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hasunoha 問答検索結果 : 「 生きる意味 」
検索結果: 6357件

希死念慮

物心ついた時から私は人を呪う気持ちとか地獄とかそんな事ばかり考えてました。日々発達障害で怒られることが多くて誰にも認めて貰えず苦しかったのをそういうテーマのアニメで気分を晴らしてました。 だけど次第に見なくなりました。 その一方で希死念慮がどんどん強くなっていきました。 自分でもどうしていいかわからないです。 病院に通院してますが、主治医もどうする事も出来ない状態で泣いてどうにかしてください。と頼んでももうわからないのか処置を施してくれません。 (病院は二件目です)私の父方の家が精神疾患者が多いらしく、遺伝なのかとも疑ってしまいます。 私はまだ19歳なのでみんなと同じように毎日目標を持って学校に通い友達と話し自分の目標の資格のために勉強し取得する。という普通の人なら当たり前かもしれない事が目標です。 でも言い訳に聞こえるかもしれませんが、常に死にたいという気持ちが重荷になりうまくいきません。私の悩みは友達も理解すらできないので珍しいんだろうなと思います。自分の感覚だと八方塞がりだと感じます。(物事を進めようにも重たい気持ちと人間不信で心がボロボロになってしまったタメ。)まず、わたしは第1は何をしたらいいのでしょうか?どうしたらいい方に方向転換できますか??

有り難し有り難し 18
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2025/06/02

自分を責めてばかりです

50代女性です。普通に仕事をしてある程度貯蓄があって、普通に友人がいて遊びに行ったり愚痴を言い会ったり、普通に結婚して子供が巣立ったら旅行などしたり、農家の両親の手伝いをしたり。これらが私のしたかった事です。でも全部逆で、仕事が続かなくて貯蓄がなく、夫のDVに耐えられず離婚して両親に金銭的にも負担をかけてしまい、健康な両親だったのに急な病気で亡くなりました。悩みを相談できる友人もいません。息子がいますが嫁の言いなりで、こんな私を見下しています。会話も殆どありません。仕事が続かないのは人と関わるのが兎に角苦手で分からない事を聞く事さえできなかったのでリタイアという感じです。お金が無くて焦る一方でしたが親には理解してもらえず相談できる人もおらず、転職しながらこの年齢になってしまいました。今はパートです。子供を育てる為借金があり今も返済しています。養育費は払ってもらえませんでした。知識が無かったので泣き寝入りです。離婚後は全く縁がありません。何でこんなに無いことだらけなんだろう。無いに目を向けず有るを見ろとか、人生これからなんて言われますがそんな余裕はありません。上記に綴ったような、ただただ普通に生きたかっただけです。自分が情けなくて悔しいです。何で上手くいかないんだろう。そして何故か、子供の為に仕事を頑張ろう、返済の為に頑張ろうとするのですが頑張ろうと思うほど身体が動かなくなり頑張れなくなります。ふざけた言い訳のようですが私には非常に困った現象です。借金もその時は仕方がなかった手段でしたが、私が頑張れなかったのは後悔でしかないです。人生最後に本気で頑張りたいと思っています。アドバイスをお願いします。

有り難し有り難し 33
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幸せな中で、自分は何者なのかと漠然と考えてしまいます。

おかしな話ですが、幸せな分自分が何故生きてゆくのかわからなくなりました。 実親はアルコール依存症が原因で離婚し、もう10年以上会っていません。会いたいとも思いません。 私の方の事情を受け止め、結婚した夫と子供がいます。 幸せです。 過去に色々あったけど、今は幸せ。本当に実感しています。 壊れた家庭に育った分、今築いている家庭が一番大事です。 でも、ふと思うのです。 もし夫と子供がいなくても、私自身は生きて行く訳で、私自身はどんな生き方をする人間なのかな、と。 妻であり母である自分の一部を取り除いたら、棉ほこりやこびり付いて乾燥したヘドロのような、つまらない過去の記憶しかない、つまらない人間のような気がします。 自分の個性を失っているような、自分自身の輪郭がぼやけているような漠然とした疑問が付いて回っています。 夫と子供の為に生きているからいいじゃないか、というのは模範解答のような気もしますが、私自身を捉えなおしたいという気持ちがあります。自分は何者なのかと漠然と考えてしまいます。 これは煩悩なのでしょうか。幸せにうもれで没個性になっているような感じです。何かお言葉をいただけたらありがたいです。

有り難し有り難し 43
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自ら命を絶つことはいけないことですか?

乱文失礼いたします。 高校生の女子です。 最近、死にたいというわけではないのですが、このまま生きることをやめてすっとこの世界から消えて楽になりたいと思うことがよくあります。 今現在私の複雑な家族関係や、学校、受験、のことなど生活の中が問題で溢れかえっていて、普段はなんとかそれらの問題に向き合っていますが、一人になったときやふとした瞬間にとてつもなく苦しくなって、涙が溢れてきます。 また、テレビなどで、生きることがどれだけ恵まれているか、ということを教えるため(?)の感動ドラマや、かわいそう、という共感を目的とした番組などを見て、どうして人間はそこまで生きることにこだわるのだろう?という素朴な疑問を抱いてしまいます。 世の中の大人の方々ってすごいなって思います。みんないろいろなものを背負いながらも頑張って生きてきていて…私は、今のような苦しい思いをしながらこの先何十年も生きていける自信がありません…。 人はどうして生きることを必死に求めるのですか?本能ですか?死にたくないから生きるのですか?自ら生きることを絶つのはいけないことですか? 話がうまくまとめられず、よくわからない文章になってしまい本当にすみません…

有り難し有り難し 139
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完璧な幸せへの不安、それによる病気を解消するには?

以前、深く絶望し、幼時からの精神疾患も悪化させ、自傷行為に走ったこともありました。 しかし、今ではとても幸せです。 親の仕送りで暮らす学生で、趣味も多く、好きな人も友人もいて、何も不足はありません。 それなのに、精神的にも肉体的にも、いつも何らかの不調が絶えません。 幼時からの強迫性障害は完治を諦め、うまく付き合っていくように心がけています。 でもそれ以外で、緊張すると一言も話せなくなる症状や、ストレス性の難聴などの疾患が、改善と悪化、出現と消滅を繰り返しています。 身体でも痛みなどがあり、病院に行っても原因不明、ストレスかもと言われ、そう言われた途端に症状が軽減したりなくなったり…ということが多いです。 結局、いつも身体には異常はないのです。要は心の問題なのです。 一度、検査に行った病院で「あなた、異常であってほしいの?」と聞かれたことがあり、はっとしました。 私は絶望を経験してから、幸せになりたいと思って努力したし、幸せをつかみました。でもどこかで、完璧な幸せを手にすれば、その先に来るのは幸せの終わり、前のような絶望ではないかと、不安に思っています。だから、幸せが完璧にならないように、身体に出ているのだと思います。 でも怖くても不安でも、私はやっぱり病気になんてなりたくない、幸せになりたいのです。幸せの先にあるのが前のような絶望だなんて、思いたくないのです。 どうしたらこの不安を和らげて、身体の症状を軽減させていくことができるでしょうか。 良い心の持ち方を教えてください。 蛇足ですが、懸命に「この痛みや病気は幻だ、本当は何ともないんだ」と思ってみても、ちっとも軽減しませんでした。

有り難し有り難し 20
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自分を変えます!励ましてください!

お坊さん方へ いつも親身に回答してくださり、 ありがとうございます。 他の方への回答も沢山読ませて頂き、 とても、心に染みました。 今や私にとって、かけがえのないサイトです。 ↓から質問です 突然ですが、 皆さんの教えもあり、自分を変える事を決意出来ました。 ありがとうございます。 自分を変える、というのは、具体的には これまでのネガティブな考え方や生活習慣など、 自分の周り全てを差します。 もちろん、不安は多々あります。 これまでの自分を一新するということは、 未来の自分と、今の自分で、 全くの別人になってしまうのではないか?など。 (不安を分かりやくすると、自己同一性という 言葉を字面だけ読みとった感じです。) そこで、もし、仏教に自分を変えることの不安を 取り除ける教えなどがありましたら、教えてください。 そして、厚かましいお願いですが、 明日、自分を変える一歩として、自分を変える、 宣言のようなものを、自分が裏切りをしてしまい信用を 失った人達にしなければなりません。 何を言われるか分かりませんし、 今から胃が痛いです。しかし、自分の撒いた種。 自業自得です。が、ストレスは減りません どうか、こんな私ですが励ましていただけませんか?

有り難し有り難し 20
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2025/08/06

過去のトラウマから脱却したい

まだ私が大学生だった頃、大学の先生から数々のアプローチをされていました。具体的には、みんなが見てる前でのキス、手を繋がれたり、膝を触られたり、メールで「愛してる」「恋人になって欲しい」なども来ていました。相手は30歳以上も上のおじさんです。家庭もある人です。私は大学生で成績も、仕事も失うわけにはいかず、とにかく耐えるしかありませんでした。気にしてないと思い込んで、明るいフリをして、むしろ私が利用してやってる、くらいに思っていました。多分私は周りから「先生の愛人」と思われていたし、それを否定する術もありませんでした。第三者に「すごい先生に気に入られてよかったね」なんて声をかけられた時は自分の実力や努力を全て踏み躙られたような、そんな絶望を全身に感じながらも笑ってた気がします。先生にキスされた時、どこで何を食べて、どんな空気感だったか、体が全部覚えてます。なんとか逃げた帰りの電車は汗と震えが止まりませんでした。 何年も経ち、先生とは疎遠になった今ですが、今でも歳が上の男性と話す時は汗が止まらなくなります。怖くて行けない場所があります。私の過去を知ってる人がいる可能性を考えて、被害妄想ばかりしてしまいます。 今だからこそ冷静に過去を振り返ることができますが、いつまでのあの時の恐怖に囚われている自分に嫌気がさします。前に進めない自分は、本当に哀れで運がなかったんだなと、惨めでたまりません。 抵抗して守ったので、はっきりとした性被害とは言えないのかもしれません。でも、本当にギリギリの中で戦っていたと記憶しています。あと、詳しくは書きませんが、先生だけではなく他にも何人も同じような人がいました。そういう世界なんだなと自分に言い聞かせて、今は疲れてしまいました。 当時声を上げずに状況を受け入れた私も救いようのない人間ではありますが、こうして立場や権力を利用して、抵抗できない人に手を出す人は、仏教ではどうなるんでしょう? 仏様は見ていてくださっているのでしょうか? いつかこのどうしようもない怒りと恐怖と疲労が少しでも和らいだらいいなと思っています。

有り難し有り難し 13
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2024/03/29

前に進みたい

はじめまして 私は、1年半前に職場のお客さんに誘われて起業し、そして、閉業した経緯があります。閉業に関して後悔し、苦しい毎日と前に進みたいと言う思いでいっぱいです。 起業は、初めてのことでしたので不安と心配だらけでした。無事に開業まで辿り着き、この1年間運営しておりました。 私が代表となり誘ってきた人はオーナーと言う立場でした。 開業から半年過ぎた辺りから違和感に気付き会社は閉じてしまいました。 違和感と言うのは、 オーナーが言うことは絶対と言うこと、 ミーティングで、私は人格否定されたり、ただただ“言うことを聞け“と罵倒されていたこと。家族や友人などと疎遠にさせられたこと、そして、売上金の7〜8割はオーナーがその場で持って行ってしまう状況だったこと、オーナーの言っていることに事実とは違うことがあったことなど、 そして、 会社の運営費は全て私が出し、生活費の収入もない月が続きました。 総合的に考えて、この先、安定収入を得たとしても出費の方が多いことに気が付き会社を閉じて、オーナーと離れることを決めました。 会社を閉じた時点で、オーナーは電話に出なくなりました。 そして、その人が支払う分の費用を私が支払うこととなってしまいました。 起業したことは、私にとって多くの学びの場となったのは確かです。 そして、 普通では経験できない事を経験させて頂いたことに感謝をしています。 ただ、 酷い裏切りで心が傷つきました。 それ以上に、 起業と言うもう二度とできないであろうと言うチャンスをこの様な形で始め終わらせてしまったこと、 一生懸命立ち上げた自分の会社を閉じてしまったことに対して後悔をしています。 閉業は、心の余裕が出てから判断すれば良かったと本当に後悔しています。 この先、気持ちをどう切り替えていけばいいかわかりません。 今は、会社が無いと言う現実と向き合えません。毎日、悲しくて悔しくて、どうしてこんなことになってしまったのかと思うばかりです。 どうしたらこの苦しみから解放され前に進めますか。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 24
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厄年について仏教はどう考えますか?

以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。

有り難し有り難し 29
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故人を忘れたくない

いつもお世話になっております。 昨年末に、息子を病気で亡くしました。 闘病生活も長かったのに、短いいのちでした。一生懸命闘い抜きました。 毎日毎日寂しくて中々やる気がでません。自宅でぼーっと過ごしています。 息子の死については頭では受け入れているつもりなのですが、心がついていかない感じです。 このままではいけないと思い、信頼できる方に息子のことを時々相談しております。ハスノハにも大変お世話になっています。先日もお世話になりました。誰かに相談して、なんとか気持ちを整理したいのだと思います。 その一方で、本やニュースに逃げて、息子のことを考えないようにしている時間も多くなってきました。 息子の柔らかい頬っぺた、抱っこした感触、私の体を触りながら眠る癖、どれも覚えています。覚えているはずなのですが、なんだか遠い昔のことだったような、忘れていっているのかもしれません。 自分が現実逃避をしていることも含めて、なんて薄情なのだろうと思います。 色々事情があって、家族にも相談できる人や出来ない人がおり、結局外に助けを求めているような状況です。 弱気になれば、「連れていって」と思ってしまいますが、あれだけ闘い抜いた息子を見ていると、絶対に死ぬもんかとも思います(今の状況では死んでも死にきれないので死なないと思います)。 忘れていく、現実逃避さえする私は冷たいのでしょうか。 今後、どうやって息子の死と向き合っていけば良いでしょうか。 いつも本当にすみません。 色んな肩に話を聞いていただきたいだけかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 32
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釈尊と非我 龍樹と無我

凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか? 釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」 と仰られただけで、 人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、 というのは本当なのでしょうか? 確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように 「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。 その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。 ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。 後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。 龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、 形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。 畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。 もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、 はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。 そこで皆様に質問させて頂きます。 形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、 形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか? それとも補完しているのでしょうか? 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 29
回答数回答 2