大学に入って2年目です。授業を受けてきて段々と業界の闇や現実が見えてやりたいことがはっきりと言えなくなったり漠然とした不安に押し潰されそうになったりします。 それに加えて毎日仲良くない人達との実習と常に溜まるレポート、発表。 そんな日々を過ごしているといつしか朝が来なければいいのに、学校に行かなくても良くなればいいのに。学校へ行くまでの電車に飛び込んでしまえば何もかも楽になれるのに。そんな甘えのような考えまで出て来るようになってしまいました。 皆同じ境遇で頑張っているのに自分だけこんなに遅れてしまっている。なんでこんなことも出来ないんだろうと悲しくなります。どうしたらこんな煩悩が無くなるでしょうか。
私は37年ほど生きてきましたが、マイペースな性格で、何にも考えずただ楽しく来てしまったような気がします。 1人でも平気でしたし、女の子特有のグループもあんまり好きではありませんでした。だからか、コミュニケーションの一般常識というか、そういうものがズレていたり、わかっていなかったり、更に悪いことに小さい時から時間を守ることができず、大人になって治そうと思ってもなかなか治せず…基本的に考え方が甘いから、いけないんだと最近やっと目が覚めたというか、本気で治さなければと思うようになりました。 あることがきっかけで、私は悪口を言われていると友人Aから聴きました。 凄くショックで子供にも関わることだったし、勘違いされている部分もあり、悪口を言ったBに私のこと悪く言ってるの知ってるよ! 勘違いされていて辛かったよ! (人の悪口ばかり言う人なので)あんまり、言うのやめた方がいいよ!というような事を言いました。すると、私に対して沢山不満があったようで、時間のことや、些細なことも言われました。でもBに直接したわけではないので、仲良くしていたAが私に対する愚痴をBに、こぼしていてBは私のことを悪く思うようになったみたいです。 私は沢山反省して、悪い所は治そうと必死です。でも凄く悲しくて。誰も信じられない気持ちになって、寂しいのです。 きっと他の数少ないママ友にも沢山失態をしているんだと思います。 大事にしたいと思っていたママ友Cもずっと以前から、私と話すときぎこちなくて、不思議に思っていたのですが、きっと私が気付かず不快な事を沢山してしまって、距離を置きたいのかもしれないと思いました。 自分の悪い所は治す気持ちで、指摘は辛いけどありがたいと思っています。 今の身近なママ友達にはもう嫌われたくないし、迷惑もかけたくないから、あんまり深入りするのやめようと思っています。が、友達欲しいな、とも思っています。大切にしたいし、おばあちゃんになっても仲良しでいられるような友達欲しいです。。 今、凄く辛くて、泣きながら入力してます。私は今後どのように、行動していけば良いのでしょうか。
悟りというものは例えば電車に乗っているときにお年寄りに席を譲る。すると喜ばれる。「ああ、こういうことをするといいんだな」と思う。 こういうのが悟りなのでしょうか? 何も本に書いていることだけじゃなくて、「日常の中でこうすると人はこうなる」という事を知るというのが悟りなのでしょうか?
宗教戦争、宗派闘争はもはや、時代遅れだと思います。 特に日蓮宗と浄土真宗の僧侶方、これについての打開策を述べてみてください。
こんばんわ。 夜分遅くに失礼します。 ただ今私はサラリーマンをしていて、 幸せな家庭を築くこと、 そのために良い会社へ転職し、一生勤めることを目標としています。 しかしその目標に対して、本当に自分がそうしたいのか、 40%ぐらいしかその気持ちがないように感じています。 その理由としては ①欲を持っていても、現実は厳しいんではないか ②欲を持っていると他人を傷つけるのではないか、自分が醜くなってしまうのではないか と思っているからです。 そんなことを考えていて、 自分があまり変わっていないことが苦しいです。 煩悩を捨てることこそ、苦しみから逃れるすべだとよく聞きますが、 自分の目標を捨て生きていくべきなのでしょうか。 それとも中道の考えから欲や目標に振り回されない程度に、 目指すべきなのでしょうか。 自分がどうあるべきかが分かっていないです。 質問としてあまり整理できていなく、 申し訳ございませんが、 ご教授頂けると幸いです。
お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。
夫が引き抜きによる転職に失敗し失業しました。 これまでの生活はもう送れないのか、子供たちにも習い事をやめさせるなど環境を変えなくてはいけないのかとそのことが不安で夫に当たり散らしてしまいます。 なんとか前向きになろうと私も就職も決めましたが時々パニックになり泣いたり喚いたりしてしまいます。 私は貧乏が怖いのです。どうしようもなく心がすさみます。 そして、その苦しみを与えているのが大好きな夫だということが余計に苦しいのです。お金にばかりにこだわっている自分が浅ましいような気もして自己嫌悪に陥っています。 愛しているはずなのに夫を労れず苦しいです。 どのような心持ちでいたらよいでしょうか。 どうか心構えを教えください。
60歳を超えた両親に早く死んでほしいと思っています。 親はアパートを経営しており、相続し売却すれば数千万円手に入るはずです。今の自分は生活に困っているわけでもなく、精神的に病んでいるわけでもありませんし、今の仕事も特別つらいわけでもありません。しかし、両親が死ねばもっと楽な生活が手に入ると思うと、早く死んでほしいと思います。 両親を憎んでいるわけでもないし、関係が特別悪いわけでもありませんが、高齢になった時の介護などを回避するためにも、いずれ死ぬなら早く死んでもらうに越したことはないと思っています。 早く死んでもらうためのいい方法は何かありませんか?自分が死ねばいいという回答はなしでお願いします。 それと、親に死んでほしいという感覚は、みんな口にしないだけで持っているものなんでしょうか?
先日、第二子を中絶してしまいました。 手術をすると決めるまでは何度も何度も迷い、産むと決めては不安になり、中絶することを考えては躊躇するを繰り返しながらも、最後はつわりによる体調不良、未来への不安から逃げるように手術を受けました。しかし、術後すぐから何て事をしてしまったのだろうととても後悔しています。 もともとは子供は1人で十分と考えていましたが、第一子の育児が少し落ち着いたタイミングでやはり兄弟がいた方がいいのではと悩み、もう一度赤ちゃんを抱っこしたいという衝動から産後一度だけ子作りをしたところ子を授かることが出来ました。喜ばしいことのはずなのに、とても身勝手ながら妊娠がわかった際に戸惑いました。 第一子はコロナ禍が始まるのとほぼ同時に出産しました。コロナによる夫の多忙、コロナへの恐怖、孤独からか、産後うつとなり、いっときは毎日消えたいと感じ、夫を責め、子どもを上手く愛せず、自分も周りもかなり辛い状況になりましたが、実家の支援を受け、なんとか立ち直りました。 夫婦ともになんとか立ち直ったと思っていましたが、実際第二子ができると、またあの悲惨な状況に戻るのではと強い不安を感じました。本当の意味では立ち直っていなかったのだと思います。 色々と理由を挙げましたが、今から考えればあの子の命を犠牲にしてまでの理由とは思えず、なぜ産むための努力をしなかったのかと自問自答しています。第一子に妹弟ができるチャンスを奪ってしまった、1人にさせていまったという罪悪感も強く感じています。 命を奪った事の重さを今更ながら実感し胸が潰れる思いです。人の命を奪った親に育てられる第一子への罪悪感もあります。その一方でこのまま罪の意識で私の心身を崩し、今の家庭を崩壊させてしまっては、今回のことが全く無意味なものになってしまうと思い、自分を保つ方法を探しているようにも感じます。 仏教では赤ちゃんは産後7日までは仏様に近い存在で、たとえ中絶した子でも必ず仏様になって天国にいけるという考えを知り、心が少し救われました。その一方で自分に都合の良い考えかたをするのはどうなのだろうかと考えています。 今後どうやって生きていくべきなのかお言葉をいただけますと幸いです。
今までに1000枚書いてきたけれど自分というものが分かりません。煩悩の塊です。 だったら1001枚目を書きはじめればいいじゃん。 あっ、そうか、そういうことか。 自分探し永遠なり。
私には付き合ってもうすぐ三年になる恋人がおります。以前も彼女との関係についてここで質問をさせていただき、その際はとても救われた事を思い出していままた質問させていただいております。 今回の質問は、愛着の捨て方についてです。仏教の世界では愛着というのも未熟さからくる煩悩で捨てるべきものとされていると読みました。 私はいまの恋人がいればいい、彼女を幸せにする為にどんな努力もなんでもしようと思いこれまで頑張ってきたつもりです。しかし相手の都合で会うこともままならず、ただただ待っていてくれと繰り返し言われるのみでこれまでの時間を過ごしてしまいました。 気づけば自分の不安や不満、寂しさを相手にぶつけて幾度となく喧嘩を繰り返してきました。 他の人には向けることのない失望や不満の感情を恋人にだけ抱くというのはそれだけ特別な存在だからだと思っておりましたがその所為で相手を傷つけるのであれば私が幼い為がゆえだと感じております。 しかし生涯で唯一と思った生きる理由ともいうべき相手への愛着や感情を捨てる事がどうしてもできません。相手の為にも私自身の為にもどのように考え、行動すればいいのでしょうか?
最近、ずっとダラダラしています。 試験期間が、もうそろそろなのに関わらずです。 自分でもそのことに気づいているのですがなかなかできません。 この1年間は、毎年よりも病気にたくさんかかり、 2週間点滴を打ったこともありました。 病気が関係するのかはたまた自分がダラダラしたいなと思っているのでしょうか よくわかりません。何が関係しているのでしょうか? そして、どうすれば良いのでしょうか?
とあるお坊さんの本でこのようなことが書いてありました。(内容は多少変わります) ーーーーー 「自分は相当苦労してプレゼンをやっているのに対し、彼はそこまで苦労もなくやってのけその上評価までされて妬ましい」 この妬みの煩悩を無くすには比較をやめ、自分の得意分野を見る。 そうすれば「彼はプレゼンが得意だけど、自分は書類作りが得意だからこちらを伸ばそう」という風になる。 ーーーーーー 大体このようなことが書かれていました。なので自分の得意分野を考えてみたのですが、昔から器用貧乏で大体のことをそれなりにこなせます。 自分は特別これが得意というものがわからないので、具体的な得意分野がある人と比較して結局妬んでしまいます。 この場合どのような考え方をすれば、妬みの煩悩から離れることができるでしょうか。
世のため人のためといいますが、みんな頑張りすぎだと思います。 もう本当に無関心になってしまえば滅亡できていいと思います。 無は0ではなく、無は無とも言えない。やはり無は無いんでしょうか。悲しいです。 煩悩に塗れやすい性質は仕方ないし無理にどうこうする必要は無いのでは? 困っている人が気になって生まれ変わってしまうこともあるそうですが、それも気にしなくていいと思います。 人に何か言っても結局、当人の問題なのになぜ説くことが推奨されているんでしょうか。 煩悩がすごいので一般的な押し付けの幸福や向上や真理の追求は幸福だと思えません。じっとしているだけで愉しいというのはものすごく悟らないと厳しそうですかね。 もう何かを信仰するのを諦めたいです。 ハスノハで相談するのも矛盾ですが、また書いてしまいました。
ブッダは、欲望を捨てれば苦しみは消えると仰ったと理解しています。 私は4年間婚活をし、1年前に婚活をやめました。二人で会った人で数えるなら61人中61人に振られてきました。私に結婚が難しいことは理解しています。 ブッダの教えに従うならば、結婚したいという欲望を捨てれば私は苦しみから解放されるということになります。 ただ、本当にそれでよいのか考えています。 諦めることで将来後悔するのではないか、向いていないことから逃げるのが良い生き方なのか、とも考えるのです。 このような話をすると、「いつかいい人に出会えるよ」「結婚するかしないかは今決めずに、できたらするくらいがいいよ」などと言われます。 61人中61人に振られた人を好きになる人がいるのでしょうか、婚活しても結婚できなかった人が「できたらする」程度で結婚できるのでしょうか。 そもそも、なぜ結婚したいのかも、実は分からないのです。ないものねだりをしているのではないかとも思うのです。61人に振られたと申しましたが、そのうち40人くらいは私も振った人です。選ばれない分際で選んでいるのです。 また、結婚することで何をしたいのかも、分からないのです。私の個人的な悩みを解消するために誰かに結婚してもらっても、その人は不幸でしょう。 子供を欲しいと思いますが、それがなぜなのかも分からないのです。本能だからでしょうか。 このように考えると結婚という欲望は捨てるべきだという結論になるでしょう。 ただそうすると、世の婚活を否定することにもなるのです。「婚活頑張っています」と言う人に「そんな欲望は捨てろ」とは言えません。 ここに矛盾が発生しました。 そもそも欲望はなくてよいのでしょうか。ブッダへの挑戦状ともとれる発言ですが。 子孫を残したいという煩悩があるから生物は世代を継いでゆくのです。金が欲しいという煩悩があるから資本主義社会が成り立つのです。 私は結婚したいという欲望を捨てるべなのか、 欲望を追い求める人生と諦めた人生、どちらが幸せなのか、 こういうことを考えていること自体が、結婚したいという前提に立っていることの証左であることは自覚しています。 結婚という欲望についてお考えを伺えますと幸いです。
利害関係のある立場で、相手に対する譲歩や忖度について迷いがあります。 お互いに利益を追求しつつ、気持ち良く仕事をすることと念頭においています。 困っていたり分からない人を助け導き、可能な限り譲歩して参りました。 相手のあらゆる状況や条件で差別したり、相手を否定しません。 しかしながら、どうやら当方にも限界があります。 届かない相手がいます、譲歩や忖度をしてもらうことを当然という人がいます。 それらを承知で、相手を何度も許し、また丁寧にお願いをしたり、提案したり、 自分から工夫して、自分のコントロールに精進しています。 修行が足りない、のは充分承知の一方で、しんどいのも確かです。 相手が譲歩してくれる、相手が忖度してくれる、という人に 当方が学びを頂いている、と思うのも、少し無理が出ております。 相手を変えるつもりはありません。 相手の顔色を伺っているのか、相手を思いやる気持ちなのか、 譲歩や忖度がどこまで、どういるのかが分からなくなって来ました。 卑屈な考えなる前に、どうか、自浄出来るヒントを与えて下さい。 よろしくお願い申し上げます。
上記が概要です。 奥さんと一緒に住めることといい職場である、という点からも当初の希望と反して神奈川の田舎の病院勤務を選択しました。しかし、素敵な女性と知り合い、都内への羨望、また医師として尊敬できる奥さんとはまた違ったタイプですが、女性としてとても魅力的なCAさんに一目惚れしています。話した感じもとても魅力的でした。 どうしたらよいでしょうか、、全てなかったことにするか、浮気してしまうか、いっそ離婚するか、、離婚と考えるとでも奥さんの悲しむ顔が見えて胸が痛くなりますが、四月から新しい職場で働く意欲が今はなくなってしまいました、 どんなことでもよいので道を示すヒントを頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。 最近、私の周りでご不幸が会った方や離婚をなさった方、難病が見つかった方そのほかにもいろいろな方がいらっしゃいました。また、そのとき私自身も濡れ衣を着せられたため、親友だと思っていた人に裏切られるなどの悲しい体験を立て続けに経験しました。 それまで私は親の庇護の元にぬくぬくとなに不自由なく過ごしており、また今もそうですが、世間の厳しさや醜さをまじまじと見る機会がありませんでした。 そのため上の経験をして、世の中というのがどんなに危険な場所なのか。 世界は平和で、夢と希望にあふれていて、救いに満ちていて、 人と人は愛し合うために生まれてきて、仲良くするべきで、子供は幸せになる義務があるなんていう甘いことを言うと簡単に足元をすくわれてしまうかを学びました。 二つ質問をさせて頂きます。 一つ目 なぜ世の中は負のもののほうが強いのでしょうか。 喜びや楽しみは後々まで続かず、悲しみや苦しみや恨みは続き、 美しいものを作る力と保つ力は壊す力にいとも簡単に押し負け、 善意は悪意に利用され、悪貨は良貨を駆逐して止まず、 真実と真相は必ずしも同じではないというのはなぜなのでしょうか。 二つ目 上のことを思いながらも自分自身が怒りや恨み嫉みが心の中で渦巻くことがあります。そんな自分が上のことと同じであると考えるだけで吐き気がします。 私自身は笑顔を人に振りまける、自分の周囲が幸せに笑ってくれるような人になりたいです。どうしたらよいでしょうか。 二つも質問をしたうえに長々と書かせていただきました。 もしお目に留まったのならば、よろしければ未熟者である私が歩く道をご教授ください。 失礼いたしました。
わたしは人から言われた一言をずっと気にしてしまいます。 ある人に相談したところ無関心になればいいと教わりました、 果たして無関心などなれるのでしょうか、 また無関心とはどういうことなのでしょう。
日蓮宗の方のYoutube動画で、水行修行についてのものを拝見し、「世の中は楽しみ、苦しみの量が決まっていて(同じ)。修行者が苦しみを皆の身代わりに受ける」 その覚悟で臨んでいるという内容でした。 大変感銘を受けました。 自分もそうですが、とかく人は「どうして自分だけがこんな目に」的な考えで不平・不満を抱きがちですが、自ら進んで苦行に臨む姿に尊敬します。 どうすれば、こうした心境や境地に至れるのでしょうか? 最近仏教思想に興味を持ち、「少欲知足」など、色々な言葉を知るようになりました。ただ、どうしてもまだ頭だけ(知識のみ)で、実践にまで至っていません。 僧侶の方々も人間ですから、時には煩悩に苛まれることもあるかと思いますが、どう考え、日々の実践に移されているのでしょうか? アドバイスいただけますと幸いです。