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検索結果: 3315件
2022/05/19

鬱病の友人が心配でたまりません

私には長年本当に大切に思ってきた友人がいます。彼は1年ほど前から鬱病を患っており、沢山の苦労をしながらも、この半年間で徐々に彼本来の元気を取り戻していました。近々共に里帰りをしようと約束ができるくらいには、彼は回復していたように思えました。 しかし本日、彼が自殺未遂を起こしました。本当に突然の出来事でした。なんとか家に帰ってきた彼は声を上げて泣いていて、泣き止む頃にはぼんやりと一点を見つめながら、虚ろな目で「死にたくはないけど、生きていたくもないと思った」と言いました。 死に場所を探していた、という趣旨の話をぽつりぽつりと彼はしました。彼の両親と自分でただ話を聞いて、手を握り、抱きしめ、泣くことしかできませんでした。 あとから彼の恋人も急遽やってきて、同じように彼を抱きしめました。 彼はもともと希死念慮があるような人ではなかったので、これも病気のせいなのだと分かっています。しかし彼の口から「この方法では見た人がトラウマになる、この方法では、」と語られていくことが怖くて怖くて。虚ろな目が私をまともに映していないような気がして、ただただ無力を感じました。 自分の身内にも、「もしかしたら、があるかもしれない。ないといい。だけど覚悟はしておいた方がいい」と言われました。そんなの耐えられません。 自分は、今再びどん底へ潜ってしまった彼に対して、どのような心でいたらいいのでしょうか。常に心に重たい重りがあるようで、悲しくて、苦しくてたまりません。友人を失うかもしれないことが、どうしようもなく怖いです。 無力な私に何が出来るのでしょうか。友人に対して、ネガティブな心持ちになり過ぎないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。 また、これは本当につまらない心なのですが、彼の恋人が来た瞬間彼はわざわざ走っていき、ひとしきり泣いたあと穏やかになり、むしろ笑い声も聞こえ始めるほどでした。彼が私をこれ以上ないほど信頼してくれているのは分かっているのですが、恋人には敵わないのか、私では彼のこころを癒すことはできないのかと、おかしな嫉妬にも駆られています。そんなことを言っている場合ではないのは痛いほどわかっています。この気持ちにも、どう折り合いを付けたらいいでしょうか。 長々とすみません。よろしくお願い致します。

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姑への怒りを消すには。。。

4年前に主人と結婚したのですが、結婚が決まった頃から姑への嫌悪感がどんどん膨らんで苦しんでいます。 一番最初は、私の父が亡くなった時でした。 私は10代で大好きな父を亡くしました。あまりの早い死に私は随分落ち込みました。 そんな時に、当時はまだ恋人という関係だった主人の母にされたことが忘れられません。 義母はある宗教をしているのですが、私の実家の近くに住む同じ宗教をしている知人に勝手に私の父の死と死因を話し、私の実家に寄こしたのです。 私にとってはまるで知らない他人がいきなり家にやってきて、父が死んで辛いでしょうなど、宗教の話しを絡めて不躾に慰めにきたのです。 当時父の死を受け入れられずにいた私にとって、どこの誰かも知らない他人に父の死を語られるのは、本当に苦痛以外の何ものでもありませんでした。 しかも、私はその宗教に入信しているわけでもなく、本当に悲しいやら、腹立たしいやらで、その一件で主人との別れも考えたほどです。 その後も、結婚式や披露宴でも、傷つくようなことをされました。 一生に一度の式でされたことを、どうやって自分の中で消化すればよいのかわかりません。 他にも色々と私の常識では考えられないようなことをされ、私はどんどん姑が苦手になる一方です。 ですが、私の中では、仲良くできるならしたいという気持ちはあるのです。 姑はおそらく悪気はありません。 そのことが余計に私を苦しめます。 そして何より、結婚してから毎日のように姑のことで悩む日々からどうにか脱したいのです。 死にたいと考えることさえあります。 ただ毎日を笑って暮らしたい。主人のためにも上手くやりたい。 私はどうすれば良いのでしょう。

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消えたいです。

もう半年ほど前になりますが、私の兄が自殺しました。 しばらくは茫然自失といった感じで、あまり現実味もなく葬儀など終わらせ、とにかく仕事に打ち込む毎日でした。 その間は家に帰り1人になったとき涙が勝手に溢れたり、言いようのない自己嫌悪に苛まれていました。   最近になって兄について頻繁に思い出すようになり、まるで首を絞められているような感覚と、朝起きた瞬間から激しい動機や倦怠感を感じるようになりました。 いけないとは分かっていますが、自殺を考えてしまいます。 幼少期より家庭環境は悪く、私にとっては唯一の家族といえる兄がいなくなってしまったことで、昔から抱えていた辛さなどと重なって、もう耐えられないのだと思います。生まれてきたことが間違いだったと強く思います。   しかし、どういった方法であろうと死ぬことはほかの皆様に大変ご迷惑をおかけします。なんとか心療内科に連絡はできたので、少なくともそれまでは生きなければと思います。 そうして生きる理由を無理に作って死のうとしない自分にも嫌悪感を抱きます。   こういった時、気持ちを静めて希死念慮をなんとかやり過ごす方法はないものでしょうか。 まとまりのない読みづらい文章で恐れ入りますが、お教えいただけますと幸いです。

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真の反省とは

中学生の頃、好きな女の子のお尻を触りました。 触られた本人は私が故意に触ったかどうか知っているかは分かりません。 当時は罪悪感は感じることなく、むしろ達成感さえ感じていました。 しかし、数年が経ち、罪悪感をかんじるようになり、謝りたいという気持ちが芽生えてきました。 この謝りたいという気持ちは許されて楽になりたいという気持ちなのかもしれないと思ったのに加えて、 大ごとになるのではないかという恐れから、謝罪をしないでいます。 私はどのように罪を背負って行けばいいのでしょうか。 私は反省できているのでしょうか。 罪を犯してから、 今まで繰り返したことはありませんし、 これからも繰り返すつもりはありません。 しかし、それだけでは何か足りないように思えるのです。 被害者の気持ちを考えるために、性的被害にあった方の本を読みました。 私にとっての少しのことが、された側には大きな傷を作ってしまいうることを知りました。 このことから、私は死を選ぼうと思いました。 死を選ぶことは反省ではなく、逃げかもしれません。 謝罪ができなかった臆病者の私には無理なことかもしれません。 私は苦しくて、どうしていいのか分かりません。 こんな私が幸せを感じて良いのでしょうか。 人を不幸にしたのに幸せになって良いのでしょうか。心の底から反省ができれば幸せになって良いのでしょうか。 苦しみから逃れたいという自己中心的な思いがありながら、幸せになっていいのでしょうか。

有り難し有り難し 13
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まだ生きている気がする

先日大伯母が亡くなりました。 98歳という大往生でした。 通夜と葬式を昨日終えたところです。 晩年は認知症で私の事は忘れたようで「どちら様ですか?」と言われました。 それでも私は大伯母の事が大好きでした。 大正時代から生きて、結婚への圧力は凄かったでしょう。それでも生涯独身を貫き一人で雑貨屋を営んでいました。 実家から徒歩2分ほどの場所に住んでいたので、小さい頃から料理を作ったら届けに行くのが日課でした。 いつも笑顔で接してくれて、何歳になっても背筋が真っ直ぐでした。 就職にともない実家を離れてからは会う機会が月に1回、半年に1回と少しずつ減りました。 最後の日も母から「午前から血圧が高くなってるらしいの、またお見舞いにいってやって」 と言われ 「分かった、じゃあまた今度の休みに行くよ」 そのまま午後に大伯母は亡くなりました。 なぜ「また今度来るね」という状況を作れなかったのか、それは未だに悔やまれますが 大伯母は棺桶の中の姿があまりにも綺麗で、死化粧も素敵に施していただけました。 葬儀場の椅子が足りなくなるほどの人に囲まれ、顔が見えなくなるほどの花に囲まれ焼かれていきました。 私は、出棺の時に棺を持ち上げても、大伯母がわずかばかりの真白な骨に変わっても、その骨を箸で掴んでも、なんだかピンとこないまま今日を迎えてしまいました。 涙は出ないままでした。 むしろ誕生日をお祝いするように穏やかな気持ちのままなんです。 現実逃避をしているのかもしれません。 今もどこか大伯母が生きているようで、一人暮らししていたあの家にいるような気がしてなりません。 あずきサンドが好きで、熱いお湯で淹れたお茶が好きで 今日も電子レンジでご飯を温めすぎて「嫌な熱さだ」と怒ってるかな。 なんて考えてしまいます。 生きてる姿しか見えません。 こんな経験は初めてです。 今までは、誰が死んでも葬儀が終わるまでには実感が湧いてきて涙が出てくることばかりでした。 なぜこうも思い入れの深い人に限って受け入れられてないのでしょう。 そもそもこれは現実逃避なのでしょうか むしろすべて受け入れた結果のようにも思えます。 実感のない死との向き合い方 ご助言いただければ幸いです。 よろしくおねがいいたします。

有り難し有り難し 26
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生きる意味

最近いいこともあったのですが悪いことの方が強く、最近暗い気持ちになりがちです。 自分は学校に通って絵に関する仕事に就くため勉強しています。最近毎年学校が参加している大規模なイベントに出す絵の選抜をしていたのですが、私の絵が1次選抜に残り次の選抜まで絵の修正などをして時間どうりに提出しました。 今日2次選抜の結果が出たのですが私は落ちたのですが学校に出席率に厳しいはずなのにほぼ来てない人が選ばれたり修正した絵を提出してない人が選ばれたりしていて自分はそれに納得がいかず色々な考えが頭によぎって悔しくって泣いてました。 周りのことは気にしなくてもいいと周りは言いますが私はどうしても気になってしまい遅刻せず毎日通勤電車にのって授業を受けて課題を出して真面目に生きてるのが馬鹿みたいに思えて外しか見ない教師も嫌になってきて心がすさんでなんで生きてるのがわからなくなってきました。 毎日死にたいと言って親には過去にもっと描かなかったからだと言われ時間なんか取り戻せないしいっその事安楽死出来たらとワガママなことを思ってしまいます。 もういっその事死んだ方が楽になれる。楽しいことはなくなるけど嫌なこともなくなります。 どうなんでしょうか。もう心の中がグチャグチャです。 文読みにくくて本当に申し訳ないです。 助けてください。競争社会に疲れてしまいました。

有り難し有り難し 3
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私の母はどこに行ったんですか

死ってなんなんでしょう。死んだ人はどこに行ったんでしょう。 私は母親を知らないので愛情も何も、居たという実感もありません。 生きてるのは寂しくて、辛くて、苦しいです。 人は1人です。 父親は母親にはなれないし、気持ちはわかってもらえない。 経済的にはお世話になったし、とても感謝しています。 でも、私は父親の奥さんじゃないから家のご飯は親が作って欲しかったし、自分のことを自分でしてきたから、なんで私は1人で生きてるんだろう、と思ってましたよ。 私はなんのために生きてるのかな。家族がうまくいかなくて、親の同居人に虐待されて、それでも普通に真面目に生きたくて悪いことせず一生懸命生きてきましたが。 結婚して、自分の子供時代が辛くて、子供は欲しくなくて。 母親になるっていうことがわからなくて。家族がわからなくて。 虐待がなくて両親揃って兄弟がいて食事してそんな家庭作っていけるのでしょうか。 母に会えるなら、なんで私を生んだのか、なんで置いて死んでしまったのか、お父さんは好きだったのか、私たち兄弟にどうして欲しかったのか、聞きたいことが沢山あります。 私が死ぬのはまだ先だと思いますが、あの世ってあるんでしょうか。生んでくれた母親に会いたいです。 というか私がこの世に生まれた意味ってなんなんでしょうか。

有り難し有り難し 33
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2021/07/10

ある考えに取り憑かれています

少し奇妙な話だと思われるかもしれませんが、お時間いただければ幸いです。 この頃2,3年ほど、頻繁に「死ななくてはならない」という考えが定期的にやってきます。しかし、死にたいわけではないのです。 死ぬということは私にとってはとても恐ろしいですし、いずれ死んでしまうのにわざわざ急ぎたくはないです。 「死ななくてはならない」という考えが出てくる流れは大概の場合 これからも周りの人に迷惑をかけ続けるのなら今のうちに死んだほうがいい、というものですが、これに反論するのは簡単です。 ①死ぬほうが迷惑 ②故意でない迷惑はかけ合って生きていくものだ。などです。 しかしこの「死ななくてはならない」(以下、この考えと表記します) という声はとてもしぶとく、どれだけ論破しようとしても、全て「自分を甘やかして死にたくないだけの言い訳」と思わせてきます。 例えば、「未来の自分が他人にかける迷惑を憂うなんて馬鹿馬鹿しい。そうならないようにいま目標に向かって進んでいるんだ」 と考えると、 「お前みたいなやつが将来どんな貢献ができるんだ。そもそもこんなことをうじうじ考えている時点で頭がおかしいのに、偉そうにほざくな」と、返してしまうのです。 暇さえあればこのような下らない問答を脳内で繰り返してしまうのです。 この考えは大抵非論理的ですが、しぶとく、なにより自己弁護している間抜けさが厄介です。 これだけは確かなことだと信じたいのですが、私は死にたくないです。 自己嫌悪が激しいわけでもなく、自分のこともそこそこ気に入っています。(と自分では思っています。)客観的に自分を見るのは難しいです。 ただ心配なのは、この考えに取り憑かれている時、死というものが軽く感じられてしまうのです。このことはとても失礼で軽蔑するべきだと思います。 おそらく私が恵まれた環境でのうのうと生きているから頭でっかちに考えるのですが、どうか決定的な「この考え」に対しての反論をいただければ幸いです。 なぜなら私はやるべきことがあり、頻繁に思考に時間を割くのが無駄だからです。 長文、拙文失礼いたしました。

有り難し有り難し 13
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Jアラートの朝に

自分の預かり知らぬところで、生きていいいのちと奪っていいいのちの選別が行われる。少し不快になったら「死ね」と言う人々が多い小中高時代でした。故に、生きる権利は簡単に奪われるものであるもののように思います。 実際に「不快だから殺す」が個人レベルではなく国家レベルで行われる可能性があり、それがもうすぐそこまで来ていること、発射ボタンひとつで何の心構えもできないまま全てが終わることを感じた今朝、不安と恐怖に耐え切れず、書き込ませて頂きます。 物理的要因で人間は簡単に終わらされます。凄惨な死は避けられず、成す術もない。自分はあまりに無力で、何をしたって意味がないと自暴自棄になりそうです。楽観はあてになりません。苦しみと凄惨な死があるだけです。何かを信じるのも怖いです。 自分について上手くいくイメージができないことと社会的な問題が解決する見込みが得られないことで、人生に希望を持てずにいます。意欲は薄れ、渦巻く感情を持て余し、生きていけないのに生きていようとします。 物理的問題は高潔な精神でどうにかできるものではないのです。「全てが自分の思い通りになるなら何がしたい」と考えた結論は、「存在していたくない、あらゆる感覚を捨て、物理的世界から完全に解放されたい」でした。 「みんな辛いのに頑張って生きている、辛いことを我慢して適応しなければ生きていけない」 ただ吐き出したいだけ、甘えたいだけなのだと思います。本当は他人の言葉を聞き入れる余裕もなく、それだけで死にたい、死ななければならないような気になります。 駄目でした。やはり生きることが難しいです。

有り難し有り難し 34
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