自分を守るために死を選ぶのもありだと強く強く思うようになりました。 詳しく何々があり、こういう事に苦しんでいるという具体例をあげるのが本来でしょうが、ごめんなさい、いろいろと小さい事がたくさん積み重なった結果で、何をどう書き示したら良いのか分かりかねてしまぃした。 そこで、お坊さんの心の自己防衛法を教えていただけませんか? また、心は修復可能なのでしょうか?
自ら死を選ぶ人間を仏様は許してくれるでしょうか? それだけが心配なのです。 沢山悪いこともしてきました。ですが、死後は心地よい風に当たり何も考えず空を仰いでぼうっとしていたいのです。 わがままなのはわかります。 許して欲しいのです。家族を助けた後は私は一人になります。どうしてもその選択しか出来ないことを許してください。 死後も辛いのは嫌なのです。 ごめんなさい。どうか許してください。 仏様はこんな私を笑って包み込んでくれますか?
認知症の祖父が、自分の部屋が何処か わからなくなり私の部屋に入ってこようと することがとてもストレスで、祖父のことを つい早く死んでほしいと思ってしまいます。 祖父には私の小さい頃かわいがって貰った恩も あるし、何より認知症だからしょうがないとは 思うのですが⋯⋯ 私は自分の部屋に誰かが入るのが本当に 嫌なのでかなり苛ついてしまいます。 祖父にイライラしたり死を願うのをなるべく 減らすにはどうしたら良いでしょうか⋯⋯ アドバイスよろしくお願いします。
ばあ様の死を受け入れてるものの、ふとした時にとても会いたくなって会えないことが悲しくて涙が溢れてしまいます… よく喧嘩もして、仲直りして美味しい物をいっぱい食べて色々なお話しをして… 5人いる孫の中で私が一番仲良しで一番おばあちゃん子でした。 やり残した事や後悔は何もしていません。 いっぱい会いに行ってたし、大好きって自分の気持ちもいっぱい伝えました。 ただ会えないことが悲しくて… どうしようもない事を理解しているものの辛くて仕方ありません…
生きることを苦しく思うときがあります。 もう生活はしたくない、何もかもから逃げ出したい、無になりたい、何も感じたくないと、心の底から願う時があります。でも、大抵しょうもない理由です。 生きていてよかったと心の底から思う出来事に出会うかもしれない。今までも、そう感じた素敵な出会いがいくつもありました。 だけど、その出会いは生きることの苦しさとは別にあって、苦しさが消えるわけじゃない。 そんな風に思いながらも今日まで生きていて、 死を選択できる状況で毎日生きるを選択している自分に、なんでだろうと思います。 生きてる限りこの苦しさは続くのでしょうか。 私はこの先も、生きていたくないなと思いながら生きていくのでしょうか。
幸せとはなんでしょうか? 食べる物もなく、生活もギリギリになると幸せとは何かを考えてしまいます たとえ愛する人が側にいたとして、その人を幸せにすることができるのでしょうか? お金があり、仕事もあり、家族がある人でも死を選ぶ人もいます このまま同じ生活がいつまで続くのかと考えると恐怖しか感じません 幸せとは、人生においての希望とはなんでしょうか? 信頼、愛、信仰心があったとしてお金が無いと生活はできません 逆にお金があっても人との繋がりが無い人も多くいます。
こんにちは。学生をしています。 よく、他力念仏も自力念仏も「念仏」に違いはないから大丈夫だと言う人がいますが、では念仏すれば誰でも救われることになりませんか? しかし、救いはあくまでも他力信心ですよね? 他力信心を得れば、弥陀の本願の生起本末にツユチリほどの疑いもなくなるはずなのですが、念仏をしても疑いは消えません。これは、どういうことなのでしょうか? 信心を得ていないということでしょうか?「死」の解決にも至っていません。
死にたいと思う気持ちに波がありますが、夫婦関係が悪化しておりその度に浮き沈みが激しいです。(子無し、結婚5年目)夫があまりにも幼稚で人の心を踏みにじることが許せず、堂々巡りの日々でした。 両親にはこれ以上迷惑をかけられないし、妹は妊娠初期のため姉の私が出来ることはストレスをかけないことしかありません。 自分は消えてしまった方が皆んなにとって好都合なのかなとも思います。 しかしながら、自死を選んで実行したら両親や妹達を悲しみ深い傷つけることは理解しております。 私の中で、今は死ぬ予定です。
一昨年、不安障害で入院しました。今は通院して、作業所も通って、前よりも回復はしているですが、やる気が出ない事で悩んでいます。週のはじめあたりは気持ち的に楽なのですが、だんだんと辛くなってきます。入院する前は元気で勉強も武道も仕事も生きがいに感じ、友達もたくさんいました。今では全く反対の生活をしていて、毎日が淋しいです。そのためか、何事にもやる気が出ず、さらに、友人の死などで更に自分もいつかは死ぬのではないかと不安です。 どうかよろしくお願いします。
先日仕事中子猫が車に轢かれ もがいてるのを見かけました。 私は理由をつけて見守るだけ、近くのガソリンスタンドの方が動かなくなった猫をショベルで引き上げ、ダンボールに入れてました。 私も猫を飼っていて全て保護猫です。 まだ生きてたかもしれない 咄嗟に行動できなかった 次は幸せな生を受けてほしい いろんなことを考えながら今に至ります。 私達は猫に対してどんなことができるのでしょう 彼らはそのような死を迎えた時どうなるのでしょう 答えがないのはわかってます ただただ苦しいです
人事異動が発表になり、私の部署は人が減ることになりました。 多分人事部は仕事の内容を知らずに人を動かしたのでしょうが、実質3人でやっていた仕事を4月からはあなたひとりでやってね、という形になってました。 正直回る気がしませんが、会社で決まった以上、私が過労死するような状態になってもやるしかありません。 もう不安で不安で仕方ありませんが、今からの心の持ち方を教えて頂けると幸いです。
一昨年夫が仕事も放り出して浮気相手と失踪してしまいました。 息子とふたりになりました。去年の秋に浮気相手との間に子供が生まれたみたいです。弁護士さんに相談していますが夫に経済力がないため慰謝料や養育費の話し合いが進まずまだ離婚も出来ていません。 私自身も専業主婦だったので仕事も何をしていいのかどうすれば子供と幸せになれるのか悩んでばかりで不安な気持ちでいっぱいです。 ちょっとずつ進んでいますがあとどれかかるのかと思うと苦しくなり死を考えてしまいます。どうすればこの闇は、なくなるでしょうか?
主人が亡くなり毎日、寂しがりな私は寂しくて、心細くて、不安です。 主人の死を受け入れなければと思いながら過ごしています。 今まで主人を頼っていたし依存してたから自分に自信なく、仏壇のようなのを置き毎朝お参りしています。 今までしてきた葬儀、お寺は本家とは関係のない方にお願いしたり、私のしてきたことが良かったのかダメだったのか、そしてこの先のどうやって生きていったらよいのか導いて欲しいです。
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「他者を助けること」について教えて頂きたいです。 仏教では相手の苦しみを理解し取り除くという慈悲がありますが、どれくらいの意気込み(?)のものなのかよくわかりません。 例えば、困ってる人が近くにいたらできるだけ力になろうと努力する、というくらいなのか 、自分のことを後回しにしてでも助けようとするのか、全てを投げ捨ててでも助けるものなのか、死を覚悟してでも助けるのか…… 仏教ではどのように説かれていますか?よろしくお願いいたします
以前、死と地獄が怖いって事を質問させて頂きました。 私は悪い事をたくさんしてきました。 もちろん反省はしています。後悔もしています。でも、悪い事をたくさんしたので地獄に行くのではと怖いです。 その回答として念仏を唱えると良いと言われました。 それから忘れる時もありますが念仏を唱える事をしています。 ただ疑問に思った事があります。 もちろん反省の気持ちを込めて念仏を唱えてはいます。 もう二度としないという誓いと申し訳ないという反省の気持ちを込めてはいます。 でも、地獄に行きたくないのも本音です。 地獄に行きたくないというやましい気持ちがある中で、反省や誓いを込めて念仏を唱えることは偽善になりますか?
ネット掲示板では浄土系宗派を「自殺宗」などと揶揄する輩もいます。 僕も浄土教の教えを、まったく仏教を知らない友人に話したら、「じゃあ早く死んだらいいってことになるじゃん」と言われ、有効な反論ができませんでした。 浄土教徒は生きている間に何を大切にして何を楽しみにして生きたらいいのでしょうか? 往生(=死)を待つだけが浄土教の肝ではないよ、生きている間にこんな良いことがあるんだよ、念仏以外に生きている間にこんな事をすべきだよ、だから早く死ねばいいというわけじゃないんだよという答えがありましたら教えてください。
こんばんは。前回、前々回とご回答賜った皆様に、心から感謝いたします。 今回は、全く接点のない(もう接点を築く事ができない)方がどん底におり、その方を助けることができないか、をお伺いします。 恐らくは、その方は死を考えられていることでしょう。しかし私が直接出来ることはありません。 大変歯がゆいです。 私の独り善がりかも知れません。でも、その人を救う方法を切望しています。力になりたいのです。 抽象的にしか書けず申し訳ありません。 結局は、その人と私の両方が助かりたいのです。 御知恵をお分け下さい。
定期的に生きているのが辛くなります。 仕事も覚えが悪く、周りに迷惑をかけている。 転職も考えますが、また仕事が変わったと、身近な人に思われるのが辛い。 家庭でも、夫とは関わりも会話もなく。 子どもたちから母親を奪ってはいけないという気持ちが、思いとどまらせます。 が、また、やってくる、生きる辛さ。 これから先も死を乗り越えて、日々を必死にやり過ご過ごしても、またやってくる辛さ。
現在、私は一生治らない病気、いわゆる難病に苦しんでます。 正直、希望が全く見えず、自殺も考えてしまいます。 私の父親は、22年前、自分が中学3年生の時に自殺しました。 最近、どれほど苦しんで父親が死に至ったのか、よく考えます。 自殺は非常に恐いです。 でも、それすら考えてしまうほど、人生に希望が持てません。 運命で自殺の連鎖はあるのでしょうか?
満たされない…なんでもそれくらいが丁度いいのかと思っています。 毎日仕事をし、祈り、写経し、寄付をし…私だけの喜びを増やしています。 しかし、その喜びは私のエゴであって、そのエゴを脱却した先の本当の利他を体験したいと思いました。私が生きるということで誰かに必ず助けていただいてる部分があります。仕事をし、祈れたり写経できたり、寄付をできたりする自分であるために、誰かがどこかで支えてくれたりと思うと、自分のエゴのために申し訳ない気持ちで苦しくなります。かといって死を選ぶこともできません。どうすれば、このエゴから逃れられますか?