独学で仏教を学んでます。 しかし、過去の名僧の書物を読むのでは、哲学で終わるような気がしてきました。 お寺にご縁はありません。 宗派には拘りませんが、じっくりお話しする中で、仏教を学びたいです。 例えば、禅で言えば、「実践徳目」と云われるように、実践が伴わなくては、仏教学で終わるので意味がないと理解してます。 問答と言うより、「分かったつもり」で「浅い」自分の仏道の妄想を叩き潰して、導いてくれるような方と出会えたらと思ってます。 どのようにしたら、良い師に会えるか、どのようにしてお願いするのか、全くわかりません。 アドバイス頂けましたら幸いです。
生まれも育ちも関西です。 法事でお供えをした物は 「おさがり」として皆さんに配るのが普通だと思っていたのですが、 そうではない地域もあると知って驚きました。 宗派の違いではなさそうですし、地域の違いなのでしょうか? おさがりとして配らないのなら、お供え物はどうなるのでしょうか? すごく気になります。
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
先日主人の母方の法事があり結婚後初めて出席しました。 主人からみて ひいお爺様のお父様、ひいお爺様、ひいお婆様の法事でした。 お経を読んでくださったお坊様は私の子どもたちに走り回ってても良いととても優しくしてくださいました。しかし、袈裟を着ず、お経を読み始めると中盤は、なむなむだ、なむなむだ、なむなむなむなむなむだと聞こえるような(発音はお経の読み方のように一字一句伸びのあるような)お経が続きました。お経が書かれた本のようなものを決まった間隔でめくっていたのですがペラペラと2ページめくることもありました。 親戚のおばあちゃん達はこんなお経聞いたことない、人を馬鹿にしてるのかと言ってる人もいました。 いろいろな宗派があり、お経もそれぞれだとは思いますが、上記のようなお経はきちんとした読み方なのでしょうか?それとも適当に読まれたのでしょうか?
失礼な質問ですが、ご意見をお願いいたします。 現役世代の配偶者が亡くなり、現在遺骨等を後飾り祭壇に安置しております。コロナ禍のため、葬儀に参列できなかった方もおり、また、納骨もすぐには行わず、自宅での供養を考えています。 仏壇の購入を考えていますが、ご本尊をお迎えするのが難しい状況です。 元々の家の宗派、寺がありますが、祖母祖父の代に家庭を顧みず熱心に信仰したため、父及び父の兄弟は葬儀、墓の管理のみのお付き合いとし、祖母祖父の持っていた仏壇を処分した経緯があります。 他家に嫁いだ父の妹が信仰を続け、法要の手配等を行ってくれています。 自宅に仏壇を購入するにあたり、本来、宗派のご本尊をお迎えすべきなのですが、父の気持ちを考えるとできません。 お迎えするご本尊とのご縁ができるまでご本尊なしとなりますが、これはやるべき、あるいはやってはいけないという気を付けるべきことはありますでしょうか。 無宗教、無宗派のお祀りの仕方を調べてみても、自由度が高く、ピンと来ません。 いつになるかわかりませんが、ご本尊さまをお迎え予定として、ご回答をお願いいたします。
今日、長男が生まれました。 今の所、母子共に元気で、目に見える障害等は無いとの事ですが やはり親と言う生き物のサガで、様々の不安は尽きません。 とにかく心身ともに健康に育ってくれるよう、 また万が一の時は私達が強い心を持ち、全力で慈しみ守りぬく事が できるよう、仏様や観音様に祈るばかりです。 私は、仏教は生きている人がより良く生きる為の 知恵でもあると認識してるのですが、 (間違っていたらゴメンナサイ・・ですが) 実際、仏教では生まれた赤ん坊にどのような形で 祝福を授けるのでしょうか? 具体的な言葉(経文、ダラニ等)や祈祷等があるのでしょうか? それとも、祝福なんて概念がもともと仏教のものではなかったり するんですか? 宗派宗旨により様々な形があるのであれば、 色々なご意見をお聞かせ頂きたく存じます。
(編集部より。こちらの質問は利用規約により一部を変更しています) お世話になります。 母方の祖父のことですが、先日久しぶりに墓参りに行ったところ霊園の方から墓を建てた叔父と連絡が取れなくなったと知らされました。 母の兄弟は1男5女(長姉は夭逝)ですが、実家の跡取りの叔父と4姉妹とは不仲で疎遠にしていたため、私は母の実家のお寺や宗派についての知識はありません。母以外の姉妹3人はすでに亡くなり、母も認知症で実家のお寺についての情報は得られませんでした。 祖父母と母の長姉の戒名はそれぞれ「〇〇信士」「〇信女」「〇〇信女」で、霊園の方の想像では真言宗か浄土宗ではないかとのことでした。 祖父は、今の南あわじ市から大阪に出てきて当初は西成区に住んでおり、その後転居しています。 これくらいの情報から、お寺か宗派を特定する方法はないでしょうか? 祖父は昭和61年に亡くなっていて来年三十三回忌ですし、このまま叔父の行方が分からないままだと墓を仕舞うことになるかと思います。 宗派が分からないからと放置するわけにもいかず、質問させてもらいました。よろしくお願いいたします。
素人の私ですが、仏教を学んでみたいと思っております。 何か参考になる書籍やサイト等がごさいましたらご教授いただけませんか? 因みに私の家は浄土真宗です。 日常生活の中に仏教の考えって沢山あるように思えるのです。 よろしくお願い致します。
輪廻転生の事を考えると胸が痛くなります。何故仏教は命を一回限りとしないのでしょうか。 もちろん今ある生も今生限りのものですから人生が一回限りであることには変わりありません。 ただ殉教、殉死、心中等を遂げた歴史上の偉人の前世や来世が全く下らない物だったかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになります。 自分の運命や人生を全面的に肯定して死に切ったとしても、過去世や来世の全く違う人生によって矛盾をきたしたものになるとしたらどうでしょうか。 「七度生まれ変わって朝敵どもを皆殺にしたい」と言って自決した楠木正成が果たして貧民街の子供に生まれ変わる事は無いと誰が言えましょう。 彼は生まれ変わりを願いましたが、あくまで自分の人生を貫き通す意思であり、運命愛に過ぎません。 生涯不犯を誓って異国で命を落とした宣教師達の前世がどこかの売春婦であると考えただけで吐きそうになります。 もしそれで良いのならこの世での清貧、忠義や誠意も全く無意味なものとなりますから。 ただ輪廻思想が広大無辺な仏教の歴史の中で偉大な説法者達に受け継がれてきたものである事は否定できませんし、 私は至らぬ凡夫ゆえ仏教の各宗派の前提とする輪廻の教義まで仔細には存じ上げません。 仏教では、特に自性を認めない中観派では何が輪廻するとされているのでしょうか? 水車を廻す水や携帯を動かす電気のように、「私」ではない、「私」の生み出す執着そのものが輪廻するのでしょうか? 執着が輪廻するのであれば悟りを得た=執着を滅した釈迦が解脱に入られたと解釈できるように思えますが。
先日、母の一周忌でお坊さんを派遣して頂きました。初めてお会いする方です。 その方に、お仏壇について色々お教え頂きました。中に入れてはいけないもの、必要なもの。ありがたいこととは思いますが、親の宗派で私自身は特に信仰しているわけではなくなく、全てを揃えなければいけないのか?と疑問に思いました。また、母の好きなもの、生前大切にしていたものを置いておいたのですが、それもいけないと言われてしまい悲しくなりました。もちろん、決まり事はあるでしょうが。 お仏壇は、きちんと決まりを守らなければいけないものでしょうか。マンション住まいで立派なものは用意できませんし、私たちにとっては精一杯の母への供養のつもりで用意したものなのですが。 また、私と兄、2人だけの参列だったのですが。「そもそも、法要は親しいものが集って行うもの。集って行わなければ意味がない」というような趣旨のお話をされました。私たちは親戚が遠方にしかおらず、年老いた親戚を呼び寄せることも出来ません。 少ない人数では、法要は行っては意味がないのでしょうか。 母のために、一通り供養をしたいという想いでお坊さんをお呼びしましたが、とっても悲しくなってしまいました。 もう、お坊さんを今後お呼びしたいとも思わなくなりました。 もちろん、そのお坊さんは悪気があって仰ったことではないとわかっていますが。 他のお坊さんは、このようなこのお坊さんの言葉をどう思われますでしょうか? 教えて頂きたいです。
初めて利用させて頂きます。どうしても、自分や周りに問うても納得できる答えが出ませんでしたので、お伺いを立てさせて頂きます。 自分が子供の頃拾った猫が、3日前に15年の生涯を閉じました。 亡くなる半日前から痙攣をし始め、痙攣と痙攣の感覚が短くなっていき、大変苦しそうで辛そうで、それを抱きながら見ていることしか出来ないことに大きな無力感を感じていました。晩年は抱かれるのが好きな猫だったので、その日は一日中ずっと抱いておりましたが、そのまま拾った私の腕の中で息絶えました。 家族を含め、周りの人たちは「あんたの腕に抱かれて幸せに逝けたよ」と言います。 ですがそれらのことについて、自分はまだ受けいれられません。 本当に、彼は幸せだったでしょうか?彼は苦しかったでしょうか?私に抱かれるよりもっと居心地のいい場所でひっそりと死にたかったでしょうか? なにか心残りはあったでしょうか?私の心からの愛は伝わっていたでしょうか?死の間際、怖がっていたでしょうか?まだ何か、彼のために出来ることがあったのではないでしょうか? そして何よりも、死後の世界はあるのでしょうか? 今まで、自分のことを無宗教、無神論者だと思っていましたが、いま、死後の世界があることを願ってやみません。 彼の時間は16日の午後10時にとまってしまいました。もう二度と、彼となにも共有できない。 できることなら、時間を征服して、また彼に会いにいきたい。 心から愛していたのに、辛すぎます。家の中には隅から隅までたくさんの思い出があるのに、彼の姿だけがありません。知らない家みたいです。 死んだらどうなるのでしょうか。気休めはいりません。 悲しくて苦しくて涙が止まりません。どうか助けて下さい。お願いします。
私はゲームなり本なり創作なりでお寺で働いているキャラクターをよく見ます。 私も創作物を書くのですが、お寺についていくつか疑問が湧いたのでお答え頂ければ幸いです。 1、お坊さんが世襲制だという話 親がお坊さんなので自分もお坊さんになる。というのはお寺では多い事なのでしょうか。 また、そのような家系にお産まれになった女性の方に、巫女になるという選択肢はあるのでしょうか。 2、お札について 初詣などでお札を頂く機会があります。 この「お札」というのを作るのに適切な時期のようなものはありますか?(例えば、仏滅を避ける……等) また、お札を作成される方はお坊さんだけなのでしょうか。
こん○○は。私の友人の僧侶のお話です。 とあるお寺に新卒で入社しました(修行僧として宗派の定める最低限の修行を終えてから。)求人票には大卒正社員僧侶18万円〜と書いてあったそうです(私も実際に確認しました。)が、実際にそのお寺で職員として勤めだしたら、はじめの半年間10万円、雇用保険、労災等にも入れない、給料は封筒に入れて現金だけ手渡しで給与明細すら出さないという実態、さらに友人が言うには事情でどうしても休まなければいけない時があったというので、住職に相談して休みのことを言うと(友人の説明には親戚が亡くなったとのことでした)そこで休む分を次の休み働いて振替しなさいとのこと… 雇用契約書もない、このような酷い労働条件、法律すら守れない方がお坊さんと言えるのでしょうか?数年前某有名寺院がブラック企業ランキングに入っていたり、暴力事件で話題になったりしていましたが、このような実態に対して、皆様のご意見が知りたいです。困った人を助けるのがお坊さんのお仕事なのに、これでは困った人は余計困ったままです。友人曰く、若いものはうちにいるだけで勉強になるのだから、金なんていらない。と住職の方に言われたとのこと。人がいないから求人票を出しているのに本末転倒だとおもいます。 このような人を僧侶として認めてしまっていいのでしょうか? お坊さんという人々を見る、世間の目と私の目が変わってしまいそうで怖いです。
初めまして。どうしても自分の体質について教えて頂きたく書かせて頂きました。 私自身霊感体質ではありませんが、小さい時から神様とご先祖様は大事にしなさい。と家族に言われて来たので実家に居る時は神棚と仏壇に手を合わせる事が日課にしております。 相談と言うのは、身内が亡くなる前日に必ずと言って良い程、自分の側からお線香の匂いを感じます。 お線香の匂いを感じた翌日には必ずと言って良い程親族が亡くなったと言う連絡が入ります。 お線香の匂い他にも、家の中を人の歩く音が聞こえたりと・・・。今は親戚の空き家を借りて一人暮らししているので、足音は流石に怖いです。 突然お線香の匂い感じ母に誰か死ぬかも。と話すと縁起が悪い。と言われますが翌日に親戚から○○が亡くなった。と連絡が入るので最近では母も貴方に教えに来たのかもね。と言う様になりました。 最初の頃は母にも不気味がられましたが・・・。 私自身何故こんな風に感じるのか解りません。どうしたら良いのでしょうか?
身体の痛み、不調がある知り合いがいます。 病気を治してほしいとはいいませんが、その方が自分のやりたいことを十分できるように、お寺での祈願をしたいと思っています。 その方はお坊さんなのですが、他の宗派のお寺で祈願されたり、そもそも自分が祈願の対象となることは、不愉快なものなのでしょうか。
こんばんは。 突然ですが、至急御回答を頂きたいです。 先日、祖父が白血病で入院し、一週間もつかわからない、とお医者さんに言われたそうです。 私は子どもなので何もすることができず、お見舞いに行ったり、母の代わりに家事をやることしかできません。 なので、お守りを作って祖父に渡そうと思い、その中に手紙とお経を入れたいと思いました。 ですが、お経に触れたことがなく、何もわからないので、もし病気が治るような意味のお経がありましたら原文と意味を添えて御回答頂きたいです。 どうぞよろしくお願い致します。
長文失礼致します。 ここ1~2ヶ月の間、あることを切っ掛けに特定の宗派のお寺に伺うことが増えました。 その中で、あるお寺のお弟子さんとお話しさせていただいた時に「お坊さんにならないのか」と問われ、その事についてモヤモヤとしています。 何故言われたのかはなんとなく理解できています。 それというのも、縁があり菩提寺とは別の宗派のお坊さんと知り合いになり、そのお坊さんに娘のように可愛がっていただいていました。 そのお坊さんに本当に色々なことを経験させていただき、そのお坊さんがいなければ今の自分は居ないと思うほどです。 亡くなってしまったため今は直接会う事は叶いませんが不思議と淋しいという感情はありません。 このようなことをお弟子さんにお話ししたところ上記のような発言となったのです。 恐らく「経験」の内容が水行等、修行に関することが多かったからなのでしょう。 さらには「そのお坊さんは貴女をお坊さんにしようとしていたのでは」ともお弟子さんに言われました。 しかし上述のとおり、懇意にしていたお坊さんは亡くなってしまったため真相はわかりません。 でもなんとなく私に色々な経験をさせてくれたのは自分で自分を守るためなのではないかと思っています。 いずれにしろ真相は分からないのですが… ここまでであれば私の性格上「こんなこと言われたな」程度で終わるのですが 先に書いたとおり特定の宗派(懇意にしていたお坊さんと同じ宗派)のお寺に伺う機会が増えたと同時に そのそれぞれのお寺でお経が始まる確率がすごく多く 必ずと言って良いほど伺ったお寺でお経を耳にするようになりました。 ちょうど御開帳が始まったり、こんなタイミングあるのか?と不思議に思うほどです。 そして何故かずっと開経偈が頭から離れないのです。 特に今の生活を変えたいとか思ったことはありません。 ただお坊さんになりたくないとも思いません。 行く先にその選択肢があるのなら選ぶ確率はゼロではないと思います。 最後になりましたが ・お坊さんにならないのか聞かれたこと ・お経を耳にすることが急激に増えたこと ・開経偈が頭から離れないこと これらの事は何かを意味しているのでしょうか。 またこれらのことから今私自身がすべき事はなにかありますか。 ご教授いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
はじめまして 昔ある霊能者から三代前の先祖が私にお墓の管理と言っても、掃除くらいのものですがを訴えていると言われ、その場所も指摘され、その場所に行くとその私の先祖のお墓50台ほどの分がありました 今から15年ほど前のことで、しばらくは年に数回お墓の掃除やお花線香などを変えたりしていました しかし途中からお墓の掃除と言っても山道で何回も往復しなければいけないため大変しんどく私自身もその間に病気になり、ずっと掃除もしていませんでした 最近お墓の事が気になり霊能者の方などに相談したらそんな墓は無視しろとか先祖の霊を引き離す処置をしたとかそんなです 本来その墓を管理しなくてはいけない人間は、その量を放置しないがしろにし、そのために私が呼ばれたと霊能者がいいました その管理者は既に死んで、その息子もろくな死に方を失いで死にました 永代供養というのが一番でしょうが50ほどのお墓の永代供養のお金などありません せめて私が生きている間だけは、また掃除とか出来る限りしたいと思っていますが 私は現在独り身であるため、私が死んだらそれで終わりです だから私が死ぬ前にその分をどうにかするか別の人間が現れるかとにかく生きている人間が管理できるのは今は私しかいません 私は曹洞宗の檀家ですが その分は私の祖先と言ってもいとこに当たり 曹洞宗とは関係ありません 色んな宗派のお坊様にお聞きしたいのです このお墓、どうしたらよろしいでしょうか お坊様の立場から教えてください
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
まず素朴な疑問のうえ、お坊さんの限りある時間と質問を増やしてしまい頭が下がります。 死後の行き先は生前の「行い」によって左右されるというのは勿論ですが、 こちらのサイトでもいろいろ知恵を授かっている内に、 死後の「裁判」は良い悪いの数直線上では計れないところもあると感じています。 たとえば、ある人は日本に住んでいて、 まったく仏教に触れていなかったとしたら? ある人は仏教に触れて、 仏教の「表面上の」知識は身に付けて、 それでもなお多かれ少なかれの悪い行いをして… 後者は私ですが、少なくとも「知っていて尚悪いことをする」のと、 知らずに悪いことをしたのとは、やはり裁判の天秤の重さに違いがあるのでは?と思いました。 「弥勒菩薩は兜率天に住み…」 「虚言はいけない」 「丸々寺は誰々により開かれ」 「般若心経」 「お寺や神社の真ん中を歩いちゃ駄目。」 「蚊を殺しただけで地獄」 「獄卒が火であぶる。」 私はこのような「情報」を得て、我を顧みることもなく過ごしています。 ただ蚊は殺めません。 仏教で守るべき掟も、出家された方にとっては、いままでとはより厳しくなると思います。 まず、 出家された僧たちにある戒律は、破ったときにのちの自分に降りかかるのでしょうか? それとも守ることで人のため、世界が良くなるべきの「願い」の要素がありますか? また、「在家」まではいかないが仏教を信仰する私として、 表面上の仏教を(インターネットで閲覧できる限りの知識を)覚えるごとに 死後の裁判の「ものさし」が厳しくなるということはあるのでしょうか。 おなじく、お坊さんとも一般人とも、仏教の知識が死後の「ハンデ」とはならないでしょうか?