ここ最近亡くなった祖父母のことを思い出していて疑問に思ったことがあるので、お坊さんの意見を聞きたくて質問しました。 私の祖母は生前、「友達もみんな死んでしまった。早くお迎えが来てほしい。」とよく言っていました。 しかし、それと同時に毎月大量の健康食品を買っていました。 82歳で亡くなったので長生きした方だと思いますが、やはりお年寄りでも死ぬのが怖いのでしょうか。 私はまだ16歳なので、やりたいこともたくさんあるし、死ぬのが怖いです。 でも、80歳にもなれば自分の死を悟ってくるものだと思っていました。 父は、「歳をとると、ある程度悟ってくるもんだ。」と言っていましたが、 母は、「そんなこと考えたことない。」と驚いていました。 お年寄りがよく「お迎えに来てほしい」と言うのは、どういう心境で言っているのでしょうか。
こんにちは。 文章がわかりづらいかもしれませんが、ご相談があります。 先日おじが亡くなったという報告が母から来ました。 正直「死」に対してあまり実感がなく、高校生の時の祖父の死で少しずつ実感が湧き始めました。 今回のおじの死は交通事故らしく私は年に数回ほどしか会えなかったので悲しいはずなのに自分の感情がごちゃごちゃになって悲しいのか何も感じていないのかわからないでいます。 しかし父(おじの兄)といとこ(おじの子供)のことを考えるとつらくて本当に涙が止まらなくなります。 私は現在一人暮らしをしていて両親や父方の親戚は外国に住んでいます。そのためお葬式にもでられません。また、半年ほど前に大好きだった愛犬が亡くなった時もコロナの関係で1年以上会えないままのお別れになってしまいました。 今回のおじの死で愛犬のことも重なってしまいすごく辛いです。友達にも心配をかけたくないので相談はできません。しかしいつも通りに接することもできず余計自己嫌悪に陥ってしまっています。早く今まで通りに振る舞えるようにしたいのですが正直今は無理です。でも心配はされたくないです。両親もきっと今は辛いはずなので言い難いです。 大切な人を看取れずとても悔しく悲しい感情をどこに当てればいいのかわからないです。またもしもっと身近な人が同じように死んでしまった時、自分は遠くに住んでいるせいで看取ることができなかったらと考えるととても不安です。 どうしたらこの不安や悲しみや悔しさを和らげる(?)ことができるのでしょうか。 一方的に今の感情を書き留めたら長文になってしまいましたが最後まで読んでくださってありがとうございます。
人には必ず訪れる死 事故死、病死、自殺… 色々ありますが死は必ず訪れるのでどんな死に方をしても死んだら無ですよね、、、?? よく自殺したら苦しむと言われていますが…あまり信じることができません。
最近、家族の死について考えてしまいます。 祖父母と同居しているのですが、83歳と79歳です。毎日元気に挨拶してくれてとても嬉しいのですが、彼らが死ぬと考えると辛いです。お葬式なんて考えられません。 また、親の死と自分の死も怖いです。心配しているのは、死ぬのもそうですが、死に方です。殺されたり、溺れたり、災害で死にたくないです。死は苦しいというイメージがあって、嫌だと思います。 家族に先立たれて、この世に取り残されるのが怖いです。日に日に歳をとっていく家族を見ていると、怖いです。 生まれ変わりってあるのでしょうか?死ぬ時辛いでしょうか?あの世ってありますか? 本当に怖いです、心を落ち着かせる方法などがあったら、教えてください
普段から心配性な性格をしているのですが 夏の疲れが溜まっていたのか、いつもなら気にしない母のうっかりミスや悲しいニュースで強いショックを受けてしまい そこから還暦過ぎた両親が認知症になってしまったら、私自身が癌になってしまったら、身内が死んでしまったらと 暗い妄想ばかりが頭から離れなくなってしまいました。 特に裕福ではなく伴侶もいませんが、ありがたい事に衣食住に困らず人にも恵まれています。 仏教では老い、病、死は避けて通れず諸行無常と言われていますね。 けれど私は周りの人達に辛い事が降り掛かって欲しくなくて、不安な気持ちが離れなくなりました。 全ては変わっていく事、考えてもどうにもならない事と頭では分かっていても、心が拒絶するのです。 未来が怖くて仕方ありません。 幸せな状態のまま全てを終わらせたい、など極端な考えまで出てしまいます。 私がこんな悩みを抱えていると知ったら、親も親戚も友達もとても心配してしまいます。 なので誰にも打ち明けられず、ここで相談させて頂きました。 いずれ訪れる老いや病、死や未来に対する不安にどう向き合ったり、捉えたりしたら良いか どうやったら未来を明るいものとして考えられるか お坊様のアドバイスを頂きたいです。 どうぞよろしくお願いいたします。
縁があって相談できることをありがたく思います、結婚して18年です、子供は3人、結婚して、親になってわかる、親心、子供ができて、分かる、この心、わかっている、14年前に父方のお父さん、私にとってはおじいちゃんが亡くなりこの死が、私の心を大きな傷となり、今も思い出すとおえつが出るくらい悲しみが心を支配する、身内の死がこれほど悲しくて辛いのは十分わかる、 わかっていながら、自分の子供、主人には平気で死んでしまえとか、汚い言葉、毎日のように、放つ自分、 毎日寝る前手を合わせ毎日反省、わかっているのに、なんでか、自分がすごく汚い心だから、週末はなるべく、神社や、パワースポットと言われる所へ足を運び、感謝する、お線香の匂いに癒され、嫌なこと忘れる事ができる、父が病気になり、すぐは死なないけど、死と向き合う父をみていると、さらに死に恐怖、自分も死ぬんじゃないかの恐怖、不安、でも、築地本願寺に行ったとき、お線香の匂いでその恐怖や、不安が、一気に吹き飛んだ、だから、神社、パワースポットに足を運ぶのは、感謝の為、わかっている、 長女は16歳になり、日に日に反抗がすごい、薬やお酒に、興味持ち始めて、毎日怒鳴り、死んでしまえと思います、私自身反抗期、親に対する口の利き方、ちゃんとしていたから、長女が私に対する口の利き方や、態度が、ゆるせない、尊敬や、優しさが感じられない、毎日怒鳴り、汚い言葉をぶつける、誰一人私をいたわり、優しい言葉かけてくれない、有難う、あたりまえだけど、言われたい、心と、吐き出す言葉が正反対で苦しい
最近、祖父母の姿がだんだんと小さくなっているを見てとてつもない虚無感と恐怖に襲われます。 私はまだ身近な人の死というものを体験したことがなく、誰かが死ぬのが怖いです。 死が怖いというよりは、永遠に失ってしまう事。顔や声、温もりをもう感じることが出来ない事が嫌なんだと思います。 私が一日を過ごすと、祖父母と過ごせる時間が短くなっているのがとても悲しいです。あと何年一緒にいられるのだろう。今まで生きてきた時間もあっという間だったのに、確実に今生きてきた人生よりもこれから一緒にいられる時間の方が短い。 もう、時間が止まって欲しいです。私から時間を取らないで欲しい。 私は今を生きて時間が過ぎていく事が怖いです。どうすればいいですか。
何度もご質問して申し訳ありません。 タイトルの病(正しくは、身体表現障害)にて、2回全身脱力が起こり、倒れた後意識はあるものの、15分ほど力が入らず倒れていました。 主治医の分析にて、今回は体調変化により身体に出たが、私は言葉でも身体でも(夢や実体験でも)「死の体験」を繰り返し表現しているそうです。 そこでご質問ですが、仏教で「死の体験」或いは「死後の体験」、或いはその類いのものをできる何かってありますか? 宜しくお願い致します。
死に向かう病を患っています。あまり先は長くなさそうです。 子供達は20歳前後。親は高齢で自分が生活の面倒を見ています。 この先、病気が進行すれば子供達にも親にも悲しい思いをさせるばかり。ならば今まだ体の動くうちに死んでしまいたいという気持ちが、湧き上がってきます。その考えは逃げだということもわかっています。ただ、周りがつらい思いをするのを見るのが耐えられない気持ちなのです。また、病気が進行して苦しい思いをし、見苦しい姿を皆にさらすのも耐え難いです。 死への気持ちを止めて、前向きに死ぬまで生きるためのご助言をお願い致します。 ちなみに現状は心療内科に行っていますが、薬を処方されるだけで心のケアはしてもらえていません。主人は頼もしく励ましてくれますが、自死には大変反対しています。
度々お世話になります。 就職して、紆余曲折あって辞職して、自死に失敗して、そして転職して1年が経ちました。 この1年、仕事こそが生きがいだと自分に言い聞かせ、前職を辞めた自分への罪滅ぼしも兼ねて脇目も振らず突っ走ってきました。結果的に仕事に不満はなく、良好な人間関係に恵まれています。 ですが、その裏で常にどうしようもない生きづらさを感じています。物心ついてから今まで、ただ生きてるだけであれこれ考える事が多すぎて、生きる事が相変わらず苦しいです。 仕事もキャパオーバー気味な上、いろいろなことを考え込んでしまい潰れそうです。地元在住ですが頼れる人はいません。上手く例えられないのですが、自分を支えてる張り詰めた糸が何かの拍子に切れてしまいそうです。 そもそも、自分は1度自死を試みた時に死んでたはずです。あの時感じた「やっと終わった」という、今までにない安堵感のようなものが忘れられません。 耐えられなくなった時、衝動的に自死を選んでしまいそうで、実際その一歩手前の段階まできています。 苦しみながら生きる意味が分かりません。かといって前回とは違って仕事上の責任を負った今、投げ出すこともできません。 以前、死んでしまおうと思っていたところを救っていただき今に至ります。今回も何とか頑張りたいのですが、こんな状態の私はどうしたらいいでしょうか。
人は死んだらどうなるのでしょうか? 私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??
最近、プーチン政権とウクライナの戦争の話をよく見かけますが、その中で、次は日本ではないかという意見を目にして、それ以来戦争のことが頭から離れません。 もちろん戦争というのはとても恐ろしくて怖いものであるのは周知の事実だと思います。 ですが、数日前にその意見を見てから、 「いつ日本に攻めてくるんだろう」 「自分はあと何回朝を迎えられるんだろう」 「島国で逃げ場もない中、どこに逃げたら生き延びられるんだろう」 という考えが、ずっと頭の中にこびり付いて離れなくて、ここ数日ずっと不安と緊張で気持ち悪い状態が続いています。 両親の顔を見る度に、「自分はあと何回両親と話せるんだろう」と考えて泣いてしまったり、夜も熟睡出来ず、何度も目が覚めるようになりました。 戦争が恐ろしすぎて、戦争で死ぬのとコロナで死ぬの、どちらの方が苦しくないんだろう、と考えたり、今目の前の線路や道路に飛び込んで死んだら、日本で戦争が起きたということも知らないうちに死ねるのかな、戦争が起きる前に死んでしまった方がつらくないんじゃないか、と、死を考えることが怖いあまり、逆に死んでしまいたいという矛盾した考えを抱いてしまいます。 不安でネットで色々調べてしまうから、自分自身で余計に不安を煽っていることは理解しているのですが、最新の情報を常にチェックしておかないと、いざ戦争が起きた時に出遅れて死ぬのでは、と思ってしまい、寝ている時と仕事の時以外は常に色々調べてしまいます。 解決方法がある問題ではないのですが、少しでも気持ちを楽にしたいです。 私の周りにいる人達からは、考えてもいないのか、あえて話題にするのを避けているのか分かりませんが、全くそういった話を聞かないので相談することも出来ず、こちらでご相談させて頂きました。 こういった、解決方法のない問題に対しての不安を和らげる考え方などがございましたら、教えて頂けますと大変ありがたく存じます。
お父様が長期のパーキンソン病で床に伏してから、先日誤嚥性肺炎を起こし、もうあまり長くはないでしょうという事で先日から家族で入院先に行きました。 私の大好きなお父様は、もう微動だにせず反応が全くなく目を大きく見開き瞬きもせず…という状態で見ていて切ない気持ち、何とも深く深く考えさせられる状態でした。 お父様は、ご自身の身を持って初めて人の死を直面するであろう私の息子達、孫達に死という姿を見せているのだろうか。子供は素直に「なんで?」と悲しみと戦っています。私は、「おじいちゃんは、この世の修行がやっと終わるんだよ。悲しい事では無いんだよ。神様が辛い修行はもう終わりだよ。って言ってるんだよ。」と話しました。 話しながら、自分で不思議な気分になります。一体「人間の死」とは?最期の姿を見せるというのは、凄い大事なメッセージがあるのでは?果たして何? 申し訳ございませんが、今の私はお父様の姿を前に少し気持ちが沈んでいます。今の私にでも、理解できるようご回答があれば嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願い致します。
主人の寿命について相談させてください。 主人は以前、占い師に 「39歳で過労死する」と言われたそうです。 そのため、本人も義両親も 「39歳で死ぬから」と私に言ってきます。 義両親には マイホームを建てる話をした時に 「この子39歳で死ぬけど、家のローンが支払える額の保険には入ってるから」と 言われました。 思い込むと良くないと思い、 「そんな事はない、長生きしてくれないと困るよ」 と主人には言ってはいるのですが。 39歳で死なない、と言うのは私くらいで 義両親も本人も39歳で死ぬと言ってきます。 はじめは半信半疑でしたが義両親、主人に言われ不安になってきました。 運命は変えれる、占いが全てではないと私は思ってます。 何か主人が納得出来るような説明はありますか??
お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。
前回も回答ありがとうございました。 今では前回よりもだいぶ前向きになれました。 私は今でも死ぬのが怖いです。 人はいずれ死ぬ。わかってます。理解もしてます。 できれば、おばあさんになるまで生きて今世に悔いがないように生きたいと思っています。 ですが、最近頭から離れないのは、災害での死です。 私は、東京に住んでいます。 いつ来るかもわからない、そもそも私が生きているときに来るかもわからない首都直下型の地震に怯えています。 今は建物もだいぶ強化されていて、被害は予想よりも少ないかもしれない。実際被害は予想より少ないかもしれない。 被害にあわれる方も、考え方が悪いかもしれませんが、一握りだけです。 最近は、その一握りに入らないように精一杯生きていこうと思っています。 ですが、もし建物が倒れてきてつぶされてしまったら、火災に巻き込まれて死んでしまったら、水害に巻き込まれて死んでしまったら、予想よりも被害が大きかったら。 最悪なケースしか考えられません。自分が生きている未来が見えません。 死んでも、死後で昔一緒に暮らしていた愛犬や愛猫、おじいちゃんたちが迎えてくれるかもしれない、そう考えると悪くないかなと考えることもあります。 でもやっぱり怖いものは怖いです。死ぬときのことを考えすぎて日々しんどいです。 想像するだけでも火災は熱いし、水災は苦しいし、潰されるのは嫌だし。 死について両親に言うと「考えるからだよ」「身近な人がいなくなると怖くなくなるよ」と言います。友人は「その時にならないと分からなくない?」と言います。言っていることはわかりますが、怖いものは怖いです。 一か月ほど前までは、周りの人と同じように楽しく暮らしていたのに、コロナで暇になった今、こういうことしか考えられなくなりました。 少しでも心を落ち着けるにはどうしたらいいでしょうか。前向きに生きたいです。 相変わらず読みにくい文章ですみません。
僕は中学1年生なのですが,本当に死にたいです。 これは小学三年生の頃から思っていて,親によくお前がいるから家族はみんな楽しくないや,何もかもお前が悪いとか,お前のせいでお母さんが苦しんでいるなど日常茶飯事で仕事で機嫌が悪かったりすると,殴られたりもします。 こういうことが小学3年生からずっと続いていて、本当に悲しくて死にたいです。首吊りが1番自殺で楽な死に方だと聞きましたが、他に楽な死に方はないでしょうか? 迷惑な質問で迷惑をかけるのは分かっています。それでも死にたいです。どうか,仏様とか以外に楽な死に方はないでしょうか?
生きる事は有難い、つまり有ることが難しいのは、 母が子を産むことが命がけで、生まれてくる事が奇跡である、と言う事はとてもよく分かります。 ですが、それと同じくらい「死ぬ事」も難しいのではないでしょうか。 死は人生のゴールだと思います。 ゴールに辿り着くには難しいと思います。 質問に戻りますが、 生きることを望むことは、 多くの人から励ましや称賛を得るのに、 どうして死ぬのを望む事に対しては、 否定されてしまうのでしょうか。 自殺はどうして許してもらえないのでしょうか。 自分のために生きることには 多く人が賛同するのに、 自分のために死ぬ(=自殺)することには どうして多くの人が否定するのですか。 同じくらい、難しいのに。
生きることが怖いです。というより何年も頑張って生きて辿り着くのは死であるということが怖いです。 言語化が難しくてうまく伝えられているか不安なのですが、こんなに辛い思いを沢山して、頑張って生きて、どんなに努力して幸せになっても結局みんないつか死んでしまうということに対しての恐怖がここ1ヶ月ずっと頭の中に浮かんで苦しんでしまいます。 最初は頭に浮かんでも好きな動画を見たりすればすぐ忘れられていたのですが、ここ2週間の間は何をしても頭から離れず何も手につかなくなってしまうようになってしまいました。 なんで死なないといけないんでしょう、生まれてきたのに。 今年大学受験なのですが、頑張って大学に入ってもいつか死ぬしもう今死んだ方が楽になるのでは、とまで考えてしまいます。 たった1ヶ月苦しんでいるだけで何を言っているんだと自分でも思うのですが、先日母親の前で号泣してしまいとても迷惑をかけてしまったし、この苦しさがもっと長い間続くのかもしれないと考えると不安でさらに苦しくなってしまいます。 どうかほんの少しでも、心が楽になる方法はないでしょうか。よろしくお願いします。
少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。