小学生の頃より、ふとした瞬間に"死んだらどうなるのだろう"と考え始めた。 でも、当時は漠然とした考えで 中学生の頃も同じようにふとした瞬間に漠然と考える事はあったが、そこまでの恐怖はなかった。 高校〜大学の時に恐怖へのクオリティ?が上がり、特に両親が去ってしまうと考えた時に押し潰されるような不安に襲われ泣く事もありました。 しかし、泣いて翌日にはケロッと後に引く事はなかったが20代後半になり 1人の時や夜中にふと目が覚めて ・両親がいなくなったら孤独だ ・兄妹はいるけど順番で考えたら 私が最後か… ・結婚もせず独身、死ぬ時も孤独なのか ・どんどんと老化してきて何もできなくなって死ぬのかな、怖い。 ・日々の一瞬一瞬全てが無に戻る&無意味に思える、それが怖い。 色々な不安が頭にぶわぁーっと入り 今までと比べ物にならないぐらいの 死への恐怖の波がきます。 私自身がネガティブな状態で、それが原因なのかと思い携帯で検索してみると 同じような人がおり、安心するが 内容を読むと結婚していて子供がいてetc... いやいや、結婚もしている 子供もいる、"家族"がいる。 生きた証を未来に繋げれる地盤が あるのに…と、卑屈になってしまい 更に不安がこみ上げて泣いたり 不安で寝れなくなったりします。 両親や兄妹が去れば 私も終わりでいいかなって思うし 始まりがあれば終わりもある と理解しているけど グルグルと同じ事を考えてしまいます。 死への恐怖はどうしたら治りますか? とは伺いません…。 ただ、言葉では言い尽くせない この恐怖をどう乗り越えていくべきでしょうか? よろしくお願いします。
本当に死にたいわけではないのに、何に対しても「死にたい」って思ってしまいます。 例えば後悔した記憶や恥ずかしかった記憶を思い返しては「なんであんなことをしたんだろう死にたい、死ねばいいのに」って考えてしまったり、楽しい事があっても「私なんかが楽しんでいるなんて許されないから死にたい」と、そういう風に考えたり口に出す癖みたいなものが昔からあるのですがここ数年それがとても酷くなってきて、どうしたらいいのかわからずにいます。 酷くなった引き金は、生きがいだった愛猫が病気で亡くなってしまい、再就職に失敗したからです。現状実家暮らしのフリーターな事もあり自分への失望感や負い目が酷く他人との関わりも極力避けるようになりました。 自分が落ち込んだり悲しんでいると心配してくれる家族がいます。楽しいと感じることも嬉しいと感じることもこれからやりたいこともあったと思います。 でもすべてが「死にたい」という言葉に直結してしまって、酷い息苦しさと八方ふさがりのような、生きにくさみたいなものに囚われています。死以外に道はないぞと自分自身で言いきかせているようで怖いです。 どうしたらこのような気持ちに囚われず前向きに生きていけるのでしょうか。ご意見聞かせて頂けたら幸いです。
最愛の父が他界してから、死後の世界について考えています。 父は愛妻家かつ子煩悩で、死の3日前まで母と私に「大好きだよ」と言っていました。 大食漢で行動的な人でしたが、病のせいで食事も運動もままならない中、愚痴ひとつ言わずいつも笑っているような人でした。 死後の世界があるのなら、痛みからも苦しみからも解放されて、好きなものをたくさん食べて、好きなことをたくさんしているのだと思えます。 死後の世界がないのなら、大好きだった父は何処にもいないのなら、二度と会えないのなら、私も死にたいと考えています。 大学一年生の頃、仏教の講義が必修科目でした。 18歳だった私は宗教や死後の世界は生きてる人間のためにあるもので、死んだら無になると考えていました。 今になって死後の世界があって欲しいと強く思うのですが、長年否定していたものを肯定するのは都合の良い話に思え、抵抗があります。 祖父が亡くなった時は季節外れの蝶が部屋に舞い込んできたり、替えたばかりの蛍光灯が明滅したりと不思議な出来事があり、もしかしたら…と思える時もありました。 ですが「ずっと側にいるよ」と言った父の存在を感じることはなく、消えて何も無くなったように思えてしまい、胸が苦しくなります。 長文かつ乱文で申し訳ありません。 どのような心持ちで過ごせばいいのか、ご教示願います。
こんばんは。 歩き出しては立ち止まり、迷ってはお坊様方にいただいた回答をもう一度読み返し、気持ちを切り替えてきました。そして、ようやくひとつ先へ進めたかのように思えていた矢先に、ある音楽を耳にしました。それは、2人で良く聴いていた曲でした。 私はとても嫌でした。聴いていられませんでした。なぜだかそのときはわからなかったのですが、あとからじわじわと気づきました。 私は主人の死に全く向き合えていませんでした。 亡くなったらどうなるのか、それがわかれば生きていける、そればかり気にしていて、根本的なことを受け入れていなかったのです。 主人の為にお葬式や新盆はしっかりやってあげたかったし、会社の方が来られてもしっかりした様子を見せたくて気を張っていたし、子供たちにはあまり悲しい顔を見せないように、もちろん子供たちが辛いときは一緒に悲しみに寄り添い、いままでと変わらない元気で明るい家族でいたくて頑張ってきました。主人の為、子供たちの為に進んでいくしか、生き方がわかりませんでした。 周りの人に「ちゃんと前に進めてるよ」って言ってもらいたかったのかもしれません。 そのために死を受け入れる時間は後回しに、どう向き合っていくことが幸せなのかを優先に考えてしまったのだと思います。 主人の死を受け入れるためには、どうすべきなのでしょうか。向き合う必要性があるのかすら私にはわからないのです。
難病を患い、あまり生きられないかもと一年前に相談した者です。 あれから多少悪化し、実は今、入院中ですが、まあ穏やかに過ごしています。 あれから僧侶の方が書かれた本を何冊か読みました。 解釈の仕方を間違っているかもしれませんが、 この世は全て「諸行無常」で常に変化するから、私が亡くなるのも仕方ないと。 8割納得しました。 でも私を看取るであろう主人に言ったとて納得しません。 主人は今、日々の大半を私の為に過ごしています。 どうしても言うこと聞かないので「毎日同じ顔見たくないから遊びに行って」 とも言いました。 自宅の仕事もあるので、本当に世間との交流を断ってしまってます。 私が死んだら、主人は孤独です。 自分の死より怖いです。 一昨日、小林麻央さんがお亡くなりになられました。 勿論、麻央さんが一番おつらいと思いますが、看病したり 悪化していく様子を見ていた海老蔵さんもつらかったと思うのです。 なのに海老蔵さんのあれだけ号泣する姿を見て、 「私はまだ死ねない」「旦那を泣かせられない」と思いました。 けどそれは現実に逆らうことですけどね。 まずは私は体調に気をつけることだと思います。 そこでお伺いしたいのは、 それでも私が今から迎える「病状の悪化」「死」について 主人の心身のダメージを最小限にできる方法ってありますか? お忙しいところ申しわけありませんが教えて下さい。
閲覧ありがとうございます。 神様や仏様、亡くなった祖父母が姿を変えね、または他の存在を利用して、私の命を助けてくれたと思って良いのでしょうか? 先日仕事で悩み、突発的に死にたくなって10階建ての建物の階段登っていました。 そうしたら半分くらい登り終えたところで、階段に大きな蜘蛛の巣が張っていて、小さな蜘蛛がいました。 私はもともと蜘蛛恐怖症なので蜘蛛を見て怖くなり、気がついたら蜘蛛から逃げるために1階まで階段を駆け下りていました。 そして1階まで階段を降りた後、ふと気持ちが冷めて、死ぬことをやめ帰宅しました。 今になって冷静に考えれば自分でも死ぬ覚悟があるならば蜘蛛などどうでも良いし、そもそも1階まで駆け下りて逃げる必要も無いと思うのですが、その時は必死でそのように思いませんでした。 蜘蛛の糸と言う話がありますが、私の場合は蜘蛛が大嫌いで今まで蜘蛛に対して酷いこと(見たら怖くて殺してしまうなど)しかしていないのに、大嫌いな蜘蛛に命を助けられました。 今では、神様や仏様、亡くなった祖父母が、蜘蛛という存在として、または利用して、私の命を救ってくれたのかなと思って、頑張って生きようと思っています。 分かりにくい文章ですみません。 よろしくお願いいたします。
死にたいと思ってしまいます。 本当に思っているのかはさておき、辛くてたまらないことが重なると「早く死にたいな、早く解放されたいな」と考えてしまいます。 生きる=辛い・苦しい 死ぬ=生きることからの解放 という図式が自分の中にあります。 なので辛いことが沢山あると早く死にたいなーと思ってしまいます。 楽しいことももちろんあるのですが、ふとしたときに早く救われたいなと考えてしまいます。 死ぬときのことを想像するととても安心します。 でもこの事を話すと母に怒られてしまいましたが、何故怒られているのかわかりません。
野良猫の事故死についてです。 昨日、家のすぐそばで野良猫が事故死しました。 亡骸を回収して、ビニール袋に入れ段ボールで今は物置に安置してます。 回収したときはまだ暖かく、ビニール越しですが抱っこをしていました。 市役所に聞いたら、取りには来てくれるものの他の可燃ゴミと一緒に焼却になると言われました。 何処かに土葬してとか、色々考えましたが不法投棄になるなど弊害があり難しそうです。 結果、市役所にお願いをしました。 引き渡す時に段ボールにお花を入れるなど、なるべく出来る事はして送り出してあげようと考えております。 こんな形で亡くなったら野良猫は成仏出来るのでしょうか? 私に出来る事は他に何かあるのでしょうか? まとまりのない文章ですがご回答願います。
いつもお世話になっております。 死について、最近良く考えます。 中学の頃から病みやすかったのですが、最近は 死に方まで考えてしまいます。 なんだか近くに感じます。 何かあると深く考えすぎてしまうことが多くて、やめたいです。 そのような感情に飲み込まれてしまったとき、どうやって乗り越えればいいのでしょうか。 こんな私でも生きていてもいいんでしょうか。 こんな質問してすみません。
前回ご質問させて頂いた続きというか重なる部分があります。 22歳の誕生日前日母の自死。 母は直前あの夫婦(姉と姉の旦那)に言われた事が忘れられません死にます。と残していました。 母の死から1ヶ月経たず、母を死に追い詰めた姉が亡くなりました。 詳しいことは分かりませんが病死だとの事でした。 周りからは母が連れていったんだ、長女で初めて出来た子供だから大切で大好きだから連れていったんだと言われました。 そんな事を言われて悲しかった。 私もお母さんの娘。私を連れて行ってよ。私をママのそばにいさせてよと思いました。 本当に母が連れていったんでしょうか。 死んでしまいたい、消えてしまいたい。お母さんに会いたい。 毎日毎日死にたい消えたいママに会いたいそう思っていても、朝が来て夜が来る。 私には死ぬ勇気すらない。それなのに生きる力もない。 お母さんにあの時声をかけられなかった手を取ってあげられなかった温かい言葉で温かい存在で包み込むことが出来なかった。未だ後悔でいっぱいです。毎日母の分まで生きようと過ごしていますが、でもそれすらも疲れてしまった。 薄情で人としていけないけれど、正直姉が亡くなったと知った時悲しいという感情はうまれませんでした。もうこれから先姉に苦しめられる事はないんだとホッとしました。 でもそれと同時に、1度は目の前で母に手を合わさせたい、母にごめんねありがとうと伝えて欲しかった。 止められなかった自分も憎いけれど、それ以上に姉が憎い。償ってほしい。一生許せない。母が亡くなってそれだけの感情で過ごしていました。 そんな姉まで居なくなり気持ちのやり場がなくなった気がします。 毎日苦しくて辛くて死んでしまいたくなります。 姉ではなく私を連れていってくれたら良かったのにな。 どうしてよりによってあの人を…と思ってしまいます。 死ぬ勇気もない、生きる力も湧かない私はどうしたらいいんでしょうか。 簡単に死ねるのならいいのに、いざとなると怖くて出来ない。 母の死との向き合い方、大嫌いな憎い姉の死との向き合い方が分かりません。 父と話していた時ふと、父私妹3人でもう死んでしまおうかと思った事もあったと。 それを聞くと、母を守れなかった事で父の笑顔、生きる気力までも奪ってしまったとまた後悔に押しつぶされそうになります。 下手くそな文ですがどうかお願いします。
私の口癖は死にたい。です。 病んでいるからとかそうじゃないからとか関係なくよく言ってしまうのですが、 友達からはおかしいよ的な事を言われます。死にたいって皆思わないんですか??私は毎日思います。 死にたいってそんなマイナスな感情なんですか? 死にたいって言っちゃダメなんですか? 死にたいって悪いことなんですか? 約立たず、燃費悪い、飯食うだけ、汚すだけ、うんざりする子の家、人おらんかったらいいのに、役に立たんのー飯食うだけ、早く出ていきゃいいのに、役にも立たんのに、邪魔でしかない、お荷物お荷物、でていってくれ、どいつもこいつも馬鹿ばっか、ゴミにもならんわ、 死んで死ねしんでまえ、みんなおらんくなって欲しいわ、ほんま役にたたん、目の前におったら鬱陶しい、気い使えや、もっとペコペコしろこんなんじゃ生きていけるか、ふざけてるな、豚ども出ていけ、私に片付けさすんかよ、約立たずが、めんどくさいな家族がおるって、あーこいつら情けな、 人としてどうやねん、おるだけがいらん、汚らわしい、皆はよ出ていけ、約立たずはいらね、感謝しろよ、生きてる値打ちねえわ、やっぱり頭おかしいんちゃう、精神病ちゃう、普通じゃないわ、気持ち悪、帰ってくんなでていけ、どうせ飛び降りる勇気もないくせに、飛び降りろ、死ね、おるだけ、クズめ、人間失格、人としてどうや、大人気ない、女じゃない、中身がない、約立たず、自分に値打ちがあるのか、豚、でかい体、馬鹿じゃねーの、おるだけ、燃えてしまえ、出来損ない、おるだけクズ、憎まれ役、愛されないタイプの人間、気持ち悪、人を不幸にする天才や、わきまえろ、生きててダメな人、はよ死んでくれ、死んで、金出して苦労してこれかよ、おると最悪最悪じゃ最悪、値打ちがない、やっぱお前がおるって不快やな、はよ死んで死ね、ゴミがおるゴミが、ゴキブリ、とっとと死んでくれよ、ここは私らの家じゃ、社会のゴミが、 親から言われた一部の言葉です。前にリストカットで相談させて頂き、病院へ行くことにしましたが、心療内科精神科どこに相談すればいいのかわかりません。 電車に飛び込めたらどれだけ幸せか マンションから飛び降りれたらどれだけ幸せか 早く楽になりたいです でもこうやって相談できる場所があって良かった 幼少から過食気味な所もあるのでそこも治していきたいです
20年近く一緒に住んでいる高齢犬がいます。その子の死がとても怖いです。 目も耳も悪くなり、横になって寝ていることが多く、撫でてあげたりしていると、その子の死が怖くて涙が出ます。離れるのがとても辛いです。 私が若かった頃は、遊びに出ていくばかりでなかなかゆっくり可愛がることも出来ず、凶暴な犬のため、小型犬ですが手をあげることもよくありました。そのことをとても後悔しています。 なんであの時たくさん可愛がらなかったのか。たくさん動けなくなった今になって、たくさん撫でてあげてももう遅い。今まで夜遅くまで一人にしてたことも、手を出したことも、記憶力の良い愛犬は忘れてなんかないと思います。 まだ死んでもないのに、先のことを思うのはその子にも失礼なのに、いつかは離れてしまうことを考えると辛くて辛くてたまりません。その時は私も一緒にいなくなりたいと、本気で思います。幼少期から一緒にいた子が居なくなる恐怖と不安。生きる希望が無くなってしまいそうです。
私は今年で37歳になってまで、全くまともな人生を歩めなかったと思います… 小学生の頃、私は友達もできずに男子にいじめられて、勉強の成績もほぼ酷かったです… 中学生も酷い目に遭いました…男子は私を蹴ったり、汚い扱いされ、女子は3人組で「私たち、スリーピースだよねー♪」と言った後に、私を見てにらみつけて「何よワンピース!」 と嫌われていました…何もしていなくても、嫌われていました… そんな嫌われ者扱いされて辛い私は、唯一得意だったのと好きなことは、絵を描く事と生き物の事を知ることでした。 友達出来なかった私は、社会が底辺な私は漫画家になればいいかと思いながら、マンガ専攻の専門学校に通いました。 大学に行けなかったのは、私の学習能力が低いからと思って専門学校に逃げてしまいました…愚かすぎです… しかし、卒業後は過去の事で忘れられない人間不信になり、酷い心の人間嫌いと自分の自信の無さで正社員になる勇気はなく、学生の頃から全く働いたこともない私は、ろくでなしのニートになったり、数年やっっっと働けるようになったかと思ったら、コンビニ1年、100円ショップで9年だけのアルバイトがやっとでした… 現在の私は仕事の無いニート生活3年になろうとしています… 私はこれから何がしたいのかわからなくなり、仕事を探す気も行動も全くなくなり、残すところは死、犯罪、ホームレスの人生しかないと思ってしまいます… 今まで私が生きてきた人生は、本当に生き方を間違えてしまったんだと思っています… 自信があったら、行動力あったんだと思います。いじめられなかったら、成績もよかったんだと考えたりしてます。 小学生から明るく振舞って、勇気あったら、沢山いい思い出が出来ていたんだと毎日が後悔ばかりしています… 今行動に移したって、偉人からチャレンジすることは年など関係ないと言われても、結局は37歳の無駄に年を取った私は遅すぎたのです。 勇気のない臆病で、レール通りの正しい生き方をしなかった私は、このまま腐って死ぬだろうと考えてしまいます… 私って、本当に人生の失敗で不良品だなあと思っております…
初めて相談をさせていただきます。 表題の件、今までの自分にない考え方で、どう消化すべきか分からないので、考えとの付き合い方を教えていただきたいです。 ふと、死んでもいいなあと頭に浮かぶようになりました。嫌なことがあったわけではないのです。自死を選ぶというよりは、寝る前に明朝目覚めなければいいのに、と毎日考えるようになりました。 これまでは、自分が死ぬなんて考えられない、自分は老衰でしか死にたくない、自分にとって死ぬことは最大のネガティブという考えでした。 私は普段から楽天的で、物事をあまり深く考え込むことはせず、どちらかというとポジティブな発言が多い方だと思います。 ただ、30歳を目前にして自分の将来像が描けず、結婚したいができるのか、今のままの仕事でキャリアを築けるのか、自分は何がしたいのか…などと考え、一人で漠然とした不安に悩むこともあります。考えても仕方がないことなので、悩んでもその日のうちに区切りをつけて翌朝にはけろっとしていられるのですが、数週間後にまた同じ事を考える繰り返しです。 それでも、そこそこ順調な生活を送っており、やりたいこともたくさんあるし、そのための準備や勉強もしています。手探りですがよりよい将来の自分を目指して楽しく前向きに取り組んでいます。 そんな中で、今死んでもいいなあと思っているので、私にとってのポジティブとネガティブが同居している状態が、どうにも気持ちが悪いのです。 この2つの異なる考えとどう付き合うのが良いでしょうか? ご教示いただけますと幸いです。
こんにちは 何度か「死への恐怖」について質問させていただいてます。 あれから自分でも哲学書を読んだり宗教やオカルト、脳科学、神経科学などを調べてみましたが、自我や意識、記憶についてますますわからなくなって来ました。 死んで自我や意識が失われることが一番怖いです。 海外では死後蘇生のため遺体の冷凍保存や意識をネットワーク上にアップロードして不死を得るような試みがされています。 ただ、神経科学的には肉体と精神は不可分であり、死ねば意識が失われ、その意識自体も個体を生存させるための幻という説が出ています。 私はますます怖くなってしまいました。 「自分」というものを失いたくないです。日々変容していますが、確かにここに存在しているのです。死にたくない、滅びたくない、眠るのがこわい、と思ってしまいます。 病院で不安障害と診断されましたが、治ればそんなことを思わなくなるのでしょうか? 何度もしょうもない質問をしてしまってすみません。ただ、怖くて仕方がないのです。
どうも、いつもお世話になってます。 今回の相談には抽象的かつ偏見(偶然自分と似た境遇や地域で生まれ育った一部の方にしてみれば)と思われかねない表現が多く含まれますが、できるだけ素直な気持ちを書こうと思います。 自分は異性愛者ではなく、家庭環境も歪んでいて結婚願望は持たなく(持てなく)なりました。 しかし、前回やそれ以前の質問及びつぶやきに書いた通り、母親は父親に幾度となく裏切られながらも結局最期まで離れませんでしたし、弟も恋愛に貪欲で先々月大失恋して大騒ぎしたのにまた他の女性と親密になりつつある様です。母はともかく何故弟の近況を知ってるのかというと、先週知人から弟が前の彼女より若く見える女性と街を一緒に歩いてるのを目撃したと連絡があったからです。 いつどこで出会い、その女性とその後どうなったか今後どうしたいのかは定かではありませんが、最早何も言う気になれません。 自分の知る限り、周囲に二回以上結婚した人はいません。 年齢や子供の有無に関わらず、大抵は一度結婚や離婚を経験すると地元を離れ、新しくパートナーができるかやむを得ない事情(身内の不幸等)がない限り実家にも寄らなくなります。 自分の前の職場や母の友人の中にはいわゆる事実婚を選択する人もいましたが、諸々の事情とかで長く続きませんでしたし、どちらかが早く亡くなってしまう場合もありました。でも、入籍してないので気づかれない場合も少なくないです。 弟も含めそういう生き方をされてる人全員が悪いとは言いませんが、好きになった相手というか愛そのものに振り回される気持ちが全く理解できないです。 閉鎖的な地域で長年育ち、具体的に変化のない日常を打破するための手段の一つが結婚なのだとしても、生活に困らないだけの収入や恋愛を抜きにして育めるはずの人間関係を手にする幸せがそれを上回るなんて考えられません。 つまらない人とか頭でっかちだとからかわれた事もありました。 だけど、少なくとも両親が別れなかったのに今現在幸せを感じられない自分が存在するのは事実です。 自ら死を選んで転生し次の人生に期待する、そう願う事さえ許されないですか?
私は難病ですが幸いこれといった症状がありません。 だから、通院に行ったら数値が悪くで即入院なんてことがよくあります。 私は入院が嫌いです。前は点滴や安静が嫌だったけど、今は時間が有り余って嫌です。 時間があるとだいたい死ぬことを考えてしまいます。 病気が発覚しないでそのまま死んでいればこんな思いしなかったのに。 今、あれをすれば即死できるかな? 点滴引き抜いて出血しできるかも? 病院だし麻酔とかで死にたいな。 医者なんかいなければ死ねたのに。 薬を使ってまで生き延びる必要あるか? 死にたくなって、他のことは手に付きません。 どうしたら死にたくならないですか?
お忙しい中読んで頂いてありがとうございます。大変申し訳ございません。 私は、日々悲しみと苦しみに苛まれています。 毎日、死にたいと思い様々な自殺方法を調べていますが死なずに今日まで生きてきてしまいました。 仕事からも逃げてばかりです。 恵まれている筈なのに、私は逃げてばかりです。 両親にも何一つ親孝行出来ず申し訳ないです。 生きている価値がないです。 毎日希死念慮が頭から離れず生きているだけで苦しいです。 どうしたら楽になれるか分からないです。 常に自死する方法を調べています。 この苦しみから逃れる方法は死ぬしかないのでしょうか? 読んで頂きありがとうございました。 支離滅裂になりすみません。
両親の離婚後長年会っていなかった父が孤独死しました。 死後、親戚の方と改めて関わっていく中で 私の幼少期の写真を見て泣いていたこと、 保険金の受取を最初から私にしていたこと、 養育費を払ってくれていたこと、 自分が死んだ時に私に渡せるようにと貯金してくれていたことを知りました。 高校生の時に会いに行って不在で帰ってきて以来、私はコンタクトを取ろうともしなかったことを悔いています。 私はもう大人になり結婚し子どもも生まれたので、孫を見せてあげられたらよかったなとも思います。 離婚の理由は父親が原因だったのですが、そこも含めて赦し、仲良くなれていれば…。 父親に自分はもう忘れられていると思っていたので、 私のことを考えてくれていたことを知り 驚きと嬉しさと、会いにきてくれればよかったのにとも思いました。 訃報を聞いてから 父親の晩年は幸せだったのか 苦しくなかったか 亡くなってまだ四九日経っていないけど私を見てくれているのか とぐるぐると考えてしまいます。 (電気がチカチカするのを勝手に、父がいるのでは?と思い込んでいます) また死自体が怖いと思ったり 漠然といなくなってしまいたくなったりと 死について極端に考えてもしまいます。 家族が亡くなるのが初めてで 自分の気持ちの持って生き方、 父は死後どうなっているのかをお坊さん目線で分かることがあれば教えて欲しいです。 よろしくお願いいたします。
よく「死ぬこと以外はかすり傷だし、どんなに辛いことがあっても死ななければ大丈夫だ」ということを聞くのですが、それは本当なのでしょうか…。