精神疾患を抱えています。 父がステージ4の癌で、あと2,3ヶ月との余命宣告を受けました。 母が亡くなってから10年、2人で乗り越えて来ました。 父がなくなっら独りぼっちです。 辛い精神疾患を抱えながら独りで生きて行くのは拷問に感じ、死にたいです。 hasunohaの動画を見て、精神疾患の自殺は病死ともとれるような事を仰っており、確かに脳の病気だから。 今まで希死念慮とずっと闘ってきて、疲れました。
私は、現在22歳の就活生です。世間の大きな流れに流され何となく就活をしていてふと気づいてしまったのですが、私には生きる動機がありません。 私には将来やりたい事や夢がありません。趣味はありますが、死の魅力には到底及ばず生きる動機にはなり得ません。世間的には家庭を持つことで生きる動機になるのかも知れませんが私は女性不信で結婚したいとも結婚出来るとも思いません。仮に結婚したとしても子どもを授かった時に父がそうであった様に不倫や子どもに暴力を振るってしまうと思います。心の中では駄目だと分かっていても父と同じ事をしてしまう確信があります。 人間としても生物としも生きる価値のない人間は生きる意味ってありますか?正直死んだ後の遺品整理などを事前に自分で済ませておけば死んでもいいと思っています。自分が死んだ後残った人がどう思うかはどうでもいいです。生きるの面倒だしさっさと死んじゃいたいなって人はどうしたらいいですか?
死ぬのは怖いです。 死は未知です、五億年という時を経っても意識は永久に無くまるで気絶した時のようです。 私はとても自殺願望が高いですが、私でもわかるようにこの世にいる人は誰も本来的には死にたくないと。 死はとても美しいものです、全てが虚無になります。 どんなにクローンが生まれたとしても、それは自分の意識でもなくクオリアもありません。 しかし同じように生きてるのも怖いです。 人生一回しかないという重い重い現実があります、そこにはどんな物理法則も変えられないという絶対的なルールがあるので一度でも足を切断やらしたら永久に手が生えてくる事もありません、誰かが死んだら永久に会えません、一度顔面に塩酸をかけられたら二度と顔は再生しません、一度ホームレスになると一生勝ち組になれません、一度HIVになると一生治りません。 悲惨な人生だったら一生悲惨なままです。離婚したら離婚したままで今後誰からも愛されることはありません。 そういうのが怖い。 人生は可塑性がありすぎて一度何かをやったらそこから変わる事がないです。 死と生は表裏一体です。 死があるから生が尊いものになります。一度しかないから一生とかいう言葉を使い自分の人生を有り難がります、死があるから身近な人が死ぬのを悲しみます。 私は、この物理法則が次々変わるのがこわいです。 現実が移り変わるのが怖い。 いまこの瞬間があるのが怖いです。 いつも恐怖や不安を抱えています。 私達は現実に金融資本で搾取されてます、労働で自分の貴重な人生の時間が搾取されています、二度と返ってこないです。 何処かで働いたら金になるだけでその時間は二度と返ってこない、私の親は底辺職に就いてたので何十年と人生を安く買い叩かれて人生という貴重な時間を費やしていました。 私は20代ですが私の貴重な時間を使用して作られた富を老人に吸われています。 また同じように過去の偉人や天才やらが貴重な人生を使用して発見、発明した数式や発明品やらなんやらを何の苦労もなく得ています。 そういうのが怖い。 いつか重い病気になったり、事故ったりして苦しみのが怖い。 来月の今頃は何か嫌な悩みが増えてると予想できるのが怖い 明日は口内炎で口が痛いかもしれない。 明後日は親友と仲違いするかもしれない。 生きるのが怖い。死ぬのが怖い。 恐怖から逃げたいです。
長文失礼いたします。 祖母が8月に亡くなりました。92歳でした。2月に突然脳梗塞を起こして、肺炎を起こして1ヶ月くらい意識不明でした。そこから意識が戻って療養型病院に移って、脳梗塞は順調に回復して退院寸前でした。祖母も自宅に帰るのを楽しみにしていました。その直後もともと持っていた間質性肺炎が医者も驚くほど知らぬ間に悪化していることが分かりしてそれから3週間くらいで亡くなりました。発病してから本当に毎日休みなく家族3人全員が2時間くらい車で30分くらいの病院に顔を出して看病や介護をしました。私は亡くなる当日朝から亡くなる瞬間まで意識ない祖母の手をずっと握っていました。生きている限り希望を捨てはいけないと思っていました。でも、亡くなりました。でも亡くなった瞬間、全て努力なんか全く無意味で死んだら無なんだと確信しました。何をどう努力しても死んだら無なんだと。 唐突に話は変わりますが、漫画で、「ジョジョの奇妙な冒険」という本があります。その中で西部開拓時代のアメリカの話で、上手く言えませんが、ある国に特殊な技術を持っている、医療行為と死刑執行を代々生業している一族の登場人物が出てきます。ある時その登場人物の診療所に、夫のDVで失明した女性が仕事中の怪我で運び込まれます。登場人物は自分の持つ特殊技術で女性の失明を治せると確信したので、治そうと試みますが、ほんの少しの偶然の出来事で彼女の失明を治せず彼女は永遠に光を失います。治せるはずの彼女を治せなかったことにショックを受ける息子に、登場人物の父は、「彼女の失明を特殊技術で治せると父である自分は分かっていた。でも意図的に治さなかった。彼女は盲目が故に生かされている。もし失明を治せば、DVを行った権力者の夫達は、目が見えるようになった彼女の命すらも奪う可能性があるからだ」と言いました。 結局何を言いたいか上手く言えなくて申し訳ありません。ただ、祖母の死の無の感触を思い出すと、なぜかこの漫画のことを思い出します。 どう繋がっているか考えても分かりません。結局言いたいのは、題名の通り、いくら願っても努力しても叶わないことは一体どういう意味を持つかということです。本当はもっと突き詰めて自分なりの意見をじっくり温めてみたいと思っていますが、どんなことでもいいので、何かお言葉を頂けたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
自殺する方法を探すためインターネットを見ていると、「自殺は悪いこと」「来世に今の苦労を持ち越すことになる」「自殺が苦しいのはお仕置きだから」「死後も苦しむ」というような意見がよく見られます。 これを見て死にたい気持ちが無くなるわけではありませんが、もしうまくいって死ねても苦しいままだったらやだなって思います。 死後の世界ってあるんですか?神様は自殺を許してくれないんでしょうか? 生きてても死んでも苦しいなら今どうしたらいいかわかりません。 死にたい気持ちは最近生まれたものではなくて、小学校3年生くらいから出てき始めたものです。 15になったら死のう20になったら死のうと思ってました。死ねませんでした。失敗しました。 ずっと付き合ってきた希死念慮が今更消えるとは思えないしこんなに苦しいなら早く死にたいんです。 自殺って悪いことですか? どうか否定しないでほしいです。
以前よりお世話になっております。 私は死の恐怖と、それに伴う宇宙や自分の存在などといった説明のつかないものに対しての恐怖が異常に強く、困っています。 「今生きている幸せな世界(自分)はいつか終わる」「そして二度と戻らない」と思うことが頻繁にあり、その度に発狂したり、自分を殴ったりしてしまいます。 そのため、この強すぎる恐怖への対応策を探しており、hasunohaを利用させて頂きながら様々な角度から死について考えています。 しかし、死について考えるだけでも恐怖に襲われ、精神状態が極めて悪化してしまうのです。上記のような状態になってしまいます。 死について考えるのをやめると、日常の快適さは保たれます。ただ幸せで、よく食べてよく眠れます。 でも、それは問題を先送りにしているだけではないかとも思います。死ぬ間際になって、恐怖に溺れて発狂している自分を思うと、今のうちから解決へ努力すべきなのではないか、と思います。 これについて、どうやってバランスを取っていけば良いのでしょうか?お坊さん方のお考えをお聞かせ頂きたいです。 また、以前の質問で、仏教の教義を理解しても「受け入れる」事ができていないと教えて頂き、まさにその通りだと思いました。 死に限らず、「強い恐怖を伴う現実を、受け入れる」のは、どうしたらできるのでしょうか? 漠然とした質問で申し訳ございません。ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
以前自殺願望について何度も相談させて頂いたものです。何度もお手数をお掛けして申し訳ありませんが、またご相談の程宜しくお願いいたします。 私は、皆さんとの対話の末に何とか生きる目的を導き、少しずつ自らの存在と自身が存在する世界を祝福できるようになりました。ですが、自身の中で解決していない問題があります。 生の強制と自殺についてです。 私が知る限りでは、仏教は生と死という対立概念について中立の立場を取っています。生きようが死のうが問題ないような心構えを説かれているように思えるのです。私はこの考え方に大いに賛同しているのですが、その立場故に生存を無条件に強制する人たちに対して今でも強い忌避感を覚えてしまうことに悩んでいます。 私は、ハスノハ以外でも両親や友人、教授に自殺願望の悩みを打ち明けたのですが、その誰もに私に対して「死ぬな」という事を前提に説得されました。 私が、生活に不満はないがやることがなくなり、これ以上生命に執着したくないという事を打ち明けたとしても、その発想自体を幻想と一蹴され頑なに生を強制されました。 説得者の言葉からは、現実の私ではなく、説得者のイメージとしての私や、先程述べた死生観を見ているような見当違いを感じ、それ以来人を信頼できなくなっています。 断っておきますが、この方々が悪い人間とは思っていません。むしろ、自己の想像の範疇で私を助けようとしてくれる善人だと思います。しかし、それ故に彼らが生きるという事を無自覚に狂信している事実に深い断絶を感じます。この世のどんな渓谷よりも深い絶望的な断絶の向こう側に、ひとりぼっちで取り残されたような感じです。 私は、彼らのように生を肯定すること自体は問題ないと思っているのですが、生に取り憑かれ、挙句他者にそれを強制する傲慢さを拒絶せずにはいられません。 生きたいと決心した人が快く生き、死にたいと決心した人が悔いなく死ねる。そんな世のあり方を私は望んでいますが、この考え方に取り憑かれた私もまた傲慢なのでしょうか。 そもそも、仏教の教えを信じる時点で私は傲慢だったのでしょうか。
こんにちは。 私はずっと追いかけていた夢にやぶれて、挫折を味わいました。夢のために、色々我慢してきました。我慢しても意味なかったんだなと思うと虚しくて虚しくて、だからもう我慢しないと決めました。 ちなみにこの夢は、もう他の道からの挑戦はできません。ダメだった時点で、永久にダメなんです。代わりはありません。 仕事を辞め、実家に帰りました。大好きな母に毎日会えます。ですが、母に頼っていきている自分が情けなく感じ、今毎日生きていることが辛いです。 やりたいことが見つかりません。いえ本当は、探しては挑戦しているのですが、ダメで、私は社会に必要とされていないのだなと感じました。 毎日辛くて、何もできなくて、以前まで楽しかったことも楽しめません。将来に希望も持てません。 母に頼ってまで生きる意味がないと考えました。母は迷惑でないと言いますが、私がそんな生き方が嫌なんです。だからあと1年だけ頑張ってみて、何もできなかったら死のうと考えています。 人は何のために生きていますか? 生まれてしまったから生きていて、そして特に死ぬ理由がないからではないでしょうか。明確に、死んだ方が楽だと思えるなら死を選ぶことは何も悪いこととは思えないのですが、いかがでしょうか。
先月、彼が突然死しました。 もう直ぐ付きあって3年でした。遠距離のためお互いが行き来してました。私に子供がいたため子供優先の付き合いでした。彼の仕事が比較的、自由なため日中家事をしながら毎日電話で世間話などしていました。遠くてもとても身近な存在でした。去年の夏頃から子供の都合もありなかなか会えず、子供にも彼にも申し訳ない気持ちになり別れを告げました。その後もやはりお互いの気持ちは変わらず別れてはいますが前のように話してました。家族の事、悩みをいつも聞いてくれてアドバイスしてくれて愛してくれました。亡くなる2週間前もやはり罪悪感から連絡を断ちたいと彼に伝えました。でも、やはりLINEでやりとりしてました。またいつものように連絡を取りまた変わらぬ日々になるものだと思っていました。 亡くなった次の日、弟さんから知らせを受けました。以前から自分に何かあれば弟から必ず知らせるようにするからと言っていました。その通りになりました。いろいろな事が駆け巡り混乱して、相手のご家族が葬儀にきて欲しいと言われたのに行けませんでした。 あれから毎日、後悔と寂しさと愛しさが込み上げて涙が溢れます。家族の前では泣けないので顔で笑い心で泣いて、1人になると号泣してしまいます。早く夢なら覚めて欲しい。なぜ、私を置いて逝ってしまったのか。側に行きたいとそればかり考えてしまいます。どうしたら彼を感じられるのでしょう。毎日絶望の日々です。 彼の妹さんが励ましてくれます。有難い事です。 もう2度と会えないのでしょうか? 夢のなかでも彼は毎回私の前から居なくなり私が探し回っています。
私には68際の祖母がいます。小さい頃からたくさん面倒を見てくれて可愛がってもらいました。 祖母はボケないようにと脳トレやパズル系の本を買い問題を解いているのですが、最近、何日か前に言ったことを忘れてまた聞いてきたり、言った覚えのないことを言ってきたりして、認知症なりかけなのでは?と心配です。 それと同時に、認知症で私の事を忘れてしまうのではないかと言う不安もあります。 また、家族や親戚のお葬式を幼い頃から10回ほど経験し、死という現実を見てきました。 人はいつか死ぬことはわかっています。 今もまだ病気などもなく元気でいてくれます。 でも、いつか大切な人がいなくなる恐怖、不安が消えません。 自分が死ぬことよりも怖いです。
私は幼少期から親から虐待され育ちました。 当時はわけも分からずに受け入れるしかないと思っていましたが、今考えると産後鬱から私に当たってしまったと思ってます。 そのせいなのか今までずっとこんな私が生きてていいのかと何度も何度も自分に問いかけるようになりました。 鬱病にもかかってPTSDも持ってて自殺未遂も何度もしました。 でも死ねませんでした。 死にたくなかったけど死ぬという選択をとるしかなかったぐらいに苦しかったけど、でもやっぱり生きたいです。 でも生きるためには社会に適合しないといけません。働かないといけません。国に納税し、国民としての義務を果たさなければ私だけじゃなく家族全員が白い目で見られます。だけど働きたくない。死にたい。 もう嫌です、なんで人間になんか生まれてしまったんでしょうか、どうしてここまで苦しまないといけなかったんでしょうか。 もういっそ誰かに殺されたいです。この負のループから抜け出して楽になりたい。本当に死は救済ならば、死んで救済されたい。 どうしたらこの世から解放されますか? やはり死しかないのですか?
お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。
生きることは苦しい、と昔からぼんやり思っています。もちろん日々楽しいことや嬉しいことはありますが、生きることへの絶望感?のようなものがずっと纏わりついて心から喜びを感じられません。 ここ最近体調を崩していて、死を意識する機会があったのですが、その時考えていたのも医療費の心配とか、体が痛いのは嫌だなとか、死んだ後に行く世界のこととかばかりで、今ここで自身の命が終わるということについてはあまり重大さを実感できませんでした。 こんな考えは不謹慎だと思うし、周りの人が聞いたら絶対に悲しむと思います。私自身も自分の人生に絶望したまま死ぬなんて嫌です。この心にかかったぼんやりとした苦しみをどうにか取り除いて、心の底から生きることを楽しみ、喜んでみたいです。
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
お世話になりますm( )m カテゴリが間違っていたらスミマセンm( )m 臨死体験についてどう思われますか? これは体験した人でなければ なかなか分かってはもらえないと思うのですが 自分は1度だけあります もう25年くらい前になるのでしょうか その日はなんだか とても身体がしんどくて 自分の部屋で 横になって休んでいました するといきなり 自分の身体から魂が抜ける感じがあり ( 夢のレベルではなく、相当な衝撃でした ) 上へ上昇していきました 高さ的には3メートル位上の感覚でした 今まで自分の部屋だったところは 無限の真っ白い空間になっていて 非常に驚きました!! 色的には曇りの時の感じの少し 寂しい?感じのする白色でした 身体は無重力で すべての身体の苦しみから 解放された非常に気持ちが良く 極楽そのものでした しかし、瞬間に自分が死んだと悟って すごく怖くなり 「 まだ死にたくない!! 自分が死んだら誰もペットのお世話が出来ないから 死にたくない!! もう、死にたいとか思わないから まだ死なせないでください!! 」など とにかく焦ったというか 必死な気持ちでした すると 黒い「もや」がかかり始めて 目が開いて自分の部屋に戻って来ていました しかし、身体だけは全く感覚がなく 恐ろしい感じでした 何故か、このまま感覚が戻らなければ 『 また連れていかれる 』と 本能的に思いました 決して何か見えたわけでもなく( 死神とか ) 本能で思いました 戻って来れたのもある意味 奇跡的なような気もします 他の方の臨死体験の話のように 三途の川とか他のなくなった誰かがいたとか そこまでは見てないです 自分が臨死体験をしたのは ほんの数秒だと思います これも、そんなの嘘じゃないかとか なかなか信じてもらえないかもしれませんが 実際検索すると 同じような光景、体験をされている方が 多く本当にある世界なんだと確信しています ただ、そこに長くいた場合 どんな世界が待っているのかは 自分ではなんとなく想像することしかできません きっと何か高い( 精神的に?? ) 世界があるんだろうなあと思っています 仏教的に言うと臨死体験とは どうゆう事になるのでしょうか? よろしくお願い致しますm( )m
初めまして。今は浪人しているものです。 家族や友人にも恵まれていることはわかっているのですがいつからかは覚えてませんが小さいながらも希死念慮があります。 絶望しているわけではないのですが、死ぬということに対して魅力を感じているのもたしかです。 そして浪人が思うようにいってないいま、ふと自分がいないことによるメリットを考えてしまい、そのことに対してのメリットは思いついても自分がいることによるメリットが思いつきません。家族を悲しませたくないので相談も出来ないので自分が生きることによるメリットがもうわからないのです。消えることによってのメリットは思いつくのです。 確定ではありませんがナルコレプシーという病も背負っている自分に対しての将来に時々もう嫌だな、と消えてしまえたら楽なのに、と思ってしまいます。 自分に保険がかかっていて、銃が手に入っていて望む死に場所が見つかっていたら既に死の手をとっていたんじゃないか、とまで思います。 こうやって死にたい、消えたい、と考えていてもそれを実行することが様々な面で難しいことも理解しております。 また、自分で自分を苦しめてしまう性格なので、これから幸せなことがたくさんあってもふと死に惹かれると思います。そのときのためにも、生きるための考え方を教えて頂きたいのです。宜しくお願い致します。
自殺対策は仏教の最も得意とする分野ですが、現状の効果はNPOのそれと大差がないのがはがゆいです。 もし輪廻転生が否定されるなら、自殺対策は有害無益で、むしろ自殺を奨励すべきです。 釈尊も若い頃自殺しました。(般若心経の呪文、梵天勧請) 仏教の目的は、涅槃(解脱、心の死)ですから、輪廻転生が否定されれば死後が無いので心は死んでいます。 まさに涅槃状態です。死即涅槃と言えます。 輪廻転生が真実であっても、自殺は諸刃の剣です。 釈尊のように涅槃状態であれば、自殺は奨励されます。 「厭離穢土 欣求浄土」と言う佛教語もある位ですから。 我々も、釈尊に倣って寿命が尽きる前に自殺によって涅槃を得なければなりません。 寿命が尽きた瞬間では多分涅槃は無理だと思います。 私はその修行の厳しさに初めから諦めています。 「現世安穏 後生善処」ならばまだ希望が持てますので寿命が尽きるまで待ちます。 しかし通常の自殺は防止しなければなりません。 何故なら心が死んでいないからです。 六道輪廻で脅しをかけるのです。 それも真実の脅しですから遠慮はいりません。 この自殺対策は有効だと思います。 ちなみに自殺者と通常の死者との死後の風景は、丹波哲郎制作映画「大霊界2」で参考できます。劇場映画ですからフィクションや甘さはありますので、その点は考慮が必要です。 輪廻転生が普遍化している国の庶民の思考については、 NHK「世界ふれあい街歩き」の「チンプー」(ブータン)が参考になります。
はじめまして。私は23歳実家暮らし社会人の女です。 親は高齢出産のため両親ともに60歳です。私は小さい頃から家族が大好きで、そして家族、大切な人の死が常に怖く、最近特にその事を考えてしまって一人で泣いています。 母にもその不安を話したのですが、母はいずれは人は死ぬ来る運命に従うんだよと私よりも何倍も強い気持ちです。しかし、私はやっぱり耐えられません。ずっとずっと仕事中も両親のことを考えてトイレで泣いてしまいます。大学生の頃、一人暮らしをしていたのですが、両親のことを考え、少しでも恩を返そうと実家に戻りました。感謝はできるだけ伝えたいのですが、やっぱり死を考えるだけで辛いです。 また、遠距離恋愛をしています。片道4時間程の距離ですが、いずれ自立して彼の元へ行こうと思ってます。しかし、両親のことが心配でならないのです。両親は子供が幸せならいい、自由に生きてほしい方針なのですが、私が心配でならないのです。本当に不安です。彼の元へ行きたい気持ちも両親のことが心配な気持ちふたつあって辛いです。精神的に自立して前向きに生きたいです。 心療内科も予約済みなのですが、それまで時間があります。この常に抱えてる親の死の不安、精神的自立の仕方どうかご享受願いたいです。 日々不安で辛いです。助けてください。
私は息子が1歳半の時に関節リウマチを発症しました。当時主人の我儘な希望ですごい田舎で暮してました。大きな病院に行くには高速道路を使って1時間はかかり、でも専門科はなく整形外科で痛み止めを処方してもらってただけでした。その間どんどん悪化し、手足首の関節いたる場所に広がりました。主人は仕事後、仕事中間とお酒ばかり飲んで育児家事私の病気にも無関心でした。余りの激痛で何度も自殺を考えました。主人に全くなつかない母親っ子の息子の事考えると出来ませんでした。あれから転勤もあり専門科に行き適切な治療は受けてますが壊れた関節は元には戻らず動かせば痛み、泣いてばかりの毎日に疲れただ死にたいと思うだけです。もう楽になってもいいでしょうか。
子供の頃から虚弱体質で、疲れやすく無理ができない体質でした。中学生の時には原因不明の頭痛が続き、髄液までとって精密検査しても異常が見当たらず、自律神経失調症と診断され服薬を続けました。 成人してからもパニック障害や狭心症、子宮内膜増殖症、良性ですが乳腺の腫瘍など病気だらけの人生です。 現在も激しい頭痛や神経痛など原因不明の痛みが発作的に起こるため、いつ来るかわからない痛みに怯え、やりたいこともためらってしまいます。 あまりにひどい痛みに、時に生きていることも辛いと感じてしまいます。 苦しさのあまり死の恐怖が頭をよぎる半面、死んだらこの痛みから解放されると思う自分もいます。 仏様は病気を通じて、私達人間に何を教えたいのでしょうか? また、私は病気の不安と痛みを抱えながら、どう生きていけばよいのか。 その心構えなどをご教授いただけたら幸いです。 何卒、どうかよろしくお願いいたします。