hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 1716件

彼女を疑ってしまう

私には付き合って3年になる彼女がいます。きっかけは医療系の学校で知り合い、付き合いました。 彼女の人柄は、常識人でしっかり者。頭も良くて、優しいです。性格はサバサバしてます。容姿もとても美人です。 私の学校は3年で卒業なのですが、私は単位を1つ落としてしまい、留年。彼女は先に社会人となって働くことになりました。先にも書きましたが、彼女はとても賢いので、卒業の際に、その学科で一番優秀な人が与えられる賞をいただきました。 それに比べて私は留年生。頭も良くなく、容姿に自信があるわけでもありません。特にこれといって、秀でてるものもありません。 それもあり、彼女が働いてから周りの人は「彼女ちゃんはほんとに美人だし賢い。なんで米好きくんと付き合ってるのか、ほんとに大事にしなよ」や「働き始めたら色んな男性が周りにいるから(私の職種は女性が多く、学校も男性が少ない)とられるよ〜?」のようなことを言われることも多々あります。 彼女が卒業してから、留年した1年必死に頑張り単位を全て習得、今年の2月に国家試験があります。 今の時期、自由な時間が増えましたが彼女と中々会えない。この時から、彼女が浮気をしてるんじゃないかと、疑ってしまう日々です。連絡をしてもその日に限って仕事が遅くなったり、友達と遊んでたり。会う日に限って仕事の予定が入りと会う時間が短くなる、もしくは会えないこともありました。前よりも連絡が少なくなりました。 今まで干渉しすぎるのが相手にとって嫌かなと思い聞けなかったシフト表を送ってきてもらいましたが、その翌日に「ジムに通い始めた」と言われました。 タイミングがタイミングでアリバイ作りのためにジム通いじゃないのか、ジムで浮気相手と会ってるんじゃないかとさらに疑ってしまいます。 お互いの本音はよく言い合うので、本人に「浮気を疑ってしまう。申し訳ない」というようなことを伝えると「私も冷たく対応とかするしお互い忙しいからしょうがないね」のようなことを言ってきます。 ほんとに良い子ですし、浮気もしてないと思いますが浮気を疑ってしまいます。そもそも彼女が自分のどんなところを好きなのか分かりません。こんな自分のどこに魅力があるのかも分かりません。そのせいか勉強も手につかずでイライラしてしまうことも多々あります。 彼女と今後の接し方等、今自分がどうすればいいのかが分かりません。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

有り難し有り難し 25
回答数回答 3

「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

ご近所の風鈴について

はじめまして。 暑さの厳しい日が続いておりますね。近頃、私の住む家の近くで風鈴を吊したお宅があるようです。 もちろん夏場に風鈴を吊す、夏の風物詩とも言える行為そのものに文句をつける気は毛頭ございません。 しかしこの吊されている風鈴というのが風鈴・オブ・ザ・風鈴とも思える素晴らしい風鈴でして、 強風の日はチリーンチリリリーンチリーン!!と元気よく、 いま風吹いた?というそよ風にすらチリーン…チリリーン…と健気に反応して見事な音色を辺りに響かせるのです。 風鈴としての役割を果たそうとするその懸命さには目を見張るばかり。 けれども修行の足りない私は、絶え間なく鳴り響く甲高い音に「ああ今日もうるせーな」と思ってしまうのです。 これで風鈴を吊しているお宅が分かっていれば直接出向いて交渉する事も考えるのですが、 場所がちょっとした音も反響するそこそこ閑静な住宅地、いまだどのお宅で鳴っているのか判然としません。 度々外出のついでに風鈴を探してはみるものの、件の風鈴を見つけ出すより先に 付近の窓辺をジロジロ見て回る不審者の噂が出てしまいそうで、もしそんな事になれば近隣の皆様の心痛となること必至です。 風鈴の音を心静かに受け入れるか、気にせずいられたら良いのですが、 いかんせん一度気になると鳴る度に「今日も鳴ってる…」と思えて仕方ありません。 7月に入ってまだ1週間、これからも風鈴は立派に己の役目を果たす事と思います。 この夏、私は風鈴の音色とどう向き合い、過ごして行くべきでしょうか。 何かアドバイスがございましたら、ぜひとも宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 36
回答数回答 2

仏教における勉学

ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 27
回答数回答 3

24歳上の悪遊を亡くしデジャブを経験

亡くなった悪友は51歳という若さで単独事故で亡くなりました。 「関係性」 相手には家庭もあり、愛人も数人居るような元気な方でした。愛人ではないが、時間が合えば出かけたり体の関係もあり遊んだりしていた仲でした。 私が再婚して連絡回数が減り1年に3回程になっていた。 何故か久々に連絡を取りたくなりめ連絡先したが返事が無くて、共通の友人に連絡とりたいと話しして伝えておくね!と翌日亡くなりました。 「デジャブ」 そして葬式準備していたら、ふと自分が喪服を着る自分の夢を思い出した。 この姿、手に持っているもの同じでした。この断片的な夢は数カ月前見た夢で何か記憶に残る動物が出ており、目が冷めた後夢占いで調べたので記憶にかすかに残ってました。 その夢占いには、「試練、大切な人が亡くなる」と言う書いてありましたがそんな事あるはずないとスルーした事がありました。 この出来事が気になり調べていたら ここの仏教の教えをしることになり楽になりましたが、仏教の教えではあり得ないが 私の様な出来事があると、この人の運命は決まっていたんじゃないかと思いました。 私が経験したデジャブのような事は 「なぜ、ひとも特定して事故死する事を見れなかったんだ、」など悔みました。 だか、ここの悟りを読んで 私に対して「試練」がくるよと教えててくれただけでもありがたいと思えるようになりました。 「疑問」 この出来事はデジャブと言うのか、守護霊さんか何かが教えてくれたのでしょうか? この方は、亡くなる運命が決まっていたんじゃないかと思えましたがどう思われますか?

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

何もせず解脱したいですがやはり自殺?

この世界が嫌いで嫌いでしょうがないです。 私はこの世界の苦しみを毎日毎日受けています、 しかもそれが誰かから受け入れられる事もなく私は誰1人悩み相談せず宮沢賢治の雨にも負けずのような生き方をしています。 毎日、理論物理学を勉強して本気でセルンに協力してミニブラックホールなどで宇宙や遺伝子がなくならないかなと考えたりするほどです。 この宇宙や生物の仕組みが神秘的とは反対でクソほど汚らしいものにしか思えないのです。 この世界を作った何かはおそらく最悪な存在です。 このクソ世界から逃れるには解脱しかないと言われてますが、その解脱は、なんとくだらない仏教の何かを追求しないといけないそうです。 しかもそれはある所では踊りで、ある所では念仏で、ある所では修行とかで笑ってしまいます。 それって仏教の悟りは客観的なゴールがないということではないか!? しかも悟るには時間かけないといけないし、仏教を理解できる知能が必要。 輪廻転生のルールを作った奴って意味不明じゃない? 悟れねえよ、人生苦しんでる時にどう仏教の追求すんだよ、どう修行とかするんだよ。ふざけんなよ。 私は仏教の矛盾に対して質問しましたが、"万人は信仰の自由がある"と言われました。 という事は結局は、仏教はみんなに取っての客観的な答えがあるものではないということですよね。キリスト教を信じてる人はゴッドを信じていて仏教の人は別の概念を信じていてそれは結局相対的でこの世界の後の世界は誰も説明できないという証拠ですよね。 結局解脱する方法はきちんと仏教を勉強できる恵まれた人、知能が高い人、仏教系の子息に生まれた人、時間が取れる人、人生に苦しんでない人という多大な時間を取らないといけません。 それならやはり解脱できない不幸な人間は自殺しかないのではと思います。 このクソルールを作った世界のゴッドだかアッラーだか宇宙だか何だか知らんがクソ制約を個人にてるくせにクソみたいに恵まれた人しか得れないシステムを作るゴミが設計してる。 さあどうすればいいのだ? 恵まれない奴はどうすれば解脱できる? どうこの苦しみをコントロールできる? それが輪廻転生のゴールと言われたら誰もゴールできねえし満足するわけねえだろ全知全能とは思えんしクソだろ。

有り難し有り難し 75
回答数回答 4

心のありどころ

すみません、文章をまとめるのが苦手なのと、心の整理が付いていないので、文章がぐちゃぐちゃになるかもしれません。 私は、幼いころからいじめにあってきました、そのためか疲れたりすると自傷感情があふれ出てしまいます。 学生時代に窓か飛び出して頭から庭石にだいぶしたいと思ったこともありました。 仕事で失敗した帰り道川沿いの道を通りながらハンドルを川の方に回せば川に落下できるなと思ったこともあります。 幸い友だちや両親の顔そして、いつか素敵な人と出会えるかもしれないと思って思いとどまってきましたし、リストカットにも走らないで押さえてきました。 そして、こんな思いをする子どもを一人でもを少なくしたいと思い、ボランティア活動をしておりました。 親御さんから「ありがとう」と言われるといじめられて冷たい言葉が多かった反動か、うれしくなるのですが。 その反面自分がいじめられていた時にボランティアさんに会いたかったと言う願望を自分がやることで心を埋めている自分気が付きます。 さてこうしていると、人のためにがんば幸せを感じる一方で、時として、自分自身が救済されたい願望が心の中で暴れだします。 他の人が笑顔になって幸せを感じているはずなのに、私自身が甘えて励ましてほしいと思うことが出てきてしまいます。 いじめられていたころ、いつの日か恋をするかもしれないと自分を励まして来たけど、恋など夢また夢と言う状況も拍車をかけている気がします この気持ちをどのように受け入れていけばいいでしょうか

有り難し有り難し 22
回答数回答 1
2022/04/19

恐怖を忘れることは良いことか?

お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 12
回答数回答 2
2021/10/31

恩義のある相手を一方的に切ってしまった

こんにちは、お力添えをお願いします。 ネットで知り合った人が居るのですが、直接会ったことはありません。 その人は自身のことを悟りを開いた、ブッダ、神、なんでも出来る完璧などと良く表現します。 ネガティブな私の思想に対して生きやすくなるように色々教えて下さいます。 日頃から人をコントロールしてはいけない、尊重するように、差別思想は良くないよと言っています。君(私)のことも尊重するよと言っています。 ですが、私の思想に対しては否定ばかりしてきます。雑談のつもりで話した何気ない会話でさえも「欲まみれで感謝が足りない」と返されまして、共感共有出来ません。お相手の言っている感謝はその通りですし、全てに感謝する気持ちを私も忘れないようにしているつもりです。 尊重すると言いながら、私の価値観がお相手の価値観に添っていないとコントロールしてきます(ですがそれは私の錯覚だと言われます) そしてアドバイスの通りに思想を転換したり行動しないと、また否定されて甘えていると言われます。 私に対しては人をコントロールしてはいけない、尊重するようにと言う割にはお相手自身は私に対してコントロールしてきますし、尊重もしていないように感じます。それを素直に伝えると「反論するな、反省しろ感謝しろ」と言われてしまい対等な関係じゃないし、まるで教祖様と信者です。 お相手のお陰で仏教を勉強したいと思いましたし、人生を良くしていく教えをたくさん頂きました。 とても感謝しています。 ですが対等な関係を築けない上に、私が何を言ってもお相手は聞く耳を持ってくれないので一方的に連絡を取れないようにしてしまいました。 感謝を伝えてから終わりにしようかとも考えましたが、いつもの論調でコントロールされて平行線になりそうな気がしたので。 これこそ「感謝が足りない」と叱られそうですが、お相手に教えて頂いたことはこれからも大切にしていきたいです。 一方的に連絡を絶った私は恩義知らずの罰当たりでしょうか? お読み頂きありがとうございました。

有り難し有り難し 32
回答数回答 2

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ