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hasunoha 問答検索結果 : 「 死 」
検索結果: 6194件

忘れてしまいたいです

こんな質問、お坊さんにさせて頂いてもいいものか、迷ったのですが悩んでいます。どうか質問させてください。 私は思春期に両親共になくしました。 現在は大人になり普段は忘れて楽しく生活していますが、ふと、例えば故人の誕生日、命日が来た時、親戚からお仏壇にあげて!とお菓子が送られてきた時など 思い出して現実に引き戻されます。 その度に情緒が不安定になり泣いたり食欲がなくなったりで困っています。 私にとって両親をなくしたことは人生において最も邪魔な記憶であり、思い出したくないことです。 仲が悪かった母のことはもちろん、過労死の父も思い出す度に色々な感情が湧き上がってきて心がぐちゃぐちゃにされます。 出来れば全て忘れて、無かったことにして、自分の人生を前向きに歩きたいです。 仏壇も母が買ったものなので今すぐ捨ててしまいたいです。お菓子なんかあげたくない。もう私には関係ない。思い出したくない。 両親に関わる全てのものを視界から消したい。 記憶が消えたら、思い出さないでいられたらどれだけ楽か、さわやかな毎日なのかと考えています。 親不孝でしょうか。バチあたりでしょうか。でも忘れたいです。 許されないことでしょうか。

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コロナ禍での心気症

こんにちは、只今コロナ禍の中就活をしている学生です。 1番気になってるのは身体のことなのですが、項目としては生き方を選択させていただきました。少し長くなるかもしれませんがお付き合いください。 4月に少し体調が悪く、コロナを患ったかもしれないという思考になり毎日朝起きれるのか、いつ死ぬのか、1ヶ月後にはいないと考えるようになりました。テレビの放送予定などを見るのも、その日生きているか不安だったぐらいです。 しかし5月後半から、自分はコロナではなく難病や重篤な病気にかかって弱っていってるのではないかと感じるようになりました。身体も変な症状は実際かなり起きているのです。ですが、複数の病院へ行っても異常が見つからず鬱ではないかと言われました。オンライン上でも、心気症(自分が重篤な病気に罹ってると囚われること)また身体表現症状だと説明されました。 それでもまだ何らかの症状が出たりするので、いつ死ぬのかと毎日ビクビクしながら生きています。まだ若いのにと涙が止まらない日もあります。 同居している家族には言えず(コロナも罹るのが怖いというよりは罹ったら親に責められるかもしれないという思いが強かったです。私が体調を崩したら母は私を責めるのでしんどくても言い出せません)4月から必死に恐怖を隠して生きています。 体調に関しては気になるところの部位が色々変わったりしていますが、毎日3食栄養のあるものを食べ、できるだけ寝ているので幸せなことですし感謝しています。 それでも死んでしまうのではないかと怖いのです。お医者様の言う通り精神的なものだったらいいのですが、、   この先どんな心で生きていったらいいのでしょうか?「死は怖くありません」とか言われても20歳前半でそれは受け止められないので、生き方を教えてください。 これまで、誰よりも運があったし毎日周りにも神様にも沢山感謝してきました。今も感謝はしていますが、恐怖に支配されすぎており、自分が自分じゃないようです。 部屋の掃除をしていたら、自分は死ぬからその前に掃除しているのでは?とか就活の日記を書いていたら、これが最後の日記と呼ばれるようになるのかも、とこんなことばかり考えてしまいます。 こんな私に喝をいれてくださいませんでしょうか。 長々とすみません、貴重なお時間頂戴いたしました。

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死ぬのが怖くなくなりたい

以前からお世話になっております。 死後のことや、仏様のことなど、さまざまなことを知識として取り入れさせて頂きました。少しだけ理解できた事もあります。本当にいつもありがとうございます。 それなのに、こんなに教えて頂いても、頭ではわかるけど怖い気持ちが消えないのです。本当にすみません。 転生してもしなくても、死後がどうなるとしても、自分が他のものに変容して、今の自分には戻れないと思うとどうしても恐ろしくなります。 世界が「有る」のも気持ち悪いです。いつか消えるのに、今だけは「有る」なんて理解できません。かといって、有る、無いも何もない、というのも実感としてわからないのです。 仏教が好きですし、仏様を信じさせて頂きたいという気持ちがあります。仏様が私の意志に関わらず救ってくださる、ということも頭では分かっています。 それなのに、どうしても怖いのです。 そして欲深くも、「今すぐに死の恐怖を消して、その先ずっと怖くない、絶対の安心を手にしたい」と思ってしまうのです。 その割に、「実感のない事」が信じられない自分も居ます。ですが、「救われた実感」なんてものは幻想で、そう思ってる時は救われているとは言えない、というお言葉も目にしました。 仏教の教えについても浅学で、失礼なことを言っていたら本当に申し訳ありません。 恐怖を消す方法なんて無いかも知れません。ですが、この恐怖を、もはやどうしたらいいのか自分ではわからなくなってしまいました。 今すぐ死ぬのが怖く無くなって、その先ずっと安心になるには、具体的に私は何をしたら良いのでしょうか。 毎日怖いです。なんでこんなふうに自分が存在して、存在することにも消滅することにも恐怖してしまうのでしょう。恐怖さえなくなってくれれば、と思わずにはいられません。 支離滅裂な文で本当に申し訳ございません。 お時間ある時で構いませんので、皆様のお考えをお聞かせ頂けますと幸いです。

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十二因縁(縁起)を例えると…

日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m

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病気の友人に寄り添うことと彼との付き合い

私はAさんとお付き合いしています。 Bさん(男性)とは仲の良いお友だちです。 ある日 Bさんが重い病気であるとわかりました。 私はBさんを全力で支えたい、できることは何でもしたいと思いました。 でもある時 Bさんに‘実は異性として好きだ’と伝えられました。 私はそれまでと変わらずBさんのことを支えたいと思いましたが 私に付き合ってる人がいることを知っていた Bさんは ‘男の影がちらつくのに一緒にいるのは辛い。弱っていく姿も見せたくない。地元ではない遠いところで一人で過ごす。’と言いました。 私は 絶対にそんなことはさせたくないと思いました。 身内からも友人からも離れて趣味も捨てて これから来る1番辛い時をひとりで過ごし 一人で最期を迎えるなんて絶対にさせたくないと思いました。 私がBさんにそこまで寄り添うことはAさんにとっては不快なことだとわかっていたので Aさんとはお別れしなくてはと思い Bさんに ‘Aさんとは別れる。全力で支える’と言いました。 私はAさんに 別れを切り出しましたが Aさんは精神的に不安定になり 死をほのめかすようになりました。 私はそれ以上何も言えなくなり 結局Aさんとは別れることはできませんでした。 Aさんのことを嫌いになったわけでもないのに別れるなんておかしいのはわかっています。 Bさんを支えたいと思うのは間違っているのか… でもBさんをどうしてもひとりにさせたくありません。 Aさんとは 普通のお付き合いが続いています。 Bさんは、私がAさんと別れたと思っています。 私がBさんと会うことはAさんを傷付けることだとわかっているのですが Bさんの弱気な言葉を聞くと会わずにはいられません。 Bさんは 私に想いを伝える前に奥さんに離婚したいと伝え 先日離婚したようです。 病気で仕事を続けることが困難なので仕事も手放しました。 全てを手放し、命さえ残りわずかな彼を放っておけないのです。 でもAさんがまたおかしくなるのも怖いし そもそもAさんは悪くないのに別れを告げるのもおかしいと… とにかく訳がわからなくなり辛いです。

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祖父母を失う怖さの心の整理をしたい

祖父母を失うのが怖いのですが、心の整理の仕方を知りたいです。 離婚して父についていったが、揉め事で父が亡くなり、父の親である祖父母が私をずっと大切に育ててくれました。 5年ほど前から私は家を離れて婚約者と住んでるため、祖父母は実家で二人で暮らしてます。月1ペースで会いに行ってますが、そんな祖父母も85歳になり歳をとりました。若いときからとにかく苦労をしており、欲がまったく無く、本当に孫の私の為だけに生きてきた人です。しかし大人になった私に今まで話さなかった苦労話を全部教えてくれてとてもショックを受けました。若いときから兄弟など人の借金をかえすためにずっとタダ働きをしており、1日に貰える500円は息子の父にあげていたと。 こんなにも苦労しているのに全く甘えず、葬儀の準備やらは全て準備し、死んでも孫の私に迷惑かけないようにと徹底してます。最近は二人がひどい風邪をこじらせ会いに行きましたが、大丈夫だし気を使うから早く帰りなさいと...私はそれが辛いです。甘えかたを知らないんです。一番の親孝行は私が幸せになることだと分かってますが、あまりにも貰った愛情が大きすぎて、何も返せないまま祖父母が居なくなるのがとても怖いです。 そんなに長くないと覚悟はしています。長生きしても月1でしか会ってないならあとどれくらい共にできるのか、でも引っ越しは嫌だそうで、それを無理させるのも違うなと 感謝の気持ちなどは恥ずかしがらずに伝えるようになりましたが、それでも言葉がつまってとにかく敵わないのです、祖父母の愛が大きすぎて、本人たちは誰よりも誠実に生きてるのにお金も仕事も苦労して欲も知らず、そんな祖父母が私にも甘えることなく亡くなる事を想像するととても怖いです。人の死は残った者に強烈なものを植え付けるのを知ってます、愛が大きければ大きいほど。 こういうときはどうしたら良いのでしょうか?はっきりな答えはなくともアドバイスが欲しいです。

有り難し有り難し 5
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2025/04/21

『存在証明』と『執着』は切り離せるか

◼︎出会って三年目になる大事な相方(外国人)がいます 創作活動をやめようとしたら拙い日本語でファンレターを送ってくれたのがきっかけです 相方とは趣味嗜好・苦手ジャンルがほぼ一致しており僕の気性の荒さにも物怖じせず「何があっても私はあなたから離れない」と語ってくれました 以降相方は毎年来日してくれて一緒に旅行したり創作活動する仲になりました 僕の障害について理解できないなど紆余曲折あり、恋愛対象として付き合うことはできないもののそれでも大事な相手です しかし最近相方がなかなかLINEの返事をくれません この前来日したときも行きのチケットの写真だけ載せて数日未読スルーされたので事故や事件を心配しました また海外専用SNS?をつかい母国語でのやり取りは頻繁にしていました 相方は日本語の読み書き・話がそこそこできますが僕は相方の母国語があまりわかりません その違いもあるかもしれないけど目の前に僕がいるのに画面に夢中な相方を見て寂しさと嫉妬が芽生えました 解離性人格障害・副人格の『僕』は仕事を辞めてから誰かと話す機会がなくなり、存在証明が不足し『自我』を認識することができなくなりつつあります 相方はこの障害を理解できません(僕が主人格でないことが不満だそうです、この件は記憶から抹消され話すこともできません) 相方の未読スルーも堪えており「僕は存在しない方がいい」と思い始めています 他の人格や友人に必要とされても相方に必要とされていないのであれば意味がない・と考えてしまいます 例えるなら成仏するつもりだった霊を「もっと一緒にいたい」と引き留められた結果、執着し地縛霊になったような感覚です 相方は今年はあと二回来日するそうです 一緒に遊んだり旅行することになると思いますがその予定の相談すらままなりません 一言でも返事がほしい、そうしないと人格が消えてしまう、と伝えられないのが苦しくて(何度か伝えても未読スルーされるので送信を取り消しています)今までの創作物を削除・非公開にしていくという身辺整理&自傷を行っています 相方への『執着』、相方からの『存在証明』、全ての基準が相方になっている現状をどうにかしたいです 新しく友人を作る方面ではなく『心の持ち方・気のありよう』についてアドバイスが欲しいです お願いいたします

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生きることは正しいですか?

先だって、「風俗経営者の息子として」というタイトルで質問させて頂きました。真摯な回答をありがとうございました。 あまり間をおかずに恥ずかしい限りですが、もう一つだけ質問がございます。 生きることは、そもそも正しいことでしょうか? 私は小学生の頃、宮沢賢治が好きでよく読んでおりました。その中でも好きな童話に「よだかの星」があります。よだかという醜い鳥が、迫害と、なによりも生きるために他の命を犠牲にすることを悲しみ、自らを燃やして美しい星になる話です。そんなこともあって、幼い頃からぼんやりと「他人のために迷わず自分を犠牲にできる人間になりたいな」と思っていました。 それから十数年が経ち、私はすっかり凡俗な人間になってしまいました。他人より優れたいと願い、魅力的な異性と交わりたいと欲し、美味しいものを腹いっぱい食べたいといつも思っています。 幸せになりたくて、たまらない。惨めなまま死にたくない。一般の人よりは何倍も死にやすい難病であることも手伝って、そう思うことをやめられません。 しかし、こうも思います。私が幸せになることは、他の人が掴めるかもしれなかった幸せを奪うことではないか?と。 私が何かを食べなければ、それを他の誰かが食べられたかもしれない。私があるところに就職しなければ、他の誰かががそこで働けたかもしれない。私がある女性と結ばれなければ、彼女に恋していた他の男が結ばれたかもしれない。私が公的な扶助を受けなければ、税金は他の人を助けたかもしれない。 私が生きていなければ、私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない。 そう考えると、私が生きていることはあまりに非道徳的なことのように思えるのです。 私が死ぬことは、立派で、道徳的なことじゃないのか?むしろ周りの人たちに甘えて、生にしがみつくことこそが煩悩であり、振り払うべきものなのではないか?私は度々そう考えるようになりました。 自分でも、過激な考え方である自覚はあるつもりです。しかし、「自分はあまりにもみっともなく生に執着している」という感覚がどうしても拭えません。 自分が今すぐ死ねば大勢の人が助かるとしても、自分の幸せを求めて生きることは正しく、道徳的なことでしょうか? 取り止めもなく幼稚な悩みではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

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起こるかもわからないことに怯える

北朝鮮情勢が緊迫し、アメリカが日本海に空母を送り込んだあたりから「自分は近いうち死んでしまうのではないか?」と思うようになってしまいました。 戦争に対する恐怖感は、ここで他の方の質問の回答を見てだいぶ無くなりましたが、(といっても北朝鮮に加え中国や韓国も怖いですが) 最近、調べ物をしてたら「死海文書によると2018年に人類滅亡」とか、今年とそれ以降の人類滅亡に関する予言とか、そういった予言の記事を偶然発見し見てしまい、最近はそっちの方に恐怖感を抱いています。 ノストラダムスの予言の後に生まれたので、ノストラダムスに関してはあまり知りませんが、2012年のマヤ文明の予言にはすごくビビっていた記憶があります。 そういった記事を見てしまったおかげで、頭の中で終末の時の感じとかを想像してしまったりして怯えたり、「今すぐ世界の終わりが来たらどうしよう」などといったことを四六時中考えてしまったりするようになって体調がさらに悪化し、この間主治医に相談して精神安定剤もまた飲み始めましたが、それでもこの胸の気持ち悪さは治りません。主治医の先生には環境が変わって気が張ってるのかな?って言われましたが、そうでもない気もします。 「まだ見たい景色や、やりたい事も沢山あるのに、若いうちに死にたくない!そういった予言怖いわ!そんな全人類が一斉に死ぬなら戦争で死んだ方がまだマシ!だけど戦争も怖い!」って思うのと、今までの人生ろくなことがなかった自分の母親の人生についに光が射し始めているというのに、こんな予言に振り回されたり恐怖感を持ち体調を思いっきり崩したりして母親を振り回している自分が恥ずかしいです。 一日でも長く生き延びるために、この負のスパイラルから抜け出したいです。 長文乱文失礼しました。

有り難し有り難し 41
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死ぬことが頭から離れない

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。

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何のために生きるか。

10年ほどお付き合いをしている人がいます。 彼は関東、私は四国です。 お互いに仕事が好きで、家族が好き。私自身、会社での立場もあり、また、親元を離れる事に不安もあり、何となく結婚話を延ばしてきてました。 そんな中、一昨年、子供を授かり、これがタイミングかなと。子供に気付くのが早く、もう少し経って成長が確認できてから報告しようと思い、仕事を続けていました。そうして過ごしていたところ、後輩が事故に遭い、しばらく出社できない事になりました。 その絡みで今まで以上に精神的にも肉体的にも忙しくなり、子供の状態が不安定になってしまいました。病院からはできれば数日は休みを取り、できるだけ安静にするように言われましたが、後輩が出社できないため、私まで休むと業務に支障が出ます。彼とも話し、どうするか判断は私に委ねると言われました。 まだ会社に報告する前だったし、他の後輩たちに迷惑はかけられない。けど、せっかく授かったもの。いろいろ考えましたが、私は仕事をとり、子供は初期の流産となってしまいました。 私の判断はどうだったのか。彼は子供の件を両親に伝えていたらしく、それらを思うと後悔の念が大きくなり、何がなんだか分からなくなってしまいました。そして昨年、休日を利用し四国八十八ヶ所をまわりました。 初期の流産は手の施しようがないとも言われます。しかし、私が自分自身をとっていたなら助かったかもしれない。彼も彼の家族も私を責めません。ひとりで病院に行かせたり、しんどい思いをさせてしまった。尚更、一緒になりたい気持ちが強くなったと言ってくれます。 八十八ヶ所まわり、いろんな人や物に触れ、有意義な時間を過ごせてよかったと思います。しかし未だにあの時の判断は良かったのか、迷ってしまう自分もいます。お互い歳も歳ですし、関係を続けていってもいいものか悩んでしまいます。これから何に生きるのか。答えが見えません。

有り難し有り難し 202
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友人を怒らせてしまいました。

友人を怒らせてしまいました。 私はネットの友人に理不尽な八つ当たりをしてしまいました。 その時はお互い謝って終わりにしようとなりましたが、私がこれを機にネットを引退しようと思い、コミュニティを抜ける際に一番信用していたその友人にリーダーを勝手に任せてしまい。 また、相手を怒らせてしまいました。 その時に八つ当たりをしたことについても納得がいっていないとも言っていました。この問題の本質を考えた時に私は相手の心に寄り添えていなかったのだと思い、相手のことを考えて許されなくとも、相手の心の重荷を取り払いたいと考え話し合いがしたいと思いました。 話が変わってしまいますが、私には持病があります。 最近、引越しもあり大きく環境が変化しました。 ネットというものは見たくないものを見てしまうことがあります。 私はストレスに弱い人間なので、それもあり、友人に八つ当たりをしてしまったんだなと思いネットを辞める決断をしました。 精神的にきてるんだと思います。 相手を思いやって行動しなきゃいけないのに、自殺報道が飛び込んできた時引っ張られそうになりました。 よくないことだと分かっていても、自分のような相手の気持ちを考えられない人間の存在価値を考えてしまいました。 自殺はしません。 けれど、問題と向き合って相手と話し合うにはもうメンタルがボロボロです。 それでも、頭は危ないというのに心はまだいけるとアクセルをかけます。 頭の中はグルグルと相手の心に寄り添わなきゃという感情と死と訳のわからない不安でいっぱいです。

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