以前から何度も相談させていただきましたものです。 無事に離婚が成立しました。 向こうは親に挨拶に来ることもなく、ただただ私を捨てれて喜んでたのか、相手は公証役場で泣いてました。それがこれまで言ってきたことやって来たことを考えたら、何でお前が泣くねんと言う感じで、あまりにも腹が立ちました。本当に意味のわからない人間です。これまでの経緯から考えると、かわいそうな俺アピールでしかないとおもってしまいます。 かわいそうな自分だとか、よくやった俺とかってすぐに自分に浸る人なので本当に気分が悪かったです。それだけ余裕があって良いですねと思ってしまいました。 そして、良い父親面しようと色々またいってきたので、拒否する心がより一層強くなってしまって今に至ります。すみません。また愚痴ってしまいました。 以前より助言していただいたように、離婚した今となっては考えを改められるよう今年はまた我慢の一年でがんばらないといけないなと思う次第です。 昨年の一年で沢山相談して皆様方に支えていただきまして、多分理想?の離婚とは違いますが、なんとか乗り越えてこれました。皆さんのお言葉を何度も読み返して、この怒りに支配された心を少しずつほぐして子どもとの幸せを考えられるよう進んでいきたいと思います。本当にありがとうございました。
素朴な疑問をさせていただきます。 仏教では西の極楽浄土に阿弥陀如来、東の浄瑠璃世界に薬師如来が居ると言われていますよね。 しかし卯の方角を文殊菩薩、酉の方角を不動明王が守るというような教えもあるようで、調べてみました。 守り本尊というものが決められているそうで各方角ごとに守っている仏様がいるようです。誰がなんのために決めたのかわからないのですが、仏様を信仰するにはこんなことまで信じないといけませんか?
我が家の檀家のお寺は(お墓は別の所)大阪府内にあります。しかしお盆、お彼岸などお坊さんの忙しい時に同じ大阪府内に同じ宗教のお寺があるのにいつも滋賀県や和歌山県など遠くからお坊さんが来てくれます。どうしてこんなに遠くのお寺から来てくれるのでしょうか? どうしてうちの決まったお寺のお坊さんは来ないのでしょうか? 遠くから来てくれるお坊さんにも自分のお寺の檀家さんがあるのでそちらで忙しいと思うのですが・・。 どうしてですか? それに時によって一人で来たり二人で来たり、家に来るまでわからないので(最低二人分用意しておいて)お坊さんが来てから人数分お茶やお菓子を用意します。 どうして毎回来るお坊さんの人数が違うのでしょうか? うちの実家に来るお坊さんはいつも一人なのに。 こんなときお布施はその時に来たお坊さんに入るんですよね。 うちに来たお坊さんがうちの決まったお寺さんに渡すんですか? 高速で遠くから来たお坊さんには御車代は少し多くした方がいいのでしょうか?
こんにちは。昨日は私の質問にご回答頂きまして、誠にありがとうございました。非常に勉強になり、今後の参考にしたいと思いました。 立て続けで申し訳ありませんが、輪廻転生について、あと一点だけ質問したいことがございます。この質問で最後にしますので、ご回答頂ければ幸いです。 日本の仏教関係者の中には、和辻哲郎博士など輪廻転生を否定する説を述べられる方もおられます。その一方で、魚川裕司氏は著書「仏教思想のゼロポイント」で和辻哲郎博士の説を批判し「無我輪廻説」こそがお釈迦様の説かれた教えだ、と主張しております。先の質問で、お坊さまがおっしゃっておられた輪廻の本意はこのことなのかな、と思っております。 そこで、さらに疑問が湧いてしまったのですが、チベットやブータンでは、「輪廻転生による生まれ変わり制度」が存続しています。上記の解釈ですと、生まれ変わりを認めることは難しいように感じるのですが、この制度は民衆を導くための方便ということになるのでしょうか。 このような知識欲自体が煩悩なのかもしれませんが、どうしても知りたいと思ったので質問させていただきました。お暇なときで結構ですので、ご回答頂けるお坊さまがいらっしゃれば幸いです。よろしくお願いします。
初めて質問させていただきます。 御坊様に相談していい内容なのかとも躊躇しましたが、他に相談できる相手もいないため、筆を取らせていただきました。 ご無礼となってしまいましたら申し訳ありません。 私は家庭の事情もあり、小さい頃から宗教に関心がありました。 去年成人し、改めて自分の信じる道について考えることが殊更多くなり、仏教や神道に関連した本を読んだり、ネットで調べているうちに私はどちらの道を信じればいいんだろう、と結局悩むことになってしまいました。 どのような視点で、基準で自分の信じる道を選択したらよいのでしょうか。
久しぶりに質問させて頂きます。 先日 長女が結婚式の日取りを決めたと報告が有りました。 我が家は神道ですが、折には日柄?大安とか仏滅を気にしております。 長女が決めて来た日は先勝ですが、日めくりに結婚など悪日と書いてありました。 気にしなければ良いのですが、やっぱり親として気になります。 そう言う日は避けた方が良いのでしょうか? 12月19日ですが、挙げたい式場が年内はその日しか空いてなかったそうです。 しかも時間は午後3時からです。 今さら日取りを変えなさいとも言いにくいですしどうしたら良いでしょうか? アドバイスを頂けたら有りがたいです。 よろしくお願いします。
真言宗で唱えられる十三佛真言は、他宗派の信者が唱えても差支えないのでしょうか。 曹洞宗の経典を見たところ、真言宗の 発菩提心真言 おん ぼうじしったぼだはだやみ 三摩耶戒 おん さんまやさとばん 光明真言 おん あぼきゃべいろしゃのう まかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたや うん 上記3点の真言が~陀羅尼という別の呼称で掲載されておりました。 曹洞宗でも仏壇や墓石に向かって十三佛真言をお唱えてしても構わないのでしょうか。
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
こんにちわ。 今年も残り僅かとなりましたね。寒くなってまいりましたが皆様体調崩されてないですか? 質問ですがお釈迦様のお言葉で善き人と交れ、悪き人とは交わるなというお言葉がありますがこの善き人と悪き人をどう解釈すれば良いのか考えているのですが分からない状態でいます。 自分の中では十善戒を守りながら自分で改善しながら生きている人だったり、目標に向かって突き進んでいる人だったりと思いますが、自分中心で生きてる人や十善戒を守らず目先の快楽ばかり求め生きている人の中でも良い所はありますし、そうすると全員善き人になってしまいます。逆に目標に突き進んでいるような人でも道徳心に外れてしまう人もいたり、ますます分からなくなってしまいます。 完璧な人はいないと思いますが仏道の中で判断基準のようなものがあるのでしょうか? 自分が今後どれぐらいの人とのお出逢いが頂けるかわかりませんがその中でせっかく善き人とお出逢い頂いたのに自分がそれに気づかないままでは残念です。 お忙しい所、恐れ入りますがアドバイス頂けたら幸いです。
厚かましく、非宗教説を続けます。 釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。 先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。 仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。 これは中国の仏教を模倣したのでしょう。 釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。 次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。 元々葬儀には無関係だったようです。 確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。 釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか? 仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。 蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。 これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。 参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。 本堂は娑婆から切り離された死の世界です。 本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。 「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。 仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。 従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。 現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。 像は本堂を向くべきだと思います。 さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。
つい1週間前に、1歳10ヶ月だった息子を亡くしました。母親である私の誕生日に、あまりにも短い生涯を終えてしまいました。 スクスクと元気に育ち、誰から見ても健康優良児だった息子。何の前触れもなく亡くなり、原因不詳の突然死と診断されました。 命日の前夜、いつものように平和にスヤスヤと眠りについた息子は、 翌朝には冷たくかたまり、帰らぬ人となっていました。 息子が亡くなった日は、私の30歳の誕生日でした。一体なぜこんなタイミングで… 愛する我が子がこんなにも急に亡くなってしまい、 残された私たち家族は絶望と悲しみに押しつぶされそうです。まさに、生き地獄です… 私自身、息子と極楽浄土でまた会いたいと願っていますが、 本当にそんな世界があるのだろうか? 人間は亡くなると"無"になって、骨しか残らないのではないか? …など、悲しい考えが頭をよぎってしまい、気持ちを切り替えることができません。 できるものなら、息子に心配をかけないためにも前向きに生きていきたいですが、 この空虚感、絶望感とどのように向き合っていけばよいのでしょうか。 どうか、アドバイスをいただきたくお願いします。
私が仏教の入門書で最初に目にしたのは「仏教の目的は輪廻転生からの解脱である」ということでした。 外国の仏教では輪廻転生が信じられていますが、日本の仏教ではその話は殆どおこなわれていません。 その理由を知りたいです。死に対する最も重要な事項だからです。
こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
こんばんはななみです今週もよろしくお願いします。今回は少しだけ見やすいように気をつけようと思ったのですがスマホで書いてるせいなのか空行が入りません結局乱文になってしまいましたすみません。働こうと思い1ヶ月経ちました。この1ヶ月バイト面接に行きパート面接に行きちょうど来週の9日には正社員希望の面接に行きます。 面接のために履歴書を作るのが嫌になってきました、履歴書の中身が驚くほど真っ白なんです。 最終学歴は中卒ですし資格や経験の欄はないので当然空白、そもそも自分はまともに文字すら書けません(特に漢字)ので面接に行った場所で筆記試験?のような事を出されると、あ、終わった、となります。 自分でも意外でしたが人と目を見てしっかり話せてます、男にしては長い髪ですがしっかり結んで外見にも気を使ってます。 採用されるためにいろいろ頑張ってますが履歴書だけはどうにもなりません、外見や性格は明るく見えるように偽っても学歴や資格経験を偽るのは当然いけない事です。 そしてここ数日は眠りが浅く早朝に起き働いてない自分を責めてるし、ご飯を食べようとしたり、飲み物を飲もうとしたりすると働いてない罪悪感からか吐き気もしてきます。 もうとにかくこの歳で働いてない自分に対する自己嫌悪とこんな俺が働けるのか…奇跡的に雇われても働き続けれるのか、と思う後ろ向きな自分がいて感情がぐっちゃぐちゃです、なんかもう全て手遅れな気さえしてきます。
先日祖母が亡くなりました。 生前沢山の愛情を注いでくれた祖母なので、しっかりと送り出そうと遺族一同努めました。 しかし、お坊さんはこの時期農家が忙しいからと、火葬場まで来てくださいませんでした。 葬儀と農家のどちらが大切なのですかと問うたところ、はっきりと農家だとおっしゃいました。 実は祖父の葬儀のときも来てくださらなかったらしく(当時私は小学生だったので分からなかったのですが)、喪主を務めた祖母も大変悲しみ、悔やんでいたそうなのです。 しかしそんな祖母も同じ状況になってしまいました。 私は、祖父や祖母が安心して成仏出来たのか、大変心配です。祖母が夢に出てくるのも、浮かばれなかったからなのかな、悔いがあるからなのかな、と思うと悲しくてなりません。。 火葬場まで来て頂くのが常であり、そこまでの過程が終了して初めて無事に浮ばれると言う私の考え方が間違っているのでしょうか? 私達遺族が自らの力で祖母を成仏させるのは限界があるため、お坊さんの力を頼らせていただいてるのに… お坊さんにとっては、農家が最優先すべき事柄なのでしょうか? お考えを聞かせていただけたらと思い、質問させていただきました。不躾な質問とは承知しておりますが、ご理解下さい。
先日私の最愛の祖母が亡くなりました 80代ではあったものの元気でしたので、まさかの急死でした。6年前に癌を患い、親の漢方薬を飲み、治ったと思っていたところ実際には根治しておらず、その間検査をしていなかったがために気づいたときには手遅れでした。なんどか病院に連れて行ったものの、薬をもらうだけで検査をしておりませんでした。私は生まれたころから祖母と同居しており、両親よりも祖母と過ごした時間の方が長く、私の心の支えでありました。私は祖母のことを常に気にかけており、喉を詰めて死んだりしないか、救急車の音が聞こえると祖母が倒れたのではないかと考える程でした。それなのに、癌は根治したものと信じており、検査に連れていかなかった自分が情けなく、後悔の念に苛まれています。また、最後も病院に連れて行くのが遅く、苦しい延命治療を祖母に受けさせてしまいました。最後は会話することもできず管に繋がれたまま亡くなりましました。祖母は若くしてシングルマザーになり、女で一つで子供を育てました。また、祖母が祖父、祖母の姉、母の面倒と葬式の費用、お墓や仏壇も貧しいながらも購入しており、祖母はいつも困っている人に優しく、とても聖人のような人でした。なのに、最後は私たち家族のせいで祖母を苦しめてしまいました。私はご先祖さまが祖母のことを守ってくれると信じていたのに、こんな形で亡くなってしまったことに納得がいきません。神様はいらっしゃらないのでしょうか? 私はうつ病を患い高校中退し、長年浪人しておりましたが、祖母の一件があってからは生きることに希望を見出せず、毎日祖母のことを考え、自責の念に囚われ、死ぬことにのみ希望を抱きながらなんとか生きております。私は臆病なので、自殺を決行することはたぶんしないとは思いますが、毎日心臓が止まってくれないか事故に遭わないかなどと考え、これまで全く飲まなかったお酒毎日飲み、体を悪くして早く死にたいとばかり考えております。私の両親は金銭的に困窮しており、毎日のように喧嘩しており、心のよりどころの祖母を失ってから過呼吸のように毎日泣いております。もう辛いです。神様はいるのですか?
初めまして。 悩みを受け流したり、心の中に閉じ込めてたつもりが、 我慢しすぎかなって思った頃には、吐き出し方がわからなくなりました。 <Br>いったいどういう感情なのか、自分でもわからないのですが、 いつからか、我慢しようとすればするほど、まるでナイフでも刺したかのように、 心臓がズキンとして、恐ろしく悲しい気持ちになります。 <Br>吐き出すことが難しいなら、考え方を変えたらいいのかなって思ったのですが、 どのような心で受け止めて、どのような思考に落としこめばよいでしょうか。 <Br>つたない文章ですみませんが、以下経緯となります。 <Br>実家暮らしで、両親との関係は良好です。 <Br>しかし、私から両親の良くないところは指摘しづらく、私よりも長い時間生きて、 様々なことを教えてくれた人に対して指摘するのも、すごく気が引けます。 <Br>また悩みを打ち明けようにしても、両親も話したいことがたくさんあるようで、 私が仕事場で寝泊まりすることもあり、たまに家に帰ってくると、 「今日ね…」と一日の楽しい出来事を話してくれますが、 真剣に話したいことを遮られたことが何度もありました。 <Br>職場では、仕事も人間関係も良好です。 <Br>深夜まで作業することも多い仕事ですが、 どんな苦しいことも一緒に乗り越えてきた仲間がいるので、 安心して、一緒に仕事ができます。 <Br>が、その安心/信頼を得るに至るまでに、会社のために、みんなのために、 プライベートを後回しにしていたために、恋人や友人たちとは距離ができてしまい、 彼らに悩みを打ち明けにくくなりました。 <Br>もちろん、仕事ではきちんと意見や指摘をしますが、 一緒に食事をしたり、イベントを行う際に、 無意識のうちに、上司や後輩の希望を優先していて、 自分が本当に希望しているものを言うことが、苦しくなっていました。 集中してるときは、心から、誰かの為に!って思うのです。 <Br>今の私にとっては、誰かと面と向かって本音を話すことは、 とても勇気が必要で、涙が止まらなくなることもあり、会話が困難になります。 心の奥底の、きっと答えなんか見つからない、と思う汚い自分も大嫌いです。 <Br>今までお坊さまに相談したことはないので、 新しい視点を得られるのではないかと思い、投稿させていただきました。
好きなことややりたいことを言えません。 恥ずかしいとか、怖いとか、そういう感情が先に出て、親にも兄弟にも言えません。 だから1人でお金を貯めて、必要なものを買おうと思っているのですが、現実的でないものもあります。 こそこそと郵便物を受け取るのも難しくて、お金を出してとは言わないから見逃して欲しいのです。 ものを買ったり、部屋にこもって作業したりの許容をして欲しいです。 こういう風に書けはするのですが、実際に話すとなると上手く話せなくて、伝えられません。 また、とても恥ずかしいのです。 夢も希望も恥ずかしいことだとはおもっていないのですが。 どうすれば私は堂々と好きを口にすることが出来るのでしょうか。 また、なぜ私は恥ずかしいと思ってしまうのでしょうか。 隠れてこそこそするのは嫌です。 ご助言をお待ちしています。
お忙しい中閲覧ありがとうございます なんか辛くて死にたいなぁと感じてしまいました。職場で何かあったわけでもなく、いじめにあったわけでもないです。何がそんなに辛いのか?と聞かれても答えられないのですが、なんだか生きてるのが辛くなってしまって死にたくなってしまいます。 今までも死にたいと考えることはあったのですが、最近では死ぬ方法や自殺について検索をかけるようになりどう死のうかなど考えます。ネガティブな性格のせいなのか自分はいらない人、役立たずは生きているだけで邪魔、消えた方がいい、死ぬべきだなどと思ってます。 ですが家族や周りの人達に迷惑がかかること、痛みや苦しみを味わって死ぬ恐怖を考えると実行することができないでいます。 家族や友人に相談しようと思いましたが「気持ち悪い」「こいつは異常だ」と思われたり言われたりするのが怖くて相談できません。 毎日死にたいとひとりで呟くこともあります。死にたいと考えることをどうにかしたいです。