容姿などの見た目で判断されることにコンプレックスを感じ悲観的になっている人は結構いるみたいだけれど 世の中には見た目で判断出来ない人もたくさんいるのであまり自信を無くさないで欲しいなぁと思う 私は近視だけど見えない訳ではない 見えているので見た目もそれなりに分かる でも人には目判断や耳判断があり 私は後者の方 見た目で人を判断するのが苦手 ほとんど声で人を判別している なので「百聞は一見にしかず」じゃなく 「百見は一聞にしかず」となる 大変失礼ながら せっかくお坊さま方が写真を掲載されているけれど 正直みんな同じに見える 一生懸命みんなの特徴を探して覚えようとしてはいる でも正直みんな同じに見える 大して変わらない みんなお坊さまだ 多分お坊さまだ 少数派かも知れないけれど 多分そういう人もいっぱいいると思うから 必要以上に見た目にコンプレックスを感じなくても大丈夫なんじゃないかなと思っている 磨くならやっぱり中身 私も中身には全然自信は無いけれど なんとかせにゃならん!といつも思っている せっかくいただいたアドバイスは大切にしたいし 出来る範囲内にはなるけれど精一杯努力したい あ"~!!!とか思うこともあるけれど それでもまた私はhasunohaのお坊さまに会いに来る ここでは耳判断は役に立たないし 目判断も出来ない そういう面では不便だけれども いろんな考えのお坊さまがhasunohaには揃っているだろうと信じているから またあきらめもせずめげることなくやって来る 私は不完全な人間です 完璧にはなれません 目指せ普通!です でも普通にもなれないみたいです 『普通って何なのでしょうか?』 それが質問になります みんな持っているものさしは違うはずなのに 親に「もっと普通にして!」と言われてしまいます 『普通って何なのでしょうか?』
3年ほど前から難病指定のある、SLEという病気になってしまいました。診断された時はお医者さんの前で泣いてしまう程悲しく、受け入れられなくて、しばらく泣き続けていたのを覚えています。ここ最近は月日も経ち、家族の助けもあり、少しずつ受け入れようと努力しています。しかしまだまだふと泣いてしまったりと受け入れられません。 なぜ私がなってしまったのか。なぜ病気のせいで趣味を我慢しなくてはいけないのか。なぜ…という気持ちが強いです。 どうしたら病気を受け入れ、前向きに生きていけるのでしょうか。
先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。