スピリチュアルが定着して、仏教徒ではない方がブログなどで〈悟りを開くには〉といったテーマで独自の教えを広めているように思います。 それが仏教で言うところの悟りなのか、疑問に感じますが、本来の悟りがどういうものかすら私にはわかりません。 仏教でいう悟りを開くとは、どのような状態をさすのでしょうか。 また、仏教徒ではない者が悟りについて独自の教えを広めている件について、どのように感じられますでしょうか。
こんにちは 初めて質問させていただきます この数年間、仏教の本を読み考え瞑想したりしてきました そして、ついこの間、瞑想していた際に表現しがたい体験をしました 言葉にするのが難しいのですが、一体感というか、全てが一つに感じられ、自分というものが消えたというか、輪郭がなくなったような体験です そのあと、一時間にも満たない間、まとまりのようなものを感じることが続き、やがて普段の感覚が戻ってきました その後の生活では、嫌だなあという感情が全くなくなったわけではありません そもそも、この質問をしている時点で悟ってはいないのでしょうか? 悟りの自覚は明確なものなのでしょうか? この表現しがたい体験は悟りではないのでしょうか?
悟りとは何でしょうか?
こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。
私くしも、仕事の事などで 自分自身の芯をしっかりもてなくて、常に気持ちがグラグラに揺らぐので 瀧行に真剣に行きたいと思ってはいるんですが お坊様方が、行の中で 仏様の存在や何か悟られた事など ございましたら 教えて頂きたいです。瀧は心身共に清められ仏様と一体になれる様に思うので すが 、、、
悟りについて教えて下さい。 心を鍛える事が悟りなのか? 心を成長させる事なのか? 自分に起きる事を受け入れ、行動する事なのか? 心に湧いてくる色々な感情がわかないように、セルフコントロールする事でしょうか? どのような意味なんでしょうか? 自分でも色々調べてみましたが、調べれば調べる程、深いものだと感じますし、よくわからなくなっていきます。 一言で分かりやすく伝える事は難しいと思いますが、是非教えて下さい。 また、トレーニング方法があれば教えて頂きたいです。 宜しくお願い致します。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
悟りとは何でしょうか。物事に執着せず感情の起伏が平坦で、何が起きても受け流し、いつ死んでも問題ないような状態が悟りなのであれば、うつは悟りなのでしょうか。正直、うつの状態はつらいだけなので、こんなのが悟りなら悟らない方がずっと幸せだと思います。
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。
執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。
こんばんは。僕は仏教を学んでいる者(迷走中)です。 僕は真宗を中心としていままで学んできましたが、最近では曹洞宗や黄檗宗、臨済宗など禅宗にも興味を持っています。 そこで大きな疑問が湧きました。悟り(真宗では覚り)についてです。 悟りは超訳すると、「煩悩が消えて物事をあるがまま観ることができる境地(無分別智)」ですよね。 曹洞宗の道元禅師は、正法眼蔵に「唯仏与仏」という言葉を残していますが、意味は「悟りの境地は仏にしか分からず、人間には分からないものだ」と理解しています。 僕が間違っていなければですが、道元禅師は悟り(一体どんな意味の悟りなのか定かではありませんが)の境地に至った人だと理解しています。黄檗宗の隠元も悟ったと理解しています。 真宗では「煩悩具足」と言われ、「人間は煩悩そのもの。煩悩は消えない」という前提で説かれています。ですが、真宗でも「覚り」という表現をする。 人間には悟りを開けない。これは、結構理屈で考えても分かりますよね。煩悩は消えないし、誰でも人間の本性(自己中心性)は無くならない。 歴史上では、仏陀(ゴータマ)が悟りに到達したみたいですが、仏陀に関してはそもそも人間ではなく仏なので悟ることができたのではないかと思います。 ところが、人間である道元や隠元、良寛など悟りに到達した人物が存在するみたいです。 これはどういうことでしょうか?いわゆる「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」に到達したということですか? しかし、基本的には煩悩が消えた状態の悟りを目指すべきですよね。だからこそ、浄土系の仏教では死後の成仏に救いを求めるはずです。 仏教の目的とも言える「悟り」に到達できないという問題は、仏教の存在意義も問われる問題だと思います。 仏陀の悟りと禅宗や真宗などの悟り(覚り)とは、どう違うのか分かりやすく回答していただけると有難いです。
キリスト教を、信仰してます。 12才の、時から孤独で、親にもあきらめられ、 酒と堕落の日々を、送って参りました。 22才ごろの時に、転機があり、山に籠り、神仏に、祈り始めました。 その後、数奇な、運命をたどりました。 仏教に興味があります。ハスノハ様の、お坊様には、アドバイスを、沢山頂きました。 悟りとは、なんですか? 真言、カルマ、神仏と言うもの、なんとなく、解ります。 キリスト教は祈りによって、解決します。 仏教が、あらゆる全ての、解らないもの、についての、答えがあるのでしょうか? 私は今公的扶助の、恩恵に預かってます。 仏教の、軽い本を、読みましたが、当たり前のことを当たり前にする事、が、一番納得できました。 放送大学を始めようと思います。仏教についてより良く、学ぶことは出来るのでしょうか? ご助言をおまちします。
悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね? 悟りすら単なる概念ですよね?
これまで色んな人に愛されて何不自由ない環境で育ってきましたが、世の中又はこの現世に価値を見出だす事が出来ません。色々なものに興味を持とうとしたんですが、どうしても宗教的なものにしか興味を持つ事が出来ないので、悟りを開くしかないと思いました。人としての自分や周りの人達にも興味を持つ事が出来ません。この世に生まれたのには何かしらの理由があっての事だと思ってます。自分と価値観の合う人と出会った事がないので自分がよく分かりません。最近ではこの世が偽物の世界で本当の世界が別にあるんじゃないかとすら思ってしまいます。霊感があるか分かりませんが、周りの人達の悪い感情によく気がついて不安になります。どうやって生きていけばいいんでしょうか?分かりにくい文章ですいませんが回答お願いします😓
はじめまして、悟りについていくつか疑問があるので教えて下さい。 お釈迦さんはどうやって悟りを開いたのでしょうか? お釈迦さんは悟りを開く前は苦行をしたり様々な修行法を試しましたが、 最終的には瞑想によって悟りを得たのでしょうか? 悟りを開くと何か特殊な能力が手に入りますか? 悟りを開いたとはどうしたら分かるものなのでしょう? 悟りを開いたお坊さんは次にどうするのでしょうか? お坊さん以外に、この質問に正しく答えることができる人がいないと思う(教えてgooでは正確な回答が返って来るとは思えない)のでお願いします。
癒しと 悟りは別物ですよね? 癒しは『私』がいるけど、 悟りには『私』がいないから 自分を癒してから 悟りについて向かっていったらいいでしょうか。
最近,生きる理由 (モチベーション) を挫折により失い, 人生最大の壁にあたっております. そこで,一度自分を見つめ直そうと,「禅」 というものをやってみようと思ったのですが イマイチやり方が分かりません 「禅」 の目的とは,悟りを開くため,と見聞きしたのですが 仏教での 「悟り」 とは何を意味するのでしょうか. 「悟りたい」 と思っている事自体が 「悟る」 ことと矛盾しているような気がして 良く分かりません. また, 「禅」 というものはどのように行えばよいのでしょうか.
深刻な問題ではなく気になっている程度なのですが、質問をよろしくお願い致します。 仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか? 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。 病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。 その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。 簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。 実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており、少々物足りない感じを受けます。 もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。 仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。 まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。 悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として) これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。 しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
悟りって結局、あきらめなんじゃないでしょうか? 昨今の悟りブームで「今ここ」「ありのままの自分」を許容することが悟りであるとよく色んな本で言われていますし、釈迦も「むさぼるな、足るを知れ」なんておっしゃっておりますよね。 でも、これって結局、あきらめなんじゃないでしょうか? 釈迦が「むさぼるな、欲望とは空しいものである」なんて言えたのは釈迦が貴族に生まれて若いころに金だの酒だの女だのって遊びつくしたからこそ気づけたものですよね? 贅をつくしたことがある人が、贅をつくしたことがない人に欲望とはむなしいと言っても伝わらないと思うのですが・・・。そりゃあ、誰だって金だの酒だの女だのって遊び尽くせば、つまらなくはなるでしょうって感じです。 よって、欲望はつきることはないので今の自分を許容しましょうというのはただ単に、 お前は金がないんだから、あきらめろ お前はブスだから結婚できない、あきらめろ お前なんかに将来は見込めない、あきらめろ ということを、ものすごくきれいな言葉で言っているようにしか聞こえません。 確かに今の自分や状況を受け入れてしまえば、一時だけは「このままでいいんだ!」なんて楽になりますが、後から反動で満ち足りた人とは違う惨めな自分にフォーカスがいき、ネガティブの渦に巻き込まれてしまいます。 結局、悟りなんてものは、上手く自分の不幸な状況から脳をだませた状態、きれいにあきらめた状態というものではないでしょうか? 乱雑な長文を失礼しました。たくさんの回答をお待ちしております。
なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。 なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。 なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。 自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。