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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 生きる 死にたい」
検索結果: 8730件

何をやっても努力が報われません。

何をやっても努力を誰かに水をかけられ続けて、疲れてしまいました。 家庭環境や人間関係に恵まれず、子供の頃から死にたい気持ちを強く持っており、心身共に他人から異常だと指摘されるほどでした。 親はその状態を恋人と共に嗤うか、人に迷惑をかける障害者死ね等と酷く罵倒されるかでした。至極正論を言っていると主張しており、自分でもよくわからなくなっていました。虐めや恋人からのDVもありました。家族を持ちたい気持ちもありましたが、DVを受けた人間は人としてケチがついているから一生DVされると、友人から言われ、誰かと家族を築くことはもう諦めました。 引きこもりや数回の自殺未遂を経て、死ぬのが怖かったという消極的な理由で、徐々に社会復帰をし、自分のやりたい事で仕事に就けるようになりやっと心も安定が測れはじめました。 そんな中、ご先祖様のお陰で安定し始めたのだから、ご先祖様に感謝しろと言われました。 ブラック企業から転職に成功したりと、確かに強運にも恵まれてきたとは思います。 自分の努力は、辛いことを乗り越えてきたことは、全て私の努力の賜物ではなくて、ご先祖様のお陰か…と。 悪いことが起こるのは私が生きる価値がない人間だからで、良いことが起こるのはご先祖のお陰なのだという結論に、何か努力することが無駄に感じてきました。

有り難し有り難し 23
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ひとりじゃない

こんにちは。よろしくお願いします。 私はこの言葉に恐れています。 なぜなら、この言葉には2つの意味があると思うからです。 1つ目は、 例えば、部活で練習が辛いとき、辛いのは自分一人じゃなくてみんな同じことやってるんだから、みんなと一緒に乗り越えよう。という意味で言われたとき。「一人じゃないよ」 もう一つは 例えば、何か悩み事があって相談したとき、そんなことみんな同じだから、あなただけ特別に悲惨だと思うな!、という意味が込められてるとき。「そんなん一人じゃないから」 相談に乗ってくれた人は、きっと意識してないと思うけど、そういうニュアンスで言われると、ちょっと、なぜか傷つきます。 ほんとに私は心が脆いので、相談して傷つくのも怖いので、あまりしません。でも、他の人の意見を聞いて、自分をより良くしたいと思ってます。 自分を特別視しすぎ 悲劇のヒロイン演じてる 確かにそうなのかもしれません。でも、どうやってこんな自分を認めればいいか、肯定できるのか、わかりません。 話は少し変わり、最近、受験勉強で倫理をやってます。西欧や日本の思想の考え、昔からいろんな人が生きることについて考えてたと思うと、苦しいものですね。人間は。私も納得する考えいつくかあります。いつくもの思想を残してくれたことにありがたい気持ちです。 人生を途中でやめるということが、絶対にだめなことならば、私は最後まで生きなきゃいけないと決心します。何があっても生きなければならない理由と根拠があれば、今より少しは強くなれる気がするのです。

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安楽死について

度々の質問を失礼致します。  最近、安楽死に関する映像を観ました。 今まで実際に安楽死される方を観たことがなかったので衝撃と同時に安楽死についてとても考えさせられる内容だと思いました。  実際に病気に苦しまれているご本人やご家族を拝見して苦しみながらも安楽死を選択する場面を観てやるせなさを感じると同時に苦しみから解放される場面を観て涙が止まりませんでした…。  安楽死に至るまではご本人、ご家族共に議論を重ねており、最終的には自分のことは自分で行え、自分の意思を伝える自由を持ち人間としての尊厳を持ったまま生きたいというご本人の気持ちが痛い程に伝わってきました。また、それを見送るご家族も本当に悲しかっただろうけれどもご本人の意思を尊重できる思いやりの深さも痛い程に伝わってきました。  それを観て病気で苦しむ本人が「どんな苦境でも生きたい」という意思がないのに治療を続けることや生を強いることはとても残酷なことではないかと思いました。  また、私は安楽死がもし許可されるようになったら本当に苦しんでいる人が救われるし、そうじゃないとしてもいつか生きることに疲れ切ってしまった時に尊厳をもって人生を終えることができる選択肢が存在するということは安心して生きていくことに繋がるのではないだろうかと感じました。  生きていれば確かにいつかは病が治るかもしれません。でも、そうならなかった場合苦しみを味わうのは病気になった本人です。今の日本はなぜ、苦しんでいる本人の意思を無視して無理やり生かそうとするのでしょうか…。そして、苦しんでいるのに死にたければ本人の尊厳を踏みにじるような残酷な方法で自殺する方法しかないのは何故なのでしょうか…。 生まれてくることは選べないのに死ぬことは許されないのは何故なのでしょうか…? 苦しみぬいてまで生きることは本当にそんなに価値のあることなのでしょうか…? 家族は確かに生きてくれた方が心の支えになって良いかもしれない、でも苦しみを味わう本人の意思を無視しても正しいことなのでしょうか?  笑顔で最後までご家族を労わりながらも亡くなっていく患者様ご本人を観て「生きる」とは何か本当に考えてしまいました。  安楽死について、どの様に考えるのかお坊様方の意見をお聞きしたいです、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
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死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

有り難し有り難し 78
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2024/09/27

お寺は怖がられているのか?

 いつもお世話になっております。私が尊敬する科学の先生の SNSを見ていたら、 「最近、このような漫画の科学監修をお勤めしました」 とご報告されていました。  読んでみると、カルト教団の集落(「宗教村」と呼ばれている) が舞台の話でした。  宗教村では、「人は必ず死ぬから、進んで死んで星になろう」 という教義を信者に説き、毎日少なくとも一人は信者が死ぬそうです。  漫画のワンシーンが載っていました。結婚式で、新郎新婦が 導師の指導の下自殺し、観衆の信者が「おめでとう」と熱狂して いました。  かなり強烈なシーンだったので、詳細説明は割愛します。  そのご投稿は、8月初旬です。9月下旬となった今でも、私は そのシーンを思い出して胸が痛くなります。思い出して不安になり、 穏やかにお寺でお祈りができないこともあります。  先日「自分を病気と思うと甘えが出る」と祈願寺で言われた ときも、この「結婚式で星になる」シーンを思い出し、 「私を医療から遠ざけて『星にする』つもりか」 とパニックになりました。  のちに祈願寺に苦情を入れ、他の職員さんが陳謝して くださいましたが…  楽しいSNSのアカウントを見ていても、望まぬ広告で カルト教団を舞台とした漫画の広告が表示されることがあります。  苦しいです。お寺をはじめとした宗教は、世間様から このような「人殺し」「搾取」「自殺助長」などといった 印象を持たれているのか。と思ってしまいます。  しかし、こちらの先生と同じ組織のお仕事仲間さんの アカウントを拝見すると、「○○神社へ行った」「僕は、 神社にもお寺にも初詣をする」といった書き込みを なさっている方もいらっしゃり、先生ご自身も、 「御徒町付近には仏具のお店がダンジョンのように広がっていて、 そこをめぐってみるのもいい」 とおっしゃっています。  そういったご投稿を拝読して心を落ち着けていますが、不安が 拭えません。先日も似たような質問を投稿しましたが、あまり にも「宗教村」の「星になる」話が鮮明すぎたためかなかなか ご回答がつかず、新たにオブラートに包んでこのように投稿 しています。  お寺は、私たちは、世の中から怖がられているのでしょうか? 「命を軽んずる怖い人たちだ」と思われているのでしょうか? 今も、宗教村の「星になる」シーンが思い出されて辛いです。

有り難し有り難し 6
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2024/01/22

寂しさや虚しさに向き合うこと

こんばんは。 最近、訳もなく寂しさや虚しさを感じることが増え、何故なんだろうと思い質問しました。 例えば誰かと一緒にいる時、楽しいはずなのに「寂しいな」と感じてしまったり、目標に向かって頑張っている時、ふと「虚しいな」と感じてしまったりします。 昔からそういう感覚はありましたが、最近になってそれが顕著になり、どうにも気力が続かない日々が増えたように思います。 私は26歳の独り身で、ある程度社会人生活にも慣れ、周りが結婚や出産といった新たなライフステージを進んでいく年代になっているため、漠然と将来に不安があるのだろうなとは思います。 私は今まで恋人がいたこともなく、結婚に対してあまり良いイメージを抱いていないため、誰かと人生を歩む未来を上手く想像できません。これから仮に一人で生きていくとなっても、自分が納得しているなら別にそれでいいと思っていました。 けれど、あと何十年も、自分が生きるためだけに汗水垂らして必死になって働いて、果たして私はこの寂しさや虚しさに耐えられるのだろうかと不安になります。 よく「自分のためではなくて、他人のために行動しなさい」と言われますよね。 私自身も、誰かの役に立てた時、心から嬉しいし、満たされていると感じられる気がします。 だから、というと押し付けがましいですが、周りの人たちには感謝していますし、優しくしてもらった分私もたくさん返していきたいと思っています。 義務感からではなく、本当に大切にしたいと思える人に、そう接しているつもりです。 それでも「虚しい」と感じるのは無意識に見返りを求めているからでしょうか。 「寂しい」と感じるのは、やっぱり一人に耐えられなくて、誰かを羨んでいるからでしょうか。 私は、結局自分のことばかり考えている利己的な人間なのでしょう。そんな自分に辟易とします。 いつか自分を好きになりたいと思いながら日々を生きています。自分の良心に従って、自分の気持ちに素直に生きようと考えて日々を生きています。 そしていつか、誰かを愛することができたら、私は満たされるのかもしれないとも思います。相手がいるからどう、という訳でもないかと思いますが。 こういう「寂しさ」や「虚しさ」はきっと死ぬまで付き纏ってくると思うのですが、お坊さんたちはどのような心構えで向き合ってらっしゃるのか、ご意見をいただきたいなと思います。

有り難し有り難し 14
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絶望感と、寂しさ

人ではないのですが… 1月18日20時15分に、10年8ヶ月飼っていた愛犬が他界しました。 去年の12月頃から様子がおかしく、私と愛犬しかいない部屋の壁を黙って見つめていたり、夜中にクンクン鳴いたかと思うとおもちゃをくわえ壁を見つめていたりしていました。 そして、今月4日突然愛犬の両目がショボショボし始め病院へ連れて行くと白内障になりかけてると獣医に言われました。 その後、薬で治療していましたが、亡くなった日の明け方にてんかんの発作を起こし病院へ。 点滴などの治療をしましたが、その日の20時15分に、苦しみながら旅立ってしまいました…。 その後、とてつもない脱力感、絶望感と寂しさに襲われています。 私自身も一昨年暮れに大病を患い危なかったところをなんとか名医に助けられました。 しかし、まだ未だに体調は良くなく後遺症と戦っている日々での愛犬との別れてでした。 未だに、首輪につけていた鈴の音がたまに聞こえ、近くにいるのかな?と思う日々です。 親友に、虹の橋の話を聞きなるべく泣かないように、後悔しないようにしているのですが立ち直れません…。 あの子の苦しみながら亡くなった時が未だに頭に残り消えず、新しくペットを迎えるきにもなれず…。 看取れただけでも良かったでしょ? 最後まで一緒に寝られたから良かったでしょ?と家族に言われますが。笑顔で対応する事は出来ません。 私としては、ずっと愛犬のお骨を家に置いて起きたいのですが 駄目なのでしょうか? ワンちゃん用の骨堂に置いた方があの子の為によいのでしょうか? 人や、動物の死は本当に辛いです。

有り難し有り難し 36
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矛盾を断ち切りたい

いつもお世話になり、ありがとうございます。 自分の中の矛盾を断ち切りたいです。 プロフィールや過去の質問を見て頂いたらわかりますように、現在2人の子供がいますが、間にできた子を産んであげられませんでした。 一人目を出産後に産後うつになり、目の前の赤ちゃんが自分の子供だと認識できない、愛したいのに愛情が沸いてこない。怖い。ずっとこのままなのかもしれない。母親になるべきではなかった。死ぬしかない。と、かなり追い詰められました。 そしてそんな思いが抜けないまま、主人に応じて性行為をしてしまい、避妊薬を服用したものの妊娠が成立。本当にこの事は悔やんでも悔やみきれません。愚かだったとしか言えません。 しかし、この経験は私を大きく変えてくれました。医療保護入院する程だった産後うつが嘘のように治り、子供を愛する事ができるようになり、出産前の自分を取り戻せました。 そして5年経ち、下の子を出産。今は子供達が可愛くて可愛くて…本当に大切で欠けがえのない存在です。産後うつ真っ最中の時は、こんな自分になれるなんて、夢にも思いませんでしたし、とても信じられなかったです。 そして今子供達が可愛くてたまらない今、産んであげられなかった子を思ってしまいます。大切な我が子を私は自ら手放してしまいました。後悔が波のように押し寄せます。 でもその一方で、今の私があるのは、全てのあの子のおかげなのです。子供達を愛せるようになった事、死ぬほど辛い産後うつを治してくれた事。たくさんの大切な事を教えてくれました。 今私がささやかな幸せを感じながら生きていられる事は、全てあの子がいてくれるからなのです。あの子がいなかったら、今の私は私でなくなっていたし、子供達も今の子供達ではなかったと思います。 なので、私の後悔は矛盾していると思います。産んであげたかった、大切に育ててあげたかった。でもあの時はそんな状況ではなかったし、産んでいたら、今の私はない。あの経験があったからこそ、今の生活があります 感謝をしながら、精一杯生きていくべきだとわかっています。矛盾を断ち切りたいです…。

有り難し有り難し 7
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日本人の食べるということに対する意識

私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1