如来行を無事に終了しました。 神様仏様がおられる場所、分かりました。 森羅万象の一番下にいらっしゃることは既に分かっていたのですが どうやったら一番下に行けるのか探していました。 今回やっとはっきりしました。 宇宙の中で、自分を座標軸の交点 つまり原点、0に設定すると 森羅万象全てが絶対値で 自分を上回ります。 自分より上なので、森羅万象に感謝する理由ができます。 また、自分と同じ森羅万象の 一番下である、原点、0の位置 「無」の場所にいらっしゃるのが 神様仏様でした。 やっと出会えました。 自分自身を宇宙の中で原点にすることで 神様仏様と一緒に居ることができます。 ありがたきしあわせです。 私の修行は無事終了しました。 あらためて、皆さん本当にありがとうごさいました。 森羅万象に八百万の神々が宿る 日本古来の考え方もこれと同じ理論で立証できます。 この宇宙の中で、座標を原点、0に設定できるところは 全てに神様仏様がいます。 皆さんの中にも当然神様仏様がいます。 元々は如来として生まれてきました。 また、この理論を使うとあらゆる宗教宗派が肯定されます。 何を信じても大丈夫です。 簡単な話、神様仏様を信じるかどうかだけです。 信じる人だけが神様仏様に寄り添ってもらえます。 宇宙全てに神様仏様が居て、宇宙そのものが神様仏様なのです。 どこに居ても神様仏様に接しています。
年末年始お忙しくされているなか、失礼いたします。 私自身のことなのですが、一年ほど前から気になっているお坊さんがいます。 私の一目惚れでもあります。 初めてお見かけしたのは叔母の法事でした。 この一年のあいだに法事でお見かけしたのは二度ほどで、どのようなかたなのかまで詳しく知ることができません。 インターネットでお寺さまを検索して、ご住職でおられること、経歴など、また月に数回、お寺さまの日記のようなものを公開されておられます。 私もこの日記のほうにお寺さまに咲いてあるお花の感想を投稿させていただいたことがあります。 こちらは日記を読まれておられるかた、皆さんに投稿を目にされるので個人的なことは書くのは失礼かなと思いますし、突然、私の気持ちを書くのもご住職さまにイヤな気持ちにさせてしまうと思います。 個人的にご住職さまとお会いできることは難しいでしょうか。 ご住職さまはお母さまと住んでおられるようで未婚だと思います。 接点になる知り合いのかたもおられなくて悩んでいます。 ご住職の同じ宗派のお寺さまがお寺での婚活パーティーをされているのを拝見しまして、もしかすると、私が気になっているご住職さまのことを知っておられるかなと思いましたが、突然、私の気持ちを述べられても困ると思ったもので、お話しすることはできませんでした。 まとまりのない文章ですが、読んでいただけたら有難いです。 よろしくお願いいたします。
ご相談申し上げます。 私は今年で34歳になりますが いつも自分が不幸を呼び込む存在なのではないかと思い悩んでいます。 過去に所属していた芸能事務所を3社倒産、解散させ お世話になっていた上司の失脚など 自分に関わった人たちの不幸が自分のせいのように思えるのです。 当然、私自身は周りの不幸は望んでいませんし、 幸福になってほしいと思っているのに 私に関わった人は皆不幸になっていくような気がするのです。 最近では周りから 悪霊にとり憑かれているとか 悪魔とか言われるようになり 最初のうち 20代の頃は 気にかけていませんでしたが 30代になり 精神疾患を経験した今では もしかしたら、本当に自分は魔物ではないかと思うようになりました。 周りの友人たちに薦められるがまま、厄払いをし、定期的に神社への参拝 自分の宗派(真宗大谷派)のお寺には頻繁に手を合わせるようにしておりますが 一向に良くなった気がしません。 周りの不幸な話を耳にする度、「またお前のせいだ」と言われ「あぁまた俺のせいかなぁ」と思ってしまいます。 自分さえいなくなれば 自分が死ねば皆が幸せになる そんなことまで考えるようになりました。 私は悪霊に取り憑かれているのでしょうか?
皆様、はじめまして。 自ら色々調べてみたのですが、思うような答えにたどり着かず困っていた時にこちらのサイトに出逢い、思い切って相談してみることにいたしました。 数週間前に内縁関係にありました夫が急逝いたしました。通夜・葬儀とも多くの皆様のお陰をもちまして、滞りなく執り行うことができました。 夫と私は前述した通り内縁関係であり籍は入っておりませんでしたが、夫の御家族のご好意で後飾り祭壇を共に住んでいた自宅に飾らせていただくことができ、現在は四十九日の法要まで、できる範囲の供養をしております。 夫と私は年齢が離れていたこともあり、夫の御家族からはいつまでも拘っていないで次の幸せを見つけてほしいと言われております。 我が身を案じて下さるお気持ちは有難く思っておりますが、現段階ではそのような事は考えられずにいます。 私は、四十九日の法要が終わった後も夫が気に入っていた今の住まいで小さな仏壇を用意して供養したいと考えておりますが、 現段階では四十九日が終わると必然的に夫の実家にある仏壇に位牌を納めることになります。 内縁だった私が後飾りまでさせてもらっており、今後のことまでも案じてくださっているのにも関わらず、これ以上を望むことはおこがましいと思うのですが、位牌を私のもとへもわけてもらうことは可能でしょうか。 宗教や宗派で、そのようなことは言語道断とあらば別の方法で供養していこうと思っております。 何卒、ご回答の程宜しくお願い申し上げます。
今まで、 宗派などは気にしていなかったと言うか、 知らなかったので質問させてください。 先日、兄が亡くなってしまいました。 葬儀は葬儀屋さんに頼みまして、 曹洞宗の方に来て頂いて済ませております。 現在、兄の遺骨は兄が生前過ごしていた部屋にあります。 別世帯ではなく、同じ屋根の下で暮らしてた兄です。 質問ですが、 わからないことだらけで 失礼な質問もあるかも知れませんが よろしくお願いします。 ① 49日までの間、お供えしてはいけない物などはありますか? 現在は、葬儀屋さんが用意してくださった フルーツ。 あとは、生前にお酒が好きだったので お酒や、頂いた洋菓子などを置いてますが、置いておく期間などもあるのでしょうか? ② お線香をあげに行く時間や回数など、 決まりはありますか? 母は、朝だけのようですが、 私は昼夜問わずに話しかけに言ってしまうのですが夜間はやめた方が良いのでしょうか? ③ 葬儀の時は、 葬儀屋さんに頼んだ方に来て頂いて 戒名もつけて頂いたのですが、 納骨の時は別の曹洞宗の方に来て頂いても良いのでしょうか? とにかく兄を安らかに送ってあげたいので、 してはいけないことなど、 他にも助言がありましたら教えて頂きたいです。 長文になり、すみません。
まず始めに閲覧ありがとうございます。 先月始めに、疎遠だった父が去年亡くなっていた事を知って遺骨を遠方の行政から受け取り合同の納骨塚に納骨を済ませてきました。 うちはマンションで母と義理の父と一緒に暮らして居るんですが、自室に実の父の写真を置き、その隣には真言律宗のお寺で購入した辰年の守り神の仏様が入った数珠を置き、蝋燭と線香と水を毎日あげて南無阿弥陀仏を唱えています。 けれど最近父側の宗派が曹洞宗だったのがわかったため、このまま南無阿弥陀仏を唱えててもいいのだろうか?と疑問に思いました。 なので今朝は南無阿弥陀仏を十念してから般若心経の録音されたものを流して拝んでいました。 この場合はどちらが良いのでしょうか?また、写真立てや線香や蝋燭以外にも置いた方がいいものはあるのでしょうか?位牌を検討しているのですが、私自身現在財布に余裕がないので今すぐに位牌を作り戒名を作ってもらうことも出来ません。 親不孝な娘ですが、父が大好きだったので父が安らぐことをしてあげたいです。 よければご意見お聞かせ頂けると大変ありがたく思います。
今まで素敵な格言や著名な方の教訓を探すことが好きで行っておりました。 このような言葉を見ていると、ヤル気が湧いたり、助けになっておりました。 ただ、モチベーションや救いは一時的には持続するのですが、これらの言葉は、当然、自分が導き出したものではないでの、「理想」だという前提があり、自分の人生にその教えを定着させることができていないように思います。 (意識しているつもりですが・・・) そこで、皆様はどのような方法で一般の方もこのような言葉を人生に活用できるようになるとお考えですか? 特に最近救われたのが、星雲大師の『星雲法語』にある「人生の最もたるもの(一)」です。 (宗派等は関係なく偶然出会ったものです) 第一、人生最大の敵は、自分自身である 第二、人生最大の病は、自分勝手である 第三、人生最大の悲哀は、無知無明である 第四、人生最大のあやまちは、邪見をもつことである 第五、人生最大の失敗は、驕慢になることである 上記5つの教訓を日々の生活に組み込めたら、家族・職場・友人等の私自身の悩みが解決するのですが、1~5を頭に入れて生活していても、分かっていながら見事に行動に移っておらず、苦しいです。 よろしくお願いいたします。
ご相談させていただきます。 私は結婚していているのですが、事情があり実家から持って来た仏壇を自分で供養しています。 自分の実の親族、家族などとはとても縁が薄い状態です。 これからも永遠に連絡を取り合う事はありません。 仏壇には先祖と祖父母の位牌が入っています。 本家ではありません。 先日、急な高熱が出て、PCR検査の結果コロナではなかったのですが、持病があり、もし自分に何かあったら残してしまった仏壇が、現在結婚している親族に対して迷惑になってしまうのではないかと大変気になりました。 私には子供もなくこの先、この仏壇を供養してくれる人もおりません。 主人と義母とは、私の生きているうちにとの話しで持ってきています。 今回の体験で、仏壇を閉じようかと思ったのですが、守って貰っていると感じていたし、寂しい気持ちがあります。 ただ、私は望まれた子供ではなく、小さい頃から存在することすら大変嫌われていたので祖母からしたら私に供養されても嬉しくないとも思います。しかし、私はその祖母のおかげで育つ事ができたので感謝しています。 祖母が亡くなったのが64歳で私も遺伝で同じ病気を持っているため、60歳までは自分で供養しようと決めていました。私は現在49歳です。 このタイミングで仏壇を閉じてしまって良いのかとても迷い、悩んでいます。 宗派は真言宗です。 文章が稚拙で伝わりにくいと思いますが、何かお言葉をいただきたいのです。 どうかよろしくお願いいたします。
お世話になっております。 以前、「自業自得の孤独を乗り切る方法」という内容でご相談した者です。 あれから丸一年、就業先を自分なりに探してみましたがやはり現実は厳しく、現在も無職かつ貯蓄も底を尽きそうな日々を過ごしております。 本日お伺いしたいのは 「孤独死」が確定した中で「今生での生活」を営む事すら金銭的に厳しくなる中どうしたら、せめて心穏やかに旅立てるのか、です。 行政、各所支援団体含め当たった上でも 「生(活)」する為の資金は得られず、かと言って自死する勇気もなく、だらだらと毎日息をする日々。待っているのは老いと病→いつかどこかで物理的に腐敗し、発見されて、最上の弔いがあった所で無縁仏です。 死ぬ瞬間はいつ、どこで来るかわかりませんし、死後の世界も未知の中、 【質問】 ・どう思って生きれば、死の瞬間を穏やかに迎えられるのか(物理的苦痛少なくの意味) ・今生で「ただ息をして今日を生きる(現実的にそうするしかない状況)」に意味はあるのか、あるならば何が出来るのか ・死に方により、死後の世界?は変わるのか ※各宗派により見解異なるかと思いますが、少しでも苦痛少なく、今生を終えられたら、と思います。
以前、代々ご家族の血縁でお寺をされている長男のお坊さんとお付き合いさせて頂いておりました。 私は、小さい頃からずっと日本の文化が 好きです。行動や意味、全てに想いが詰まっていると思うからです。禅もそうだと思います。宗派や教えは違いますが、修行する意味、教えの意味、そこにある想いは一緒だと思うのです。 彼は継ぐ決心が出来ず、実家のお寺を離れて大学生をしている時に出会いました。彼のお父様にお会いした時、すごく違和感を覚えました。言葉では表しにくいのですが、冷たい…ドライな感覚です。彼もお坊さんになる決心をして、修行に行くまでの期間、その違和感に似たものが私の中でどんどん大きくなっていきました。偏見の言葉や、権力には敵わないなどの発言も多くなっていきました。お父様そっくりでした。 お別れした後、周りの方からは「私達には分からない世界だからそれは仕方ない」「私達には分からない重圧があるのだろう」と。 それが私には納得がいきません。生きていくだけで辛い事、苦しい事が沢山あります。それはお坊さん一般人関係なく平等にあるものだと思います。 お寺の世界とは、一般の世界とは違うものなのですか?今まで自分が信じてきたものが分からなくなる時があります。
先日、叔母が他界し、菩提のお寺は曹洞宗でしたが、喪主の長男が、無知のため、真言宗の形式で葬儀を行ってしまいました。 来週49日が来るのですが、 その後、菩提寺に相談するどころか、葬儀社から紹介された、自宅の近所にある、曹洞宗の寺院に相談に行き、結果的に、他宗派で法事を執り行なってしまったこと、菩提寺がある、という当然な事より、49日、100日法要は断られ、故人は曹洞宗を信仰していましたが、お経を上げてくれる和尚様とはご縁がなく、49日法要は、喪主が一人で、心を込めて行うと言われました。 菩提寺に相談するという選択肢がなく、具体的な理由もないようでした。葬儀社に依頼しきりで、他人任せなのも垣間見えました。 墓地管理規則も無視した行為ですので、ご縁がなくなるのは当然です。 そして、この行為により、いずれ墓地そのものも撤去されると思うと、今までろくに墓参りもした事のない喪主に、故人に頼まれて、先祖代々の墓を守ってきた私としては、先祖を敬う心を抉られる様な、許せない気持ちで頭の中が混乱しています。 49日、100日、1周忌…と法要がありますが、呼べるお寺様もないため、喪主が一人で行うというのはいかがなものか、ご意見をいただきたく存じます。 よろしくお願いいたします。
お坊様方、お盆のお勤めお疲れ様です。 それにしてもお坊さんの僧衣、ただでさえ暑い中、何枚も重ね着してらっしゃるのは、見ているこちらが辛くなります。色だって(宗派にもよりますが)黒とか紫とか濃い色ばかりだし。どんなに暑くても袖まくりすらできずに法務を行うお坊様には心から尊敬いたします。 余計なお世話ですかね?修行を積んだお坊さんなら大丈夫? クールビズの僧衣バージョンみたいな、略式の冷感服って無いんでしょうかね。もちろん僧衣の色や形式にはそれぞれ大切な意味がある事は知っているのですが、さすがに近年の暑さは酷すぎます。 色々意見はあるでしょうが、個人的には、服装は形式よりも快適なものを着て欲しいと思います。率直な話、ジンベイや作務衣に近い服装でも良いんじゃないかと思ってます。何も僕等は服に拝んでもらってる訳じゃないんだし。 総本山にメールででも申し入れしようかなと思うのですが、余計なお世話でしょうかね。あるいは無駄な事でしょうか。伝統もあるものだし、急には変えられないとは解るのですが・・・ それとも、近年の僧衣には涼しくなるような工夫が色々されてるんでしょうか? ともあれ、お坊様方大変お疲れさまでした。 しばらくは涼しい所でお過ごしください。 (伝統を軽視するような言い方で、かえって不快にさせてしまったらすみません。またこのサイトに相応しくない質問であれば、放置して下さい。2、3日回答が無ければ削除します。)
おはようございます! お暇な時に教えていただけると嬉しいです。 潰れたり移転したりしたお寺にあったお墓、あるいは存続している古いお寺にあるお墓でも、もう面倒をみている子孫がいないかもしれないような古いお墓はどうなるのでしょうか。 私の片親の曽祖父と曾祖母は山形県に昔から住んでいたという地元の人だったのですが、娘達(そのうち一人は私のお祖母ちゃん)がみな遠方に嫁いでしまった後、どうなったかわからないんです。祖母も滅多に帰省できなかったみたいで、そちらの家族とは疎遠になり、そのうちに祖母も当時を知る血縁者もみな亡くなってしまいました。 曽祖父・曾祖母が住んでいたらしい地名がわかったのでグーグルしてみたら、村が統合されて今は市になったらしく正確な住所はわからないし、更に、昔大火事があって市役所の書類など焼失したとか。 曽祖父と曾祖母の菩提寺も宗派もわからなくて、彼らがお世話になっていたお寺そのものが今あるかどうかもわからないという状態です.....。 墓石の状態にこだわったり、今から何が何でもお墓を探し出して供養しなきゃ!と思っているわけではないのですが、お墓がどうなったのか気になって質問いたしました。 一度も会ったことがなかった東北の曽祖父と曾祖母ですが、血のつながりを感じます。寒い天気だと落ち着くというか居心地が良いんです。亡くなった肉親は天国にいると考えると私は安心できるのでそういう考えもありだと思っていましたが、上に上がったというよりはみんなつながって私の中で生きているのかもしれませんね。
どうもこんばんは 半年ほど前からちょくちょく剃髪をしているのですが剃髪後の再剃髪についてお尋ねします。 私自身、(毛根の)生存欲が大変強く、強固に幅広く繁栄しているため 頭全体を1日放っておくとバスタオルで拭いた時や暖簾をくぐった時に首を持っていかれ、 3日放っておくとマジックテープの固い部分になり、 5日放っておくと金タワシみたいな手触りになります。 毎日剃れば良いのですが、若干カミソリ負けしてしまい頭皮がヒリヒリします。 5日ほど置いて剃った場合は、髪が伸びすぎて剃るのに時間がかかります。 そこで二つ質問なのです。 ①宗派によっては4日、9日の5日に一度しか剃らないという事ですが、そこまであけてしまった場合、剛毛で毛根が死んでいないお坊様はどのように手際よく剃られているのでしょうか。 ②毎日剃る場合は、毎回少しカミソリ負けをし有髪時より使っている毛穴の油を取るシャンプーで洗った時にしみたりするのですが、これは慣れるのでしょうか。 ちなみに私が使っているのは、ジレットの電動安全カミソリ5枚刃でシェーピングクリームです。
いつもお世話になっております。 医師の勧めで、毎日、祈願寺の写経道場に 通っています。 その後、護摩でお経を上げ帰宅します。 祈願寺は距離もあるので、規則正しい生活 の基盤、また学びの機会にもなっており、 色々な人も来るので、軽い訓練にもなって いる…気がします。 医学的にも、写経行には集中力を高め、 認知症の予防にも…と聞きますが。 そこで数点疑問が生じました。 写経には大きな功徳が…と聞きますが、 そう言われても、いまだピンときません。 また、我が祈願寺の宗派は実践的な修行に 力を注いでおり、 本山には信徒向けの水行、登拝行、断食行 などのプログラムまで存在します。 まさに、「道場」といったところです。 ご詠歌もあった気が。私もたまに参加 しています。個人的にもやりたいので、 道具を揃えるか思案中です。 とくに断食行に関しては、 「治療目的での入堂はお断りします」 と注意書きがあります。 写経や信徒参列型の護摩と、断食行は やることが根本的に違う、また、前者には 治療云々…の記述はありませんが、 私の場合、認識のズレから誤解を生じ、 お坊さんから顰蹙を買っていないか不安に なってきました。 今までも、あらゆる場面で認識のズレから トラブルを作っていたので…。 関連して、最近になって、お坊さんから 行儀に関して指摘される事が増えました。 たとえば、 「トイレに入る前に輪袈裟を外して」 など…引き締めを図る時期が来たか? とも思います。 ほんとうに、無知で申し訳ない…。
檀家です。正確には実家のお墓を守っています。 この10年で4人見送りました。 最近、ご住職とのお付き合いの仕方が分らなくなりました。 昨年お寺に伺う際に時間に遅れ、ご住職にご迷惑をお掛けしてしまったことから、態度が厳しく変わられました。4人見送り漸く自分の時間が取れるようになったとは云え、私は更年期という年齢のせいか体力のせいか、何事もまだ休み休みといった態です。傍からみれば只の怠け癖に見えたのだと思います。時が経てばとも考えていましたが、法要の際も、お彼岸の際も、その後はご住職にまともに取り合って頂いたことがありません。私はお寺さんの望むような檀家ではないでしょうが、お彼岸のお墓参りの際には必ずお布施を納めています。 昨日、新年のご挨拶とお年賀、お布施と年会費の納付に行った際も、本堂に入られたままでした。お正月と云うことで主人と参りましたので、主人の家の親しみやすいお寺さんとの差に彼は驚いていました。 私の親戚は少ないですが、これから先も未だ何回も法要も続けて執り行わなければなりません。こんな様子では正直お墓参りですら気が重く困っています。春先に法要を控えているのですが、考えただけで気が滅入ります。お寺は気軽に行くような場所ではないのでしょうが、足が重くなっては元も子もないと思います。どうしたら良いのでしょうか。このまま機械的に必要な際にはお寺に向かい、お布施をし、と云うことで割り切った方が良いのでしょうか。 宗派は日蓮宗です。相談窓口のようなところがあれば教えて頂けると助かります。
今年、本厄という事で真言宗の不動明王のお札を頂いてきました。 いま、家には昔から好きで頻繁にお邪魔している臨済宗のお寺から頂いた地蔵菩薩のお札があります。 いままで厄除けもした事なく、もちろんいま住んでいるマンションには神棚もありませんし作るスペースすらありません。 ちゃんとお札を拝んだ事もなく、頂いたお札をどうしたらいいものか悩んでいます。(地蔵菩薩のお札は壁に貼っていました。) 実家は浄土宗なので、般若心経なら少しはわかるのですが・・・。 いまは、カバンを置いている、端をあけて白い紙を敷き左側に地蔵菩薩、右側にに不動明王という順に置いています。コップもないため、紙コップに水を入れて置いています。 夜に手を合わせてありがとうございます。と伝えるくらいでいまは終わっています。宗派が違うものばかりでなにが正解かもわかりません。 お札を置く順番もこれでいいのか分かっておらず。 みなさんみたいに、熱心にまつれるタイプでもなく、初心者でど素人でもできるおまつりの仕方を教えてください。 全くわからないため、どうしたらいいのかアドバイスをお願いします。こんな私でも失礼のないようにしたいと思っております。 どうぞよろしくお願いします。
実父が今年1月、手術の為の入院中、容態が急変し家族に見守られることなく病室で亡くなりました。その後の葬儀は、父に信仰心がなく無宗派、生前から戒名もお坊さんも必要ないと兄に話していたこともあり、本当に家族のみで祭壇を囲みお別れをしました。私の中にモヤモヤする物はありましたが、兄が簡素ながらも葬儀を取り仕切り、母は憔悴し兄に一任していたので、嫁いだ私は黙っていました。 落ち着いた頃母は「やっぱり気持ち的にねぇ…」と言い、小さな仏壇を購入し、入魂などはせずに位牌が無いので写真とお花を飾り、普通に毎日線香を立てて御りんを鳴らしています。自分でお経を読む練習もしていたり。供養は気持ち…と私も思いますが、このような形でいいものなのかと今も考えます。 今年初盆ですが、来年春まで納骨はせず、仏壇横に安置しています。初盆も提灯を飾ってあげたいと購入しました。誠に都合良し…ではありますが、普段の供養は仏式風に小さな孫達も気持ちを込めて手を合わせています。 母が納得していれば、このような形でも父への供養になっているのでしょうか。非常に苦しい闘病の中、一人で旅立たせてしまった父は成仏できているのでしょうか…。 兄は良く言えば、形ではなく気持ちの問題と考えているようです。 ご回答よろしくお願いいたします。
主人が亡くなった時に、永大供養のお墓を探して購入しました。 その後、子供もいなかったので結婚前の旧姓に戻して実家の近くで1人暮らしです。 先々、私が亡くなった際は、実家を継いでいる兄家族が喪主になると思います。 そこで質問ですが、実家には仏壇があり、お世話になっているお寺もあります。実家の両親の葬儀や納骨などは、すべて実家の縁があるお寺にお世話になると思いますが、私の場合はどうすべきなのでしょうか? 実家の方は、まだ亡くなった者はいませんが、高齢な父が最近、仏壇だけは購入しました。その際に初めてお坊さんに来ていただきました。 実家の家族も、私自身も、信心深い方ではなくお寺に行く、お坊さんに来てもらうという習慣はありません。実家の母だけが神棚にお供えするように仏壇にもお供えをしなければならないって気にしている程度です。 そんな感じで、実家のお寺ともお墓のお寺とも、深いご縁を頂いているという意識もなく、お逢いする機会もほとんど無い状況です。 通夜・葬儀などは、実家のお寺にお願いして、納骨の時だけ私のお墓があるお寺にお願いするのでしょうか? それとも、通夜・葬儀から、お墓のお寺にお願いすべきなのでしょうか? ちなみに、両方の寺ともに同じ宗派です。実家の寺は自転車で10分、お墓のお寺は車で40分位の距離です。
浄土真宗につきまして,質問させていただきます。 先日,母が他界し,仏壇を引き取りました。 仏壇の御本尊は,黄色い光が6本出ている掛け軸から,大谷派であることがわかりますが,「ウチは代々大谷派」,「ウチは代々東本願寺派」という,厳密な別があるのでしょうか? と申しますのは,墓石の横に彫られているものを見ますと,祖母の法名は「釋尼〇〇」,母の法名は「釋〇〇」で,前者は東本願寺派,後者は大谷派の法名のようで,なんとも気になるところです。 もう一つお聞きしたいのですが,仏壇に,「〇〇家先祖代々之霊位」という位牌が入っています。うらには,「昭和60年9月 施主 〇〇〇」と書かれています。〇〇〇は,すでに亡くなった私の父の名前です。 調べてみますと,浄土真宗は,お位牌は必要がないと書かれている記事がありました。仏壇が小さく,問題がなければお焚き上げをしたいのですが,いかがなものでしょう。 まとめますと, ・代々の宗派として,大谷派,東本願寺派は,厳密に区別しなければならないのか。 ・父がつくった位牌をお焚き上げしても問題はないか。 ということです。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。