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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 幸せ」
検索結果: 1900件
2023/08/28

未来が怖いです

普段から心配性な性格をしているのですが 夏の疲れが溜まっていたのか、いつもなら気にしない母のうっかりミスや悲しいニュースで強いショックを受けてしまい そこから還暦過ぎた両親が認知症になってしまったら、私自身が癌になってしまったら、身内が死んでしまったらと 暗い妄想ばかりが頭から離れなくなってしまいました。 特に裕福ではなく伴侶もいませんが、ありがたい事に衣食住に困らず人にも恵まれています。 仏教では老い、病、死は避けて通れず諸行無常と言われていますね。 けれど私は周りの人達に辛い事が降り掛かって欲しくなくて、不安な気持ちが離れなくなりました。 全ては変わっていく事、考えてもどうにもならない事と頭では分かっていても、心が拒絶するのです。 未来が怖くて仕方ありません。 幸せな状態のまま全てを終わらせたい、など極端な考えまで出てしまいます。 私がこんな悩みを抱えていると知ったら、親も親戚も友達もとても心配してしまいます。 なので誰にも打ち明けられず、ここで相談させて頂きました。 いずれ訪れる老いや病、死や未来に対する不安にどう向き合ったり、捉えたりしたら良いか どうやったら未来を明るいものとして考えられるか お坊様のアドバイスを頂きたいです。 どうぞよろしくお願いいたします。

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2024/07/05

死んだら無になることへの恐怖

もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。

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お話を聞いていただきたいです

こんにちは。 文章がわかりづらいかもしれませんが、ご相談があります。 先日おじが亡くなったという報告が母から来ました。 正直「死」に対してあまり実感がなく、高校生の時の祖父の死で少しずつ実感が湧き始めました。 今回のおじの死は交通事故らしく私は年に数回ほどしか会えなかったので悲しいはずなのに自分の感情がごちゃごちゃになって悲しいのか何も感じていないのかわからないでいます。 しかし父(おじの兄)といとこ(おじの子供)のことを考えるとつらくて本当に涙が止まらなくなります。 私は現在一人暮らしをしていて両親や父方の親戚は外国に住んでいます。そのためお葬式にもでられません。また、半年ほど前に大好きだった愛犬が亡くなった時もコロナの関係で1年以上会えないままのお別れになってしまいました。 今回のおじの死で愛犬のことも重なってしまいすごく辛いです。友達にも心配をかけたくないので相談はできません。しかしいつも通りに接することもできず余計自己嫌悪に陥ってしまっています。早く今まで通りに振る舞えるようにしたいのですが正直今は無理です。でも心配はされたくないです。両親もきっと今は辛いはずなので言い難いです。 大切な人を看取れずとても悔しく悲しい感情をどこに当てればいいのかわからないです。またもしもっと身近な人が同じように死んでしまった時、自分は遠くに住んでいるせいで看取ることができなかったらと考えるととても不安です。 どうしたらこの不安や悲しみや悔しさを和らげる(?)ことができるのでしょうか。 一方的に今の感情を書き留めたら長文になってしまいましたが最後まで読んでくださってありがとうございます。

有り難し有り難し 12
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死ぬのが怖い

私は死ぬのが怖いです。 前からふと「死」について考えてしまう事があります。その度に泣いたり、怖くて苦しくなり鼓動が早く息が苦しくなったり、発狂しそうになりました。 しかし、そうなる事も数年に何回かある程でしたが、今はここ一週間程ずっと考えてしまいます。 死んだらどうなるのか、今こうやって物事を考え、生きていること全てが消えてしまう。「無」になってなにも無くなってしまう事が怖くて怖くて仕方ありません。 どうすることも出来ないのに、どうなるのかを想像して、その度に苦しくて苦しくて仕方ないのです。ずっと生きていたい。生きていられるのなら例えどんな事でも出来ると思う程に、生きていたいと思うのです。 私は、眠りにつくのと死は同じだと思っています。寝てる間は意識がなく、今は自然と目を覚まして、自分が寝ていたという事に気づきますが、死とはそのまま起きることが無い状態なのだと。考えても、誰も答えは知らないので、仕方の無いことだとは思うのですが、ふと考えてしまい、苦しくて怖くて何も手につきません。それでも、次の瞬間には、まだまだ先のことだから今考えても仕方ないと思ったり、きっとその後の世界があると思ったり、ふと気楽に考える瞬間もあるのです。そしてまた、ふと怖くなって・・・。この繰り返しを一日に何度もしています。どうか、助けてください。

有り難し有り難し 26
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真の反省とは

中学生の頃、好きな女の子のお尻を触りました。 触られた本人は私が故意に触ったかどうか知っているかは分かりません。 当時は罪悪感は感じることなく、むしろ達成感さえ感じていました。 しかし、数年が経ち、罪悪感をかんじるようになり、謝りたいという気持ちが芽生えてきました。 この謝りたいという気持ちは許されて楽になりたいという気持ちなのかもしれないと思ったのに加えて、 大ごとになるのではないかという恐れから、謝罪をしないでいます。 私はどのように罪を背負って行けばいいのでしょうか。 私は反省できているのでしょうか。 罪を犯してから、 今まで繰り返したことはありませんし、 これからも繰り返すつもりはありません。 しかし、それだけでは何か足りないように思えるのです。 被害者の気持ちを考えるために、性的被害にあった方の本を読みました。 私にとっての少しのことが、された側には大きな傷を作ってしまいうることを知りました。 このことから、私は死を選ぼうと思いました。 死を選ぶことは反省ではなく、逃げかもしれません。 謝罪ができなかった臆病者の私には無理なことかもしれません。 私は苦しくて、どうしていいのか分かりません。 こんな私が幸せを感じて良いのでしょうか。 人を不幸にしたのに幸せになって良いのでしょうか。心の底から反省ができれば幸せになって良いのでしょうか。 苦しみから逃れたいという自己中心的な思いがありながら、幸せになっていいのでしょうか。

有り難し有り難し 13
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亡くなった人への未練を無くしたいです。

初めてご質問します。拙い文章で読みにくいかもしれませんが、もし宜しければ読んで頂いてご意見貰えれば幸いです。 親近者でもないのにいつまでも悲しみにおり、未練を残していて恥ずかしいです。 前向きな気持ちになりたいと思っています。 1年前、18歳から23歳までお付き合いしていた方が自ら命を絶ちました。この方にはお別れしてからもう何年も会っておらず、久しぶりに彼に会えたのはお葬式でした。 その際会えた瞬間に愛しさがこみ上げてきて、私は何故この人と別れる事が出来たのかと呆然とした程です。 彼は人生において恩人のような人で、2人で1人のような精神的にも一緒にいた人でした。私の浮気心と価値観の違いで別れたのですが、別れてからも、この人だけは幸せになって欲しい。この方より先に結婚は出来ないと思っていた程、幸せになって欲しかった人でした。 別れてから他の人とお付き合いしていたのですが、まさに理想のタイプになっていて恋人に望むものは全部その彼と比べてしまっていた程です。 そんな彼は当時の婚約者と家族を残し遺書を残し亡くなりました。とても優しい人でお葬式には人で溢れかえりました。とても人に好かれる人でした。 私はまさに最早他人であり、その家族や婚約者にご愁傷様ですとしか言えない立場です。それなのにいつまでも毎日彼の事を考えます。彼が亡くなってから私の人生はガラッと変わり、仕事に対しても人に対しても姿勢が変わりましたし人に優しくしたいと思うようになりました。彼の様に私も人の思いや記憶に残る様な、生きていることを示す様な仕事をしたいと思い頑張れる様になりました。 しかし最近、こんな風に考えている事がとてもおかしい事ではないかと思うようになりました。私は自分で選んで別れた他人です。今大事にしないといけない人もいます。なのに、毎日彼のことを考え、自分の一部がいなくなったような親近者のような辛さを覚えます。それはそして誰にも共感して貰えない事ですし、寄り添って貰えない事だという事も自覚していますが…この未練が辛くて堪りません。どうすれば、この未練を断ち切れるでしょうか。

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2022/09/15

考えない事は先送り? 受容するには?

以前よりお世話になっております。 私は死の恐怖と、それに伴う宇宙や自分の存在などといった説明のつかないものに対しての恐怖が異常に強く、困っています。 「今生きている幸せな世界(自分)はいつか終わる」「そして二度と戻らない」と思うことが頻繁にあり、その度に発狂したり、自分を殴ったりしてしまいます。 そのため、この強すぎる恐怖への対応策を探しており、hasunohaを利用させて頂きながら様々な角度から死について考えています。 しかし、死について考えるだけでも恐怖に襲われ、精神状態が極めて悪化してしまうのです。上記のような状態になってしまいます。 死について考えるのをやめると、日常の快適さは保たれます。ただ幸せで、よく食べてよく眠れます。 でも、それは問題を先送りにしているだけではないかとも思います。死ぬ間際になって、恐怖に溺れて発狂している自分を思うと、今のうちから解決へ努力すべきなのではないか、と思います。 これについて、どうやってバランスを取っていけば良いのでしょうか?お坊さん方のお考えをお聞かせ頂きたいです。 また、以前の質問で、仏教の教義を理解しても「受け入れる」事ができていないと教えて頂き、まさにその通りだと思いました。 死に限らず、「強い恐怖を伴う現実を、受け入れる」のは、どうしたらできるのでしょうか? 漠然とした質問で申し訳ございません。ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 12
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恐怖を忘れることは良いことか?

お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 12
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お墓、葬式がいらないんですが

こんにちは。またお世話になります。 自死を考えているに辺り、自分のお墓や法要の不必要を感じていることを遺書でお願いしていくのは私の我が儘でしょうか。 (勿論、私の希望が通るかどうかは分からないとは理解してます) 墓守りの家に生まれ、祖父母はお寺に尽力していました。家業が忙しくてもお寺のお手伝いに行ってしまう祖父。その文句を毎度飽きもせず言い続けていた母。私は祖父が好きだったので苦しかったです。 「神様や仏さまはいないけど、親と先祖は大事にしないといけない」と墓参りにはせっせと連れ出され、地獄絵を見せられては「お前はあそこに行くんだ」と言われていたので、お墓=魑魅魍魎の世界のイメージが取れません。 自分の家の仏壇には手を合わせない(私が手を合わすとおべっか使いと文句を言われる)が、母の生家や母の親戚の仏壇には手を合わすように指示されて、正直、お墓もお仏壇も負担しか感じませんでした。 父方の祖父母、母方の祖母はもう鬼籍に入り、3人ともお葬式には行きましたが、その後の法要には行っていません。祖父はギリギリの知らせで旅行と重なり、旅行をキャンセル出来ずに欠席。母方の祖母は母が姉と大喧嘩をし、縁を切った為連絡無し。父方の祖母は子供がいるからと連絡なしでした。 母から逃げてる私はお別れ出来なくて寂しい気持ちはなく、厄介事に巻き込まれずに済んだという想いです。最近の主人の方の法要はうつ病の為、遠慮するようにしております。 こんな私ですので地獄行きも決定ですし、そんな私にお金も時間もかけてもらうのが嫌なのです。 本当は遺骨は海にでも撒いてもらいたい所ですが、それも手間なので、共同墓地の永代供養を頼もうと思っています。 法要も決まり事だからとしてもらうのが申し訳ないし、しんどいだけの行事なので迷惑かけたくないし、思い出してくれる事があれば十分幸せだと思うのです。思い出してもらえなくても全然良いです。主人や子供たちが幸せに生きてくれてたら十分過ぎる供養だと思うのです。 どうしてもお墓や法要は厄介事という想いが取れないのです。 自死するかはおいておいて、お墓法要不要について教えて頂けるとありがたいです。

有り難し有り難し 14
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大切な人を失くしました

10年前 私が20代半ばの頃です。約2年半程 交際していた方が自ら命を絶ちました。当時は 悲嘆に暮れ 絶望感と今までに経験したことのない喪失感でいっぱいでした。 私の言動や行動が 彼を追いつめたのではないかと思い自責の念にも苛まれました。 彼に対して 『何故、どうして?』という気持ちがいっぱいで溢れそうになり 時にはそれが『なぜ私をこんなに悲しませるの』と、怒りになることもありました。 彼がいなくなってからも 私の日常は変わらずにあり 泣いてばかりもいられませんでした。半年も経てば 彼がいない生活にも慣れてしまいました。亡くなってからの一年間は 周りに心配をかけまいと 必死に毎日を過ごしていたように思います。楽しいことがあれば普通に笑えたし、その一方では 死にたいと考えてしまう自分がいたり。今思えば、 常に両極端な緊張感の中にいるようでした。結果 糸がプッつり切れてしまい休職するに至りました。 『時間が経てば癒される』と よく言いますが、三回忌を過ぎた頃からは 彼がいないことに対して寂しくて泣くことは少なくなりました。あんなに毎日の様に彼のことを考えていたのに 自分のやるべきことに追われ忙しい日常にいると すっかり彼のことは忘れていましたし、それでいいのだとも思っていました。しかし そう簡単に割り切れる訳もなく、 少し疲れていたりすると 決まって彼のことを思い出しては悔やんでいる自分がいたのも確かです。 七回忌が終わった頃には 私自身も 歳を重ね 彼の自殺の原因を考えるより 彼が亡くなった意味に想いを巡らせる様になりました。 歳月が流れて 私の気持ちにも沢山の変化がありました。時間はかかってしまいましたが 私なりには彼の自死を消化してきたつもりです。しかし、10年が経とうという今でも あの当時の喪失感だけは拭えません。新しい誰かと未だに向き合えない自分がいます。 また、物にも あまり執着しないようになり、とにかく身軽でいたいと年々 思うようになりました。彼以外にも この数年に大切な家族を立て続けに亡くしたことも かなり堪えています。 すっかり 自分の進むべき道を見失ってしまいました。生きることに執着がない自分自身にも とても不安になります。何か新しく手に入れたり 出会いが生まれれば、そこから貪欲になれるのでしょうか?

有り難し有り難し 5
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生きたいと思うには?

はじめまして。お忙しいところ申し訳ありませんが、宜しくお願いします。 私は今まで生き急ぐ(死に急ぐ?)生き方をしてきました。 元々「生きたい」と思わず、 「人生は思い通りにならないのが普通だ」とか、「みんな同じ、みんな大変」という言葉を耳にしてから、尚更生きたくなくなりました。 もしも人生というものが、細々とした幸せと大半の苦労でできているのならば、もうこれ以上、僅かな幸せの為だけに生きていたくありません。 何十年生きて、心からの幸せを感じたことがないことも拍車をかけています。 「幸せは自分の心の中にある」と心の持ちようを変えても見ますが、幸せを感じる為に毎日あれこれ考えて、少し気力が出てきた頃に就寝時間がやってきて、朝起きると…また気持ちが沈んでいます。 無理やり作った幸せは、心が納得していないようです。 頑張っても報われない。あと何十年もこれを繰り返さないといけないのかと思うと途方に暮れます。 「その人の為に生きたい」と思えるような人もいません。 やりたいことは、暇つぶし程度ならありますが、その為に生きたいとは思えません。 心理学の言葉をお借りすると、私の状態は「アダルト・チルドレン」の症状が最も近い気がします。 今回お聞きしたいのは、 このような人間が心から「生きたい」と思えるようになるには、 無理ではなく、心からの幸せを感じるにはどうしたらよいか ということです。 どうかご教授頂けないでしょうか。 長文になり申し訳ありません。

有り難し有り難し 43
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2022/09/25

父親の死期を早めた自責の念

痛みを伴う難病とわかった後、希少ガン。リンパ転移宣告。高齢なので治療は出来ない。父には癌のことを知らさぬまま亡くなっていきました。亡くなって半年近くになりますが、初盆を終えて、日毎に闘病中にあった事が思い出され、あの時の選択はこれでよかったのかと思い出され精神的にしんどく、不眠と食欲不振。なかなか病院との話し合いがうまく出来ず、もやもやしていました。母弟夫婦、私夫婦で話し合いましたが、弟は母が決めるのが一番。母は痛い思いをしてほしくない。身内の者も、いまさら?など意見が分かれ、病気について、もっと向き合おうと思った矢先、急変し帰らぬ人となった辛かった経緯がありました。 過剰に病気を恐れてしまったのか、高齢の母をもっとサポートしてやれば良かったのか、母より父と性格があっていた私だけに、この気持ちがずっと四六時中頭から離れません。生前、父はいつも悔い無い日々を過ごしていましたので、病気になる寸前までは後悔が無い日々を送っていたと思います。私も一緒にゴルフをしたり旅行もしました。ただ、最期がこんな残念な事になり、この先、私だけ幸せに暮らしていいのかと思うと、胸が苦しくなります。家族も想いが違うので、話す事もできません。こんな私に何か教えをいただければと思います。

有り難し有り難し 24
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