目蓮さんの最期は、過去生の悪行為の報いで壮絶なリンチだったという話は有名ですよね。 前の生は地獄に落ち、その期間が終わって、目蓮さんとして生まれて お釈迦様の弟子になる人生を生き。 地獄に行ってすら刈り取りが完了していない業があったから、リンチを受け、亡くなったのですよね? 前の人生で淫に耽り親を殺して(他の説あり)、地獄にまでいくほどの存在が、地獄での期間を終えたとはいえ、 地獄の次の人生がいきなりバラモン生まれのお釈迦様の二大弟子ですか?!と、驚いてしまいました。 よほどの凄い善因もどこかの過去生で 作っておられたということでしょうか? 2、地獄がらみで疑問に思ったこととして 別の話ですが、このサイトの問答で、或るお坊さんが、ご自身の来世は地獄だと述べておられるのを目にしました。 何ゆえにでしょうか? ご謙遜で、自分は地獄行きと仰っておられるのでしょうか? 熱心に仏道を学び、智慧と福徳の修積に努めておられるご様子なのに、それほどの生き方をして、来世が地獄だとは…。 特に悩んでいるわけではないのですが、 もし教えてくださる方いましたら、宜しくお願い致します🙇
私は昔から死んだ後どうなるのかという事を考えてしまいます 考えても何十年後かには死ぬ運命しかないし考えたらキリがないなと自分でも思いますがやはり考えてしまいます、友達が生きる意味あるのかなとか死にたいって言っているのを見ると余計自分も考え込んで死ぬのが怖い、生きたいと思う事が年々増してきています 正直臆病者で地獄に行きたくないと思ってしまいます、あの時やめておけば良かったと今でも後悔するようなことを思い出して悩んでいます 例えば小学生の頃人の落し物を落し物入れから取ってしまったり、高校生の頃ファミレスで携帯を充電する為に盗電してしまったり… このような事をしていてはやはり地獄行き確定してしまってるのでしょうか?
先月、病気療養中だった母を自宅で看取りました。 訪問看護や訪問診療 周りの方に支えられ最後まで自宅で過ごすことができ、母は「私は、幸せ者だ。ありがとう」と言ってくれました。 今は寂しくて仕方ありませんが、あの世があるならまた私の母になってもらえるように、笑顔で会ってもらえるように、今後一生懸命生きて天寿を全うしたら、私はまた母に会うことができますか? 誰もあの世を見た人はいません。わかってはいますが、お坊さんの きっとまた会えるよの言葉が欲しいです。
数年前に友人を自死で亡くしました。私は一貫して自殺も死の一つの結果に過ぎないと考えていたので、仮にあの世があるならば安楽に生活していると思います。 それはそうと、予定外だったのは友人の死が私を苦しめているということです。 友人は人を思いやる気持ちが人一倍感じられ、常に優しさで溢れていました。 はっきりいってこの世の人間の大半は自分を含めて糞ですが、そんな中で例外的に糞では無かった友人を亡くしてこの世に生きる意味というのも失いかけています。 翻ってこう思うのは自分が人間に向いていないというか、社会不適合者なんだと最近は思うようになりましたがこんな人間でも出来るだけ楽に生きる心構えというのはありますか。それとも前向きに自死を検討するのも一つの方法だと思いますか。 また上記とは別に病苦もあり肉体的にも苦しめられています。
私くしは、まだ自分が ヨチヨチ歩きの時に 誰かと 会話をしていた 記憶が なんでか ありました。 度々 今考えると 助け船を出してくれていた事も ありました。それを 踏まえてお話し致しますが ある日突然 私くしに 聞こえるというか 私くしの口を借りて話す存在に気付きました。 その存在は お地蔵様だと 伝わって参ります。 この世を救いたいんだと 強く伝わって参ります。 でも、その存在には 身体がございません。 私くしと 共に 生まれ生きているように 感じます。 その方が突然 私に お坊様になりなさいと 伝えて参りました。 私くしは その気持ちを無視して 生きていいのでしょうか? 私くしの話がおかしいと思うと思うので お答え願うもよし 願わないも よし 欲世で は行というのは 成り立たない気がします。 行というのは 仏様に 関わる事で 行というのではと 思うからです。
こんばんは。 心配してくれる親しい友人もいて、 たまに様子を見に来てくれる両親もいて、 仲の良い兄妹もいて、 新しい土地で出会えた友人もできて、 最愛の子供たちもいるのに、 誰にも主人を亡くした辛さ全てを話せません。 主人と交流があった方とお会いしても、 表面上のありふれた寂しさを語るくらいで、 相手を困らせてしまうのではないかと、考えると それ以上の話はしません。 死ななければ、何でもできる それ以上の辛さはないから。 わかります。死んだら終わりです。 でも、その気持ちが越えてしまうほどに 悲しみで溢れてしまいそうで、 明日を迎える気持ちも湧いて来ません。 どうしたら良いのでしょう
いつもお世話になっております、 今日祖母が亡くなりました。 末っ子のため親戚も来なく、こじんまりとした葬儀になります。 祖母は子どもが5人いて3男2女という構成です。私の父は四男ですが他の兄弟達は何もかもを私の父にお願いをして喪主も父が行うことになりました。 私が住む実家は母の実家であり、そこには仏壇があるため母方の祖母は仏壇を二つ設置するのはよく思わないと言っています。また兄姉達は置く場所もなく、 四十九日まで遺骨等を置く場所がなくどうしたら良いのかと困っています。 ちなみに祖母が住んでいた町のお寺に納骨堂はあります。祖母の住宅は古いため壊される予定です。 どうしたら良いでしょうか、お忙しいとは存じますが回答していただけるととても助かります。
昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。 私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。 「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。 精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。 以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。 しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。 科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。 そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。 こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。 時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。 ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。 実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。
結婚前に社会的にいう過ちをおかしました。相手は歳が離れていて数ヶ月前に亡くなりました。 生前のメールのやりとりを奥様が見て連絡があり話しました。 罵倒もなし、声を荒げることもなく、~でしょ、に、はい、と答え、自分の言葉で話さないまま、もう私からは電話しない。これからは自分を大事にしなさい、お元気で、と言われて電話は終わりました。 謝罪は言おうとしましたが、遮ることができず、先に、その涙はバカなことしたな、の涙なの?って聞かれて、はい、と言えただけでした。 自分の夫と不倫した相手に話しているとは思えない口調とテンションで、逆に怖くて不安すぎて死にたくなりました。 両親や家族に知られるようなことをされないか、毎日不安でいっぱいです。 今は近所のお寺に毎日行って、懺悔の気持ちを心の中で唱えています。でも、それが逆に不安や怖さを増幅させているように感じることもあります。 罵倒された方が自分の懺悔や後悔の気持ちを吐き出し切れたと思いますが、何かは言うべきだったと後悔もあります。 もう過ぎたこととしてきっぱり今から生きると決めましたが、どこかにもやもやとしたものが残っています。 本当にもう何もないのか。 自分で自分を不安にしているのは分かっています。もう一回、奥さまと話したいと思う気持ちもあります。でも、もう電話しない、お元気で、を信じたい気持ちもあります。 どうしたらいいのでしょうか。
仕事が毎日忙しく、自分の時間が持てない日々。 来る日も来る日も仕事に追われて夢の中でも嫌々仕事し、怒られて、悪夢を見続け追い詰められます。遊びに行くような友達も1人もおらず、相談できる人も身近に誰もいません。家族にも毎日八つ当たりして、もう長生きしたいとも思わないし、別にいつ死んでもいいと思っています。 私は世の中お金が全てだと思っています。お金がないから働き、お金を自分で生み出す才能がないからこうして嫌々やりたくもない仕事をやり、働いてたいしたお金も貰えずストレスまみれのつまらない日々を送るしかないのだと思います。自分には何もない、才能もないからこのくらいのつまらない人生を送るしかないのです。 小さな楽しみや幸せを見つけなさいとよく言われますが、私にはただ日々がそうできている程度にしか思えません。そんな気休めもう充分だと。 とにかく毎日辛く、楽しいこともなく、さっさと死にたいという気持ちしかなく無気力で悲しいです。こんな不愉快な考え方の私にもうお言葉も頂けないかと思いますが、最後の助け船だと思い投稿しました。
どうして皆様は仏の存在を信じられるのですか? 年に数回決まったお寺で参拝しているし もちろん有難いとは思っていますが どこか伝説の話というか、心の底から信じられていない自分もいます。 仏陀なんていない。極楽浄土なんてあるはずない。死んだら灰になっておしまい。お墓で亡くなったおばあちゃんに思いを伝えても、死んだのだから意味はない。という思いが何処かにあります。 どうしてお坊さんは仏の存在を心から信じられるのですか? 私もできることなら心の底から信じてもっとありがたさを感じたいです。
先日母が亡くなり、とても綺麗な戒名を母にいただきました。 私達の魂は何回も生まれ変わり、いくつもこの世に生を受けては去っていっていると理解してます。そこで思ったのですが、生まれそして去るその度に戒名をいただくことになると、一つの魂にいくつもの名前が仏界にある、ということになるのではないでしょうか。 ふと、これが仏界ではどうなるのかと疑問を持ちました。一人にいくつもの名前があると想像すると、沢山の分身が仏界にいることになりますが…。 どんな感じなのでしょう。どうお考えですか。それともこういうものはこうなのだ、という教え(お話)でもあるのでしょうか。 よろしくお願いします。
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
二度目の投稿です 前回、両親に優しく出来ないことをご相談させていただきました。 両親にきつくしてしまう度に、弟の写真を見てしまいます。 私に後ろめたさがあるからでしょうか? でも、弟の顔が怒っているようには見えません。 むしろ、穏やかで優しさすら感じます。 弟が亡くなり一ヶ月が過ぎました。 弟は今どこにいるのでしょうか? 私が両親にきつく言ってしまうこと、私が、この家の後をとること 弟は納得しているのでしょうか? わたしは、死ぬまでこんなことを悩まなければいけないのかと、毎日のように考えてしまいます。 弟が亡くなった次の日、実家に近い職場の赴任決まるなど、何か偶然とは思えません。 考えすぎなのか、必然なのか 不思議です。 人は亡くなると、どうなるのでしょうか 弟は今、私たちの事を見ているのでしょうか? 自分が亡くなったことを納得しているのでしょうか? 親に冷たくする私は、地獄に堕ちるのでしょうか? とても怖いです
あるところで、「因果応報はありますか?」と聞かれたので、 「ある」と答えたら、「生まれたばかりの子供が虐待されて殺されました。 その子に責任はあるのでしょうか?」と聞かれ、「ない」と答えたら 矛盾だと攻撃されました。 確かに因果応報は善因善果悪因悪果ですから、あると思うのです。 しかし、三世の因果については、私は否定されるべきと思っていて、それは それが差別などを肯定してきた歴史があるからです。 しかし、その人が言うにはあるえらいお坊さんに聞いたら、「虐待されて 殺されるのは(過去世の行いの結果だから)当然だ。」と答えたというのです。 それに憤りを覚えたのですが、確かに過去に「親の因果が子に報う」 みたいなことは盛んに説かれたとおもうのですが、それが差別を温存 することになったと思うのです。だから、私はそれは否定されなければ ならないと思うのですが、現世の行いで来世の行く末が決まるという 輪廻転生がある以上過去世の行いで現世が決まっているともいえるわけです。 私の信仰は浄土宗ですが、それがベースにあり阿弥陀様の誓願により西方極楽 浄土を願生し、念仏するわけです。なので三世の因果を否定すべきか肯定 すべきか迷っています。どう考えたらいいのでしょうか?
父を亡くし、先日四十九日の法要を終えましたが、四十九日の法要を行った日は亡くなってから四十六日目であり、本当の四十九日の日ではありませんでした。そこで、 ①父はどのタイミングであの世(極楽浄土?)を目指すのでしょうか。 ②お供えなどは本当の四十九日まで行った方がよいのでしょうか。 ③お供えや話しかけたりするのは本当の四十九日が過ぎてもして良いものなのでしょうか。
私は世間的に認められた状態でなければ恥ずかしくて生きていたくありません。家族もまたそうです。 ただ、辛い事が、とても辛く感じ、誰もが出来る事を私にはできません。 死んだ方が楽に感じます。 母や兄にも迷惑をかけたくないし悲しませたくはないので、社会から消えて行方不明となり死のうかと思っています。そうすれば気にさせる事も無いかと思うので。 この暗澹たる気持ちから抜け出す事はできないのでしょうか。
はじめまして アメリカ人の夫と子供のいるアメリカ在住の日本人女性です。 義理の両親が車で30分の所に住んでいまして、週末は一緒に食事やお誕生日のお祝いをしたり関係は良好で、特に義母とは本当の娘の様に可愛がって頂き、私もアメリカの母と慕っておりました。 その最愛の義母が3年に及ぶ闘病の末、昨日午後に自宅で家族が見守る中、眠るように息を引き取りました。 私にとって身内の死は初めての事で、(日本の両親は高齢ですが、とても元気で私との関係は大変良いです) 今朝起きて義母の事を考えてしまい、寂しくて涙が止まりません。 敬虔なカソリックである、義理の家族、親戚、夫、子供達は「神の元に行かれ、苦しみから解放されたので良かった」と理解しているようですが、カソリック信者でない私には到底理解できません。 日本の家族や周りに日本人のお友達もいるのですが、「いつもエネルギッシュで明るい人」というイメージがあるので、メソメソして心配させたく無く、この寂しさをどうしたら良いのか、心の整理がつきません。 義母の死を受け入れることが出来なくて大変苦しいです。 アドバイスをどうぞよろしくお願いします。
ふとした疑問です。 急ぎの質問ではないのでちらっと見た時にでも答えていただけたら嬉しいです! ①お坊さん方は、仏教意外にも他の宗教のお勉強したりするのですか? ②他の宗教の事はどう思っていらっしゃいますか? 教えて頂けたら嬉しいです⭐️