今日、誕生日を迎えました。 みな明日仕事だから寝てるのでしょう、家族と日付を超える前から電話をしていた友人以外からお祝いの連絡は来ておりません。 日付が変わり友人と電話を終えてから、家族以外からお祝いの連絡がない事に少しガッカリしていました。 しかし、先ほどからほかの質問者様方への皆さまの回答を拝見していたからでしょうか、気付いたら連絡が来てなくてもガッカリしてた自分がいなくなったのです。 強がりでもありません。 上手く言えないのですが、家族とその電話をしてた友人からお祝いの言葉を頂けただけでも「私はここに存在している」「生まれて良かった」と考えを変えることが出来たのです。 今までの私なら「友人から連絡が来なかった、私は友人にとって大した存在ではないんだ」と悲観していたと思うのです。 これが悟りなのでしょうか? なんだか、少しだけ生きるのが楽しくなってきてる気がします。大袈裟でしょうか。今までのネガティブな自分自身に初めて打ち勝てたような、そんな気がしてます。 とにかく、ここの皆さまとお祝いをしてくれた家族・友人にお礼が言いたいです。本当にありがとうございます。 今後とも前向きに生きていける様なお言葉やアドバイスがあれば、お願い致します。
・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。
昨年の9月から月に1、2回程、禅寺の坐禅会に通っています。初めは、自分探しというか、真実な私に出逢いたいというテーマで参禅していたのですが・・・。 その寺の住職に恋してしまったのでしょうか(私の片思いです)。煩悩は自分の力でなんとかしてはいけない、血で血を洗う様なもので、掴んだものは放下しなさいと住職は言われるのですが、その様にしても、禅会で住職が視野に入ってくると、せっかく忘れていた「好き」という気持ちが湧き起こり困ってしまいます。 迷いの炎が燃え盛っているそのままが、悟りの大禅定であるとも、住職は言われますが・・・・。坐禅していると余計に、切なくなるというか、どうしてこんな想いに囚われるのかと不思議に感じます。 では、好きという想いで三昧に入れということなのでしょうか。 今では、坐禅よりも、住職を一目見たい、声を聴きたい、側にいたいという想いで一杯になっています・・・・不謹慎というか、情けなくも感じています。
2年ほど前に「カタツムリの外見が苦手なのだが見た目でモノを判断するのはどうなんだ」という相談をして、「恨むほどでもないなら別に嫌いでもいいじゃない」といった旨の助言などを頂いたのですが、そのお陰なのか今では手で触れられる(寄生虫がたまについてるらしいので手は洗いますが)ほど克服してしまい、当時を思い返しては内心で驚いています。 ただ、自分の価値判断を省みる中で一つ気がかりな事を見つけて、その事が少々悩みの種になっています。 というのも、これまで蛇蝎の如く嫌っていたカタツムリを克服した事で心持ちに相当の余裕は出来たのですが、自身が本来したかったことはいわゆる瞋恚の克服であり、しかもカタツムリに関しては貝類の図鑑を眺めたりしてどうしたら克服できるか考えあぐねていたはずがいつのまにか慣れてしまったこともあり、実は本当の問題が解決していないのではないか…と思い悩んでいるのです。 浅学の身で大変僭越ではありますが、私の知る限り悟りというのは本来その実利を全く求めずに明鏡止水の心持ちで行を繰り返す事であると聞きます。 ですが、自分はたまにカタツムリの画像を見ては「どうすれば好きになれるかなぁ」と欲望まみれでひとりごちていただけで具体的なことは殆ど何もやってなかったと思うのです。 今は不便こそしていないものの、もし克服したと思った心持ちが来年変わったら…もし再び嫌いはじめたら…と思ってしまうとゾッとします。 それ故、この心持ちが偶然で終わる前に揺るがなくなるような方法を教えて頂きたいのです。 これは、嫌いなものを増やさない為だけではありません。 自身の身に合わないと思ったものを排斥することに執着しない為でもあります。 これは拙い持論ではありますが、人は好きな物事を愛で続けるより、嫌いな物事を憎み、気がすむまで叩きのめすことにより快感を感じる傾向にあると思っています。 しかし、排斥することに味を占めると終わらない闘争の火種になりますし、何より自身の不満不幸に執着し続け、目の前の満足や幸福を取りこぼす事が自分には一番の災厄だと思います。 物事の全てを愛でるには自分はちっぽけではありますが、せめて恨むなら「恨む」という事そのものだけに留めておきたいと思うのです。
いつもお話し聞いていただきありがとうございます。 明るく前向きな考え方を身につけるために「功徳をつむ」という言葉を目にしました。大変興味を持ち、ぜひ具体的なお話しを伺いたくこちらへ相談いたします。 仕事もひと区切りとなり退職し今は義母の世話をしております。ボランティアや趣味の「己書」を用いての人や街との繋がりなど考えています。 また、介護も「功徳」となりますでしょうか? 新しい年、よいスタートとなりますようお言葉いただきたいと思います。宜しくお願いします。
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
話せば長くなるので省略しますが、私は恋愛を諦めました。 しかし、DNAの呪いは解かれず、異性を求めることを本能が止めてはくれません。 本能に直接言い聞かせる為の何か良い方法はありますでしょうか? お釈迦様は欲求、執着や嫌悪を無くし、家族までも捨てて悟りを開いたと理解しています。 そこで何かしらのヒントがあると思いました。 すでに試したことはまず、自己催眠。 しかし私は被暗示性が極めて低く、催眠に上手くかけれませんでした。 瞑想。 ヴィパッサナーの合宿にも行きました。良い経験にもなり学ぶこともありましたが、本能をコントロールするまではいきませんでした。 今考えているのは、アヤワスカです。 日本では受けられないので、簡単には出来ませんが、何かしらのヒントになると考えています。 去勢。 これは、一応最終手段で考えています。 瞑想の方法でも、何か効果的な種類の瞑想法などがあれば教えていただきたいです。
こんにちは。 先日、ショッピングモールの駐車場で、運転席のドアを隣の車にぶつけてしまいました。(恐らく) 隣にぶつからないように開けたのですが、丁度強風が吹き、その勢いで隣の車にぶつけてしまったようです。 当たった音はなんとなく分かりましたが、自分がやったと思いたくなく。。。 隣の車を確認したところ、5mm程度の白い傷がついていました。 元々傷があったのか、私がやったのかは確認しておりません。 小さな傷、その時子どもがくずっていた、強風のせいにし、その場を立ち去ってしまいました。 でも、ダメだと思って、もう一度戻ったところ、ちょうど車のオーナーの方がいたので、言おうと思ったのですが、言えず。 結局、何事もなったように再度隣に止めて、ショッピングモールに行きました。 駐車場には防犯カメラもついていたので、バレたらどうしようと毎日不満で仕方がないです。 またあの時、言えなかった自分が情けないです。 他のことでバチが当たり、スッキリできないかと思っています。 どうしたらよいでしょうか。
いつもお世話になっております。 忍辱行とはどんなお行なのでしょうか?辞書や仏典によると、 「つらいことがあっても耐え忍ぶこと」とあります。 これは危険な目にあっても、たとえばいわゆるイレギュラー な事態、突然の誹謗中傷やその他の犯罪に繋がりうる行為を 受けた場合であろうとその行為を笑って受け入れろ、 ということでしょうか? それとも、その行為を受けることによって高ぶってしまう 自分の感情を落ち着け、落ち着いて距離を取りなさい。 という教えでしょうか? 後者が当てはまるとすれば、 例のお嬢様の件。最近は私が時間をずらし、彼女はしばらく 堂内にいるので接触しないよう待機、 立ち去ったら私は私のお参りに入ります。 ほかには、レストランの入れ込みで不快な会話をしている 一団が隣になってしまい、我慢してそれを聞きづけるのではなく 席を変えていただき、食べ終わって下げてくれたら店員さんに 「お手数をおかけしてしまってすみません。 おいしくいただきました。ごちそうさまです(^^)」 と言ってお支払いをしてお店を出た…とか… いまだにこの点が理解できておりません。お知恵をお貸し いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。
私は死ぬのがとても怖いです 死んだら天国や地獄があるのか、生まれ変わりはあるのかなど気になってしまいます これまで良くない事もいろいろしてきました 地獄が存在したら行くかもしれないです 無記や毒矢の例えなどで仏様は死後の事は考えなくて良いと仏様は説いていたらしいと少し聞いた事があるのですが、とてもじゃないが悟りなど開けそうにない私には死後、人間がどうなるのか考えてしまい恐れています 毒矢の例えの一方で仏教では天国や地獄の存在や生まれ変わりをも説いたりしていますが実際には、仏教ではそれらはあると考えているのですか? 仏教における死後の世界の事を教えて頂けませんか? 誰も死んだ事がないので本当には死後の世界があるのか、生まれ変わりがあるのかは分かりかねるのかともと思いますが、僧侶の皆様はどうやって死の恐怖から解放されていますか?
先日 墓前に手を合わせてきたのですが いつもなら ただ心のままに手を合わせ小さい時から耳馴染んできた南無阿弥陀仏と声に出さずとも…なのに 今は亡き父が闘病生活で今まで仏壇すらなかった家に見たこともない位に大きなそれに手を合わせ南無妙法蓮華経と一心不乱に題目してた記憶が頭の中を駆け巡り自然と南無妙法蓮華経と呟いていた自分が居ました。横で手を合わせていた子ども達が不思議そうに私を見て ふ と我に戻ったような気持ちで家についてからも悶々とした状態でした。数ヶ月前から、何度となくハスノハに質問し、有難い回答を宗派問わず色々な角度から聴かせて頂き、座禅会や供養で敷居が高いと遠慮していたお寺にも足を運び 随分と穏やかに過ごせるようになった今 菩提樹もなく仏壇もない自分ですが 一つの宗派にとことん向き合い毎日を丁寧に生きたいと強く思うようになりました。 ただ一つに決める事が出来ず身近な信頼してる人の話しを聞いたり足を運んだりしながらも本を読んでみたり…良いとこどりのズルイ信心だねと 、からかわれたり… しばらく、こんな状態が続きそうで ごめんなさい、コチラで愚痴らせていただきました。 ハスノハは、こんな中途半端な私の拠り所となり有難い居場所です。
私は今でにたくさんの後悔をして色んな人を傷つけて迷惑をかけてきました。 その後悔や辛さが前に進むのを止めている気がします。 私は自分の事より人のことを優先してしまい溜め込んでしまう性格です。 今までの溜め込んだものがこの先ずっと心の中に残り続ける気がします。 親には特に迷惑をたくさんかけてしまったせいか相談したら嫌われるかもしれない、見捨てられるのかもしれないっと思ってなかなか言えません。 結局自分が一番なのかもしれません。 昔から甘すぎていつも楽な道ばかり選んでしまいます。 何が正しくて何が正しくないのか分かりません。 親に相談するべきなのでしょうか? この先自分の未来が心配でなりません。 私の生きている意味が何なのか全然分かりません。
先程、寒いのに蚊が飛んでいたので殺してしまいました。菩薩心を持ちながら感謝の気持ちを持ちながら申し訳ない感情で、手を洗剤で洗い手に付いていた細菌を信じられない数で殺してしまいました。しかし人生上手くいっている人は細菌など意識すらしないでしょう。感謝や申し訳ない気持ちすらなく手を洗い成功しています悟りに近いのでしょうかね。 はてさて、これらの生き物は輪廻転生するのでしょうか? 私にはお婆ちゃんがいましたが、認知症になり自分すら認識できていませんでした。 お婆ちゃんが亡くなりましたがお婆ちゃんという根底の存在?アートマン?それってなんだったのでしょうか。自分すら認識できない彼女の根底の意思とはなんだったのでしょうか? ISISというテロ組織が色々ロケットランチャーで1人を殺害する動画を作っていました。 ロケットランチャーで跡形もなく粉のようになっていました。 死んだ彼はなんだったのでしょうか?原子が組み合わさった物としか思えませんでした。 私が輪廻転生して、また再び人に生まれたとします。それは私ではないのでは?私とは?今の私というのも曖昧です。記憶を喪失したら私? もしそれも私なら今IQが高い人のみ輪廻転生できて、自分すら認識できない人間は輪廻転生してまた人間になったら自分すら認識できない存在? 少子化とは言いますが70億人に人口が膨れています。 さて、それまでの輪廻転生があるとしたら60億人ほどの魂はみんな人間界に一斉に来れたの? 死というのは、ただ肉片になるだけではないでしょうか?そうとしか思えない感情が湧いてきます。 踊って唱えるだけで悟りを得れるのなら、知能の低い人や認知症もそれができないとおかしいでしょう。 やはり救いはなく、死という拷問に近い形の苦しみを受けて全てが抹消されて苦しい気持ちを得たという事実だけが残るのではないでしょうか。 もちろん人生楽しんだ恵まれた人は生まれつき遺伝子や環境に恵まれてるので、仏教も興味なくて人生に何の疑問も持たなくてただただこの世界は楽しみだったという感情に溢れてるんじゃないですか。(それこそもはや輪廻転生のせいというか生まれつきの条件を輪廻転生側が選ぶという暴挙) まあなんであれ死んでも輪廻転生なんてないし素粒子になるだけだよね。
こんにちは、 私は一年前かその前くらいに、母と雑談をしていた時、調子に乗って 父の事を大仏のようだと比喩(のんびりしている、ぐうたらしている) と言ってしまいました。 その頃の私は仏教に対して全くの無知でした。 しかし最近、ハスノハを見るようになり、 仏教の素晴らしさと、お坊さんの言葉の数々を知り、なにより、善に溢れた仏教に感銘を受けました。 大仏様のあの姿々も悟りを開き、心の底から善の心を持っているからこそ、あのような姿をしているんだなと、自分の意識が180度変わりました。 あの頃の無知な自分が恥ずかしく、 仏様を怒らせてしまったのではないか? と思ってしまいます。 また、過去の過ち、反省を仏様は認めてくれるのか? と、考えてしまいました。 これからは、少しずつですが、仏教を通して 自分を成長させていきたいと思います。 このような愚行がある私でも、見守ってくださるでしょうか? よろしくお願いします
いつもありがとうございます。 今回も私のせいで、苦しめた挙げ句に死なせてしまった愛犬関連の質問をさせてください。 約一年前に愛犬が亡くなりました。 何度も質問させていただいているとおり、確実に私のせいです。 ここには書いておりませんが、あの子の犬生は私のせいでつらく悲しい寂しいものでした。 あの子を死なせたくせにそのことにも気づかずのうのうと暮らしていた愚かすぎる私が、ある日突然その罪に気づきました。 自分が死なせたこと、苦しめたこと、あの子を振り回してつらく寂しい生き方をさせ続けたこと…。 そして、愛犬のこと以外にも本当に多くの罪を犯してきました。 それらのことはわかっていながら、たいして気にもしていませんでした。 本当に最低すぎる私ですが、罪を気にすることもなくのうのうと、むしろ幸せだとか思い込んで生きていたのです。 愛犬への罪に気付いてから激しい後悔と自責の念に襲われ、自傷や薬とアルコール乱用に苦しむ日々でした。 hasunohaに出会い、縋り、有難いお言葉をたくさん拝見し、仏教を知り、今までの罪を深く反省し過ごしています。 全く悟りなどとは程遠い私ですが、それでもせめて虫なども殺生しないよう、食べ物にも感謝し、間違った行いをせぬよう心掛けています。 毎日懺悔文を唱え一日の反省をしています。 こんなことで罪が消えるとは毛頭思っていませんが…。 前置きが長くなりましたが、愛犬への罪に気づかなかったら、今までの他の膨大な罪を反省することはなかったでしょう。 そしてこれからも罪を重ね続けていたと思います。 仏教の本を読んでいて愛別離苦に苦しむ人の話で「仏様が姿を変えて現世に来てくれ、気づかせてくれたのだ」というものがありました。 あの子が仏様だったと思うわけではありませんし、あの子の生まれてきた意味が私ごときのためにあるとは思えません。 それでも…あの子は愚かすぎる私に、罪に気づかせる役目を背負ってしまったのでしょうか? 苦しむばかりの生き方をさせてしまって、懺悔しかありません。
1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も 総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。 有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。 2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか? 実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか? 3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。 また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。
私はキリスト教と仏教のもとで育ちました。 学校はキリスト教で、お葬式などは仏式が多かったです。 ハスノハは、非常に説得力がある意見もあり、頼っています。 仏教の話もキリスト教と同じかそれ以上好きです。 しかし、キリスト教的な祈りが一番馴染むのです。 古典的な宗教は、同じこと、人間の本能に従って考えつくされたもので、共通するものがたくさんあると思っています。 天の国を悟りと考えたいのかもしれません。 邪道と言われる方もいると思いますが、 父母もキリスト教を信じていた時期もあるので、 僕がキリスト教で育つことになったのですが、 今の両親は、無宗教に近いです。 既存宗教に疑念を感じ、個人の問題と考えている感じで、 ぼくも似ています。 しかし、葬式をどうするかという話がずいぶん前に出たのですが、 家族の意見ががバラバラだったのです。 親も老いてきて考えると、 仏教を信じて、「悟りの中に救われて」亡くなっていく人と、 キリスト教に肩入れしながら、天の父に迎えられると思いながら去っていくことが、 違うものであってほしくないと思ったのです。 母は、無宗教で、自然に返るかのように楽になりたいと思っています。 父も、曹洞宗に肩入れしてますが、似た感じだと思います。 キリスト教に肩入れしている自分だけべつな場所に行くような気がして非常に寂しいです。 これをどう思われますか? これからも続く人生、いつ死ぬかわかりません。 死んでも共にいられる・・・というような安心感が欲しいのかもしれません。 それは、宗教的な問題ではなく、日常で考えるべきことで、いま寂しいだけかもしれません。 考えて行こうと思いますが、 何度か考えたことなので、ご意見を伺ってみたいのです。 1人の凡夫として諭していただけたら 本望かと存じます。
情報産業でサラリーマンをしているものです。 心の平穏に混乱しております。 3年程度の周期でうつ病の再発を繰り返してしましたが、現在服薬治療を受け、寛解しております。 倫理について調べ物、考え事をしていたところ、頭の中が混乱する出来事があり、その後、自分が満たされないという感覚や、不安、怒りなどがほとんど無くなりました。 苦しみはないのですが、こう言ったことは初めてなので、違和感や混乱が多少は感じられます。 この状態を色々な方々に相談するにあたり、便宜的に「悟り」という言葉を使って表現してしまっているのですが、 実の所自分の状態がどんなものなのかよくわかっていない為、不適切な表現をしているようにも思っています。 心理学などについて調べたところ、学術的には「継続的非記号体験」というものにどうやら近いということは分かったのですが、それも研究のための便宜的な定義だと思われるのでこの心の状態を正確に表しているともあまり思えませんでした。 現実世界と折り合いをつけ、人を幸せにしたいという思いを世に役立てる手段や、わたしの状態、これからすべき修行などについてご教授いただければと考えております。
小さな頃からなにか困ったことが起きると私が我慢すれば良いと相手を優先し自分で自分の気持ちを押し殺してしまいます。 人のために自分の限界を超えるまで行動して後から逆に迷惑をかけてしまうこともあります。 そしてそのような状態の時幸せかと言われるとむしろ苦しみを感じていて、心も体も悲鳴をあげて、誰もいない時にほっと幸せを感じます。 最近自利利他という言葉を知りました。 この言葉について調べてみたのですがわからないので詳しくお聞きしたいです。 特に自利とはどういうことを言うのでしょうか? このままでは誰も幸せになれず自分も潰れてしまいそうで怖いです。 よろしくお願いいたします。
私は仏教徒の家庭に育ち、幼い頃からお寺に通い、お坊様と話すのが大好きな幼少期でした。仏教系大学を卒業しましたが、就職後、人間関係でうまくいかず、キリスト教と出会い洗礼を受けました。 しかし、教えへの疑問は続き、今は禅の考えに共感していて、キリスト教も仏教も 人の悩みに対する解決策としては考え方が近いなと感じています。 このサイトに出会い自分の疑問、不安を 質問させていただき、ありがたく感じています。 心配し過ぎず、考えすぎず、目の前の出来事だけを事実として生きていく?これでいいのでしょうか? 生き方と考え方のアドバイスをいただきたいのでよろしくお願いいたします。