずに落ち込んでしまいます。 主人にも、そういう性格だから仕方がないと思っているけど、子どもに対しては無理をしてでも明るく接して欲しい言われています。 病院受診が続いても主人は何も言わずにいてくれますが、私自身この考え方を変えたいと思い今まで本を読んだりいろいろな方法を試しました。 いまを生きる。 先のことを思い悩まず、目の前の一瞬にかける。 現にいまこの時も私なんかよりもっと若くもっと幼くして病と闘っている人もいるのだろうと思うと自分の心の弱さが情けなくなります。 頭ではわかっているんです。 でもすぐに不安感情がその上に覆い被さるように乗っかってきてしまいます。 この先も自分だけでなく、子ども達も体調を崩したりするたびに毎回こうなるかと思うとこの考えを断ち切りたいのです。 何に対しても、私は理屈っぽいと思います。どうしてそう思うの?その根拠は?とつなげてしまうところも災いしていると思うのですが。 そんな私が、少しでもどん!と腰を据えて何があろうと例え重病になろうが運命だったと受け止められるようになるアドバイスがありましたらよろしくお願いいたします。
またこの場に来てしまい申し訳ありません。 毎日同じ間違いをしてしまいます。 このままでは駄目だと理解してはいますが、現実を受け入れ変わる事が本当に怖いです。 死ぬしかないと希死念慮から眠れない日々です。 楽になる方法ばかり考えてしまいます。 母に「生まれたくなかった」「生まれてきてごめんなさい」と謝る毎日です。 楽になれるなら地獄に行っても構わない と思っているのに勇気が出ません。 誰かに頼る事しか出来ずごめんなさい。 相談ではなく不満になってしまい申し訳ありません。
最近、死後の世界について考えるようになりました。 小学生の頃、戦争に興味があり(※好きなわけではない)色々と調べていました。 そして、死について知りたくなりました。 相談その1自分は死後の世界があって欲しいです。でも、確かかどうかは誰にもわからないので怖いです。気持ちを和らげる一言をください。 相談その2自分は死について深く考えていますが、他の周りの人はあまり考えないのですか?また、お坊さんでも死は怖いですか?
2度目の質問です。 よろしくお願いします。 生きる意味、生きている意味、生かされている意味、それを考えると生きていた中で味わった事のない恐怖を感じました。 なぜ、怖いと思うのか一緒に考えては頂けませんか。
私は死ぬのが怖い、家族の死が怖いと、毎日一日中怯えているのですが、最近、死も老病と同じく人のある状態であるから、特別視しなくてもいい自然なことかなと思うようになりました。人間のある姿という点においては、死も老や病と変わらないと思うのです。ですがそう考えると、毎日のテレビなどのニュースで報道される、事故死、早死になどの死亡のニュースはセンセーショナルで、とても人間の自然な死に方とは考えられないのです。死に方に優劣はないと思いますが、そのような特殊な死に方について、どう考えたらよろしいでしょうか?自分なりに考えた死ぬことは自然という、論理に反しています。どうぞよろしくお願いします。
昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。
はじめて質問させていただきます。 私は今年18歳になる、高校3年生の女です。 通信制高校に通っています。 ここ2、3ヶ月の悩みなのですが、私は自分や家族の死、老いに恐怖を感じています。 あるニュースを見てから、突然感じるようになりました。そのことで体調を崩し、今は心療内科に通院しています。 自分の老いへの恐怖。そして死ぬ時はどんな感じなのか、その後はどうなるのか。考えても考えても当然ですが答えは出ません。恐ろしいです。家族(特に母親)が老いていき、いつか…それを想像するだけで涙が出ます。 誰にでも来るもの。それは十分に理解しています。 だから、今を大事に生きていくしかない…ということも頭では分かっているのです。 ですが、どうしても怖くていられません。 不安でいっぱいで、ずっと体調を崩したままです。泣くことも多いです。 ずっとこの気持ちを抱えたまま生きていくのか…。 心も体も、とてもとても辛いです。 私はどうすれば良いのでしょうか?教えてください。 よろしくお願い致します。
現在大学生四年生です。ふとした瞬間に人は死んだらどうなるのかなと考え込んでしまいます。 死んでしまったら、今のわたしの意識は消えてしまいますよね。だとしたら今頑張っていることも、それを感じる意識がないのですから無駄なことになるのではないでしょうか。 わたしは、わたしが消えてしまうことがとてもこわいです。最近こんなことを考えてばかりで、がんばろう!と思っても、すぐ「頑張っても死んだら関係ないよなあ」と思ってしまい、怖くなって何もできなくなってしまいます。 恥ずかしいことに現在就活がうまくいっておらず、本当ならもっと努力をしなければならないのに、無意識にそこから逃避しようとしてこんなことを考えてしまうのかもしれません。 今考えなくていいことを考えてしまい頑張れない自分が情けないです。この悩みに区切りをつけて、また頑張れるようになりたいです。 破茶滅茶な文になってしまいすみません。
私の祖母は、昨年の今頃、家で転んでしまい、足の骨を折ったきり寝たきりで入院しています。もう一年以上、入院生活を送る祖母はもともとボケていましたが、今やほとんどなにもわからなくなってしまいました。そんな祖母ですが、お見舞いに顔を出すと、ここから出してくれ助けてくれと最近言うようになりました。 たとえボケているとはいえ、やはり入院しつづけるのは辛い精神状態の様です。今では鼻から栄養入れている状態で、たぶんこのまま家には帰れないと思いながらも大丈夫だからここにいて休んでねと声をかけるのはとても辛いです。 それを見ていたら生きるってこんなに辛いんだなぁと思いました。死ぬ事も辛く怖い事ですが、生き続けることもまた辛いのではないでしょうか。なんだか生きることも死ぬこともすごく怖いような気がしてしまい、私自身もなんとも言えぬ恐怖感を感じるようになってしまいました。祖母になんと声をかけてあげると良いか、死と生きることへの恐怖の乗り越え方などアドバイスしていただければ幸いです。
前回、「不安との向き合い方」というタイトルで質問させて頂いたのですが、私が感じている不安は「死」です。 自然災害が多い日本でこうして生きていられること自体が奇跡なのだと思っています。死は必ず訪れることだと思っていても、これからも訪れる災害でいつか自分も死んでしまうのではないかという怖さで時々不安になってしまいます。 この気持ちをどのようにぶつけて、どのように毎日を過ごせばいいかと悩んでいます。
この間も相談させていただきました。 恩師の末期ガンについてです。 どんどん悪くなり見るからに弱っています。 痛みに耐える日々、私にも痛みに耐えるくらいなら死にたいと訴えることもあります。 以前相談させていただいたときに、私の気持ちを 伝えるのがいいとお答えいただいたので、 プレゼントに手紙を添えて渡しました。 出会えたことは人生の宝物であり、 感謝しかなくて、大切な存在ですと。 大好きですと。後日、メールが届いて、 プレゼントありがとう、1番嬉しかったのは 手紙ですと返事がきました。 そして、その手紙をもし私が死んだときに棺の 中に入れるように息子に頼みたいのですが、 いいですか?と。私は胸がいっぱいになり 涙が止まりませんでした。私の大切な、 大好きな人が、余命宣告をされてから 弱っていく姿、苦しむ姿、自分の死を受け入れて遺言などを作成している姿を見ていると、 なぜかこの人がと思ってしまいます。 あの人と変ればいいのにとか、嫌いな人が ますます嫌いになってしまうというか。 間違っていますし、誰にでも死は訪れます。 こんな風に思う自分がいやです。 でも思ってしまうんです。 そしてやっぱり私にはまだ受け止める覚悟ができません。怖いんです。 来週、改めて残された時間や今の状態を 先生と話すそうです。結果は私にも教えてくれます。とにかく怖いです。 恩師がいなくなった世界がこわいです。 失うなんて考えられません。 でも私だっていつ死ぬかわかりません。 そんなこともわかっています。 ここで相談して回答をいただいてから 何度も何度も読み返し、気持ちを落ち着かせて きましたが、本当に死が迫っているんだなと 実感させられるとまた怖くなってしまいました。 アドバイスください。お願いします。
お坊さんの皆さんは、人生を、日々を、どのようなモチベーションで生きていますか? 死ぬことは怖いですか? 私は、思います。世の中や人はとても儚いものだと。その儚さを、どう前向きにとらえればいいよいでしょうか。 命の終わり方は、いろいろあって、 自分もいつかはなくなるんだと。 時々不安になります。私は、リタイアせずにゴールまでいきることができるのか。 私は、シャボン玉くらい心が脆いです。 だから、生と死が隣り合わせのこの世界でこんな自分はこのままやっていけるのだうか。 私の周りの友達のように、生きることに関してあまり重度には考えず、無関心で無意識に生きて、勉強に集中したい。 考え過ぎだよ。 暇なんだね。 悩むことは悪いことじゃない。 みんなそうだよ。 その言葉に私は少なからず傷ついてきました。 私の考えてることは間違ってるのか。悪いことなのか。 事実から論理立てて考えて出した私の考えは、そう簡単には覆せないと心では思ってます。例えば、生まれてこなければよかったとか。(理由を話せば長くなるので)でも、誰か、私を覆す人がいないかなと探してます。めんどくさいですよね、こんな人。 そういう自分が嫌なんです。 このままではさらにエスカレートしていってしまいます。 いつか、悩んで泣いた時間が役に立つときが来ればいいなと思っていますが、それはまだ先の話で、とりあえず今、何かがずっと辛いんです。 生き方、道標を教えてください。
高校二年生です。 質問のカテゴリが少しズレているかもしれません、すみません。 相談というよりも、誰かに分かってほしいという思いの投稿です。 突然ですが、私たちは各々『自我』をもって、それぞれ自分の見る世界があって、色々なことを考えたり感じながら生活しています。よね。 自分以外の人がもつ自我を『他我』と呼びますが、私はこれがすごくこわいです。 うまく説明ができません。 友達に理解してもらうこともできませんでした。 ネットで調べてもそれらしい答えは見つかりませんでした。 例えの1つなのですが、 ごくたまに、一緒に生活している親のことを、『他人』と認識してしまうことがあります。 「あ、この人も私と同じ時間で別の人生を生きている1人の人間で、」 「私から見た『親』は親には分からない、そして同じように 今このとき、親から見た『私』がたしかに存在しているんだ」 そう思って、親のことを何か得体の知れない生き物のように、生々しいものに感じて怖くなってしまいます。 何を言っているかわからない自覚はあります。 私は、私のまわりのひと全部、なにかRPGのキャラクターのように認識しているのかもしれません。 それぞれにそれぞれの意識や感情や人生があることが、こわいんです。 自分でも、どうしてこんなに心の中で他人のことを怖がってしまうのか分かりません。 死んだ後の世界や自分の行く末がわからないことが怖いように、人の意識や心なんて絶対にわからないことだから、それが怖いのでしょうか。 どちらにせよ私は私のことを寂しい人間だと思っています。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。