私は大学院生です。5月ごろ糸が切れたみたいに何も手につかなくなり、そこから1ヶ月は動けずにただ死にたいなぁ、と思いながら過ごしました。薬を処方されましたが気持ちは塞ぎ込んだままでした。両親や先生がとても良い人達なので、勧めてくれるままに休学することにしました。 気分がいい時に本を読みはじめました。その中に一般向けの仏教の本がありました。興味深いものでした。 心の働きと体によって引き起こされる感情の働きは別のものであると考えると心が整理できました。 自分と世界の境界はなく、全てが平坦に繋がっていることを感じます。すべて同じ温度です。 私の世界は私だけのものであり、どうあっても私たちは孤独なのだと思いました。 五感で感じるものは自分の脳が処理したものであり、世界が「本当」である確証はない。 本当のことは「そう考えている自分」を観察している私の視点だけです。 ずっと死にたかったのに、死ぬことにも生きることにも意味はないことが今ではよく分かります。 両親に顔色がよくなったと言われました。今はまだ動けませんが、元気になっていくのだと思います。 ただ、価値観の変化に戸惑いも感じています。 三浦春馬くんが自殺したニュースを見た時、以前なら「どうして」「悲しい」と思ったはずです。ですが私は「彼は決めて、実行したんだな」とだけ思いました。自分の変化に驚きました。世間が彼のニュースに過敏になる気持ちがもはや全く分からないのです。 それからテレビは見なくなりました。SNSもすべて辞めました。 最近、人間が本物だと思えないのです。 他人を見て、心が冷え切ることがあります。彼らの話す言葉や動作は愛せても、彼らという個体に価値を見出せないのです。 神も仏もないのと同様に、この人を大切にする理由もなければ傷つけない理由も無いのだ、 社会のルールは人間が作った洗脳であり、本来そこには何も無いのだという考えが離れません。 本にあったので試しに一万円札を破いてみました。簡単に破けました。私を縛るルールがとても陳腐に思えます。 本当に人間は、私を含めて大切で本物でしょうか? 暴力的な感情ではありません。心はずっと静かです。このまま誰かを傷つける人間になるのでしょうか。すでに私の考えはそれを否定できません。 私はどこで間違った考えをしているのでしょうか。未だ鬱であるだけなのでしょうか。
こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。
2年5カ月前、近くの草むらに迷い込んだのか捨てられたのか分かりませんが、迷いうさぎがいて、1週間通い保護しました。 その子が闘病後亡くなり1カ月が経ちました。 体調が悪くなり病院に何度も通い様子を伝えましたが、数名の獣医師が詳しく診察することもなく、別の獣医師が検査をして病気がわかりました。 その時には重症となっており、4カ月の闘病生活をし、最期は呼吸困難となり苦しみ亡くなりました。 あの時、別の病院に行っていたら結果は違っていたのか、私の介護が間違っていたのか、など考えてしまいます。 2年5カ月と一緒に過ごした月日もあっという間で、もっと生きていたかったのではないかという思いや、病気を早く見つけてあげられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいです。 私が保護せず、他の方が保護していたらもっと元気に過ごせていたのではないかなどと考えてしまいます。 亡くなると、生きていた時の苦しみや痛みはなくなりと聞きますが、旅立った子は今は苦しみから解放されているのでしょうか。 亡くなったあとも近くにいる気配を感じる方がいると話を聞いたこともありますが、私には感じません。苦しんで旅立ったので、もう近くにいたくないのかとも考えてしまいます。 短い年月ではありましたが、とても大切な存在で、保護した時よりも日増しに表情も穏やかになってとってもかわいい子でしたが、今は最期の様子しか思い起こすことができません。今は苦しみから解放され過ごしていてほしいと願うばかりですが、どのように供養すればあの子はこれから穏やかにいられるのでしょうか。 アドバイスを頂けたらと思い質問させていただきました。
初めまして、クラウディアと申します。 私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。 実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。 私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。 目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。 例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、 そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか? そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。
悪魔に取り憑かれました、どうしたらいいですか、私の魂はもう取り返しがつかないみたいです、悪いことをした覚えはないのに
大きな悪行でなくても良くないこともやってきました。そんな人間でも仏様の前に行き全ての今までの悪い行いを話し悔い改め仏様の前で祈ることは許されるでしょうか? このくらいはいいだろうと思うような悪い行いも今思えばどんなに小さなことだろうと良くないと思うようになりました。仏様の前に行くことは許されるでしょうか?
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
いまスピリチュアル界隈で、宇宙存在との交流が始まる、などの話をよく聞きます。 お坊さん的には、このような話はどう思いますか? 動画サイトの中には、その交流を持てるのは選ばれしものだけ、などと言っている人がいたりして、なんだか選民的だなぁと思ってしまいます。ただ、結構本気で信じている人も多いと感じます。宇宙存在と話せる人なども多数いる印象です。私は霊感もないし、そのようなテレパシー能力もないので、そのような情報を見たときにどう扱えばよいかわかりません。
彼とは婚活サイトで知り合ったのですが、婚姻歴は『ある』との表記のみでした。 私もバツイチなのでお互いに離婚歴があることで深い話もでき、人柄も穏やかで話も合うことから将来的にも一緒にいられるかなと思い、お子さんが2人いる事や今後のことも含めて(前妻の元にいます)告白されてから1ヶ月ほど熟考してからおつき合いをスタートさせました。 順調に交際が進み1ヶ月が過ぎ、将来の事も話すようになり、彼のことが更に好きになってきた矢先に、実はバツ1ではなくバツ2だと告白されました。 私の前の結婚では相手への信頼が崩れ(相手のモラハラが原因です)夫婦間の信頼がとても大事だと実感しました。自分、相手、家族など、これからのことも考えて抜いて決心したのに、なんでつきあう前にそんな大事なことを言ってくれなかったのだろう、と少し不信感を抱いてしまいました。 彼は前々回の結婚は若い時で期間も短く子供もおらず、前回の結婚は子供がいることで進行形で前妻と関わることも多い為、私に詳しく説明しないといけないと思い、前々回のことを話す事を忘れてしまっただけで、隠していた訳ではない。 つきあいが始まった数週間後に言っていなかった事に気がついて、話そうとしたがなかなか言い出せなかった。とのこと… 私も過去は変えられないことは承知してますし、もし初めからわかっていればそれも含めて考え、おつき合いを始めていたかもしれません。 しかし、故意ではないにしろ後から事実を告げられ少なからずショックを受け、少し冷静になって考えさせて欲しい、と申し出ました。 すると彼は何を考えるの?バツ1も2も自分は自分で何も変わらない、築いてきた信頼がそんなに簡単に失われるの?と言いました。 彼の2回の離婚の理由は聞き、相手方に原因があるように感じましたが、彼からしか聞いていないので実際はわかりません。 私の家族にも離婚した時にたくさん心配をかけているので、彼がバツ2という事でまた心配をかけるのではないかと不安になります。 きっと彼の人柄を知ればわかってもらえるとは思いますが、世の中は始めに聞いた情報だけで判断されることも実際には多いと思うのです。 そこを私が彼を守れるのか… 彼の言うことを全て信じて良いのか… 不信感を払拭できるのか… 彼との関係も大事に育てたいからこそ悩んでいます。 アドバイスが頂けると大変嬉しいです。
こんにちは。 みんなの投稿、自分の投稿を読んでいました。仕事のことや何かと私、辛いんですけど何かが今までと違うんです。誰かの幸せ報告の投稿はスルーして絶対に読まなかった。妊娠報告の投稿、今までは間違いなくスルー。絶対に読まなかった。でも今日は読んじゃった。 よかったねー🐥 元気な子、産んでねー🐣 って心底、思いました。どこの誰か全然、知らないけど何かハッピーです。 私、とうとう壊れたか…と思わなくもないけど…。でも、やっぱり嬉しい。私がよく使う「でも」。プラスに考える→「でも」マイナス(諦め)。これ、よくないな…と思っていました。今日の「でも」は、自分否定→「でも」。いい「でも」な気がします。 うまく、まとめられないけど…。 ひとが、ひとを変えるというか気づかせるんだな、と思いました。名前も知らない、会った事がなくても。それで、同じことでも、見方を変えると180度かわる。「どう見えるか」は「どう見たいか」を心がけるか人生という修業の中で違ってくるのかもしれません。 ………。 うまく文章にできませんでした…。
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。 智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。 「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。 これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。
分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。 ああその通りだなと思うのですが。 分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。 この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?
嫌なことがあったり、つらいことを経験したりすると、『そういう経験があるから人は強くなれる』という言葉が聞かれることがあります。『神様は、その人に乗り越えられない試練は与えない』とも。 だけど私は思うんです。。 なんのために、人は、強くなるのですか? スポーツ選手であれば、メンタル強化してその世界で活躍することができるかもしれません。 戦国時代であれば、技を磨いて生き延びることができることができるかもしれません。 でも、現代を生きる多くの日本人にとって、強さとは何ですか?何のためですか? 強さの意味を、我の強さ、社会的に反する強さ、権力の強さ、という形で表している人もいると思います。 嫌なつらい思いをしてきた自分だから、いっそう他人に嫌な思いをさせる人がいます。言動が強く荒くなることで心に盾を作り、自己防御に走る人もいます。 本来の強さとは、芯の強さでしょうか。心の強さでしょうか。 でも、どこまで強くなればいいのですか? どこまでも強くなったところで、人生は80年ほど。 それならば、嫌なつらい思いをしない人生のほうが、みんな強くなくても、みんなが優しい世界であれば、いいのではないのですか? 大事な人を守るために、強くなるのですか? それでも、自分の心すら守れないときがあります。 それなのに、成長するため、強くなるため、つらい嫌な経験はしたほうがいいのですか? 私の日常はささいなことかもしれません。 でも、たとえば、犯罪に合われた方にとって。。胸がひきされるような苦しい思いをしたというのは、成長できて強くなるために、肯定化されるべき経験なのですか? また、たとえば外から『よりいっそう人の気持ちが理解できるようになる』と言われたところで、そういうことをいう人は、同じようなつらい経験を味わいたいと思うのですか? 私がいつも矛盾を感じるところです。。 人生そのものが修行、そういうことでしょうか。。でも修行したその先には、なにがあるのですか?また、生きている間に、報いもあるのですか?
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
宗教のことがよくわかっていません。 仏教も色々とあり、何が何だかさっぱりです。 ここで何度かご質問させていただいたのも何かのご縁だと思い、気持ちも楽にしていただいたので、少しだけ学んでみようと思いました。 だけれど…よくわからずにお寺さんへ行くと、南無阿弥陀仏だったり、南無妙法蓮華だったりしますよね? 南無阿弥陀仏の中でも、色々分かれていますよね? 先日、とりあえず南無阿弥陀仏の本を買ってみたら、浄土真宗と思っていたら、途中で浄土宗とかいてあり、少々驚きました(笑)。 例えば本を購入するのに、ごちゃ混ぜに学んでも、良いものなのでしょうか? 適当にお寺さんへお参りしても、良いものなのでしょうか? 今まで全く興味がなかったので、この年で恥ずかしいですが、本当にさっぱりわかりません。 決まりごとなどありましたら、教えて下さい。 宜しくお願い致します。
ずっと忙しく、心身とも休まる暇がありません。 最近ふと考えました。 いちいち仕事や不安に疲れるのは「~したい」「~は嫌だ」という自分の欲があるからではないかと。 欲がなければ、休みたい、この仕事はきつくて嫌だな、などと思わなくなるのではないか。 こうした欲を捨てるにはどのようにすれば良いでしょうか。 大変曖昧な質問で申し訳ありませんがお知恵をいただけたら幸いです。
こちらのサイトでは、同じ相談に対して、いろんな宗派のお坊さんからのご意見を戴けるのでとても参考になります。 ただ、いろんなお坊さんがいらっしゃるので、その文章・文体・内容から「合う・合わない」ということがあるなぁって実感しています。 「自分のことを理解してくれている、こういう言葉を聞きたかった」という場合と、「誤解されている、理解してくれない、質問の意図が違う」などという場合があり、ついつい、「自分に合う回答を重要視してしまう」という気がしています。 そこで、質問です。 世間に良くある「新興宗教や占いにハマってしまい、盲信してしまう人」の始まりは同じなのでは無いでしょうか? 自分に合わない意見は取り入れず、自分に合う意見ばかりを信じてしまう。 ふと気づけば、周囲の家族や世間一般の常識からかけ離れた考え方に染まってしまった「マインドコントロール」状態に入ってしまっている。 「この人の意見は合う、この人の意見は合わない」ということと、「この人の意見だけを信じる」というマインドコントロールの違い、ボーダーラインはどこなのでしょうか?
今回の質問は2つあります。よろしければ、回答お願いします。 ①過去の過ちについて 以前にも質問させていただいたことがあるのですが、私は、これまでに沢山の過ちを犯してしまいました。 少し前は、”これまでの過ちに反省し、これからは良い行いをしよう"と考えられていたと思うのですが、 最近では、今までの事を思い出して、夜なかなか寝れなかったり、受験生なのに勉強にも集中出来ないことがあります。 自分のしてしまった事なのですが、思い出す度にとても辛いです。 そこで、過去の過ちへの向き合い方、考え方を教えて頂きたいです。 ②浄土真宗の念仏の唱え方について ネットで調べてみたのですが、あまりよくわかりませんでした。間違っていたら逆効果になってしまうかもしれない、と不安になったので、よろしければ分かりやすく教えて頂きたいです。
お坊様方に質問です! 母方のお墓の供養に行き、ついでに無縁仏の供養もしたいです! ここで質問ですが、お墓にある無縁仏に施餓鬼旗を供えてもいいのでしょうか? 無縁仏は以前は子孫が供養しており、今は無縁なだけで【 餓鬼 】ではないような気がします… アナン尊者と餓鬼の話がありましたが、餓鬼世界に落ちた餓鬼と無縁仏では違う気がします… 施餓鬼旗を供えたら無縁仏様に失礼な事になるでしょうか? それとも供えていいのでしょうか? あと、施餓鬼旗は何万円もして高いので自分で作ったのを無縁仏様に備えてもいいでしょうか? 大変、お忙しいところ、誠に恐縮ですが、回答御願い致します。