私には数年前、姉を自殺で失う経験をしました。 自殺されて後に残った家族の悲しみや苦しみを味わいました。 それなのに、私は今自殺したい気持ちがあります。 生前、姉と死にたいとお酒を飲みながら愚痴る事でバランスをとっていました。しかしその姉が亡くなり、苦しみ、悲しみの中に先を越されてしまったという思いもありました。 母親を1人にはできないという思い、自立しようと色々格闘してもうまくいかない現実、光が見えず真っ暗な中でバランスがとれず右往左往しています。 死にたいです。
お世話になります。 心が苦しく、どうしたら良いのかわからないので教えていただければと思います。 今年に入り、大切にしてきた愛犬を病気で2匹亡くしました。 長い間一緒に暮らしてきましたので家族同然でしたし、相次いで逝ってしまった悲しみ、苦しみ、後悔、愛犬への感謝… 気持ちの整理がつかず…です。 とても信頼していたかたへ今の自分の気持ちを話したところ、ペットは短い命だしこうなることはわかっていたじゃないか、それだったら鶴か亀を飼えばよいじゃないか、1月3月と相次いで亡くしているなら次は5月か?と言われました。 ペットを迎え入れる時、何もなければ自分より短い命だということ、終生面倒をみて見送ることが私たち家族が出来ることだということも頭では理解していましたが、やはり亡くした悲しみは深くなかなか元気を取り戻せない自分がいます。 うちではまだ犬も猫もいますので、このコたちには少しでも元気で長生きしてもらいたい、沢山愛情を注ぎ、一緒にいられる1日1日を大切に過ごしていこう… ただ次は5月か?と言われた言葉に驚き、悲しみ、恐怖と不安、信頼していた相手がどんな気持ちで言ってきたのか考えましたが、理解出来ず悲しく苦しくなりました。 冗談だとしても冗談とは受け止められません。 このような言葉に対してどう受け取り、自分の気持ちを落ち着かせたら良いのでしょうか。 どうかよろしくお願い致します。
愛猫とは一年間一緒に暮らしました。 元々は居酒屋で飼われてた猫でした。 店では、小さいスペースに入れられベニヤ板にペットシーツが置かれただけの劣悪な環境で、痩せ細りストレスでおなかから後ろ足は毛が抜けていました。 気の毒でなんとか助けたい一心で、店主に掛け合い貰い受けました。 家族として幸せにしてあげたいと主人といつも猫に優しく声を掛け寄り添い見守ってました。 10年近く居酒屋から出たことのない猫は見ず知らずの我が家に来て3ヶ月くらい引き籠もっていました。 そのうち夏頃からだんだん打ち解け、呼べは返事をし意思表示をし、遊ぶようになり一緒に寝るようにまでなりました。 愛猫との心の世界が出来つつありました。 愛猫は夏に乳がんを患って手術をしましたが、術後は良好で2週間前の健康診断は問題ありませんでした。 しかしおとといの3月21日、普段と変わらず元気だったのに、 死ぬほんの数分前まで遊び暴れていたのに 急に体調が一変し、人工呼吸も虚しく亡くなりました。 急な出来事でした。 これからだよ、これから幸せを取り戻すんだよと毎日言い聞かせていたのに。 哀れでなりません。 家の仏様の御札にいつも愛猫の幸せを願ってました。 なのに、仏様はなぜこんないい子の幸せを見守ってくださらなかったのか 仏様はなぜこんな悲しい思いを私達に与えるのか 愛猫の幸せを自分の幸せと捉え心の励みとしていたのに今は生きる望みを失いました。 仏様は何故、愛猫や私達をこのような境遇に置かれたのかその意味を知りたいです。 お坊様どうか教えて下さい。
生きてしまいました。 まずは、私の質問や悩みがどれだけ愚かであっても常に優しい言葉を掛けて下さること、心より感謝申し上げます。一件一件に御礼を書き込むだけの精神的余裕が得られる見込みがないため、この場にてお許し下さい。誠に申し訳ありません。 自業自得により、生よりも死の方がリアルに感じられる状況にあります。心の弱さや人間不信を理由に、しかるべき時に就職活動を行わなかったことで、自らの将来を閉ざしてしまいました。 元々の社会に対する悲観的な意識や積み重なった上手くいかない経験により、「生きる」「幸せになる」「人並みでいられる」「やるべきことができる」自分の姿よりも、「死ぬ」「失敗する」「落ちこぼれる」「救おうとするふりをして救ってくれない社会きら見離される」自分の方がリアルに見えてしまいます。 私はちょっとしたことで傷付く性質で、家族からもよく「そんなんじゃ生きていけない」と言われて来ました。 今更になって就職活動のようなものを始めてみましたが、しかるべき時にに始めていた方々でも苦労するのに、私のような人間が上手くいくとは思えません。筆記試験、業界研究、面接対策。「就活」「いつかは、なるべく早いうちに正社員に」と思うだけで呼吸が乱れます。 新卒で正社員になれなければ、その後のハードルは大きく上がります。正社員でなければ、という焦りは尽きることがありません。 私は、今の社会や世界では、全員を生かすことは出来ないと考えています。どうしても物質がなければ生きていけない以上、生きられる命には限りがあります。そして今は、その限られた以上の命を抱えてしまったのだと思います。 そして、満たされていた過去を知っていた人々は、今までのように満たされようと他から奪い、奪われた人々がまた他から奪うループであると感じています。 私はいつか、こうして私に優しくして下さった方々のように、苦しみを抱えた方々にに向き合うことをしたいと考えております。しかしそれにはまず私が生きて、しっかり労働生活をしなければなりません。自業自得により、常識のレールから外れた私が、もう一度戻れるでしょうか。そして、この世界に絶えられるでしょうか。社会が受け入れてくれるとは考え難く、自分で自分を追い込んでしまいます。 生きることがこんなに辛く難しいものだとは思っていませんでした。
孫である私はもちろんのこと、ひ孫である私の娘をどこまでも暖かく深く可愛がってくれました。 優しく、ちょっぴりお茶目で可愛らしい祖母が旅立ちました。 まだ49日を迎えていません。 持病が悪さをして突然逝ってしまいました。 私にとっては実母よりも無条件で甘えられた唯一の存在だったと思います。 一時期、祖父母と気難しい思春期の私と3人でたまに喧嘩しながらも和気藹々と楽しく生活してたこともあります。 お前さんはいっぱいいる孫の中でも、じゃじゃ馬で一番手のかかる世界一可愛い孫!そんな孫から生まれたひ孫ちゃんも世界一可愛いひ孫!とニッコリ笑って言ってくれる素敵な祖母でした。 晩年はできる限り会える時間を作ったり、2日に1回はテレビ電話、月に1回の娘の写真入りの工作をプレゼント訪問したりなど後悔のないように!と思ってやってきたつもりでしたが… こんなに愛してくれて、大切にしてくれて頭が上がらないほど感謝しているので、 もっとなにかできなかったのだろうか、もっとこうしてあげたかった、もう少し一緒に居たかった、など言ったら キリがないのは重々承知ですが そういった気持ちになり、仕事や家事、子育てをして紛らわせつつも、 夜一人になったときに思い出をひとつひとつ思い返しては涙が止まらないのです。 納骨するまでにできるだけ一緒に居たくて 実家に頻繁に帰っては、祖母のお骨の入った箱を抱き締めて話しかけ、一人で泣きじゃくってしまい… どうにか気持ちに整理をつけよう、と思っても難しいようです。 私のようにあまりにも想いすぎると故人が心配して旅立てないから、マイナスのイメージで想わない方がいいと、なにかの本で書いてあるのを見て、 さらに申し訳なく思い、少しでも前向きに…!と奮い立たせますが、その反動でまたしくしく泣いてしまったり… いずれはしなければいけないお別れ、と覚悟はしていたつもりですが… 気になることは、 私のせいで祖母の旅立ちの邪魔になっていないでしょうか? どうしてもまだ祖母の死を受け入れられず毎日泣いてしまっていて、それが祖母の迷惑になっていないでしょうか? またこの気持ちは持ち続けていいのでしょうか? よろしくお願い致します。
初めまして。 10代の頃から気持ちが落ちている時や寝る前に死や永遠について考えるようになりました。 そして先日祖母が老衰で近いうちに亡くなるかもしれない話を聞き最近では毎日考えています。 死んだら二度と会うことができないのがとてもとても悲しいです。 だから死後の世界が存在して欲しいと思います。 自分も死んだら亡くなった人と再会することができると考えれば少しは楽になるからです。 でも死後の世界で過ごすのもいつまで続くのかと怖くなります。 地球がなくなって太陽がなくなって宇宙がなくなってその後は…と。 そんな世界を見続けること、何もかもなくなってしまった後はどうなってしまうのか、わからなくて怖いです。 死んだら無になるという話を聞いたことがありますが、自分が消えるというのも怖いです。 亡くなった人と会えないことにもなります。 考えても考えても未知な世界なのでわからなくて、わからないから怖いのもあるかもしれません。 生きているからには必ず死が訪れるので、家族や友人、自分の死とも向き合わなければいけなくなります。 死は辛いです。 考えるだけで涙が出てきます。 だからといって永遠に生き続けるのも怖いです。 これから訪れるたくさんの死と生きている祖母の前で泣かない為にもどう向き合えば良いのか教えてください。 乱文失礼しました。
愛する我が子をおいてまで、自死を選択してしまった夫… 残された私達は、急な事で受け入れるのに時間がかかりそうです。 今頃、どこにいるのか、あの世から大好きな子供達が見えているのか。 成仏できてるかなと、毎日毎日考えてなりません。 たまに、野焼きのような匂いがするし、これは夫かなとか… 毎日、考えて考えてしまい寝れない日々です…
以前にもこちらに質問をした者です。 熱中症で愛犬を亡くしました。 私の不注意と慣れた頃の油断で起きたことでした。 亡くなってから毎日お線香と餌、おやつを供えて手を合わせ、話かけています。先日初七日を迎えました。ベルのことを考えたり生きていたときに撮った動画を見返していると、自分以外に誰もいないはずなのに、物音が聞こえます。 ベルが近くにいるのでしょうか? まだ亡くなって間もないですが、今まで家族の一員だったベルがいないと、やはり寂しくその存在は大きかったと日々感じます。 たまたまペットショップの前を通り過ぎたときに、ベルと同じ毛色の子犬がいました。思わず近寄り、抱っこしてしまったのです。懐かしさと、またペットを飼いたいと思ってしまいました。 亡くなったベルはどう思うでしょうか。 私の不注意でベルは亡くなりました。もっと気をつけていれば、ベルは亡くならずに済んだのに。また動物を飼う資格はありますか。
1月末、コロナウイルス感染症により父が亡くなりました。75歳でした。私の家族は子連れ同士の再婚家庭で、私は長年継母からの虐待に耐え、父からの辛い言葉にも耐えながら「きっといつかは分かり合える、家族なんだから」といつか父とまた家族として関われる事を心の拠り所に生きてきました。 大人になり結婚し、漸く人並みの幸せを得て、父と親子として再出発する為始めは実家にこまめに足を運んでいましたが、継母や義妹との関係は変わらず顔を見せても冷たい言葉をかけられるので精神的に参ってしまい、実家に姿を見せるのは年に一度程度になっていました。 年老いた父が私に会えずに寂しそうにしているのは分かっていましたが、長年の虐待や孤立により「私は必要のない人間」という感覚が無意識下で刻み込まれていた為、猜疑心に苛まれていた為に父の寂しそうな顔も無意識に疑う状態になっていましたが、長年の溝を埋める為にもまず父と2人でゆっくり話せる時間を作ろうと模索している最中でのコロナ感染でした。 父の最後はLINE電話で義妹が看取り、喪主も継母の意向で義妹が務め、最後の最後まで私は蚊帳の外のまま、父に会えないまま私は一般席でひっそりと父を見送りましたが、父の死後に自分の中に刻まれていた「私は必要ない」という考えの癖が邪魔をして、父の想いが届かなくなっていた事に気づき、父にとてつもない寂しい思いをさせたまま、父の為に何ひとつできなかった事に苦しんでいます。 どんなに孤独で辛くても、父と分かり合える未来に希望を持ち強く生きてきましたが、寂しそうにしていた父の顔や「お前と話したい」と最後の電話で言っていた父の言葉が頭をよぎり、ここにきて心が折れかけています。笑う事も、幸せを感じる事も、拒む自分がいます。 寂しがり屋な癖に頑固で、どこか弱くて、支えてあげたいと思える、私にとってかけがえのない大事な父でした。 元はお母さん子だった私が父について行く事を選んだのは、家族と離れ1人ぼっちになる父を守ってあげたいと子供ながらに思ったからでした。 でも、私は父の為に結局何もしてあげられませんでした。寂しそうにしていた父の顔があまりに辛く毎日泣き暮らして、後を追いたいと考えてしまいます。 父に会いたい、会って話がしたいです、こんな気持ちを抱えて生きていく自信がありません。
こんにちは、見てくださってありがとうございます。 初めての質問、長文ですが失礼いたします。 昨年食道がんで父を亡くしてから、思い悩むことが多くなりとても辛いです。そういった負の感情とのつきあい方、折り合いの付け方をご助言いただけたら嬉しく思います。 「思い悩む」の内容は、自分では3種類くらいあると思っています。①父の死自体に対する悲しみ、②今後周りを含め迎える死に対する悲しみ、③周りと比較してしまう思考、です。 ①に関しては、死別までのトラウマです。コロナ禍ということもあり、父は臨終近くまで家で過ごすことが多く、父の咳で眠れなくなったり、血痰が出て夜中に看護婦さんを呼んだり、かん腸で泣き叫ぶ父を励ましたり、とても悲しい記憶が色濃く残っています。当時リモートワークで、仕事先の人にもあまり事情を分かってもらえる人がいなくて、完全に孤立してしまったことから、少し捻くれているのかもしれません。 ②は、これは私も意外だったのですが、今後私が経験したような果てしない悲しみを、ほとんど誰もが同じように経験をするという事実が、悲しいということです。その事実を直視すると、人生には救いがないな、と、思ってしまいます。例えば、私の周りの大切な友達やいまは幸せそうな家庭や生まれたばかりの赤ちゃんだって、いつか大切な人の死を経験するのは同じですよね。親の死に対して「みんな経験することだよ」という励ましワードは良く見ますが、私にとっては、それが、そういう出来事が増えていくことを確信しているからこそ、これから生きていくのが苦しいな、という感情になってしまいます。 ③は、他者との比較を辞めたくても辞められないということです。周りは20代。両親健在な方が多く、羨ましさが拭えません。両親が元気な友達の家庭の話を聞いたり、死と関係のない悩みを聞いては、一人になってから羨ましさで泣いてしまいます。「両親どちらも幼くして亡くしてる人もいる。私は幸せだ。」とか、考えてみるのですが、また人と比較することでしか、自分を慰められていないことに気付いて嫌になります。他ならぬ自分自身が苦しいのだということを認めたいです。 hasunohaやグリーフについての本などを読んで、死別といっても、それに伴う感情は多様で複雑だなと思っています。お時間ありましたら、お言葉いただけたら嬉しく思います。
私は親が小さい頃他界し歳の離れた兄姉に何不自由なく育ててもらいました。20歳の頃、遊びすぎで言うことを聞かない私と厳しい姉から猛烈な叱りを受け怖くて帰れないまま20年もの時間が過ぎてしまいました。怖くて連絡が取れなかっただけで、仲の良かった兄弟から冷たくされるのも怖くて謝りにいけませんでした。ただそれでも母のお墓参りには行っていたのですが、先日恐れていた事が起きました。 母の日のお墓参り行った際、新しいお塔婆で兄の死を知りました。 家出した身分ですが、私は小さい頃から兄姉が大好きで5歳くらいから末っ子なので自分がみんなを看取るかもしれないと未来を恐れていました。本当は心の底から許してほしくて仕方がありませんでした。でも怖くて会いに行けなかった。謝ることもできずに私は私の暮らしをして勝手に生きていたのです。 でも20年の日々の中どうしたら謝りに行けるかをずっと考えていました。それでも行動に移せず、こんな現実を迎えさせてしまった自分は生きる資格なんてない、なぜ生きているのかと毎日苦しくて仕方がありません。兄は私達を育てるのに10代から昼夜働き苦労ばかりさせてしまいました。私は何一つ孝行できずに私は幸せに生きています。そんな自分が許せません。こんな未来は本望ではなかった、謝りたかったし身代わりになれるならなってあげたかったです。こんなふざけた自分をこの先どう生きていけばいいかわかりません。大切な人を傷つけた最低な自分です。死ぬ事もいけないこと精神を病む事もいけない事とわかっていますが毎日毎日苦しいです。最後まで逃げていた自分を許す事ができません。厳しいお言葉をお願いします。
乱文お許し下さい。 私は35歳、主人は34歳で、共働きしています。2年前に結婚し、一緒に暮らし始めて1年になります。 生理が不順気味で、年齢のこともあるので、一緒に暮らし始めてからすぐに、不妊治療を開始しました。タイミング、人工受精にトライしましたが、なかなか授からず、医師から「私の体質では妊娠は難しいかもしれない」という宣告を受けました。 主人は「子供がいなくても、2人で楽しく生きていこう」と言ってくれており、不妊治療や家事も積極的に対応してくれます。義両親もとても良い方達で、子供が出来ないことには一切触れません。 私は相当恵まれた環境にいると思います。でも、こんなに優しい主人・義両親を父親・祖父母にしてあげられないことが逆にとても辛く、罪の意識に苛まれています。私がいなくなれば、新しい奥様との間に子供を授かることが出来るのでは、という考えが頭から離れません。「2人で生きていったら良い」という主人の言葉も、私に気を遣っているだけで、本心では子供を望んでいるかもしれない‥という疑念も持っています。 上記の内容と私の心の弱さから、死んで消えてしまいたいという思いが強くなってきています。自死が良くないことは理解しています。それに、死ぬ勇気も絞り出せそうにありません。首を吊ろうとしましたが、怖くて足元の台から降りられませんでした。 命を断つ代わりにと思い、離婚を切り出したら、今まで怒ったことのない主人が激怒してしまいました。離婚するかどうかは、主人に判断を委ねることとして、離婚届を置いて私は家を出ました。 実家へは事情があって帰ることができないので、今はホテルとネットカフェを転々としています。主人は判断に迷っているのか、怒っているのか分かりませんが、連絡はありません。 自殺方法をネット検索し続けている日々が続き、もう限界です。私はこれからどうしたら良いのでしょうか?
母が亡くなって三七日となりました。 日毎に寂しさがつのり、この寂しさや悲しみがいつまで続くのかと困っています。 情けないのですが、朝起きた瞬間から母の不在が悲しく、夜も途中で目が覚めて不安です。 私たち親子は親友のような同志のような親子で、私が結婚してからも近くに住み、毎日の様に顔を合わせていました。 父の看取りの時、父の死後の母の生活の支えや私の子供の育児、母の闘病生活などいつも母と二人で頑張ってきました。 私が子供を生んだ15年前からは育児や家事も手伝ってくれ、5年前に病気を患ってからも「いつかは〇〇ちゃんにお世話になる時がくるから、元気な時は少しでも手伝ってあげたい。元気なうちに身体を使って〇〇ちゃんにお返ししてるよ。」と言って、私が仕事に出ている間にいつもうちに来て、洗濯をしたり、掃除をしてくれ、孫の帰りを楽しみにしてくれていました。 闘病生活中も辛い治療にも弱音をはかず、「苦労ばかりやったけど、今が一番幸せ。こんな病気になっても今が一番幸せやねん。ひ孫を見るまで頑張る。」と強く前向きに生きていました。そんな母を励まして支えてあげることが、私の生きがいの一つだったような気がします。 2月迄は元気で自転車にも乗れていたのに、3月に救急搬送され、4月20日に亡くなりました。病床で「もう一回家に帰って、ママのお手伝いをして△△ちゃんが学校から帰るのをお帰りって迎えてあげたい。おばあちゃんはそれが幸せやねん。今度はお婆ちゃんが△△ちゃんの子供に産まれるから可愛がってな。」と孫である私の息子に話していたそうです。 一度は峠を越え持ち直し、2週間頑張ってくれました。コロナで面会制限がされている中、付き添い許可を出して頂き、私と最愛の孫、母の妹が看取りまで一緒に過ごせたのですが、母は家に帰ることを夢見ていたのに、連れて帰ってあげることができなかったことが悔やまれてなりません。 生きることを諦めなかった母に死が近いことを気づかせたくなくて、最後まで希望を持たせてあげたくて、感謝の気持ちや家に帰らせてあげれなかったことを謝れませんでした。 そんな最後の入院中のことや家の中でも街の中でも母の姿が思い出され寂しくて悲しくて。 毎日仏壇に手を合わせて、母に話しかけています。母に気持ちは伝わっていますか? 遺骨はうちにご安置しました。母は今、私や孫の側で一緒に過ごせていますか?
先日叔父が亡くなったと父から連絡がありましたが私は海外に住んでおり葬儀に出席することができませんでした。父の家系は複雑な事情があるようで叔父が亡くなった事は親戚には一切知らせず葬儀が行われたようです。 実家では犬を飼っています。その犬は前の飼い主に捨てられ迷い犬となり私たち家族が里親として迎え入れました。辛い事もあっただろうと家族全員たくさん愛情を注いできました。今回両親は葬儀に出席する為ペットホテルに預けたようです。そのホテルを利用するのは3度目でスタッフの方も信頼していました。事件はお通夜の日に起こりました。 母のところにペットホテルの方から連絡があり夕方の散歩中に野犬?猟犬?飼い犬かもわからぬ大型犬に愛犬が襲われ死んでしまったとの連絡でした。家族が家に戻ったとき愛犬は変わり果てた姿になっていました。スタッフの方もとっさのことで何もできなかったことを申し訳なく思っておりその後も真摯に対応してくださったようです。不慮の事故と言えば整理がつくのか、そのホテルの方を責めることもできませんが、残された家族はなんでこんな事にという思いでいっぱいです。散歩コースも真っ暗な所だったようで襲った犬がどんな犬種だったかもわからない様子でした。もっと明るい時間帯に散歩してくれればとかそもそも預けていなければ私が日本にいれば家族の誰かが愛犬のお世話をすることができたやこんな不幸な事が重なるなんて父の複雑な家庭環境で親戚に叔父の死を知らせなかった事によりご先祖様がお怒りになって大切にしていた愛犬を奪っていってしまったのかとか底知れぬ考えばかりが浮かんでしまいます。噛み殺されたなんてあまりにも残酷で愛犬が1人で苦しんで死んでいったかと思うと心が痛いです。たくさんの愛情を注いできたつもりでいましたがこんな死に方をして愛犬はうちにきて幸せだったのかと考えてしまいます。人一番可愛がっていた父はうちに来なかった方が良かったかも飼い主として失格だとかなり落ち込んでいます。家族が悲しみに沈んでいるとき私はすぐに会いに行くこともできず亡き骸にも会えませんでした。どこに気持ちを持っていけばいいのかどのように考えれば家族みんなの心が少し救われるのか、苦しんだ愛犬もどうしてあげることで安心するのか、私は海外にいながら何をしてあげることが愛犬の為になるのか悩みはつきません。 どうかご意見頂けたらと思います。
祖父の死を受け入れられません。 最近、祖父が亡くなりました。 祖父とは小さい頃からずっと面倒を見てもらっていて、孫の中でいちばん可愛い。ほかの人たちは可愛くない。(冗談ですが。笑)と言うほどの仲でした。 お正月にまた2月の連休に帰るね。 またね!と声をかけて別れました。 それが最後でした。 祖父宅には離婚し、戻ってきた父、祖父、祖父母で住んでいました。父が職場でインフルエンザになり、それが祖父母にうつってしまい、誰も動けずに病院にも行けませんでした。 父は同居していますが、1階、2階で別れています。 父もしんどいようで祖父母が住んでいたところに行けずに… 祖父もオムツを履かせましたがそれを誰かが変えることも出来なかったと聞きました。 そうすると、最後は知らぬ間に亡くなっていたようです。 ずっと足が悪く、手術し、長いリハビリ入院生活をして、やっと退院した矢先だったので疲れていたのだと思います。 インフルエンザになったときに電話をしていたのに、電話をしていたのは祖母とですが、大丈夫?なんかいるものとかない?って聞いたりしたけど私にも家庭があり、遠慮したのか何も言いませんでした。 でもやっぱり行けばよかった。 おじいちゃん苦しかったかな。 私が動けばよかった。 父もちゃんと自分の親のこと見てよ。 最期に会えなかった。 もういろんな複雑な思いが溢れてきて私も祖父に会いたい、もう死にたいと思ってしまいます。 通夜や葬儀で父も父ちゃんごめん。と何度も言っていましま。 私もこんなに急な別れになると思わずに、苦しいです。 もっと話したかった、もっと一緒にいたかった。会いたい。 子育ても家のこともあるのに手がつかずに毎日泣いています。会いたいです。 どうやって乗り越えたらいいですか? まだいないことが信じられません。 喪主である父に最後に火葬場でスイッチ押させてもらいました。 またね、ありがとう、ごめんね、大好き。という思いを込めることができましたがやっぱりどう考えても後悔と悲しみに苛まれ、辛いです。
こんにちは。 私は現在生まれ育った町に戻ってきています。 留学に近いことをしていて、 一度親元を離れて暮らしていました。 休みなので帰ってきましたが、 もう残り僅かの時間が悲しくて仕方ありません。 留学へ行くときはさほど寂しくありませんでした。 親ともまた会えるし、いつでもここへ戻ってこれ ると思っていたからです。 今ではそんなこと思えません。 一度離れた、慣れ親しんだ町へ帰ってくると いかに思い出があるか、いかに愛着があるか、 いかに家族といたいかということを痛感してしまいます。 その上、父の仕事の関係で家族全員が会えることが滅多にないなかで、 いま一番好きな場所で会えてしまっていることが 幸せすぎて 本当にこの時間が終わって欲しくない。 次いつ会えるか確実でない家族と離れることが 違う場所で暮らすことが、そばにいないことが、こんなに悲しいなんて知りませんでした。 誰かと本当に会えなくなってしまうのではないかと不安でたまりません。 母は重めの体調不良で 「もしかしたら病気なのでは、」 という考えが頭をよぎるし、 父だって、 不規則な生活をしていて、年齢のこともあります。 どうしても笑顔でまたねと言える気がしないのです。どうしたらこの不安でたまらない気持ちを取り除けますか。どうしたら泣かないでいられますか。どうしたら留学先に明るい気持ちで帰れますか。 どうか教えてください お願いします。
いつもお世話になっております。 先日、大好きな母を自死で失いました。 30年近く、ずっと大切に育ててきてくれていました。 私や私の旦那、私の子供のことも心から愛してくれていました。 未だに信じられないし、悲しくてたまりません。 同居していた父や弟たちのことも心配です。 母は天国にいけているでしょうか。 (自殺してしまいましたが、たくさんの人を愛し、愛されてきた人です) 私は亡くなったら、また母に会えるでしょうか。 残された家族のために、私は何ができるでしょうか。 質問ばかりでまとまっていなくてごめんなさい。 ご回答いただけますと幸いです。
タイトルのとおりです。 心の整理がつかないまま、乱文ございましたら、申し訳ありません。 恋人が亡くなりました。 自殺でした。 婚約してて、これから、どんな人生を歩んでいこうか語り合い、伴侶で、恋人で父で兄で友人で、私の全てでした。 彼が追いつめられてるのは知っていたのに、どうして、もう少し優しくできなかったのか、どうして「仕事なんてやめちゃいなよ」が言えなかったのか。 後悔ばかりです。 どうして、もう彼がこの世のどこにもいないのか。 どうして、最後の日に、彼を突き放してしまったのか。 私も限界でした。でも、あの時、もう少し優しく接していられたら、彼は死にませんでした。 ぎりぎりの状態でも、生きていてくれました。 生きていてくれたら、それだけでよかったのに、あの時のわたしは、どうしてそれを忘れてしまったのか。 後悔してます。 どんなになっても生きていてほしかったです。 生きていてくれたら、それだけでよかったです。 ごめんなさい。 彼がSOSを出した最後の時に戻りたいです。 何でもします。 彼を助けてください。 私も、できれば、もし許されるなら、許されたいです。
ご閲覧いただきありがとうございます。 2日前に愛鳥を殺してしまいました。 本当に本当に大切にしていて宝物の家族でしたので後悔・自責の念から何も手につきません。 経緯としましては、小屋から出たがっていた鳥さんを心優しい母が部屋に放鳥させていたのですが、私がそれを知らずクッションの下に潜っていた鳥さんを知らずに踏んでしまいました。 母は泣きながら母自身が悪く、私は悪くないと説得しようとしてくれて母が自身を責めることも辛いです。直接の原因は私で私が悪いのです。加えて、母のことや家庭の諸事情から思い切り泣くこともこの子の話をすることも難しいです。 この子のために私にできることなどあるのでしょうか。次気をつけるなんておかしいと思います。この子に次なんてないのに。 医師になり命を救うため勉強してきたのに、小さな生き物の命を奪ってしまって…飼い主に殺されるという残酷なことをしてしまいました。 毎日通っていた自習室も亡くなってから全く行けていません。親に予備校代を出してもらっていることもありますし、努力してやっと合格が見えてきたので勉強に向かいたいのですが、そんな事を考えてしまう自分も恨めしいです。 どうしたらいいのでしょうか。 心が乱れており、文章が読みづらく申し訳ないです。
数年前に実姉が自死で他界しました。 姉は高校生のときからうつ病に苦しみ、死に向かう姉を家族で必死に止めていました。 就労支援施設を経て一般企業に就職を果たしたとき、社会復帰できたという安心感もあってか表情がやわらかくなって、症状が落ち着いてきたのかな、と家族で安心してしまっていた矢先のことでした。 私は姉の死についての感情を整理できず、まだ答えが出ていません。以下に詳細を書きますので、率直なご意見をいただけたら幸いです。 幼少期から私が成人するくらいまでは、とても仲のよい姉妹でした。でもある時(本当になんでもない瞬間に)私に限界が来てしまって、それから姉が亡くなるまでほとんど会話もできないまま死別してしまいました。 限界がきたというのは、生前の姉から度々性的な行為を求められることがあって、断ったら姉が死んでしまうかもと怖くて拒否できず、安心して眠れない時期がずっと続いていたからでした。 姉は繊細な人だったので、日常でのストレスが歪んだ形で発露していたのか、思春期によくある実験的な行動に巻き込まれたのか、はたまた本当に私を性的に愛していたのかわかりませんが、尿を飲まされたりプライベートゾーンをまさぐられたりといったことが、7、8歳くらいの頃から何度かあったと記憶しています。 でも、姉は普段はとても優しいお姉ちゃんで、私もとても素直な妹でした。だから病気になってしまった姉の介護として必要なのだと、努めて平静に振る舞いました。 でも、先述した通り、急に限界がきてしまいました。ある日、姉のことを突然気持ち悪く感じて、別室に逃げても姉の存在が怖くて疎ましくて涙が出ました。私が姉を避けるようになると、姉は支柱を一つ失い、危うさがより増しました。私は姉を苦しめている罪悪感をずっと抱きながらも、どうしても姉に近寄ることができなくなってしまっていました。その矢先に、姉は死にました。 姉を生かすには私が耐え抜くしかなかったのに、結局私は耐えられず、姉を生かすことに失敗しました。 でももし、姉が生きのびた世界線があったとしたら、逆に私が耐えきれず自死を選んでいたかもしれないと思うのです。 私が死ぬべきだったのだろうかと考えています。今更考えても仕方のないことですが、自分なりの答えを見つけたいです。