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不勉強ですが質問させてもらいます。 悟りとは執着をすてた状態や迷いがなくなることだと記憶しています。 明恵の油断というお話を目にして思ったのですが、目の前の光景に目を奪われ美しいと思うことも悟りの退転につながるのでしょうか。 美しいや美しいなどのプラスの感情はダメで まずいやブサイクなども度がいくほど思えば退転につながりますか? そうだとすれば無意識の状態は悟りにかなり近いと思うのですがどうなのでしょう。 回答よろしくお願いします
死者は葬式でお坊さんによって、成仏しますよね?所謂、死んで仏になる、解脱するんですよね? それと、 お坊さんが悟りを開いて輪廻転生を解脱する。 この違いはなんでしょうか? 葬式による、成仏では、輪廻転生は解脱出来ないのでしょうか?
私は仏道の修行をしたことも特別に勉強をしたこともありません。ただ30歳手前でキャリアや人間関係の変化などがあり、ここ5年程は本を読んだり、友人らと議論や相談を繰り返すなど深く悩み続ける日々を過ごしてきました。気持ちはずっと泥中にあったと思います。 それが大体4か月程前に何の出来事もなく突然に終わりました。門が開きっぱなしになったというか、気持ちが重くなりグラグラしなくなったというか。感覚としては一人でお酒を飲んでいる際に時折なっていた、あるいはカフェインの取り過ぎで若干ハイになってしまった状態のような、そんな感覚がずっと持続しています。悩みや問題はそのままなのですが、頭を逐一抱えなくなり、恐怖や執着がほぼ抑制されています。 それが悟りを開いたということなのかは分かりませんし、どうでもよいと考えています。今の開きっぱなしの状態は気分が良い。 如実に普段の態度や会話に変化が出ました。ざっくり言えば喜怒哀楽の起伏が緩やかになったのと、あまり動じなくなったので物事に対する反応が鈍くなった。人付き合いの回数も若干減りました。このことに関しても、私は特に思うところはありません。 さて、家族にきちんと説明ができていません。先日、妻から(かなり要約していますが)「変わった」「不安だ」というような話をされました。コロナによる職場の変化に加えて妊娠中ということもあり、余計な負担をかけてしまったと思っています。普段会わない父と母、弟もLINEでのやり取りから感じるところがあったようで色々と聞かれています。 ようやく本題なのですが、家族にどうやって上記のことを伝えれば良いでしょうか?いきなり「急に悟りを開いたんだ」と言っても、理解してくれないどころか気が違ったと思われるでしょう。元より修行も何もしていないですし、悟りなどではない可能性のほうが高い。ついでに言えば悟りが何か私はちゃんと説明ができない。 では上記のことをこと細かく説明するかというと、フワフワした内容ですしそれはそれで理解し難いし、家族の不安が増すような気がしています。 そもそも私はこういうことは人に言うべきではないと思っていますし、答えを急ぐ必要もないと考えているのですが、せめて妻には何かしらの説明をしたいと思っています。 宜しくお願いします。
こんにちは。 色々と、仏教を学ばさせて頂いています。 ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。 自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。 しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか? テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。 児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。 災害で一夜にして家族全員を失った者。 世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。 もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。 Happyな事は、滅多にニュースになりません。 悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを 居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。 私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。 人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。 仏教者失格だな、と自分で思います。 悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか? 悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか? 抽象的な質問ですいません。
hasunohaでの問答で盗賊、奴隷少女、瀕死の老人などが釈尊の詩を一節聞いたくらいでワンサカ悟った。 らしいですが、釈尊の周りにいた修行者は(無知なので詳しくないですが、釈尊が住んでいた僧院?にいた修行者)みな悟った方々ばかりだったのでしょうか。
仏教には「一切智」という言葉があるそうですね。下記の資料で知りました。 2021-01-12 一切智とは三明のこと 仏陀は、6年間にわたる苦行(断食行と止息行からなる)は、何ももたらさないと考え、スジャーターからもらった乳粥を食べ、瞑想に入ります。 そこで、四禅を行じ、三明を得ます。 この三明こそ、仏陀の悟りを解き明かすものです。 仏陀が言う一切智とは三明のことです。 三明とは、宿住智、天眼智、漏尽智のことです。 【宿住智】についての記述 わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。 すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。 そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。 このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。 (後略) この桁外れの記憶力は神通力に依るものではないでしょうか?「欲するままに思い出すことが出来る」とは単なる記憶ではなく神通力を発揮したときそれが可能になると考えられます。 更に濾尽智ではより深い瞑想にふけり、宿住智以上の神通力を深め、それよりはるかに遡って物質誕生以前の宇宙まで見通して得た、実体がない「空性」を発見したのです。 駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生は著書「釈尊の生涯」で次のように語られています。「後夜には、世界人生の真理に関する智慧としての濾尽智通(濾尽明)を得たとせられる」と表現されましたが、「世界」は多分「諸法」の翻訳と思われますのでこれを「宇宙」と翻訳されていたら「世界人生」が「宇宙人生」即ち「宇宙生成に関する智慧としての濾尽智通」となり、世間の注目を浴びて早い段階で「空性」とは何かが明確になったと思います。
ブッダの言うように、 私たちの命は因果の一部を勝手に切り取ったものでしかないとしたら、確かに死の恐怖はなくなります。 ただ、それは同時に、生きることと死ぬことの境界線をなくすことになる気がします。 道元の言う「空」も私たちが「波」ではなく「海」そのものだと気づくことなのだとしたら、それは「全体に溶け込む」ことである「死」と何が違うのでしょうか? よろしくお願い致します。
悟りを得るのに最低限知っておかねばならない知識を教えてください。 仏教には膨大な教えや経典がありますが、私は仏教学者になりたいわけではないので、悟りを得るために最低限必要な知識を教えてください。 例えば、カップラーメンを食べるにはお湯を注いで指定された時間待てばいいということだけ知っていれば十分で、お湯がなぜ沸騰するのかといった物理的な知識やどういう製造工程でカップラーメンができるかといった知識は不要です。 なので悟りを得るに最低限知っておかなければならない知識を教えてください。 この経典だ!とか三法印を知っておかなければならない!とか具体的なことを教えてください。
中論では「四不生」として物事のあらゆる原因が否定されています。 この部分を読んでいつも不安に思うのは、一歩読み違えるとトンでもない意味になるかもしれないという事です。 人が他人に優しくしたり善行を積もうとするのは、自分が既に他人によって恩をを受けているとして感謝し、その恩を返そうとする恩義の心によって成り立っているからだと思います。 まず自分という肉体は両親によって与えられ、知識や教養は先生によって叩き込まれます。当たり前の事ですが、自分という存在は他者によって成り立つものですよね。 しかし中論では 「もろもろの「存在」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。」 とします。 要するに他人から恩を受けたとしても、「これは貴方が原因で生じた訳ではない」とか、 自分が他人を殺したとしても、「その人の死は私が原因によって生じた訳ではない」と詭弁を弄する事も可能ではないのでしょうか? (私はそうは思いません) 自分が明らかに中論のこの説を読み違えている事は分かっているのですが、どこを読み間違えているのかが未だに分かりません・・・。 何卒よろしく御願い致します。
本当に悟っているという状態はどのようなものなのでしょうか? 最近亡くなっている方の声がわかったり、その方の前世がわかったりすることがあります。 そして自分の前世もわかったりするのですが、その中にお釈迦様という人がいるそうなのです。 その方が言うには、このように前世や亡くなった方の声が聞こえることを悟りと言うらしく。 お坊さんは亡くなった方の言葉を伝えるためにお葬式をしているのでしょうか? 残念ながら僕は今までそういうお坊さんと出会った事がありません。 成仏していないのに葬式が終わったり、成仏しているのに何度も法事をしたり、それは何の意味があるのか僕には理解出来ません。 この声が聞こえるというのは僕の想像が作り出しているのでしょうか? それとも本当の声なのでしょうか? 悟りの状態がわかるお坊さんは今日本にいますか? 是非お話ししてみたいのでご紹介下さい。
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
1. 解脱=悟り=涅槃ですか? 2. 解脱とは実際にあることですか?なにか架空のことではないですか? 解脱がなにかわかっているわけでもなく、質問しています。 インターネットや本で調べたほうがよい内容ですが、よくわかりませんでした。
どうすれば心は静寂に平安になるのでしょうか お考え聞かせてください。 あともう一つ。 悟りとはどうゆうことですか 具体的に教えて頂けましたら、幸いです。 宜しくお願いいたします。
世界の裏側ではいつも悲惨な戦争が起きてます もしもお坊様が目の前で愛する人が殺されてもそれは執着、煩悩、雑念と切り捨て 悟りを開く無の境地になれますか?
初めて投稿します。 「悟り」に関する質問です。 「悟った人」というのはいないと解釈しています。 何故ならそこに個人的なこととして捉える「個人」の消滅だと認識しているからです。 だとしたら、何故仏教の教え、というものが存在するのでしょうか? そもそも救われていない個人はいないし、救いが必要な人も、仏陀からしてみたら見えていないと思うんです。個人的な自由意志と選択があるのは幻想の中だけで。 お弟子さんが広めたんでしょうか? その教えには、個人の自由意志と選択の余地があることを説かれているのでしょうか? ほとんど知識がなく申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。
お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください 仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし 釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか? 生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか? 自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか 釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし 出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね 色すなわち空のように 言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理 でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね まるで色すなわち空のように そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで 究極の悟りなんかないのかと思って もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして
質問失礼いたします。 行く先先で虐待、人間関係、ブラック企業と色々ご縁が続く私でございます。 代わらず嫌な出来事は多く目の前にあり、 夕飯の支度をしながら 疲れたな、死んでやろうか。 などと思うこともありますが、 まあそれも無駄だな、と思いながらなんとかストレス回避をしながら楽しみをみつけて毎日過ごしています。 過去のトラウマはだいぶ歳のせいか痛みを覚えてくる事は減り、まるで他人の事のようになってはいますが、周りを助ける経験や知識として生かす事が出来るようになってきています。 そんな最近の趣味が、 人と議論することや、 思考実験的な小説を書く事なのですが、 仏門を題材に小説を書きたく思い、 悟りと諦め、 または悟りとは何なのか、が気になっているのですが、説法頂くことは可能でしょうか? 仏門が目指すところは、 楽しく生きて死ぬための基本的な知恵だと思っています。 本を読んだりしてはいるのですが、 お恥ずかしながら、今回書こうとしているのは家が寺の為そのまま住職を引き継ぎ、 まだ自分の目指すものの先が見えず悟りとは何かと悩むおそらく浄土真宗の僧侶の話です。 (浄土で救われるなら、生きて頑張る必要はないのでは?ととんだ浅はかな考えを持っている、若い住職です。) 寺を訪れにくる人たちの過去の虐待経験や家庭の問題を受け身で聴き、俗世を憂う話です。 お坊様達は、痛みだらけの世の中をどうかんがえていますか? 痛みばかりでも、人生捨てたもんじゃない、と思いますか? できれば、このような経験を自分がした事がある、というお坊様のお話もきければと思います。 過去の事は過去、自分も他人も許し前を向く、というようなことをしてみても、やはり古傷はいたいです。 悩みではなく質問になってしまい申し訳ありません。 宜しくお願い致します。
仏教は、悟りや解脱や涅槃に至る為のツールです。 哲学が好きな私は客観的に考えを深める事が好きで、苦しみの原因を抽象的に考えて気づきを得ようと問答でも具体性というより根源的な答えを求めておりました。 しかし私の書き方は、何故か肯定的に捉えられません。 皆さんは私を精神疾患だからとスティグマを貼るのはわかります。また疾患に対してのスティグマがあるように思えます、私は寛解しておりますし、発達障害での通院であり特別大きな"何か"があるわけではありません、また今苦しんでる発達障害は疾患ではなく障害です。必死に真面目に生きております。 私はとても不幸や苦しみに悩まされており、それをきちんと言語化して対処し、アドバイスをこなし哲学的に考え努力し改善し感謝して実践しています。 しかしとんでもなく不幸なのです。捉え方ではもはや気休めにもなりません。何度も書いてますが親を目の前で殺されて全身火傷に塩を塗られて捉え方を変えるなど無意味なのです。 誰からも理解されません。社会や医師や家族や友人、知人、異性、職場、ソーシャルワーカー、そして仏教。。。 運命というか世界は私に拷問をしているようです。遺伝子配列に始まり、私の人生の全ては拷問のようです。 私を唯一理解してくれ救ってくれるのは、私と同じような発達障害や生きづらさで人生苦しんだエジソンやゴッホなどの偉人の生き様や思考だけです。 私には救いはないのでしょうか。 まだ救いが来るのは早いと此方のサイトで言われてもう数年経ちます、結局私は人に感謝をしてその感謝にゲロを吐かれるような人生です。 "ジョーカー"という映画が今、流行っていますが私はあれより酷いかもしれません、他者に施した優しさや感謝が純粋な悪に変わっても何ら違和感がありません。 ニーチェの永劫回帰ってありますよね、まさに私の人生はアレです。人生めちゃくちゃで苦しんでも毎日雨ニモ負ケズの精神で毎日毎日偽の希望を持って折れずに笑って生きて、アホらしくなります。 色んなことを試して毎日毎日苦しい気持ちを押し殺して毎日毎日毎日ずーっと苦しんで、いつ私に救いが来るのでしょうか? もしこのまま私が死んだら何だったのでしょうか? この苦しみなんだったのでしょうか? 救いってやはりないのでしょう? 生まれて毎日毎日虐待されて死んだ人とか救われたのでしょうか?
質問1 思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか? 質問2 禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか? 御回答よろしくお願いします。