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hasunoha 問答検索結果 : 「私 煩悩 」
検索結果: 3414件

無常に気付き忘れないためには出家しかないのでしょうか

回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?

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お坊さんは、どこまで自分のために贅沢やお金を使っていいの?

誤字等あれば、ご容赦ください。 今回は、先日感じたことについて、色々なお坊さんの意見を聞いてみたいと思い、投稿しました。 聞きにくい事ですが、勇気をもって質問させて頂きます。 お付き合い頂けるお坊さんがいてくれたら幸いです。 自分は先日、菩提寺に行った時に、住職の車が外車なのを知りました。 よく回答して頂いているお坊さんなどはご存知だと思いますが、その時精神的に沈んでて、「外車かよ…」と悪く思ってしまいました。 というのも車整備のバイトをしたこともあり、日本の車道にはやはり日本車があっていること知っていて、実用面よりブランドで選んだ、執着しまくりじゃんと思ってしまいました。 今振り返ると、大人気ないです(-_-;) ただし、お坊さん達は、お坊さん達が上等なものを持つという事に対して、どういう考えをお持ちなのかは、ふと気になることがあります。 「お坊さんだって好きなもの欲しい」「お金があるならいいだろう」というお坊さんもいると思いますし、自分もある程度はいいと思います。 ですが仮に、全うに稼いだお金が潤沢にある一僧侶や一寺院が、ロールス・ロイスやリムジンを持ったとしても、同じことが言えますか?と考えてしまいます。 例えば、超貧乏な檀家さんを前にして。 テレビに良く出演されているある方は、ある宗派の本山の金文字入ったキャデラックに、追い越される際、全身土埃浴びせられ、追いついた際「あなた達の開祖は貧乏な人々に寄り添い、信仰を集め広めていったのに、弟子であるあなた達はなんなんですか、そのヤクザみたいな金文字入った高級車は必要なんですか」と問い詰めたそうです。 清貧であるべき、節度があれば、自身の金なら無問題など、それぞれに仏教的回答があると思いますし、正解があるのかもわかりません。 多分お坊さんによっても考えが違うのではと思います。 ただ、だからこそ現在に生きるお坊さん一人一人の考えを聞いてみたいと思いました。 そもそも、あなた人を金だけで見ないようにでも結構です。 可能な範囲で結構ですので、回答頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。

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自分で死を選ぶことは絶対に悪いことですか?

ご無沙汰しております。 悩みというほどではありませんが、モヤモヤするので質問させていただきます。 まず、前提として、人間として生きている間に、できるだけいいこと(徳を積む?)をしなければならないと思います。学問を積んで本質を追求し気づいたことを伝えたり、ボランティアをして何かの役に立ったりすることが大事だと考えました。引きこもったり、ニートになったりしていても、何も考えたり感じたりしていないわけではなく、どうにかしたいともがいているはずで、その課題を解決した自分なりの答えを他の人に伝えることが大事だと気づきました。 しかし、絶対に自ら命を絶ってはならないということもないのではないかとも思っています。 なぜ、人は自殺したり、餓死(自殺に近いもの)したりしてはいけないのでしょうか? これには、いろいろな状況があると思います。 (1)本当にお金がなく、食費や水道代が払えず、餓死する場合、公的な機関などから門前払いを受け、誰にも気づかれず、死んでいった場合。 亡くなった人の選択肢として、コンビニやスーパーの物を盗み、生きるという選択肢もあったはずです。(窃盗犯という前科はつきますが)。その人は法を犯さない範囲で、できる限りの手は尽くしたでしょうし、周りの人も役割は果たしたでしょう。そこから社会の人が学べば、いい方向へ変わっていくはずですが、批判するだけして代案を考えないのは無責任のような気がします。 「悲しい」と嘆くのではなく、修行の末に亡くなったと捉え、学びに変えていくことが大切ではと思います。 (2)認知症や脳疾患のため、おかしくなった時を恐れて自殺してしまう場合。 (3)治る見込みのない病気(末期ガン)で、一切の飲食を絶った場合。 (2)も(3)も、周りに迷惑をかけないという思いからです。 生きることができるなら、負のもの(借金やネガティブ感情)を残さず、いいものを残すよう努力することが大事だと思います。自分自身の遺体をどう処理してほしいか伝え、そのための費用まで用意できると、責任ある人生を全うできるかなと思います。 うまく表現できず、申し訳ありません。 どのように死ぬかと考え、残された人への影響を心理面や費用面など分析することは、どう生きるかに繋がることだと思います。 死後も、しばらくは他人に影響を与え続けるので、生き方は大事だと思います。

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来年は良い年にしたい。自分にできることはありますか?

2016年は自分にとってさんざんな一年でした。前回の質問の通り、株で大損してしまったこともありますし、仕事でもクビになってもおかしくないくらいの失敗を犯してしまいました。職場での信頼も完全に失ってしまいうつ一歩手前までなってしまいました。休みも全然取れず、生きがいの旅行も全く行けず 、厄年ではないのにお祓いに行こうかとさえ思ったくらい、最悪の一年でした。 一方で家族や身内には、ハッピーなことが次々に起こった一年でした。まるで自分が犠牲になって周りを幸せにしているようでした。大切な家族・身内には幸せが来ているのに、自分が不幸なせいで素直に一緒に喜べず、そんな自分にも嫌気がさします。 思えば今年の初詣で買ったお守りを早々に紛失したところから自分の今年一年の不幸が始まったのかもしれません。また、今年から初詣の方法を少し変えたのですが(参拝順路を変えたり、お守りの種類を変えたり)それが身内には良かったが、自身には仇となったのではと思っています。 もう少しで2016年も終わりますが、こんなにも今年が早く終わってほしいと思ったことはありません。どうか2017年は心から笑える年にしたいのですが、どのような心持ちでいると、自分には幸せが訪れるのでしょうか。

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自分の意見を述べようとすると涙がでてくるので困っています

自分の意見を言う場になると、涙が出てきます。 Q&Aサイトで、女性が同じ悩みを相談されているのを見かけます。泣くのは悪いことではない、感受性が豊かなのは良いことだ、とアドバイスを頂いたりしておられます。 しかし、40代の男です。社内で、顧客の前で、PTAの会議で、いちいち泣いていてはおかしいですし、みなさんに余計な気を遣わせてしまいます。 そういうわけで、対立するような意見を言わないようにしてきました。意見を述べないといけない場面になったら、極力感情を高ぶらさせないように話そうとしますが、それでも顔が熱くなって、目に涙が溜まってくるのを感じます。 そんな自分が、PTAで重い役に選ばれそうなのです。PTA活動自体が嫌なわけではないのですが、いろんな意見(苦情も)が出てくる、自分の意見を求められる、そんな場面で涙がでてきてしまったら・・・と考えるととても怖いです。 「自分はそんな性格でなないので・・・」と言ってみましたが、「まわりのみんなも協力するし、1人で抱え込む必要はない」と返され、その先の反論はできませんでした。 今はとにかくやってみよう、という気にはなっていますが、人と討論する場面がきたらどうしよう、という不安がかなりあります。 どうすればこの問題を解消することができるのでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。

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不幸が重なり愛犬の死がいつまでも悲しい

長いです、申し訳ありません。 去年の10月まで母方の祖母、父方の祖父母が存命でした。親子犬2匹(10歳、5歳)飼っていました。 犬は5年前に保護犬を里親として引き取り、大事に育てて過ごしてきました。(親犬は当時から心臓が悪かった) 昨年の3月、4歳だった子の方の犬に悪性腫瘍が見つかり治療開始しました。治癒困難と言われていましたが半年かけて寛解しました。 同じ頃に父方の祖母の癌がみつかりこちらも手術しました。(がのちに再発) 昨年10月に祖父(97)が急死。 今年2月に長らく寝たきりだった母方の祖母(96)が無くなり、その10日ほど後に心臓病が悪化した親犬が亡くなりました。 5月に容態が急激に悪化した父方祖母が入院後1週間で亡くなりました。 1ヶ月後の6月に悪性腫瘍再発で治療中だった子の方の犬(5歳)が急死。前日まで元気に遊んでいたのでとても急に感じました。 半年の間に祖父母3人と犬2匹を失い、非常に落ち込みました。しかし祖父母は高齢であり、親犬も心臓が元々悪かったので悲しいながらも納得しています。 職業柄生死について考えることは多く、乱暴な言い方ですが死に抵抗はあまりありません。 死ぬことや病気にかかるという事は誰のせいでもなく、誰にもコントロールできることではなく、仕方のないことだと思っているのです。出来るだけのことはして、それ以上は人ではなす術もないと思っております。 しかし、若くして亡くなった犬の事を考えると未だに涙がとまりません。納得がいかないのです。なぜ普通若い犬がかからないような悪性の病気にかかってしまったのか。苦しまずに急に亡くなってよかったと思う反面、元気だったのに急に亡くなったことに心がついていかない。 でも本当はこうなることは病気が見つかった時からわかっていました。命が長くないこと。でももしかして治るかもしれないと、奇跡を信じて現実から目を背けてしまった。 日常生活はいつもと変わらず過ごしており、誰にもこの感情は話していません。 時間以外にこの悲しみを和らげるお言葉をいただければと思います。

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心が壊れてしまう

混沌とした世の中で暮らしていくのが辛く苦しい、この閉塞感の中で平和でもない中オリンピックなど開催しウイグル地区の人達への人権侵害で政府関係者のボイコットなどしても何の意味もなく国の威信をかけての見せかけの平和の祭典に連日お祭りのように報道するマスコミにもコロナ禍とし場当たり的な対応する政府にも嘘が見え隠れし心を保って生活するのが難しく感じています。  ミャンマーのロヒンギャ難民の人達の悲惨さも軍事政権の横暴さにも胸が痛くなります。ミャンマーの人達の解放のためにNPO法人などで助けになろうとされている知人もいます。私も自分の出来ることはと寄付や募金などしていますが、出来ることは少なく苦しい思いです。自分が今あるところで自分の出来ることをして日々生活していくしかないと思いますが、理不尽なことがいつまでまかり通るのかと心が壊れそうです。 都市部は情報が多く心が惑わされることが多いのかもしれません、都市部で働いて都市部で生活するのに疲れました。都市部から離れて自然と共に生活して自給自足までは難しいとしても自然の営みの中での生活をしたいと思います。報道番組はなるべく見ないようにしていますが、連日のコロナ騒動の話題が辛いです。自分の与えられている環境に家族もいて仕事もあることに感謝はしていますが、心のざわめきが抑えられません。どうしたら心を整えて生活していくことが出来るでしょうか、このままでは心が壊れてしまいそうです。

有り難し有り難し 53
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