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hasunoha 問答検索結果 : 「私 生きる 」
検索結果: 27546件

死ぬことが頭から離れない

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 87
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人生の受け止め方

夫の事で質問します。 夫は発達障害です。 子供の頃から生きづらさを感じることはあったようなのですが、発達障害と診断されたのは大人になってからです。 診断されたことによって、生きづらさの原因が分かり納得した部分と、親に対する恨みのようなもの(遺伝や育った環境によるため)が強くなったそうです。 もともと、生きたいわけではなく、死ねないから生きているとよく言っているのですが、身体も弱く心も弱いため、気持ちが不安定な時は、ただ生きているのでさえ苦しい。なぜ自分はこんなに苦しい人生を生きなければいけないのか、早く終わりたい、と口にします。 以前入院したことがあるのですが、その際痙攣を起こし、意識不明になりました。私が近くにいたことで、発見が早く、処置できたのですが、あの時そのまま死ねたら良かった、なぜ、そのままにしてくれなかったのか、自分の気持ちを汲んでくれていない。と事あるごとに言います。実際、退院後は、あの時自分は死ねたかもしれないのに、という思いに苛まれるようです。 夫はこんなに苦しい人生にした親と私に対して、どうしても恨んでしまう、と言っています。 親や私は夫にどのようにしていったらよいのでしょう? また、夫はどのように自分の人生を受け止め、生きていったらよいのでしょう?

有り難し有り難し 21
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「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか

こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。

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社会不適合者には死あるのみ

連続投稿ごめんなさい。けれどもう限界です。遺書のつもりで書きます。 幼少期は目立ちたがりで、突飛な行動をしては周囲を困らせ、結局は自分しか見えていない性質によって嫌悪されました。それにより賞賛を求めて更に目立つ為の行動を起こすという悪循環でした。 今でも、自分しか見えていない性質は変わっていません。心の痛みを理由に、この様な勝手な投稿を行なっていることが何よりの証拠です。 院に進めたのも、ただ苦しんでいたことが理由です。苦しんで苦しみ抜く過程を重視し、必要としてくれる特殊な環境によって許されただけです。 しかし社会ではそれは許されません。まともな家族は私の弱さを許しません。そして社会はまともになれない人間を生かす余裕がないので、弱者は淘汰されます。 生きることは辛いけれど、私は身体だけは健康なのでまともな人と同じフィールドで戦うことが要求されます。しかし私にはそこで生き残れるだけの能力も体力ももうありません。でもまともな人から見ればこれは甘えなんだそうです。 現実を見なければ心は保てますが、現実を見ないと生きることが許されません。 私にできることは、こうした弱者の嘆きを積み重ねて凄惨な自殺をし、社会問題になることだけです。こうした大きな問題が起こらなければ社会はその歪みに気づかず、問題になっても結局私にが悪いことになりそうですが。 気力も体力も他人の言葉を受け入れる余裕もない私のような人間に、それでも「生きていていい」と言えますか? 「生きていて欲しい」と言えますか? 心を大事にしてくださるここならまだしも、現実社会ではあり得ません。だからもう死にたいのに、死さえ解放ではないのです。生きていても死んでも苦しいだけ。もう嫌になります。 これからの世界は悪くなるだけです。生まれて来ることは最大の不幸です。永遠に終わらない存在という苦しみから逃れることは出来ず、ただ苦しんで死んで生まれ苦しんで死ぬことの繰り返しがあるだけ。 そもそも、生きることが嫌になった時点で人生終了です。生きていることを喜べなくなっては社会が成り立たないので、みんな気付かないふりをしているだけです。 奨学金も借りていますが、返せる気がしません。30までに正社員になれなかった人間は死ぬしかないらしいですが、そうなりそうです。否、もう死にそうです。私を殺したのは世界です。家族です。まともな人間です。

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反抗期の息子 ゲーム依存

高校2年生の一人息子に関して。中2から始まった反抗期が収まる様子もなく、ストレスのはけ口がゲーム依存の形になっているのが非常に心配です。 活動費はバイトで稼ぐとまで言って始めた部活も最近辞めてしまいました。勉強のために部活の時間を充てたいという理由でしたが、ゲーム時間が増えるだけというのが現状です。当然成績は悪いまま、塾等は絶対に行かないと頑なですが、このままでは進学は難しい状態。 バイトに関しては続いていますが…。 もともと口数の多い方ではないのですが、思春期に入りさらに会話も激減し、進路その他重要な話も殆どできません。 あれこれ世話を焼きすぎた事、大らかに構えていたいと思いつつ、常に怒って叱っていた事。夫からは、そんなに怒っても意味がない、いつか悪くなって返って来るぞと言われ続けていましたが、思春期に入りその通りなってしまいました。 先日息子から、今までの人生で楽しかったことなんてひとつもなかった、と言われました。今更ながら、本当に申し訳ないことをしたと後悔しています。 息子の現状は、私の育て方の結果だと責任を感じています。この先、どの様に息子に接していけば良いのでしょうか。

有り難し有り難し 26
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2022/09/20

自分の価値観を信じられず、虚無を感じます

 まず人間に特別な生きる意味はないと思っています。虫や木々やすべての生命も同様です。「生きている」と定義された物質が生命に過ぎず、生に価値を与えるのは人間の文化的な感覚に過ぎないと思います。    生きる意味などそもそもない中で生まれてきてしまったんだから、自分の楽しいと思うことだけして生きれば良い。仕事などのストレスや辛いことがあってもそれを打ち消す分の快を得て生きれば良いと思っていました。  私はオタクをしています。だから映画を観たり、漫画や小説を読むのを娯楽として生きています。創作物が生きる糧です。面白い映画を観ると、このために金稼いで生きてんだよなぁ、と思います。  しかし最近これらの娯楽に対して、やばいくらい脳内麻薬が出るので、自分はパチンカスやアル中と本質的に変わらないのでは?と気付いてしまいました。依存症の危険を感じたわけではありません(SNS依存ではありますが)。「家帰っても酒飲むくらいしかやることがない」という人に対して、「趣味がないなんて可哀想。つまんねーやつ」と自分は思っていました。他人の価値観を見下してきていたのです。翻って自分の価値観はどうでしょうか? 誰かにとっての一番の価値観が「仕事後の晩酌」や「恋人の笑顔」としたら、それと同様の価値になるわけです。「アル中の酒」とも同じです。  私が信じている価値観など他人にとっては意味がないという当然のことに本当に気付いたとき、この先自分一人の閉じた世界で生きていくことに恐れを感じました。家族も友人も今後は減るばかりでしょうし、娯楽を慰めとしても、世界に何の影響も及ぼさずに死ぬのかと思うと悲しくなります。なぜそれを悲しく思うのかは分かりません。そんな人間いくらでもいるだろうに。  絵や小説を書く創作趣味がありますが、上手くいっていません。娯楽がただ楽しいのに対し、趣味は他人と比較しては嫌になることが多すぎます。でも成長実感を得て、自分にしかできないことをしたいから趣味はしたい。ああ娯楽だけ楽しんでいれば幸せに生きれるのにな、と思っていたら、上記の考えが生まれてしまったため、逃げ場がなくなったような気持ちです。  どうせ自分はなんにもなれない、という虚無を感じます。他人より優れたいという気持ちや承認欲求が強くて、こう感じるのでしょう。自分はこの虚無を誤魔化して生きていくしかないのでしょうか?

有り難し有り難し 18
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結婚を後悔しています

現在の夫と結婚したことを後悔しています。 夫も私もバツイチ同士で8年前に結婚しました。 夫には前妻との間に3人の子供がいて養育費(毎月約50万円)を支払っているということは知っていました。私は仕事をしていましたし私名義の家もあるし、何より彼自身が養育費を払っても私たちの生活費は捻出するという約束だったので、信じて結婚しました。 夫は自営業で、昼夜構わず仕事をしています。 結婚後、私は高齢出産で双子を出産し、それを機に仕事を辞めました。夫は念願の子供が生まれたのだから子育てを楽しめば良いよと言ってくれていました。 しかし、最近になってクレジットカードの負債700万円が発覚。そして前妻へ支払う養育費の支払いは4年間滞っており、利子も合わせると4000万円だと言うのです。 クレジットカードの負債は自己破産する予定、でも例え自己破産しても養育費の支払いは軽減されることはありません。 収入が大幅に減ったので養育費の減額を何度も申請していますが認められず、パスポートも運転免許も没収されてしまいました。次は刑務所にいくことになると言われています。 彼の月収は19万ほどで、その中から4万円は前妻に養育費として払っています。生活は本当に苦しいですが、4歳の双子をあずけて働きに出ても保育費を払うと幾らも残らないので働くこともできません。 最近は夫の何もかもが腹立たしく、些細なことで口論となり夫は仕事場から帰ってこなくなりました。電話も無視されています。 子供たちのために離婚は避けたいのですが、彼の借金、お金にだらしない考えが受け入れられません。 苦しいときこそ夫婦で助け合いたい、きっと数年後には「あの時は苦しかったけど頑張って良かった」と思えるときがくるんだ。そう思うときもあるけれど、日々の生活と育児に疲れ、気持ちに余裕が持てません。夫を信じて、また裏切られることが怖いです。 前妻との子供がいる人と結婚する覚悟ができていなかったと言われればそうなのだと思います。ただ、彼が大好きでした。一緒に幸せになりたいと思って結婚したのに、今となっては後悔ばかり。 こんな状況で、どのような考え方をしたら人生生き易くなるのでしょうか。子供を育てるのにはお金が必要で、それは「欲」なのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

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最愛の母を死なせました

膵臓癌を患っていた母が、1年9ヶ月の闘病の末、今月11日に67歳で亡くなりました。 前日10日には私も母の通院に付き添い、主治医からは「腫瘍マーカーが少し上がってきたものの、まだまだ化学療法の余地がある」と言われた矢先のことでした。 母の状態は常に気になっていたので、仕事の昼休憩時間には、毎日家に一時帰宅し、母の様子を見ていまして、母が亡くなった11日の昼にも帰宅し、いびきをかいて寝ている母に声をかけましたが、眉をひそめる程度の反応があるだけで、起きようとはしませんでした。 そして、私はその反応を、前日の通院による疲れで熟睡しているものと安易に考え、職場に戻ってしまったのです。 仕事を終え、18時に帰宅した際には、母は既に息を引き取り、死後硬直が始まっていました。 実は母は糖尿病も患っていまして、昼にいびきをかいて熟睡していたのは、今思えば低血糖による昏睡だったのです。そして、私が放置したことで、そのまま心停止に至ったのです。 昼に母の様子を確認した際に、異変に気付き救急搬送をしていれば、恐らく母は今もまだ存命であった可能性が高いのに。 私はよりにもよって、自身の不注意で誰よりも大事な、最愛の母を死なせてしまいました。それも、誰にも看取られることもなく。 逝く時の母は、どのような気持ちだったのか。苦しみながら、私の名前を連呼しながら逝ったのではないのか。 今となっては知ることはできませんが、母を淋しく逝かせてしまった自分を、どうしても許すことができません。 亡くなる数日前には、母は「淋しい、ずっと一緒にいたい」と言っていました。 私も同じ気持ちです。今すぐ母の元に駆けつけたい。 どのようにして亡くなったのか、母の口から聞きたい、そして謝りたい。現世で母を守れなかった分、あの世で現世以上に母を支えたい。償いたい。 仏間に安置している母のお骨に、こう語りかければ、母は迎えに来てくれるでしょうか。

有り難し有り難し 30
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