元妻と離婚して6年半になります。結婚を決めたのは、キリスト教の導き、を信じたからでした。勿論彼女が立派な人だと言う前提があったからこそですが、、人の出会いは導き、と信じ込んでしまい、彼女が私の結婚相手として、神が私の前に遣わされた人という様に信じてしまいました。でも本当に不幸な事に彼女は私のタイプの方では無かった。結婚時に、宗教の世界から現実に立ち返り深く後悔しましたが、どうにも出来ず。一年程結婚生活をしましたが、苦しさが募りました。自分を偽っていたからです。彼女に別れを切り出しましたが、号泣されて私の胸は引き裂かれました。別れたくないという彼女を心を鬼にして吹っ切ったのですが、、彼女の愛情を裏切り、背を向けて、深く傷付けた事が本当に辛いです。こんなに深く人を傷付けた事はありません。悔いていますが彼女が癒される訳でもなく、私の苦しみが軽くなる訳でもなく、、苦しいです。神の導きによって、この様な事が起きている、と考える事も辛さに拍車をかけていると思います。神も信じられなくなってしまいました涙。 どうしたらいいのかなぁ、、疲れました、よろしくお願いします。
私は人の価値観や思想、行動に大きな影響を与える「宗教」に興味があり、その中でも仏教の思想が好きなので今まで仏さまを信仰してきました。 しかし、さまざまな意見を見聞きし、調べる中で、どの宗教も一長一短で私にとって良いなぁと思う面もあれば、あんまりだなぁと思う面もあります。そして、仏教にも少し不信感が芽生える時があり、悩んでいます。カルトや新興宗教のようなものは一旦おいておいて仏教について考えたとき、原始仏教は哲学のようですが、現在の仏教は極楽浄土や阿弥陀如来など空想上のものに頼りすぎている気がします。もちろんそれによって私も救われた時がありますし、救われる人も多いのだと思いますがどうしても信じきれません。 キリスト教においても私はイエスの存在を信じきることができずに合わないなぁと感じました。私に仏教は合わない宗教なのでしょうか。また、お坊さん方から見た仏教の良さを教えてください。
身内を2人、自死でなくしています。 私のせいだと思います。 キリスト教で言う、懺悔がしたいのです。 個人的な面会は出来るのでしょうか。
なにかありましたら、教えてください。 キリスト教は 教会で聖書を学び理解することはできますが、仏教は、なかなか敷居が高いのと、時間があわないため。 また時間があい、参加しようとしたところは、新興宗教でした。
私はキリスト教には詳しく、「イエス様を信じないと地獄に堕ちる」と言う教えがキリスト教にはあるようです。仏教にも、「仏陀を信じないと地獄に堕ちる」というような教えはありますか?
キリスト教を、信仰してます。 12才の、時から孤独で、親にもあきらめられ、 酒と堕落の日々を、送って参りました。 22才ごろの時に、転機があり、山に籠り、神仏に、祈り始めました。 その後、数奇な、運命をたどりました。 仏教に興味があります。ハスノハ様の、お坊様には、アドバイスを、沢山頂きました。 悟りとは、なんですか? 真言、カルマ、神仏と言うもの、なんとなく、解ります。 キリスト教は祈りによって、解決します。 仏教が、あらゆる全ての、解らないもの、についての、答えがあるのでしょうか? 私は今公的扶助の、恩恵に預かってます。 仏教の、軽い本を、読みましたが、当たり前のことを当たり前にする事、が、一番納得できました。 放送大学を始めようと思います。仏教についてより良く、学ぶことは出来るのでしょうか? ご助言をおまちします。
生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。 大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。 キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。 そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。 私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。 伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。
浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。
小さな頃からお仏壇に手を合わせる習慣はありました 祖父母の家には毎月お坊さんが来てくれていました しかし私はカトリックの幼稚園出身です 幼稚園ではイエス様マリア様にお祈りしてきました 月日が経ち祖父は亡くなりました 母は以前はお仏壇に手を合わせていたのですがいつからか熱心なキリスト教徒になり祖父のお仏壇にも見向きもしません 弟も別の新興宗教にのめり込んでいます 祖母はいつもそのことを嘆いていました 私は小さな頃から仏教に対してもキリスト教に対しても 何も疑問に思わずどちらも正しいものだとどっち付かずな生活を送ってきたと思います その罰なのでしょうか 重度障害児が生まれました 言葉も持ちません意思疏通は不可能です 暴れることしかできず世の中から切り取られたような生活をしています 私はどうすべきですか? 今なにができますか? わたしは死んだら祖父と同じ墓に入りたいのですがそれは可能でしょうか? どうか教えてください
一応仏教徒なのでキリストちっくではなく仏教ちっくに喜びを表現したいです。 仏教にはハレルヤ!に当たる言葉はあるのでしょうか? またお坊さん方は嬉しい時どのようにして喜びを表現しますか?
つい最近 「hasunoha」 をみつけて登録したものです。 早速ですが、 仏教では自殺を悪いことだとは言わないのでしょうか。 自分の肉体の生命を自分の意志で終わらせることを自殺であると定義したとき、仏教では、自殺はとがめられる行為ではないのでしょうか。 私は、キリスト教徒ではありませんが、自殺はしてはいけないとする意見に賛成するものですので、たとえば意識を失うほどの肉体の苦痛が私のところにやってきたとしても、その苦痛に忍耐するつもりで生きています。 そもそも、釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。 ご教示お願いいたします。
こんにちは。ご縁について自分なりに理解したつもりなのですが、ここで確認させてください。お暇な時に教えてくださると嬉しいです。 ご縁とはきっかけで、どんな縁がどういう組み合わせで働いているか人間が全部把握することはできないけれど、色々な縁が影響し合って今がある。神の計画ではなく、偶然が重なって物事が起こるということでしょうか。 仏教では意味の前に事実があるのですね。過去の回答の詳しいご説明を何度も読んで段々わかってきました。私は、物事の意味を追い求めると危ない方向へ行くこともあるのではないか、と父が原因のわからない珍しい病気で亡くなって霊能者に騙された後思うようになりました。その霊能者はキリスト教徒ではなかったし、私が完全に神を信じきれていたら心が揺れなかったと思います。でも意味を探し続けて苦しむより偶然そうなったのだと考えたほうが楽かもしれない、と意味と事実の発想が逆になった時に思いました(本当は神を疑ってはいけないのだけど)。 仏教とキリスト教は逆のことが多いようです。それで勉強が嫌になることはないけれど、どこかに共通点を見つけられたら嬉しいです。
いつもお世話になっております。昨日、キリスト教の教えを騙る、 危険な宗教団体の構成員が近所をうろついて勧誘活動をしていた のを、追い払いました。近所には友人知人が住んでおり、友人に 関しては、最近になり、宗教に興味を持ち始めました。 私は、今回の安倍元首相射殺事件を受け、改めて、「宗教とは なんだろう」と思うようになり、また、昨日の一件(連中は 私の住んでいる地区を縄張りにして、昔から勧誘活動をやって いたので、今今始まったことではないのですが)を受け、恐ろしい まやかしを語って人々を貶める輩から、自分や身近な人を守り たい、そのためには、正しい教えを身に着ける必要があると 思い立ち、教会のお説教を聞きに行ってみました。 お忙しい中、お説教の後、牧師さんが時間を取ってくださり、 私の疑問に答えてくださいました。 そこで、キリスト教と、私の宗派、浄土宗の共通点を見つけ ました。 キリスト教では、 「私たちは、常に罪を作りながら生きている。本来なら処される べきは私たちなのだが、キリスト様が、私たちの罪を肩代わりして 磔になってくれ、神となって私たちを許し、救ってくれる。私たちは、 罪を重ねつつも、そのみ恵みに報い、許してくださるからこそ、 誠実に生きねばならない」 浄土宗でも、 「我々は、罪深き暗愚の凡夫である。戒律も守れない。しかし、 阿弥陀様が戒律や修行を代わりにこなしてくださっていて、 お念仏をすれば、許して救ってくれる。許してくれるからこそ、 誠実に生きねばならない」 と教わりました。 しかし、私は気になりました。 「似たようなありがたい教えを説いているのに、信者さんの 質が全然違う」 クリスチャンの皆様は、とても謙虚です。しかし、以前通って いた浄土宗の大寺の説教会に来ていた人たち(お坊さんまでも…) は、とても傲慢でした。 「念仏しない奴は、地獄に落ちる」 「念仏してても、他の仏や神を拝んだら、阿弥陀様に見放される」 と平然と抜かしました。 牧師さんや教会の皆様は、 「実は私は仏教徒なのですが…」 と言っても、嫌な顔をしませんでした。目指す所は違っても、 この世でするべき事は同じ、と言うと、喜んでくださいました。 「通じるところが、ありますものね」 と… この差は、何だと思われますか?先生方のご高見、 拝聴したく存じます。
私は中1の時に長崎県の五島市から長崎市にきました。 五島にいた頃は家の近くにお寺とキリスト教会と2つあり今となれば変な感じですが、どちらにも良く行っていました。 長崎市に来てから五島には一切帰る事を許されることが無く、お盆にお彼岸に正月にと時間は過ぎていくばかりでした。 修学旅行と高校受験の時と、グループカウンセリングの時の3回だけお寺や神社にお参りした事を覚えています。 それから好きな人が出来ました。彼の仕事は僧侶で、浄土真宗という宗教だそうです。 全く分からない全く触れた事もない話しをされると頭がパンパンでした。とても不安でした。 『ごめんなさい。よく分かりません』と言うのが怖かったのです。 最近は少しずつですが彼の仕事に対してちょっと興味が湧くようになりました。 勉強とまではいきませんがネットで彼が言っていたあの言葉は何だろうって調べるようにもなりました。例えばですが、門徒さんとか。 でも彼は正月ですらお参りに行かない、宗教に関わる事も無い私を好きでいて不安にならないのでしょうか? とても悩んでいます。
父方の祖父母の事が気になります。 今日、霊鑑定の先生に視ていただいて『とても因縁を感じる』とのお話でした。 祖父は父が幼少の頃病死したそうです。 祖母は父の産みの母ではなかったのですが、病床の祖父を置いて黙って家を出たそうです。 私は祖母には会っていましたが、お正月の年一回かつ中学生位までしか会いに行きませんでした。そして、私が学生の頃独り家で亡くなったそうです。 私は知らされずお葬式にも出られませんでした。 ここ最近、なぜか急に二人のお墓参りがしたくなり、先生に視ていただきました。 私は『因縁』という言葉を伺って、二人の孤独や悲しみを想うと涙が止まりませんでした。 キリスト教を学んでいた私ですが、お寺での御供養はしても構いませんか? 数珠さえ持っておりません。 どのような準備をして御供養すれば宜しいでしょうか。 二人が可哀想で、どうにか二人に幸せになってもらいたいのです。 どうぞ宜しくお願い致します。
私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。
お釈迦様って本当にいたんですか。という問いについて、お坊さんはどうお答えしますか。 自己完結している問題なため、わざわざ投稿すると同調を求めているみたいでいやらしい……と思い控え、しかしやはりお坊さんのお考えが気になる……とうろうろしているうちにこんな時間に。 短く内容をまとめるのが苦手なため、事の発端から書かせて頂きます。 私は友人から相談をされると、自分の意見を伝えながら過去にとても納得した誰かの意見を交えて返答することがあります。 「いい考えだね」と言われたりすると、正直に「これはお釈迦様の言葉だよ」と伝えるわけです。 すると、「でもお釈迦様って本当にいた人?」と聞かれることがあります。 実在したかどうかもわからない人の言葉など信用ならないのだと。 私はその言葉にとても疑問を感じるのです。 自分がいい考えだと思ったのなら、お釈迦様がいるいないって関係なくない?と。 そんなことはいいから事実を答えろと言われても困ります。 だって大昔の人の存在をどうやって確認するんでしょう。 お釈迦様はいつでもあなたの心の中に……と哲学的な意味で考えたら、あなたも私も会ったことがあるでしょう。 キリストでは「本当に血を飲めば病気が治るの?」と言われたことがあります。 実は、私はキリストの血を飲んだことがないので、病気が治るかわかりません。 今度飲んだら教えます。 誰の言葉か、誰の作品か、それが説得力という重要な要素であることはわかります。 私もモップはダイソンのものを買います。 しかしその言葉が自分にとって解決策となるなら出所は関係ないと思うのです。 私はお釈迦様関連、哲学、聖書などの本を持っていますが、彼らの生い立ちなど知りません。 数分前までマリアの夫をヨハネという名前だと思っていました。本当の名前はヨ……忘れました。ヨハネでなかったことは確かです。 生い立ちを知らないと言いましたが、お釈迦様の映画は見たことがあります。お釈迦様が生まれた時、木々は喜び、草花は歌っていました。 私にとってマリアの夫の名前がヨ……であったか、お釈迦様が生まれた時本当に草木が歌っていたかなど何でもいいことです。 彼らの残した言葉には力があり、私を救うことには変わりありません。 お坊さんは「お釈迦様っていたの?」に、どうお答えになるのでしょうか。普通にいるよってお答えしますか?
仏教における教義というか、入門を学びたいのですが、どうすれば良いのでしょうか? 例えばキリスト教なら教会に行けば講座をやっていたりしますが、お寺に行ってもなかなかそういったものが見つからない気がします。そういった講座などはあるのでしょうか? また自学するにしても、キリスト教における聖書のようなわかりやすい正典もなくどこから手をつけていいのかわからない状態です。 どうか知恵をお貸し下さい。宜しくお願い致します。
こんにちは。はじめまして。昨年の11月から日蓮宗からだしている倶生霊神符のお守りをいただいてます。興味があるのでネットで知りました。宗教や宗派関係なくいただけるので。気になることがあって私はクリスチャンではなくて時々キリスト教の教会へ行くこともあるけど問題ないですか?無宗教みたいな感じです。
僕は今キリスト教の教会の礼拝に毎週行っていて牧師の方から個人的に聖書を教えてもらっています。これからもキリスト教は続けていきたいです。 でも仏教の法話も聞きに行きたいのです。 キリスト教の礼拝に行きながら法話を聞きに行くことはいけないことでしょうか?