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hasunoha 問答検索結果 : 「 宗派 」
検索結果: 2838件

自分の煩悩について考えました。

3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。 煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。 今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。 その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。 ご教示よろしくお願いいたします。

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納骨について

先月、父が他界し、遺言で、お坊さんも呼ばず、火葬葬で済ませてほしいとのことだったので、葬儀を行ったのですが、火葬をする前に納骨の件で、父が姉のために70年近く前に買った墓(現在は母も納骨されています。)の住職に連絡すると、「戒名もつけず、お経も上げないのであれば、納骨は出来ない」と言われ、現在も、納骨できないでいます。戒名もつけず、お経も上げないと自分の家の墓に入れることができないのですか。前の住職の時に頼まれて墓を購入し、その際、戒名もつけず、お経も上げなくても、他の宗派の人でも構わない。お布施も気持ちで良い。と言われ、頼まれて買ったと父が言っていましたが」と聞くと、永代供養であり、所有権はなく、登記などもしていない。何か言いたいのであれば、沖縄で住職 もしている顧問弁護士から内容証明を送る。過去同じようなことがあったが、一切認めていない。前の住職はでたらめなことをしていた。」と言われました。姉や母の際は、戒名もつけ、お経も上げたのですが、今回は故人の意思に従い、しなかった為、納骨出来ない状態です。購入した時の条家もないですし、現在の住職になってからも見たことがありません。真言宗の寺です。良い助言お願い致します。

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これまでの悪い行いを反省

今、祖母の7日参りでお坊さんに来ていただいてるのですが、先日単刀直入に「7日参りってなんか意味あるんですか?」って聞いてみたら、色々お話をしてくださいました。 7日ごとにいろんな仏様に会って、この経本はこう言う意味ですよとか、色々お話をしてるんだと。 んで今週35日の法事なんですが、この日は地蔵菩薩=閻魔大王の裁判?が行われる日で、6つの世界があり人間界とかに行ってくださいとか言われる日。 そして、その人間界に連れて行って下さいとお願いするのが葬儀だとお坊さんは言ってました。 地獄には絶対に行くなと、行くとすごく苦しいと言ってました。 その日からネットで地獄について調べるといくつかに分かれていてすごく怖くなりました。 嘘もついたり蚊とか蜘蛛とか動物も殺してしまったり、色々してきました。必ずしも人間界には行ける気がしません。 今はおばあちゃんの為に、般若心経と十三佛真言と光明真言と大師号?を読み、全てではないですけど夜に読んでます。 お経本の中に懺悔文と言うのがあり、説明を読むと「悪い行いを、みなすべて悔い改めます」と書いてあります。 悪い行いを反省する思いも含めて、お経本は一部ではなく全て読むのが良いのでしょうか? お坊さんにわからない事は何でも聞いて下さいねっ!って言われたんですけど、1人でお経読んでるの言うのも恥ずかしいので、ここで聞いてみようと思いました。 よろしくお願いします。 宗派は、高野山真言宗です。

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曹洞宗 托鉢について

昨年得度した曹洞宗上座でございます。 私は、安居までの娑婆暮らしの間、自己研鑽の為に月に二度程托鉢に出ております。托鉢の次第や作法等はよくお世話になっている和尚に教えて頂いているのですが、なんとなしに前日托鉢をしていて気になったことがございます。 何処の宗派ともない袈裟を身に付け托鉢に似せた者が金銭を乞い(この中に万が一にも"私度僧"の意志で修されている方がいれば大変失礼な表現なのですが)、世間での托鉢僧の印象を下げている中、例えば宗門の袈裟を被著している血脈ある僧侶の托鉢というものは素人目には前者と同じものに見えます。これは時に「軽犯罪法の乞食」として警察の方に所謂職務上質問等を受けることはあるのでしょうか?私は托鉢の最中、何度か警察の方とお会いしてことはございますし、警察署の前を通ることもございますが、そういった経験はありません。ですが警察の方も個人それぞれの仕事の仕方をされてるでしょうから、或いはそういったことも有るものかな、とふと気にかかった次第でございます。 もし、一人や二人での托鉢で警察の方に声を掛けられたことがあるという師がいらっしゃいましたら、そのお話を聞かせて頂けたら嬉しいです。宜しくお願い致します。                             合掌

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全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。

 お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。  宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。  宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。  今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。  我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。  「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。  「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。  各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。

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お坊さんへのスマートなお礼の仕方

こんにちは 下世話なお金の話で恐縮ですが、ご助言いただければ幸いです。 私は山登りが趣味でよく山歩きをしていますが、山頂などにはお寺があることが多く、門が開いていれば参拝させていただくようにしています。 恥ずかしながら私には仏教や宗派などの知識はほとんどないのですが、それでもお寺に一歩踏み入れた時の、あの独特の落ち着く雰囲気が何とも心地よく、 また、お堂を参拝して掲げられている由緒などを読むと、なぜこんな山奥にお寺があるのかがわかったり、あるいは意外な歴史上の有名人が登場したりして、そんな発見が楽しくてお寺を訪ねています。 (そもそもそのような動機でお寺を訪ねることが良いのかどうかも自信がありませんが…) そのようなときにお坊さんが声をかけてくださることがあり、いろいろと興味深いお話をお聞かせいただいたり、お茶を出して下さったり、秘蔵の文化財を見せて下さったところもあります。 ある山頂のお寺では「精進料理で良ければ食事していかれませんか?」と庫裡にお誘いいただき、当然有料だと思ったので遠慮なく頂いて代金を申し出ると受け取っていただけないということもありました。 どのような場合もありがたくお礼を申し上げ、お布施についてお尋ねするのですが、たいてい「そのようなお気遣いなく」と仰られますので、せめてもの気持ちで、帰りがけにも賽銭箱にいくらかのお金を入れて辞去するようにしています。 しかしお坊さんが時間をかけて興味深いお話や案内をしてくださることに対して、賽銭箱にコインを投げ込むというのではなく、やはりきちんとお礼をしたいと思いますし、 請求されなかったからといって何もしないと作法知らずと思われているのでは?、とも思ってしまいます。 このような場合に、お坊さんを煩わせることなくスマートにお礼をお渡しするには、どのようにするのが宜しいでしょうか?。 そもそもこのような場合の「相場」もわかりませんので、何卒お導きを賜ればありがたく存じます。 よろしくお願い申し上げます。

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聖天様(歓喜天様)は無病息災の守り神にもなられますか?

私は実家が真言宗で、宗派について色々調べたところ、 どうも真言宗は密教と言うものであるらしいと知りました。 さらに密教について図書館などで色々な文献を あたっているうちに聖天様(歓喜天様)を知り、それ以来 不思議に聖天様に心が惹かれるのです。 まず男神と女神のペアである所。こんなにも幸せそうな神様、見たことありません。 怖い神様だと言う割に、お酒とあんこ菓子と大根が好きだなんて、可愛い過ぎます。 また夫婦神として生と死、人と仏、男と女、陰と陽、など相対する要素の融合の象徴であるような気さえして、とても深遠な真理を内含してると思うのです。 とにかく出会って以来、気になって気になって仕方がありません。 拝みたい気持ちでいっぱいなのです。 怖いとか近寄りがたいとか言われているのが信じられません。 お叱りを覚悟の上で言うと、私は酒が好きなのですが晩酌の折には 聖天様とお酌を交えたいとさえ思ってます。 特に切実な願い事は現在無く、(あるとすれば2人目の子供が 無事生まれるようにと言う事です。)聖天様を無病息災、家内安全、 子孫繁栄の守り神として拝みたいのですが、このような形での 聖天信仰はあり得るのでしょうか? もちろん、聖天様は厳格な神様であり、信仰は一生続くと言う事も 解っております。 文献などを読む限り、聖天様は切羽詰まった人の最後の 願掛け対象と言うイメージがあるのですが、 無病息災や安全祈願としてもお力を発揮されるのでしょうか?

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檀家寺さんに仏教初心者が訪れるのは、ご迷惑になるでしょうか?

最近、仏教に興味を持ちはじめ、 自分なりに様々な本を読んだり、知識を深め始めています。 そして、私の心の支えになっています。 仏教を学ぶにつれ、 「仏教徒になりたい」という思いや 「お寺さんと繋がりたい」という思いが湧いてきています。 私が現在住んでいるのは、 古くから住んでいる人が多い、いわゆる「田舎」の地域です。 私は、夫の仕事の都合でこの地域に引っ越してきたため、 地縁などもなく、つながりのあるお寺が全くありません。 お寺はありますが、檀家さんは皆、何代も前からのお付き合いのようだし、 「写経の会」などの対外的に開かれているイベントなども特別実施されていないようなので、 興味はあるものの、 「完全なよそ者が訪れても受け入れてもらえるだろうか」 と、不安になってしまい、敷居が高く感じられ、一歩踏み出せずにいます。 また、まだ特定の宗派を信仰する、 というところにまでは至っていないため、 そのような状態で、檀家寺さんを訪れるのも もしかしたら迷惑になってしまうのかな・・・とも考えてしまいます。 昔からの檀家さんばかりのお寺に、 私のような、仏教初心者が訪れるというのは、 お坊さんの本音として、いかがなものでしょうか? 都市部に足を延ばせば、 私のように、仏教に興味を持ち始めた人でも 気軽に参加できるイベントなどが行われているお寺があるようなので 遠いけれど、そういうものに参加した方が良いのかな・・・とも感じます。

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2024/09/13

20年会えてなかった父の孤独死について

親が離婚して以来20年会えてなかった父が去年の夏に1人で住んでいた自宅で亡くなっていたことが父が住んでいる区からの手紙で分かりました。 父の兄弟が誰も引き取らないと言っていて実の娘の私に遺骨を引き取って欲しいとのことで、泣きながら承諾しました。 火葬代を支払い終えて今は遺骨が自宅に届くのを待っています。 恥ずかしい話、私自身そこまで経済力がなく一人っ子で独身なので遺骨は私の家の近くの霊園にある合同の納骨塚に埋葬しようと思ってます。 本当なら父と私が生まれ育った地に埋葬したかったんですが、私の住んでる近くの霊園に眠らせてあげた方がいいのかなと思ってます。私も毎日、もしくは週に1回はお参りにいけますので。 ここで【質問】なんですが 父にお経をあげてあげたいんですが、父の宗派が分かりません……。地元のお寺何件かに電話して私の父方の祖父が納骨されてたお寺を探したのですが見つかりませんでした…。 ・お経はあげてあげたほうがいいのでしょうか? ・今現在は父の写真を部屋に置いて話しかけたり涙したり感謝したり思い出を話したりしてます。 ・位牌は作った方がいいのでしょうか?うちには仏壇がなく、お墓も合同の納骨塚にいれるためどうしていいのかわかりません。 質問がごちゃごちゃになってしまいましたが、供養の仕方についてどのようにすれば宜しいでしょうか?私の想いと供養が届いて安らかに眠って欲しいと思ってます。

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2023/04/18

自死した妹の供養について

妹を自死で亡くしました。 四十九日法要も終わりましたがまだ混乱の中にいて毎日泣いてしまっています。たらればが止まらず後悔の日々です。 代々浄土真宗の家系で妹の供養もそのしきたりで行われましたが、わからないことがあるのでよろしければいくつか教えて頂きたいです。 ①浄土真宗では亡くなったらすぐ成仏の考えですが、それは生前仏様を信じた人でないといけないと聞きました。 妹も私もそこまで信心深い方ではなかったです。信心深くない人は亡くなったらどうなるのでしょう。魂があるのかどうかもわかりませんが、どこか彷徨って迷子になっていないかとすごく心配です。 ②他の宗派だと節目の法要に追善供養の意味がありますが、すぐに成仏する浄土真宗の節目の法要の意味合いを捉えかねています。故人を偲ぶのにも仏様に手を合わせる??の感覚がよく分からず…モヤモヤした質問でわかりづらくすみません。死を受け入れられず妹にはなかなか手を合わせられずにいます。 ③②と被りますが、浄土真宗に追善供養の考えがないため、もう妹に何もしてあげられないと絶望しています。成仏して苦しみも何もないなら大いに結構なはずなのですが、後悔の感情のやり場を失っています。エゴなのはわかっていますが気持ちが追いつきません。本当にもう何もできないのでしょうか。死別とはそういうことなのでしょうか。 混乱と絶望と後悔が繰り返しきてただただ苦しく虚しい日々です。何を信じて頼ればいいかもわかりません。 色々と的はずれな質問かもしれませんが、教えて頂けますと幸いです。

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位牌の移動

父が自死いたしました。単身赴任で地方にある実家で生活していました。 精神的にまいっていたのと、近くに住んでいる兄弟が協力してくれないと常々話していました。 コロナでなかなか会えず、会う直前に自死していました。 20日ほど過ぎようとしていますが、私は何で早く帰ってくるよう言わなかったのか、悔やんでも悔やみきれないです。 亡くなった場所を見たせいか、毎日、目を閉じると自死する姿が映像で浮かび上がり、本当に苦しいです。 お葬式は地方で家族葬を行い、その後 49日まで遺骨を預かって頂いています。 父の弟が祖父(父方の父)墓を管理しているため、父が管理し、毎月お墓参りしていたの祖父(姓が異なる)のお墓に納骨する予定です。父は父の祖父のことを尊敬し、父の祖父も大変可愛がっていたと聞いております。 父は都内の自宅に帰りたがっていたので、納骨は一周忌に行い、それまでは東京の自宅で供養しようとおもいます。 質問は、地方での49日法要の後、位牌と遺骨を都内に新幹線で持って帰るのですが、 その際、位牌や遺骨の正しい県を跨ぐ移動を教えて頂きたいです。 また、姓の違うお墓への納骨は問題ないでしょうか。 都内には仏壇はありません。 納骨後に小さな仏壇の購入を考えています。 それまでの正しい供養の方法が知りたいです。 宗派は、西山浄土宗です。 よろしくお願い申し上げます。

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浄土真宗の,大谷派,東本願寺派について

浄土真宗につきまして,質問させていただきます。 先日,母が他界し,仏壇を引き取りました。 仏壇の御本尊は,黄色い光が6本出ている掛け軸から,大谷派であることがわかりますが,「ウチは代々大谷派」,「ウチは代々東本願寺派」という,厳密な別があるのでしょうか? と申しますのは,墓石の横に彫られているものを見ますと,祖母の法名は「釋尼〇〇」,母の法名は「釋〇〇」で,前者は東本願寺派,後者は大谷派の法名のようで,なんとも気になるところです。 もう一つお聞きしたいのですが,仏壇に,「〇〇家先祖代々之霊位」という位牌が入っています。うらには,「昭和60年9月 施主 〇〇〇」と書かれています。〇〇〇は,すでに亡くなった私の父の名前です。 調べてみますと,浄土真宗は,お位牌は必要がないと書かれている記事がありました。仏壇が小さく,問題がなければお焚き上げをしたいのですが,いかがなものでしょう。 まとめますと, ・代々の宗派として,大谷派,東本願寺派は,厳密に区別しなければならないのか。 ・父がつくった位牌をお焚き上げしても問題はないか。 ということです。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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お説教会で気になったけど時間的に聞けなかったことがあります!

 いつもお世話になっております。先日お説教会にお参りした のですが、お導師様の「他の仏様は父性を持つが、阿弥陀様は 母性を持つ」と言う発言が気にかかりました。  他の仏様が父性を持つと言われているのは、厳しいからだ そうです。まるで、他の仏様は私たちを捨てる、というような 言い方だな、と感じました。  私が阿弥陀様のほかにお不動様も信仰していることを告げると 「でも、あなたが死に際に体が動かなくなる瞬間までそばにいて 導いてくださるのは阿弥陀様だけ」と言われました。    もちろん阿弥陀様の王本願は絶対だと信じております。 ですが、お不動様の功徳や利益についてまだ理解できていない のもあるため、「結局は仏界も父親なんてその程度なのかな」 と考えてしまっております。  一方では、「不動明王の体が黒いのは、私たちの住む穢土に 自らも身を沈め、救済任務にあたっているため」と説かれ、  聖無動尊秘密陀羅尼経の偈頌には、 「…念念歩歩所起罪 真言威力皆消滅 命終決定生極楽」とあり、 そんな冷たい仏様には見えません。  さすがにお不動様は来迎しないと思いますが…  他にも布教師さんの中に、他の宗派のことを 「きっと遊女が近づいてきたら『汚らわしい!』と追い返す」 とまで言い張る方もいます。でも愛染明王は遊女からの信仰が 厚かったとも聞きますし…  どうなんでしょうか?ご意見お待ちしております。 よろしくお願いいたします。  余談ですが、本日仕事納めを迎えることができました! 三宝の御加護に感謝いたします!!

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お札について

今年、本厄という事で真言宗の不動明王のお札を頂いてきました。 いま、家には昔から好きで頻繁にお邪魔している臨済宗のお寺から頂いた地蔵菩薩のお札があります。 いままで厄除けもした事なく、もちろんいま住んでいるマンションには神棚もありませんし作るスペースすらありません。 ちゃんとお札を拝んだ事もなく、頂いたお札をどうしたらいいものか悩んでいます。(地蔵菩薩のお札は壁に貼っていました。) 実家は浄土宗なので、般若心経なら少しはわかるのですが・・・。 いまは、カバンを置いている、端をあけて白い紙を敷き左側に地蔵菩薩、右側にに不動明王という順に置いています。コップもないため、紙コップに水を入れて置いています。 夜に手を合わせてありがとうございます。と伝えるくらいでいまは終わっています。宗派が違うものばかりでなにが正解かもわかりません。 お札を置く順番もこれでいいのか分かっておらず。 みなさんみたいに、熱心にまつれるタイプでもなく、初心者でど素人でもできるおまつりの仕方を教えてください。 全くわからないため、どうしたらいいのかアドバイスをお願いします。こんな私でも失礼のないようにしたいと思っております。 どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 5
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考え方が偏っている

私は、物事に対して、悪いほうに考えてしまいがちです。 電話をして相手が出ないと「嫌われているから出てもらえない」と考えたり、メールの返信が ないと「嫌われているから返信が無い」と考えたりしてしまいます。 実際、掛け直そうと思ったけど忘れてた、や、返信内容を考えていて返信が遅れてしまったという答えだった事がほとんどでした。 昔、友達の考え方を聞いた事がありました。とりあえず悪い方に考えておいて、結果として良かった時、その差を考えて嬉しく思いたい、みたいな…。それを自分にも当てはめてしまっているのかもしれません。 今も、とある事で返信が無い人がいます。良い人と言える方なので、返信内容を考えている途中なのだろうなと思う反面、怒っているから返信が無いのかなとも考えてしまっています。 返答をしてくださっているお坊さんの皆様にどう思われてしまうかわかりませんが、私はよく、とある仏教のサイトを見ます。宗派は内緒ですが、迷ったり辛くなった心が癒される気がしています。 今回もそのサイトを見て、きっと大丈夫と思ったりしますが、やっぱり暗く沈んでしまいます。思いの高低差があります。 何故私はこんなに、悪い方に考えてしまいがちなのでしょうか。物事を良くとらえられるようになるにはどうしたら良いのでしょうか。

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気になるお坊さんがいます。

初めまして。 今夏、親族が亡くなりまして その時のお通夜、葬儀、初七日、四十九日法要でお世話になったお坊さんの事が気になるようになってしまいました。。 宗派、お名前、お寺が分かる程度で、 言葉は交わしていません。 結構若そうですが、穏やかな感じで 読み上げるお経や説法がとても心に残っていて 私自身もお経、仏教の事をもっと知りたいなと思うきっかけにもなりました。 お塔婆の文字も印刷ではなく(多分)綺麗でした。 ただ…お名前を知っていたので、 Facebookに登録されている事が分かり 拝見しました。 写真数枚だけだったのですが、 プライベートの写真とお坊さんである時のイメージが真逆で少々驚きを隠せず…。 この人があの穏やかで綺麗な字を書くお坊さん…?というちょっとヤンチャな感じです。 ただやっぱり気になるので、友達申請をしてみようか、それともまずはメッセージできちんと名乗るか、何度かお世話になっている事を伝えるかして友達申請をしてみようかと悩んでいるのですが、 自分が関わって、これから先の法要でも関わる可能性がある親族のうちの1人にこのような事をされたら、 お坊さんにも喪主の家族や他の親族にも迷惑になるのではないか、不謹慎ではないか、行動した事により法要に来て頂けなくなってしまったら…と色々と怖くて行動を起こせません。。 (法要に来て頂けない=会えないのは嫌だ という意味ではありません。親族の法要はずっとお願いしたいと思えるお坊さんです) このままですと次にお会いするのは1年後です。 諦めた方が良いのでしょうか…?

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写経について

閲覧ありがとうございます。 現在福岡に住んでいます。 前から写経に興味があり、この間写経用紙?を購入しました。 興味があるものはとりあえず手を出してみる性格ですが、写経となるとなんとなくハードルが高く感じ、5年ほどやってみるか悩んでいました。 ようやく用紙を購入したのはいいのですが、私の家は代々神道を信仰していて、あまり仏教とは馴染みがありません。 過去の質問に、仏教の違う宗派の方や、特に宗教を信仰していない方がやっても問題はないと回答されている方がいらっしゃったので、もしかしたら私でも大丈夫なのかもしれないとは思っています。 ただ、写経をしたあとに、書き終えた紙をどうするべきか悩んでいます。 ネットで調べると、郵送でも構わないと言われているサイトをいくつか見つけました。 ですが、個人的に郵送よりは自らの足で納経にいく方が良いと感じております。 福岡にはいくつかのお寺が写経会のようなことをしていますが、家で写経したものを納経できるようなことは書いてありませんでした。 そこでお尋ねしたいのですが、福岡で自宅で写経したものを納経できるお寺はあるのでしょうか? 写経会をしておられるお寺の方がいらっしゃいましたら、外から写経を納経される人が迷惑だったりするのかも教えていただけたら幸いです。 また、神道を信仰している人間が、やってみたいという安易な気持ちをきっかけにして、写経をはじめてもいいのでしょうか? もちろん写経会に参加するのがいちばんいいことはわかっていますが、初めての写経でお寺に向かうのは緊張してしまうので、まずは家で写経をしてから、お寺で写経してみたいと思っています。 直接お寺に電話をすればいいのですが、何をどう聞いたらいいのか分からないので、こちらで質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。

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2023/03/12

人間は生きているだけで罪を重ねている?

いつも相談させていただき、本当にありがとうございます。 回答僧の皆様のお陰で、罪悪感に苦しみながらも日々の生活を送れています。 何度も質問しておりますが、私は一年前に愛犬を殺してしまいました。 その罪に気づいてから(初めは自分が殺したことにも気づいていませんでした)、今まで他にも数えきれないほどの罪を犯してきたことに気づきました。 hasunohaに出会い、仏教を少しづつ学んで知ろうとしています。 最近は私の今後の人生は償いのためにあるのだと思いながら生きています(これは私の勝手な考えです) 正しい言動を心がけ、ボランティアなどにも取り組んでいます。 しかし私自身や他の方の問答を拝見し、また、自分でもいろいろ学ぶうちに 私は生きているだけで罪を重ねていると感じます。 虫なども積極的な殺生はしませんが、知らぬうちに踏んだりして命を奪っています。 食べ物も命です。 私はお医者さまから指導されても飲酒もやめられません。(飲酒も罪ですよね) 話を盛ったりしてしまうのも嘘をつくことと同じです。 勿論食べ物は「命を頂きます」「ご馳走様でした」は必ず言いますが…。 罪を増やすことになるのにそれでも生きるのは、この世で生きることは修行ということなのでしょうか? 極楽にいくまでの修行が現世なのでしょうか?私は絶対地獄行きですが…。 宗派などで違うのは承知の上ですが、仏教の考えを教えていただけたらと思います。 どうぞよろしくお願いいたします。

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2025/02/05

仏教において、慈悲の心とは

51歳女性です。 私の両親は熱心な仏教徒で、経典を学び、教えを支えに生きていました。 ですが、慈悲や和合の教えは、相手を軽蔑する心には勝てないようで、両親の不和は続き、お互いに軽蔑しあったまま50年の結婚生活は過ぎ、父が他界したことで終わりました。 生涯、許せなくても、愛せなくても、良いのでしょうか?ふたりそれぞれに確認しましたが、愛はなかったそうです。 そのために孤独な晩年であっても、嫌いなものは嫌いでよい。あるがままの心で生きるのも自由だという教えは、仏教にはあるのでしょうか? ふたりとも一番身近な伴侶との和合は適いませんでしたが、孤独ながら我が道を行き、やりたいことはやり切った人生だったと思います。仏教の教えが孤独なふたりの心を支え、それぞれに邁進できたのだと思います。 ですが、かつての大きな声で喧嘩をしている老夫婦の姿は、朝晩、お経をあげれば救われるはずの宗派の教えが、それだけでは不十分な証拠のようにも思え…。 両親は、何時間もお経をあげるような熱心な信者でした。なぜ、50年かけても慈悲の心にたどり着けなかったのでしょうか? また、このような場合、亡くなった父は成仏できずに、輪廻を繰り返すのでしょうか? それとも、父が仏になれた可能性はあるでしょうか?ボランティアで地域の皆様に尽くし、多くの方々に感謝されていた父でした。

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仏教的に見た、善人と悪人・罪人

10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。 家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。 反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。 様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。 ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。 ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。 それは、「この世の中には善人も悪人も必要」 そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」 更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。 極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。 (ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。 だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。) お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 31
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