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hasunoha 問答検索結果 : 「 煩悩 」
検索結果: 3775件

友達って、なんだろう。

私は37年ほど生きてきましたが、マイペースな性格で、何にも考えずただ楽しく来てしまったような気がします。 1人でも平気でしたし、女の子特有のグループもあんまり好きではありませんでした。だからか、コミュニケーションの一般常識というか、そういうものがズレていたり、わかっていなかったり、更に悪いことに小さい時から時間を守ることができず、大人になって治そうと思ってもなかなか治せず…基本的に考え方が甘いから、いけないんだと最近やっと目が覚めたというか、本気で治さなければと思うようになりました。 あることがきっかけで、私は悪口を言われていると友人Aから聴きました。 凄くショックで子供にも関わることだったし、勘違いされている部分もあり、悪口を言ったBに私のこと悪く言ってるの知ってるよ! 勘違いされていて辛かったよ! (人の悪口ばかり言う人なので)あんまり、言うのやめた方がいいよ!というような事を言いました。すると、私に対して沢山不満があったようで、時間のことや、些細なことも言われました。でもBに直接したわけではないので、仲良くしていたAが私に対する愚痴をBに、こぼしていてBは私のことを悪く思うようになったみたいです。 私は沢山反省して、悪い所は治そうと必死です。でも凄く悲しくて。誰も信じられない気持ちになって、寂しいのです。 きっと他の数少ないママ友にも沢山失態をしているんだと思います。 大事にしたいと思っていたママ友Cもずっと以前から、私と話すときぎこちなくて、不思議に思っていたのですが、きっと私が気付かず不快な事を沢山してしまって、距離を置きたいのかもしれないと思いました。 自分の悪い所は治す気持ちで、指摘は辛いけどありがたいと思っています。 今の身近なママ友達にはもう嫌われたくないし、迷惑もかけたくないから、あんまり深入りするのやめようと思っています。が、友達欲しいな、とも思っています。大切にしたいし、おばあちゃんになっても仲良しでいられるような友達欲しいです。。 今、凄く辛くて、泣きながら入力してます。私は今後どのように、行動していけば良いのでしょうか。

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比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

有り難し有り難し 13
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中絶をしてしまいました

先日、第二子を中絶してしまいました。 手術をすると決めるまでは何度も何度も迷い、産むと決めては不安になり、中絶することを考えては躊躇するを繰り返しながらも、最後はつわりによる体調不良、未来への不安から逃げるように手術を受けました。しかし、術後すぐから何て事をしてしまったのだろうととても後悔しています。 もともとは子供は1人で十分と考えていましたが、第一子の育児が少し落ち着いたタイミングでやはり兄弟がいた方がいいのではと悩み、もう一度赤ちゃんを抱っこしたいという衝動から産後一度だけ子作りをしたところ子を授かることが出来ました。喜ばしいことのはずなのに、とても身勝手ながら妊娠がわかった際に戸惑いました。 第一子はコロナ禍が始まるのとほぼ同時に出産しました。コロナによる夫の多忙、コロナへの恐怖、孤独からか、産後うつとなり、いっときは毎日消えたいと感じ、夫を責め、子どもを上手く愛せず、自分も周りもかなり辛い状況になりましたが、実家の支援を受け、なんとか立ち直りました。 夫婦ともになんとか立ち直ったと思っていましたが、実際第二子ができると、またあの悲惨な状況に戻るのではと強い不安を感じました。本当の意味では立ち直っていなかったのだと思います。 色々と理由を挙げましたが、今から考えればあの子の命を犠牲にしてまでの理由とは思えず、なぜ産むための努力をしなかったのかと自問自答しています。第一子に妹弟ができるチャンスを奪ってしまった、1人にさせていまったという罪悪感も強く感じています。 命を奪った事の重さを今更ながら実感し胸が潰れる思いです。人の命を奪った親に育てられる第一子への罪悪感もあります。その一方でこのまま罪の意識で私の心身を崩し、今の家庭を崩壊させてしまっては、今回のことが全く無意味なものになってしまうと思い、自分を保つ方法を探しているようにも感じます。 仏教では赤ちゃんは産後7日までは仏様に近い存在で、たとえ中絶した子でも必ず仏様になって天国にいけるという考えを知り、心が少し救われました。その一方で自分に都合の良い考えかたをするのはどうなのだろうかと考えています。 今後どうやって生きていくべきなのかお言葉をいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 15
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愛着の捨て方

私には付き合ってもうすぐ三年になる恋人がおります。以前も彼女との関係についてここで質問をさせていただき、その際はとても救われた事を思い出していままた質問させていただいております。 今回の質問は、愛着の捨て方についてです。仏教の世界では愛着というのも未熟さからくる煩悩で捨てるべきものとされていると読みました。 私はいまの恋人がいればいい、彼女を幸せにする為にどんな努力もなんでもしようと思いこれまで頑張ってきたつもりです。しかし相手の都合で会うこともままならず、ただただ待っていてくれと繰り返し言われるのみでこれまでの時間を過ごしてしまいました。 気づけば自分の不安や不満、寂しさを相手にぶつけて幾度となく喧嘩を繰り返してきました。 他の人には向けることのない失望や不満の感情を恋人にだけ抱くというのはそれだけ特別な存在だからだと思っておりましたがその所為で相手を傷つけるのであれば私が幼い為がゆえだと感じております。 しかし生涯で唯一と思った生きる理由ともいうべき相手への愛着や感情を捨てる事がどうしてもできません。相手の為にも私自身の為にもどのように考え、行動すればいいのでしょうか?

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2023/09/09

結婚という欲望を捨てるべきか

ブッダは、欲望を捨てれば苦しみは消えると仰ったと理解しています。 私は4年間婚活をし、1年前に婚活をやめました。二人で会った人で数えるなら61人中61人に振られてきました。私に結婚が難しいことは理解しています。 ブッダの教えに従うならば、結婚したいという欲望を捨てれば私は苦しみから解放されるということになります。 ただ、本当にそれでよいのか考えています。 諦めることで将来後悔するのではないか、向いていないことから逃げるのが良い生き方なのか、とも考えるのです。 このような話をすると、「いつかいい人に出会えるよ」「結婚するかしないかは今決めずに、できたらするくらいがいいよ」などと言われます。 61人中61人に振られた人を好きになる人がいるのでしょうか、婚活しても結婚できなかった人が「できたらする」程度で結婚できるのでしょうか。 そもそも、なぜ結婚したいのかも、実は分からないのです。ないものねだりをしているのではないかとも思うのです。61人に振られたと申しましたが、そのうち40人くらいは私も振った人です。選ばれない分際で選んでいるのです。 また、結婚することで何をしたいのかも、分からないのです。私の個人的な悩みを解消するために誰かに結婚してもらっても、その人は不幸でしょう。 子供を欲しいと思いますが、それがなぜなのかも分からないのです。本能だからでしょうか。 このように考えると結婚という欲望は捨てるべきだという結論になるでしょう。 ただそうすると、世の婚活を否定することにもなるのです。「婚活頑張っています」と言う人に「そんな欲望は捨てろ」とは言えません。 ここに矛盾が発生しました。 そもそも欲望はなくてよいのでしょうか。ブッダへの挑戦状ともとれる発言ですが。 子孫を残したいという煩悩があるから生物は世代を継いでゆくのです。金が欲しいという煩悩があるから資本主義社会が成り立つのです。 私は結婚したいという欲望を捨てるべなのか、 欲望を追い求める人生と諦めた人生、どちらが幸せなのか、 こういうことを考えていること自体が、結婚したいという前提に立っていることの証左であることは自覚しています。 結婚という欲望についてお考えを伺えますと幸いです。

有り難し有り難し 29
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自分の生き方・社会について

よろしくお願いいたします。 最近、私の周りでご不幸が会った方や離婚をなさった方、難病が見つかった方そのほかにもいろいろな方がいらっしゃいました。また、そのとき私自身も濡れ衣を着せられたため、親友だと思っていた人に裏切られるなどの悲しい体験を立て続けに経験しました。 それまで私は親の庇護の元にぬくぬくとなに不自由なく過ごしており、また今もそうですが、世間の厳しさや醜さをまじまじと見る機会がありませんでした。 そのため上の経験をして、世の中というのがどんなに危険な場所なのか。 世界は平和で、夢と希望にあふれていて、救いに満ちていて、 人と人は愛し合うために生まれてきて、仲良くするべきで、子供は幸せになる義務があるなんていう甘いことを言うと簡単に足元をすくわれてしまうかを学びました。 二つ質問をさせて頂きます。 一つ目 なぜ世の中は負のもののほうが強いのでしょうか。 喜びや楽しみは後々まで続かず、悲しみや苦しみや恨みは続き、 美しいものを作る力と保つ力は壊す力にいとも簡単に押し負け、 善意は悪意に利用され、悪貨は良貨を駆逐して止まず、 真実と真相は必ずしも同じではないというのはなぜなのでしょうか。 二つ目 上のことを思いながらも自分自身が怒りや恨み嫉みが心の中で渦巻くことがあります。そんな自分が上のことと同じであると考えるだけで吐き気がします。 私自身は笑顔を人に振りまける、自分の周囲が幸せに笑ってくれるような人になりたいです。どうしたらよいでしょうか。 二つも質問をしたうえに長々と書かせていただきました。 もしお目に留まったのならば、よろしければ未熟者である私が歩く道をご教授ください。 失礼いたしました。

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