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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 死 」
検索結果: 865件

自分を許せず責め続けてしまいます

こんにちは、また相談させてください。 とにかく自分を責めることをやめられません。 もうほとんど癖になっています。 大きいことでも些細なことでも、もう何年も前のことであっても、何度も何度も蒸し返しては責めてしまいます。 時には自分を痛めつけることもしてしまいます。 心の中で謝罪ばかり繰り返しています。 なんでちゃんと考えずあんな言い方をしたのか なんで間違えた時に対処法が思いつかなかったのか なんで大丈夫と思ってしまったのか なんでおかしいとすぐ言えなかったのか 今更思い返してもやり直せないと思いながら、ぐるぐるといつまでも考えます。 それが原因で体調を崩し寝込むことも多いです。 そのことで家族に心配され、また心配させてしまった罪悪感から自分を責めてしまいます。 「そんなことで」と言われるのが怖く、相談もできません。 いつまでも同じことを繰り返しつらいです。 自分でも責め続け、周りからも責められていると感じます。 反省して同じことをしなければいい、とよく言われますが、一度の失敗をなかなか許すことができません。 罪の意識に押しつぶされそうで、最近は死について考えることが多くなりました。 そんなことばかり考えて楽しいことも心から楽しむことができず、なにもする気が起きません。 このままでは頭がどうにかなりそうです。 なにかアドバイス頂けたら嬉しいです。 よろしくお願いします。

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何故死んではいけないのでしょうか

先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。

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2023/11/23

現代社会と本来の豊かさについて

悩みというよりは漠然と考えてしまうことがあります。        私は会社を起業し10年ほどになります。     会社とは何か?という本を設立当初に読み、 そこには『社会に必要とされているもの。人の役に立っているから存続が出来、人の役に立たない会社はなくなっていく』と書かれていました。     右も左も分からない中での起業でしたが、自身にそのような志が強くありましたし、その本に書いてある言葉に納得し、一生懸命頑張ってきました。     設立前から準備していたことや、業界を分かっていたこともあり、心身の苦しさや辛さはありながらも、経営は順調に右肩上がりで伸びていきました。 しかし、何処かでとても苦しさのような葛藤がずっとあります。     社会がいかに利益追求型の仕組みで弱肉強食であることを肌で感じること、それでも日々闘い続けねば生き抜けない。 競争社会、資本主義社会という中では当たり前のことだと理解すればするほど。 中小企業の社長さん達も皆んな日々闘い続けているんだなぁと思いながら。     そういう渦中で、自分の心身はいつも振り回され乱れるばかり疲弊する日々が数年続き、 自身を見つめ直したり心を丈夫にする為に色々と模索してきました。     そうした中で見つけたものは、お釈迦さまの教えや禅的な考え方でした。   日本では宗教にハマると聞くと直ぐに悪い意味で捉えられることが多いですが、 何か目印になるような共感できたり学べるような考え方というものに救われることに有り難さが溢れてきて泣きそうになります。   自身が人の為になることを〜と思い起業しましたが、会社を通して社会を知り、そこに向き合った今の時点で想定もしていなかった答えがあったように感じています。   知り合いに若いお坊さんがいますが、もっと遊びましょう、もっと休んでください、自分は人生遊んで過ごします。とよく仰っています。実際夜遅くまで飲みに行ったりしていて、誘ってくることも多いです。(行きませんが) そのお話しも極端に思えて、私には失礼ながら浮世離れしすぎていてついていけません。   長くなってしまいました。 文章がまとまっておらず伝わっているか不安ですが、 お坊さん達は今の資本主義社会と仏教の教えに乖離を感じますか? 感じられる方はどうバランスを取られていますか?

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『ウエルパス』を飲む

速乾性擦式手指消毒剤『ウエルパス』。 多くの病院で使用されている強力な消毒剤「(一般的に言うと)消毒用アルコール」の1つです。 数年前、私は、その『ウエルパス』無意識なのか意識的になのか不明ですが、ゴクンゴクンと飲んでしまいました。睡眠薬を服用して、ちょっと意識が朦朧としている時でした。 あまりの強刺激に、脳がパーンと弾け、また喉が焼けるような感覚で目が覚めました。 たくさんの精神科の薬を服用していましたので、掛かり付けの「薬剤師」に電話し、「どうしたら良いでしょうか」と訊ねると、「息が出来なくなるかも知れないので、まずはご両親を起こして、直ぐに病院に行って下さい」とのこと。 言われた通り、両親を起こし、引き受けてくれる病院を探しましたが…状況が状況だけに「うちでは無理です」と何度も断られました。そのうち、ある1つの病院だけが、「こちらまで来られますか?」と言ってくれました。日本一「断らない救急」でとても有名な病院です。 到着して直ぐに検査等が始まり、検査結果が出るまでの待ち時間に、診察して下さった救急医に呼ばれました。「自殺ですか?誤飲ですか?」と聞かれ…「分かりません」と言うと、「誤飲なら事故なので、体調診て帰ってもらえますが、自殺なら事件なので家には帰れません」と言われましたので…「確かに、睡眠薬を飲む前は、自殺したいと頭が混乱していました。でも、寝よう!と思って睡眠薬を飲んで起きたことなので、誤飲と思いたいです」と答えました。 まぁまぁ、診察開始から時間が経つにつれ、奇跡的に徐々に体調が回復してきましたし、「誤飲」だと答えたこと、あと、掛かり付けの精神科を必ず受診することを条件に、家に帰してもらいました。 普通の、飲むアルコール(お酒)は、アルコール度数が低いですし、高いウオッカ等でも、精々50%ほど。私が飲んだ医療用の消毒用アルコールは、100%ではありませんが、90%越えの「強烈なアルコール」です。 治療のお陰で体調が回復してきて、家に帰る頃には、ただの「酔っぱらい」になっていました。 それ以降、『ウエルパス』の部屋への持ち込みは禁止しています。「誤飲」も「自殺」も防ぐ為にです。 普段は、努めて元気にポジティブに振る舞っていますが、私にも「闇」があります。皆それぞれに「闇」を抱えて生きているのではないでしょうか? お坊さまの心の中にも「闇」はありますか?

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葬儀~四十九日のお寺さんとの関係に苦慮。

先日、実母が他界しました。浴室で心筋梗塞を起こしたらしいです。 母は知的障害の兄と暮らしておりました。 (兄は嫌なことがあると、すぐ行方不明になるところがあります。) 私は隣の市へ嫁いでおりますが、ガンと難病を患ております。 見た目には分からないので「元気になって良かったね」と言われますが、 自分で自分の世話が出来なくなるほど、倦怠感を感じることはよくあります。 母が亡くなった日、兄は泡を吹いて呆然としていたらしいです。 だから私が葬儀の手配など全部済ませました。 それだけでも私には拷問のような気がしましたが、 兄が行方不明にならないように 気を配っている姿を見て、親戚も近所の人も 「妹さんが全部してくれて良かったね」と言ってました。 それを聞いて倒れそうになりましたが、なんとか出来ました。  けどなんとかならないのがお寺さんとの関係です。 母の死は予想してたこともあり、 簡単に済ませることに故人も同意してましたが、 想像以上のしきたり?風習の多さ…抗がん剤の方がラクです。 それにお布施のことも、お伺いしても「お気持ちで」と言われ、 自分の出来る限りのことをさせて頂きましたが、足らなかったそうです。 ご住職から「近所の人に聞いてみて下さい」と言われましたが、 10数年ぶりの近所の人達はどこか冷たく「どうだったかなぁ」というばかりで 教えてくれません。 生前、母に葬儀のことを聞いても、「(兄)が知ってるから大丈夫」と言って 教えてくれませんでした。兄は何も分かってません。 母に虐待を受けてたこともあり、今、この状態で、皆様からお叱りを受けるかも しれませんが…母に憎しみしかありません。 それはともかく四十九日まで七日ごとに、お寺に行かなければなりません。 せめてそのときに必要とされるお金をはっきり伝えて頂けないかと思います。 難病の方は治療法がないので、無理をしないのが原則なのです。 ただ本当に私の心身とも限界を超えました。 だからもう苦しめないで欲しいのです。命懸けで出来ません。 お坊さんも私の病状、ご存じです。 こういう場合どうすれば良いですか? 教えて下さい。 追伸、兄には成年後見人さんがおられます。 母の納骨が済んだら、離檀したいと相談したら 賛成して下さいました。 そのときは助けて頂けるかもしれません。 でもそれで困ったら、また相談させて頂きます。

有り難し有り難し 16
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生きるのが辛いです

お坊さんこんにちは。 24歳の会社員です。 今年に入ってから、自分の死についてほぼ毎日考えています。 現在製造業に勤めて2年半なのですが、仕事のやり方や価値観が会社と合わず、ついに8月末で辞める決断をし会社とも話しました。 コロナ渦にもかかわらず仕事がたくさん舞い込んでくるのは大変ありがたい事なのでしょうが、わたしにはもう辛くて仕方がないです。 わたしのいる部署には係長が1人、休職中で入社1年目の20歳男性が1人と私しかおらず、現在は係長と私の2人で仕事を進めています。 しかし係長は視野が狭く、自分の事だけでいっぱいいっぱいなので、私が係長の仕事もカバーしつつ他の新人さんがヘルプで来た時は指導をしながら仕事を回しています。 専門的な仕事のためググっても仕事のやり方なんてわかるはずもなく、会社のごく僅かな人しか私の部署の仕事をこなせない為、私に大きな負担がかかっています。 そうすると、毎日毎日ちょっとずつ生きる気力が削られていき、最近は仕事終わりにどこかひっそり死ねそうな所を探しに行こうかなんて考えています。 俳優の三浦春馬さんがお亡くなりになられたのを知り、きっと自分が死んだ時も春馬さん程ではないが周りは悲しむし、きっと死んだ後後悔するんだろうな分かってはいるのです。 しかし、気がつけばいかに苦しまずに死ぬかばかり考えています。 誰かと一緒に居たくはないけど、1人でいるとそのことしか頭に流れ込んできません。 遠距離恋愛中の彼氏ともあまりうまくいっておらず、次の就職先もまだ見つかっていないので私には明るいニュースがありません。 このような暗い話を相談できる人が周りにおらず、もう疲れてしまいました。 今の仕事を辞める8月末まで生きられるかどうか自信がありません。 たすけてください

有り難し有り難し 26
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逃げてはいけないけどいざとなると怖い

お世話になります。以前から体調面などで仕事を休みがちになり上司にも同僚にも嫌われ集団で居場所がない様にされたり、嘘つき扱いや目の前で悪口や何してと隅々まで叩かれて追い込まれ萎縮していたものです。幸いにも精神疾患は患わず他の病気が見つかり約一年程思い切って休職してました。休職期間をそろそろ終わりにして来週から復帰するかという話しを今日、医者と話し合いにいきます。私的にも復帰しても心がダメだったらもうやめたらいいからとりあえず戻ろう。と思ってます。ですが、来週からと考えると辛くて怖くて、今まで苦しかった心が思い出されました。ここ数日、身内の急な死でお葬式がありバタバタとしてとても疲れたのもあるのですが。 こんなに行きたくないと思っているなかで復帰するのが辛いです。でもいつかは1度行くわけで、いつまでもだらだら逃げててはダメなことは分かるのですが、もう少し心も万全にしたかったです。契約社員なのでいつまでも休職を伸ばしていては印象がよくないので、それもあり復帰するのが良いと思ってますが、この体の疲れをとって復帰したかったです。というか、復帰するだけの心の準備やそれなりの覚悟がまだたりてないです。自分のできる業務だけはやろうと思ってますが、また周りや上司に意地悪いわれたりするのが心が疲れます。そして、明らかに嫌われてるので、年度評価も低くされており下着の色や、髪の毛化粧についての注意とかまで書かれていて明らかに悪意ありました。私は地味にしてますから。毎日萎縮してるのです。 お坊さん、行けるだけの体調にはなってるのに心が追いつかなくてまだ逃げようとしてる終わりのみえない行動をとろうとしてる私に一言下さい。行かないといけないけど、契約社員だし仕事なくなるかもしれないけど、今日はなんだかまだ覚悟できません。怖い。。。でもこれは絶対逃げなんです。体調も落ち着いてきたのに、心だけが向かない。。。辞めたくないのに怖い。。。

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死にたくないのに自殺しようとしてしまう

教職者と実父から暴力や性的被虐経験ありの、保育士を続けている者です。 子どもはこれから大人になる小さい人としてみていて、 特別子どもがかわいい、好き、という事は思ったことはありません。 高校教師の免許は持っていますが、 「子どもの生きる力を育てたい、 何か困難に直面した時に自分で道を作れるよう、選択肢を教えてあげたい。」 と思い、保育士の資格をとりなおして就職しました。 今迄は被虐経験から、 大人に強い不信感をもっており、 まともな教職者や楽しそうな子ども、 優しい保護者とかかわるなかで、 自分の境遇を否が応でも比較してしまい 「子どもに見せる親の表情は嘘だ。 信頼された教職者の嘘は誰にも見抜けない。 その時に見過ごされた子どもは保護者にも教職者にも救ってもらえない。 辛い。」 と、自分が感じていた過去の恐怖や今の妬みばかりが見え 昨年は体調を崩してしまいました。 その年の担任も終わり、 いまもまだ保育者をつづけているのですが、 ある日ふとした時にそれらの悩みから解放された感覚があり、 保育中ひっそりと苦しむ事もだいぶ減ったのですが、 いまはよくわからない虚無感に毎日苛まれています。 集団を抜けて発信さえ出来れば、 一部の大人が悪かろうがなんとでもできる。 悪人はどこかで罰せられるから、他人を妬まず自分は善い個人である事をする。 だから行って無駄な事などなく、楽しく生きる。 大人はとるに足りない恐ろしいものではない。 そう思えるようになり、 子どもにも楽しい事を話し、気づかせ、冷静で穏やかな気持ちで接しているのですが、 常にさみしさやかなしさばかりが付き纏っています。 やはり、生きている事は苦しい、という結論にいたってしまいました。 気力が萎えてしまい出来る事も日に日に減ってきており、 あと半年ほどでまた体を壊し、 今度は自分も完全に壊れてしまうのではないか、 という自覚もあります。 あまり生きていたくないのです。 ですが、これらは子どもらへ絶対に言ってはならないことだとわかっています。 なんとか死なないように踏みとどまっています。 色々な人に相談をして、何とか生きようとしています。 何を目的に人は生きて、 死んでいくとお坊さんは思いますか? 今の苦しみは、死の先のために、 無駄なものではないのでしょうか。 御回答宜しくお願いします。

有り難し有り難し 6
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恵まれているのに消えたい気持ち

閲覧ありがとうございます。 私の悩みについてご意見を賜れればと思い、質問させていただきます。 まずこれまでの出来事を振り返りますと、 ・小学生の頃自宅で祖父を自死で亡くしその場面を見た、知らない人から軽い性犯罪にあった。 ・中学高校の頃はいじめではないにしろ、あまり友人から好かれず悲しい思いだった。 ・18の時に精神疾患を告げられた、そこから4年くらいは辛く苦しい日々だった。 現在ですと、 ・親のありがたみに気がついた、周りの友人知人ともいい関係。 ・母へのわだかまりは解けたが、母に甘えている自分にモヤモヤする。 ・いい職場に恵まれた ・いいパートナーと出会えた。 ・やりたいことはある。 苦しんだ精神疾患は未だに残ってはいるものの、いい病院と出会え、だいぶ良くなりパートで働けるまで回復しました。 祖父のことで苦しんだ実家からも出て暮らせていますし、周りの環境にも恵まれています。周りへの感謝や幸せも日々感じます。 客観的に見ても主観的に見ても「恵まれている」と思っています。 ですが、どうしても「消えたい」という思いが拭えずにいます。 贅沢な悩みであることも重々承知なのです。友人には言いません。親にはこぼしてしまう時はありますが、「考えすぎ」と言われます。 しかし、「消えたいなあ」という思いがずっと頭にあって苦しいです。 「私なんかいない方が迷惑かからなくていいんじゃないか」「跡形もなく消えられたらいいのに。」 そんなことを悶々と考えてしまいます。 しかし、実行はできません。死後の世界を信じているからです。 「ひどく苦しんだあの頃」に比べれば、今は平穏で満ち足りた日々だとは思っています。ですが、なかなか心は難しいのか、本当の平穏が訪れません。 これらを踏まえ、質問の内容は 「いくら恵まれている、幸せだとわかっていてもこの悩みからは逃れられないのでしょうか?」ということです。 自分の弱さがこの悩みを生み出しているのだろうなとも思います。自信のなさも関係しているかもしれません。視野の広げ方がわからずにいます。 拙い長文を失礼致しました。 どうかお坊さん方がもつ見解でご教授いただけたら幸いです。

有り難し有り難し 21
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観察日記(空と念仏)

空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。 聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。 hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。 嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。 話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。 空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?

有り難し有り難し 35
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正しい親孝行、生きる希望を教えて下さい。

私は過去にいじめとかがあり、本音が周りに言えないせいか精神分裂しました。 「自分に興味がなく本音を一切もらさない自分(以下Aと呼びます)」と、「そんな自分を大事にし『自分』をいじめるやつには容赦なく暴力ふる自分(以下Bと呼びます)」です。 Aは正直、自殺したいですが親にしてはいけないと言われたのでしません。しかし、BにとってはAは死ぬことでいじめる奴がいなくなる&親の前で頑張っているアピールをしなくて良くなるから幸せになると考えています。 Aは私自身なので私はとても死にたいです。 私はBとは違い生きる理由も無く、死んだ方が親の為になると思っているからです。 そこで考えたのが、やってはいけないですが臓器の売買です。 私の身体全部売ればお金になります。 それが一番の親孝行であり、全部売るので葬式も挙げなくて済みます。また、「自殺してはいけない」という条件にあてはまります。 やりませんが。 私は家族自体が「自称家族」だと思っているので、私に寝床やご飯をくれるから、死ぬにはお金で返した方が良いと思っています。 社会に出て働くのもありですが、前にアルバイトしていたときいじめを受け、その時にBがいじめたやつを殺す勢いで殴ろうとしたので、それを止めることが大変だったので本当に働けるか不安です。 多分、勘違いしているかもしれませんが、家族にはいじめられてません。本当です。 前置きが長くなってしまいましたが、今年から社会人に向けて準備をしないといけないのですが、私自身に生きる希望もなく、Bをこれからずっと押さえ込める自信が無く、困っています。 親自身は社会に出て働いて欲しいと言っていますが、私自身が親の前で良い子を演じるのも辛くなってきました。 また、自分自身が働くという意志が持てず、全然準備が出来ません。 死に繋がる親孝行の回答はかなり難しいと思うので、死ぬこと以外での親孝行を教えて欲しいです。 また、もしこの質問に回答してくれるお坊さんがいっらしゃいましたら何を糧に生きているのかを教えて下さい。

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自身の強迫性障害による罪の償いについて

https://hasunoha.jp/questions/44463 約半年前にこのようなご相談をこちらでさせて頂きました。(あまりに文章が長くなってしまうため、こちらにURLを添付させて頂きます。申し訳ございません。) ここで言うお地蔵様に対する残忍で残酷なイメージ(強迫観念)とは、強迫性障害によるものですが、ただ本当に思ってしまったことはまるで殺人者のような事でした。 「死ね」や「殺す」などを何度も心の中で叫びながら、何度も何度もお地蔵様に残酷な事をしているのです。本当にイメージの中では、自分はまさに殺人者のようでした。 最初はまだ軽いイメージなのですが、そのイメージを掻き消したい!自分は違うと思いたい!と思うが故にその残忍なイメージは膨らんでいき、それを再び掻き消そう(強迫行為)と思うと、"その"イメージの自分に一旦同化して、これは違う!(自分ではない)と思う必要があるため、どんどん悪化していき、最終的には手に負えない程の残虐なイメージとなってしまいました。 その後も、何故いつもこうなんだ、なんでこんな事になってしまったんだ、と思うと(これも強迫性障害のせいか分かりませんが)、何故かお地蔵様に怒りの矛先が向いてしまい、お地蔵様の死のイメージが一瞬浮かんでしまい、本当に自分は人として最低最悪な人間なんだと思いました。 そこで、本当にお地蔵様に謝りたいと思うのですが、それがまた強迫行為につながると思うと怖くて出来ず、自分でもこのまま行くと強迫性障害の地獄の輪の中から脱することができないと思い、思い留まりました。 そこでこちらで親切なお坊さんにオンラインで何度か個別相談させてもらい、 「それは優しいお地蔵さんだから思っても良いんだよ」 「それはお地蔵さんが一緒に苦しもうと言ってらっしゃるんだよ」 と言って頂き、この半年間強迫行為をせずに必死に耐えてきました。 その甲斐あってか、今まで一生背負っていくとさえ思っていた強迫性障害がほぼ完治と言って良い程に良くなりました。 ただやはり自分が殺人者のような気持ちが未だ拭えず、また、あの時にお地蔵様に思った事が許せず、許してもらえているとも思えません。 毎日心の中には靄がかかったようで、心の底から笑う事ができません。 本当に、僕はどうすればこの地獄の輪の中から脱する事ができるでしょうか? 僕は、どうすれば良いでしょうか?

有り難し有り難し 11
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モテない雄に生まれてしまったら

前回質問したようにモテない雄というのも生まれつき遺伝子で決定されます。 私はそちらのモテない存在でした。 結局、私達は生物です。 私達は"利己的な遺伝子"に支配されており、雄として生まれた"遺伝子のプール"を濃密にする為の要因として私は産まれました。 しかし今の環境の中でモテない雄として私は生を受けてしまいました。 生物の存在意義は生き続けることです、雄の存在意義としては優れた遺伝子を保有し競争を行い雌を獲得し性行為をすることです。 将来子供が優秀で健康で生存になり得る個体として生まれるように雌は良い男を選びます。 しかし私は良い雄ではありませんでした。 淘汰される存在です。 もちろん原因は自分でも把握しております、発達障害です。それにより自信を喪失し、雌とのコミニュケーションを距離が近くなると遮断しておりました。 相手が私に興味を持つと遮断しておりました。 中学生までの自分は割とモテる方でしたが、それは私がまだ自信に満ちておりコミュニーケーションも楽しく行えていたからだと思います。 そこから何度も何度も失恋がありました、みんなが笑うくらい失恋しました。 セミナーとかも参加したり勉強したり。 私を肯定してくれていた女性に裏切られたり、なんなり《おそらく書くとドン引きされるぐらい可哀想な事をされた》で女性に対して良い思い出がありません。 やはり雌から見ると私は遺伝子コードを受け取るまでもない雄なのでしょう。 もう20代中盤です、私の周りは徐々に結婚をする人達もいます。 私はあと40年間一人ぼっちでこの世を恨みながら夢をかなえられないまま苦しみもがき呻きながら孤独に死ぬのでしょう。 いやセクサロイドが私を守ってくれるかもしれません。 結婚してる日本のお坊さんより欲を楽しんでいません。 私は修行僧のガチ勢並みに修行しております、私は解脱できるんではないでしょうか。笑 私のこの悩みは、おそらく ・1人で孤独に死ななくてはいけないという辛さ、孤独死確定 ・周りの男性に舐められる ・雄としての辛さ、自信喪失、愛することも愛されることもない ・寂しい、悔しい ・子孫を残せない強いニヒリズム ・好きな人が出来ても何も意味がない ・そして1番はまともな雄ではなかったという自己への肯定感を阻害され苦しいです。 どうすればいいですか?

有り難し有り難し 27
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どうせなら、正しく死んで行きたい

10年以上通院している精神科の主治医は自分にとっての人生のメンターであり、白衣を来たその医師の中身はお坊さんのような方で個人的に大変な信頼と尊敬を寄せています。 わたしは今現在も社会から離れた日常で生活しています。日頃、散歩などしていると、はいキマシタ〜心のざわつき、ぼんやりした不安、視線恐怖、本来怒る必要のないイラつき、などなど。認知行動療法により、そんな感じたモノをメモ出来る範囲でメモしておき、クールダウン後日どうなったかデータを見返した結果、95%その不安事項は起きない&思い過ごし(妄想)でした。つまり、都度いちいち反応しない自分が確立されれば気楽な生き方が出来ます。でもコレが物凄く簡単では無い。簡単なのに簡単ではない。毎日積み重ね精進してますが。随分長いこと環境や親のせいにしてましたが、詰まる所こうなった因果は自分に原因があると理解しました。 ◾️わたし自身の質問です。 どうにもこうにも相変わらず「自分を大きく見せたい」という慢の心が健在です。ザ煩悩。 でも、もうそろそろ自分を諦めよう(明らかにする)かな?このままだとなんの覚悟も出来ず、(心が)中途半端に死を迎える気がします。10年前に比べたら疾患は劇的に回復してます。結果1番効いたのは抗精神薬でもなく、閉鎖病棟への入院でもなく仏教の智慧(釈迦の教え)と信頼する主治医との会話の積み重ね、です。が、-1000が-100になったようなものです(未だマイナスという)。焦っては居ません寧ろどう考えても感謝事案。故に焦る。 人は(もれなく)いずれ死ぬにしても自分はコレの為に死ぬ(死ねる)のだ!という目標物が未だ目視できません。 ◾️例えば、歩っているとゴミが落ちてます。自分はいったいいつになったら「心から」拾う事ができるのだろうか?と。多分、それが起点です。 これまで、ボランティア的な事に関心を寄せたり、デイケアに通ったり、精神に関わるあらゆるサービスは結果自分には合いません。もうお疲れお腹いっぱいです。 ちっぽけな分子以下の自分ごときが何、壮大なスケール語ってやがる、と。 我に返りつつ、己に怒りを覚える毎度このパターン。 結局、何も起きない(本来有り難き幸せ)日々目の前の事をやるしか無いのでしょうか?わたしの慢の塊がいつもこう語りかけます。山の頂上に立てたのにな、やらかしたなと。まだやれますか?ザ未練。

有り難し有り難し 5
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