いつもお世話になっております、 今日祖母が亡くなりました。 末っ子のため親戚も来なく、こじんまりとした葬儀になります。 祖母は子どもが5人いて3男2女という構成です。私の父は四男ですが他の兄弟達は何もかもを私の父にお願いをして喪主も父が行うことになりました。 私が住む実家は母の実家であり、そこには仏壇があるため母方の祖母は仏壇を二つ設置するのはよく思わないと言っています。また兄姉達は置く場所もなく、 四十九日まで遺骨等を置く場所がなくどうしたら良いのかと困っています。 ちなみに祖母が住んでいた町のお寺に納骨堂はあります。祖母の住宅は古いため壊される予定です。 どうしたら良いでしょうか、お忙しいとは存じますが回答していただけるととても助かります。
自分は犯罪を犯しました。自分の心の甘さでこのようなことが起こってしまったと考えております。 自殺すれば償えるのでしょうか?
昔は性格が暗い時 心霊現象に頻繁にあってました 着物きたおばあさんが自分の上に乗ってたり 誰もいない部屋から男のうめき声したり 足捕まれて一週間手形消えなかったり怖い思いしました ですが怖い話大好きで心霊番組は欠かさず見ています 今は見ることも体験することもなくなりました たまに黒い影見たりするくらいで 昔みたいに具体的に見えません 今まで人生良いことないのは霊のせい?
人は自殺をすると地獄にいくのですか? 辛くて辛くて、でも逃げ場がなくて、死んで楽になれるって何の根拠もない考えにすがりついて、ある意味希望をもって、生きています。 まだ大丈夫、まだ大丈夫、いざとなったら死ぬっていう選択肢があるし、って思って生きていくのは甘いのでしょうか。 死んでも楽にはなれないのでしょうか? この世で苦しみながら、それでも皆さんのように頑張って、生きていくしかないのでしょうか?皆さんは辛くても、しっかり生きていて、すごいです。 死ぬな、とか、死んでも何も解決しない、とか、そんな言葉をきくと逃げ道はどこにもないように感じます。 そもそも逃げるという考えがだめなのでしょうね。 自殺をしたら地獄にいくのでしょうか?苦しみからは逃れられないのでしょうか? こんな幼稚な私ですが、お坊さんの考えを、お聞かせください。
長年住み慣れた田舎から東京に永住する覚悟で引っ越しをします。 祖父母と両親を失い兄弟もいなく、親族とも疎遠、配偶者もいないため本当の独りぼっちの生活を始めます。 新しい仕事に転職、新しい土地での生活と期待半分・不安半分(もしかしたら不安要素が強いかもしれません)ですが、生きていかなければならないので何とか踏ん張ってみます。 ただ、ここで失敗してしまったら後が無いのでもう人生を賭けるしかありません。 ただ私は失うものも無いですし、何も背負うものも無いので好きなように頑張ってみます。 そこで、この先の心構えや生きていくにあたり必要なこと、必要な考えをご教示していただけたら幸いです。 宜しくお願い致します。
次の文章は、「シュタイナー 魂について」(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巖 訳 春秋社)の一節です。 人間の魂は輝く月に似ている。しかしその輝く光を月は太陽から受け取っている。人間の魂は水に似ている。その水は、それ自身では冷たくも温かくもなく、熱を火から受け取っている。人間の魂は高次の動物魂に似ている。しかしそれが人間の魂でありうるのは、その光を人間の霊から受けとるからなのである。 シュタイナーは、シャタイナー教育を提唱した人で、読み進めるには難しいです。 この一節から、人間は影響を与え合うことで、魂を高めるということだと理解しました。前の文脈から引いてこないと分かりづらいとは思いますが・・・ いろいろな人がいていい。どんな光を受けとるか。そう考えると、技術が発展して、人間にとって都合のいいように外界世界を操作(著者の考えにあっていないかもしれませんが、霊を操作する)と、せっかくの魂の向上が妨げられるのではないかと考えました。 仏教では、どのように考えますか?
仕事が毎日忙しく、自分の時間が持てない日々。 来る日も来る日も仕事に追われて夢の中でも嫌々仕事し、怒られて、悪夢を見続け追い詰められます。遊びに行くような友達も1人もおらず、相談できる人も身近に誰もいません。家族にも毎日八つ当たりして、もう長生きしたいとも思わないし、別にいつ死んでもいいと思っています。 私は世の中お金が全てだと思っています。お金がないから働き、お金を自分で生み出す才能がないからこうして嫌々やりたくもない仕事をやり、働いてたいしたお金も貰えずストレスまみれのつまらない日々を送るしかないのだと思います。自分には何もない、才能もないからこのくらいのつまらない人生を送るしかないのです。 小さな楽しみや幸せを見つけなさいとよく言われますが、私にはただ日々がそうできている程度にしか思えません。そんな気休めもう充分だと。 とにかく毎日辛く、楽しいこともなく、さっさと死にたいという気持ちしかなく無気力で悲しいです。こんな不愉快な考え方の私にもうお言葉も頂けないかと思いますが、最後の助け船だと思い投稿しました。
どうして皆様は仏の存在を信じられるのですか? 年に数回決まったお寺で参拝しているし もちろん有難いとは思っていますが どこか伝説の話というか、心の底から信じられていない自分もいます。 仏陀なんていない。極楽浄土なんてあるはずない。死んだら灰になっておしまい。お墓で亡くなったおばあちゃんに思いを伝えても、死んだのだから意味はない。という思いが何処かにあります。 どうしてお坊さんは仏の存在を心から信じられるのですか? 私もできることなら心の底から信じてもっとありがたさを感じたいです。
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
二度目の投稿です 前回、両親に優しく出来ないことをご相談させていただきました。 両親にきつくしてしまう度に、弟の写真を見てしまいます。 私に後ろめたさがあるからでしょうか? でも、弟の顔が怒っているようには見えません。 むしろ、穏やかで優しさすら感じます。 弟が亡くなり一ヶ月が過ぎました。 弟は今どこにいるのでしょうか? 私が両親にきつく言ってしまうこと、私が、この家の後をとること 弟は納得しているのでしょうか? わたしは、死ぬまでこんなことを悩まなければいけないのかと、毎日のように考えてしまいます。 弟が亡くなった次の日、実家に近い職場の赴任決まるなど、何か偶然とは思えません。 考えすぎなのか、必然なのか 不思議です。 人は亡くなると、どうなるのでしょうか 弟は今、私たちの事を見ているのでしょうか? 自分が亡くなったことを納得しているのでしょうか? 親に冷たくする私は、地獄に堕ちるのでしょうか? とても怖いです
あるところで、「因果応報はありますか?」と聞かれたので、 「ある」と答えたら、「生まれたばかりの子供が虐待されて殺されました。 その子に責任はあるのでしょうか?」と聞かれ、「ない」と答えたら 矛盾だと攻撃されました。 確かに因果応報は善因善果悪因悪果ですから、あると思うのです。 しかし、三世の因果については、私は否定されるべきと思っていて、それは それが差別などを肯定してきた歴史があるからです。 しかし、その人が言うにはあるえらいお坊さんに聞いたら、「虐待されて 殺されるのは(過去世の行いの結果だから)当然だ。」と答えたというのです。 それに憤りを覚えたのですが、確かに過去に「親の因果が子に報う」 みたいなことは盛んに説かれたとおもうのですが、それが差別を温存 することになったと思うのです。だから、私はそれは否定されなければ ならないと思うのですが、現世の行いで来世の行く末が決まるという 輪廻転生がある以上過去世の行いで現世が決まっているともいえるわけです。 私の信仰は浄土宗ですが、それがベースにあり阿弥陀様の誓願により西方極楽 浄土を願生し、念仏するわけです。なので三世の因果を否定すべきか肯定 すべきか迷っています。どう考えたらいいのでしょうか?
父を亡くし、先日四十九日の法要を終えましたが、四十九日の法要を行った日は亡くなってから四十六日目であり、本当の四十九日の日ではありませんでした。そこで、 ①父はどのタイミングであの世(極楽浄土?)を目指すのでしょうか。 ②お供えなどは本当の四十九日まで行った方がよいのでしょうか。 ③お供えや話しかけたりするのは本当の四十九日が過ぎてもして良いものなのでしょうか。
私は世間的に認められた状態でなければ恥ずかしくて生きていたくありません。家族もまたそうです。 ただ、辛い事が、とても辛く感じ、誰もが出来る事を私にはできません。 死んだ方が楽に感じます。 母や兄にも迷惑をかけたくないし悲しませたくはないので、社会から消えて行方不明となり死のうかと思っています。そうすれば気にさせる事も無いかと思うので。 この暗澹たる気持ちから抜け出す事はできないのでしょうか。
ふとした疑問です。 急ぎの質問ではないのでちらっと見た時にでも答えていただけたら嬉しいです! ①お坊さん方は、仏教意外にも他の宗教のお勉強したりするのですか? ②他の宗教の事はどう思っていらっしゃいますか? 教えて頂けたら嬉しいです⭐️
二度目の投稿です、以前、主人が亡くなって26日目ですというタイトルで相談させていただきお二人のお坊さんから、目には見えなくても、あなたが想うとき必ずご主人は優しい眼差しであなたを見守ってくれています四十九日が過ぎても、ずっとそばにいてくれますよと回答いただき涙が溢れ心から嬉しくありがたく思いました、でもまた私の心は揺れています、毎日、時間ごとに分刻みに揺れ動きます、大変失礼な言い方だとわかっているのですが、お坊さんだって生きている人間なのにどうして亡くなった人がそばにいるとわかるのでしょうか?大切な人を亡くしてしまったらそのようにおもわなければ生きていけないから、そういう考え方をするんでしょうか?わからないんです、いくらそばにいてくれると思っても私には見えないし声も聞こえない何も感じない主人と出会って30年以上、今年の6月は結婚28年目でした、今思えば不思議なことに去年の結婚記念日には私が初めて手作りのケーキを作り、その前の年は主人が初めて、いつもありがとうと書いたケーキを買ってきてくれました そして娘がお腹にいる時の日記を読み返していたらなんの記念日でもないのに3月13日パパがママにピンクの花を買ってきてくれましたと書いてあり3月13日は主人の命日です、それと私はブラックなコーヒーが大好きだったのに主人がいなくなってからそれが突然飲めなくなり主人の好きだった甘い缶コーヒーを毎日飲んでいます、出会ってからずっと会えない日もあったけど声を聞かない日はなかったので亡くなってからずっと声が聞こえない手を握れないのがたまらない毎日作っていたお弁当はキッチンに置いたままです、失礼な質問かもしれませんがどうか教えて下さい。
畜生道に行ったとし、犬猫になったとしたら、お盆に帰るとされるのは空想上のは犬猫ですか?現実世界の犬猫は、なんなのですか。人と畜生は、現実世界に存在するので、二層空間の世界観なのですか?
輪廻転生の事を考えると胸が痛くなります。何故仏教は命を一回限りとしないのでしょうか。 もちろん今ある生も今生限りのものですから人生が一回限りであることには変わりありません。 ただ殉教、殉死、心中等を遂げた歴史上の偉人の前世や来世が全く下らない物だったかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになります。 自分の運命や人生を全面的に肯定して死に切ったとしても、過去世や来世の全く違う人生によって矛盾をきたしたものになるとしたらどうでしょうか。 「七度生まれ変わって朝敵どもを皆殺にしたい」と言って自決した楠木正成が果たして貧民街の子供に生まれ変わる事は無いと誰が言えましょう。 彼は生まれ変わりを願いましたが、あくまで自分の人生を貫き通す意思であり、運命愛に過ぎません。 生涯不犯を誓って異国で命を落とした宣教師達の前世がどこかの売春婦であると考えただけで吐きそうになります。 もしそれで良いのならこの世での清貧、忠義や誠意も全く無意味なものとなりますから。 ただ輪廻思想が広大無辺な仏教の歴史の中で偉大な説法者達に受け継がれてきたものである事は否定できませんし、 私は至らぬ凡夫ゆえ仏教の各宗派の前提とする輪廻の教義まで仔細には存じ上げません。 仏教では、特に自性を認めない中観派では何が輪廻するとされているのでしょうか? 水車を廻す水や携帯を動かす電気のように、「私」ではない、「私」の生み出す執着そのものが輪廻するのでしょうか? 執着が輪廻するのであれば悟りを得た=執着を滅した釈迦が解脱に入られたと解釈できるように思えますが。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
小~高校と自ら招いた種で周りから疎まれ、苦しい学生生活を送り 大人になった今趣味はパチンコに溺れ、親戚や弟にお金を借り、使ってはいけないと思いつつ今日も行って結果使うとまずいお金まで使用してしまい、 キャッシングこそしてませんが来月はかなりジリ貧状態です(笑) 少し前まではそのうち恋愛したり、家族に孝行できるのではないかと思ってましたが、今はもうそんな考えもでず、ギャンブルで自らを苦しめ、そのストレスから過去に楽しかったことなんてなかったし、この調子で行くと、永遠にないんじゃないかなんて思い始め、最近は自殺のニュースがあると可哀想というより 「いいな~楽になれて」なんて考えるようになりました。 色々長く書きましたが、結論から申し上げますとさっさと死んでこのつまらない現実から退場したいと考えております^^ 人生楽もあれば苦もあるなんて言葉がありますが、今のところ自ら苦に足を突っ込んでいる部分もありますし、夢もなければ希望もありません。 どうやったら死ぬ勇気がでるのか教えて頂ければありがたいと思います。 よろしくお願いいたします。次はもう少しまともな人間に生まれ変われたらいいなと微かながら願います。 長文誠に失礼いたしました
先日母が亡くなり、とても綺麗な戒名を母にいただきました。 私達の魂は何回も生まれ変わり、いくつもこの世に生を受けては去っていっていると理解してます。そこで思ったのですが、生まれそして去るその度に戒名をいただくことになると、一つの魂にいくつもの名前が仏界にある、ということになるのではないでしょうか。 ふと、これが仏界ではどうなるのかと疑問を持ちました。一人にいくつもの名前があると想像すると、沢山の分身が仏界にいることになりますが…。 どんな感じなのでしょう。どうお考えですか。それともこういうものはこうなのだ、という教え(お話)でもあるのでしょうか。 よろしくお願いします。