こんにちは。 今犬を飼っているのですが、将来必ず訪れるペットの死に怖さを感じてしまいます。 今は元気にしているのに、いつか居なくなってしまうことが怖くてはなりません。 一日も無駄にしないようにと、休みの日は色々遊びに行くのですが、ここ最近は暑すぎて外に出られず、時間を無駄にしてしまっているのではないかと思ってしまいます。 こんな気持で向き合うのは良くないと思っているのですが、どうしても考えてしまいます。 今を集中して楽しむ方法はございますでしょうか。 よろしくお願い致します。
母が亡くなり2年がたちました。未だに時々悲しくなります。母の亡くなる半年前から私は母にひどい仕打ちをしていました。親にする行為ではありません。そのせいもあり母は亡くなったと思います。後悔しています。私は生きていていいのかと悩みます。しかし、どんなに後悔しても母は戻りません。私の母にした後悔や罪は消えないのはわかっていますが、何か償う方法はありますか?せめて償いがしたいです、教えていただきたいです
主人が半年前、末期の癌と診断され亡くなりました。私は、末期の癌でも長く生きられる人もたくさんいるから大丈夫だと思っていました。亡くなる一カ月前ぐらいに体の痛みがひどくなり入院する事になりました。痛み止めの点滴ですぐ良くなり退院できるからと思い、お金も必要だから仕事に専念していました。亡くなる1週間前から主人からよく仕事中にもうあぶないから病院に来てほしいと何度か電話がありましたが、私は大丈夫だってと言いそのまま仕事をしていました。亡くなる2日前に主治医の先生から話しがあると言われ、そこで後1週間しか生きられないと告げられ涙が止まりませんでした。主人は、電話を何度かしてきたってことはずいぶん前から分かってたんだなぁと思いました。主治医から聞かされときには、もう主人は意識からもうろうとしてたので私の事が分からなくなっていました。仕事休んででも一緒にいてあげれば良かったのに2週間たった今でも後悔ばかりしています。どうしたらいいんだろう。
先日祖父が亡くなりました。私が生まれてからずっと一緒でした。病院に入院してから家に帰りたいと言っていましたが、家では見れない為、施設に入所になりました。祖父はショックを受けたようでた。 たくさんお世話になり、専門学校や自動車学校にも行かせてくれて、とても優しい祖父でした。なのに最期を施設で迎えさせてしまいました。家で一緒に生活しているときにイライラしてしまい当たることもありどうして優しくできなかったのか、家に連れて帰らなかったのか後悔しかありません。 コロナの影響で面会も出来ず会えたのは亡くなる前でした。会って手を握って顔を見た時に本当に後悔して、思い出すだけでも涙が止まらないです。看取りも2人までで、できませんでした。祖父は家に帰れず悲しかったのだと考えてしまいます。
夫の親友が急に亡くなりました。私の友達でもあったため通夜やお葬式に一緒に参列しました。 式で夫が泣いたのを結婚して初めてみました。今はまだ現実を受け入れられない様子で忙しくしていますが、私の前では決して弱音を吐いたり泣いたりしません。そんな夫を見ているのがとても辛くてそっとしておこうと思ってました。ただ夫は親友を含め付き合いの長い友達には素直に感情を出しているようで、みんなからあいつをよろしくなと言われる度に違和感を感じます。夫は私をまったく必要にしてないように感じます。今回のことでそれを実感してとても辛いです。
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
死の間際に感じているであろう苦痛が怖くて仕方ないです。 最近、ときどき「死ぬ間際の苦痛」がどうしようもなく恐ろしくなってしまうことがあります。 多くはフィクション作品やドキュメンタリーを鑑賞している際に感じています。「死」や「病」に関する描写が出てくると、ふと「死ぬ間際にはどのような感覚なのだろう」と想像してしまうのです。 例えば病であれば、病床で満足に動くこともできず逃げられないまま病による苦痛を味わい続ける日々を想像し、気分が悪くなってしまいます。 フランス革命の話題であれば、「ギロチンにかけられた場合でも間髪入れずに死ぬのではなく、一瞬は生きているだろうから、その際に激痛を感じているのだろうな」などと考えてしまいます。 それ以外にも、例を挙げれば枚挙に暇がありません。 調べてみれば、やはり「苦しまない死」を享受できる可能性はそれほど高くないとのこと。 私はこの、「人生の終わり間際に大きな苦痛が予約されている」という状況そのものに耐えがたい恐怖を感じてしまいます。 思えば、私は「予定された苦痛」というものが非常に苦手です。 以前、微熱と悪寒があり「もしかしてインフルエンザかも」と思った瞬間に、来たる高熱での苦痛への恐怖で血の気が失せて吐きそうになったこともありました(ただの体調不良でした)。 コロナウイルスのワクチンを接種した際も、注射そのものではなく、ほぼ確実に発生するという副反応へかなりの恐怖を覚えていました。 死の苦痛も、私の中では同じです。 死ぬことそのものにはそこまでの恐怖を感じてはいません。 ですが、そこに至る過程である「苦痛」の存在が、私は恐ろしくてなりません。 夜遅くや、朝起きたとき、ふと浮かぶその恐怖に押しつぶされそうになってしまいます。 こうした「来ることが確約されている痛み」への恐怖を和らげるためには、いったいどのような心構えでいればいいのでしょうか?
弟が23歳の若さで突然亡くなりました。 私たち家族は信じられなくて夢のように感じています。でも現実は残酷で受け入れて行くしかなく、弟が安らかに眠れるようにお通夜やお葬式を行い全て終えました。 母は憔悴していて私も寂しいし悲しいけれどしないといけないことは山ほどあり、母の代わりに色んな手続きを行っています。でも何もせずに悲しむだけの母に疲れもありイライラしてしまい度々喧嘩になってしまいます。生活していかないといけないので来週からは仕事に行かないといけないし正直しんどいです。このままだと家族がバラバラになってしまうように思います。いつか時間が経てば乗り越えれるのでしょうか?
1ヶ月前に子供のように育ててた愛犬(11才)が病院で突然亡くなりました。峠はこえたからと言われていつ帰って来るのかな?と楽しみに待ってたのに、病院から電話があり、朝みたら亡くなってましたと、言われました。 亡くなるなら家でみとりたかったと後悔ばかりで、毎日、息苦しいです。 毎日、お骨にお水をあげて、お線香をたいててもむなしくて仕方ありません。 家にいても、あの子の気配も感じません。 あの子を生き甲斐にして生きてきた私は、どうしたら前を向いて歩いていけるでしょうか? よろしくお願いします。
5月3日に、母を亡くしました。 コロナ禍で面会できたのは、ほんの数回。 入院を一年2ヶ月ほどしていまして 2月頃までは、レクリエーションに参加してたので、安心していましたが、3月頃から食事量が、減り老衰兆候だといわれました。 おうちへ帰りたいわ~と何度も言っていたのに、帰らせてあげれませんでした。 長い長い入院生活で さびしい思いをさせたまま亡くしました。 後悔ばかりで、ツラいです。 そばにいてあげたかった。 無理矢理にでも連れて帰れば良かった。 何もやる気がおきなくて人にも会いたくなくて しんどいです。 お母ちゃんだけに会いたいです。 父も亡くしていますし不幸ばかりです。 ツラいです。 いつになれば前向きになれるのか 自信がないです。
初めての質問なので読みにくいかもしれません 先月17日に愛犬が亡くなりました 愛犬との出会いは5年ほど前 保護犬だったのをボランティアさんに譲渡していただきました 短い時間でしたが私は幸せでした 去年の夏頃体調崩し僧帽弁閉鎖不全症と診断され入院し 今年の1月上旬にも入院し 病気でしたが17日まで頑張ってくれました 今の家に3~4年住んでいて引越しをしたい気持ちもあるのですが 愛犬との思い出の場所でもあります もし引っ越してしまったら愛犬が私のいるところを 分からなくなるのではないかと思い 踏み切れません ちなみに遺骨は自宅にありずっと手元供養をするつもりです やはり引っ越したら愛犬は分からなくなるのでしょうか? それとも遺骨があればちゃんとわかるのでしょうか? 読みにくい長文失礼しました
32歳男性会社員です。 人生今が1番幸せです。もう充分です。 この状態で笑って首を吊って「いい人生だったな」と死ねる気がします。 やりたいこともありませんし、欲しいものも余計な物も全部手に入れました。 ひとつだけ克服しなければならないのは、本能ゆえの死の恐怖です。 死というより「死ぬ時苦しいかな、痛いのかな」と考えることが怖いのです。 死自体は怖くないのかもしれません。 どうすれば死の恐怖を克服できるでしょうか?何かきっかけになるようなお話しをいただきたいです。
私には離婚して4年間会えないままの子供が居ます。先日、その子が末期癌だと前妻から連絡きました。一年後の生存率が20%とのこと。前妻は再婚しており、今のご主人に気を使って、会わせて貰えませんでした。一方、母親が5年のがん闘病の末、ホスピスに入院し、後数週間と言う状況です。 よく、親の死は子供への最後の試練と言いますし、受け入れようと気持ちを整理していたのですが、子供の死が近づいてることを知り、どうしていいか分かりません。気持ちが整理できる何かヒントをいただきたく。 よろしくお願いします。
いずれ訪れる死が怖いです。 人はいつか皆、必ずこの世界とのお別れが来ます。 人間も生き物である以上、生まれて生きていつかは死んでゆく。 そのサイクルは理解しています。 でも、そのいつか訪れる死が怖いのです。 物心ついた時からです。 ー死んだら人はどうなってしまうの?死んだらまた生まれて来れるの?ー そんな風に考えしまったら恐怖で息が苦しく、目の前が真っ暗になりパニックを起こしてしまいます。 死にたくない。怖い。嫌だ。そんな感情を抑えきれなくなってしまいます。 生き続ける事の方が怖いという話もよく聞きます。 永遠がないからこそ、時間が有限だからこそ、生きる事に意味があると。 生きる事も死ぬ事も人間の儚さであると。 そんなのは綺麗事なのではないかと思ってしまいます。 ふとした瞬間に思うんです。 今、こうして生きていてもいずれは全てなくなってしまうんだよなぁと。 どんなに嫌で怖くても、決まっている運命には抗えない。 子供が2人居ますが、この子達がおじいちゃんおばあちゃんになる頃にはこの世界に自分は居ないと思うと不思議な感覚になります。 時の流れに逆らう事は出来ません。 じゃあ、人は何の為に生まれて、何の為に生きて、何の為に死んでゆくのか。 いずれ死んでしまうのに自分は何故、この世界に生まれてきたのか。 考えれば考えるほど、「逃げられない恐怖」の底へと引きずり込まれてしまいます。 何故、せっかく生まれてきたのに死ななければならないのですか。 助けてください。 逃げられない恐怖と向き合っていく方法はあるのでしょうか。
初めて質問させて頂きます。 幼い頃から【両親の死への恐怖】が止まらないです。 最近さらに増したように思います。 私は一人っ子のため、相談できる兄弟も居らず、今苦しい時間を過ごしています。 両親とは離れて暮らしていますが、とても仲が良く、月に1度は長距離を移動して会っています。母とは毎日電話をするほどです。 しかし、元気だった父の反応が最近鈍ってきたように思い、病気で逝ってしまったらどうしようと思い始めたのが死への恐怖が増したきっかけです。 長年透析をしている母はいつまで元気で居てくれるのか。 さらに今年出産をして、両親だけではなく、自分の家族への死の恐怖も覚えてしまいました。 隣で寝息を立てている息子に何かあったらどうしよう。 いつもしっぽを振って懐いてくれる犬はいつか居なくなってしまうのかと、そんなことを考えては涙が止まらないのです。 夫は良い人で話を聞いてくれますが「悩んでも仕方ないんじゃ?」との答えばかりです。 大好きな家族との別れを考えては涙し、不安になり、体調を崩しそうになります。 先のことを考えてばかりではダメ、今を生きなければと分かっているのですが…。 拙い文章で申し訳ございません。 どうかよろしくお願い致します。
死とは何ですか?人は、何のために死ななければならないのでしょうか。 生きることに目的や使命があるのはわかります。例えば、魂の修行のため、使命を果たすため、人生を謳歌するため、願望実現のため、など、いくらでも思い付くのですが、 死ぬことにも同じように、目的があるのでしょうか。 先日母を亡くしました。母自身、最後の瞬間でさえも諦めず、頑張ってくれましたが、力尽きてしまいました。 死は誰にでも平等に訪れるものですが、母はまだ50代と若く、母にはまだまだ叶えたい夢がたくさんありました。私も母と共に叶えたい夢や目標がありました。 「まだこの世にたくさん未練がある」と、亡くなる前言っておりました。まだ若い母には、生きる目的や理由が残されておりました。 それなのにどうして、この世を去らなければならなくなってしまったのでしょうか? また、母の場合は癌で苦しみ死に至りましたが、例えば事故死や殺人の場合も、なぜそのような形で死ななければならなかったのかも大変疑問に思います。 どうして、老衰のような、安らかな死に至ることができないのでしょうか…。
タイトルの通り、身近な人の死が怖いです。 数年前に、仲の良かった先輩を亡くしてから身近な人に対する死がとても怖いです。 自分の死に対する恐怖は無く、むしろ自分の事に関して無感情と言うか、無関心で、死のうがなんだろうが何とも思っていないのですが、 親や友達など、自分に親しい人の死がとても怖いです。 生物として生まれてきた以上、死というのは必ず来るし、受け入れなければならないのは分かっているのですが、何故か意味もなく怖いと思ってしまいます。 乗り切る方法などはありますか?
私は去年の12月に弟がバイク事故で亡くなりました。突然の死で受け入れられません。 いつも、一緒で頼りになる弟でした。 どうしたら弟の死を受けいられますか? どう前向きに考えたらいいですか?
ご無沙汰しております。よろしくお願いします。今中学生の息子が数日前から「死ぬの怖い?1億年後も俺の気持ちってあるの?嫌だな。何か胸がザワザワする。」と言って何も手につかなくなり終いには泣いてしまいます。どうやら話しを聞くと1億年後も自分の気持ちがこの世にあるのが嫌だ。死ぬと何処に行って気持ちはどうなるのか?と思うみたいです。今日は、吐き気までしていました。テレビでコロナに感染した人や死亡してる人の報道を見て怖くなったと話してくれました。誤魔化してはいけないと思い「まず、死ぬのが怖くない人はいないんだよ。皆死ぬのが怖いんだよ。そして、コロナという病気だけが死ぬ病気でもないんだよ。あなたが死んだらあなたはいなくなる。けど、あなたを忘れずにいる人の心の中にはあなたは生き続けるんだよ。」と話しました。 でも、また明日になると始まると思います。何度も何度も「死」について話すべきなんでしょうか?それとも、もう話さない方がいいんでしょうか?私の説明は間違っているでしょうか?教えていただけると助かります。「死」の事、死んだ時、死んだ後の自分の気持ちはどうなるのか、お願いいたします。
私は毎日、大切な人たちの死を考えてしまい、悲しくて苦しくてこの先の人生に希望が持てなくなるような瞬間があります。 大切な人たちというのは主に家族で、特に両親や姉妹のことです。 昨年、結婚し初めて実家を出ました。 元々結婚願望がなかった私でしたが、婚約してからはあっという間に家を出ることになってしまい、当時29歳でしたが、なんだか現実に起こっていることと自分の心がついてこないような感覚でした。 あぁ、私も結婚する歳なんだなぁ…大人になってたんだよなぁ…というような感じです。 結婚生活はとても楽しく、実家にもよく顔を見せに帰っていますし、姉妹とも連絡は頻繁に取っています。 しかし、いつも楽しく幸せだと感じる裏側で、いつかこの幸せも終わってしまう、いつまでも幸せではいられない。そう思ってしまうのです。 もしかしたらあと10年後には両親がいないかもしれない。もう少し前の私であれば、そんな考えが浮かんでも「まだまだ若いし元気だから大丈夫」と自分を励ますことができたのですが、最近ではもう親の死も他人事ではないというか、あり得ないことではないと落ち込んでしまいます。 いつだって人は死と隣り合わせで生きているし、親がいくつだろうと、自分が大人でも子どもでも関係ないことだったのに。 この先私が親や姉妹よりも長生きするとすれば、私の未来にはとても悲しくて辛い出来事が必ず当たり前のように訪れます。 「大切な人の死」という、想像しただけでも胸をえぐられるような悲しみ以上に、楽しいことや幸せだと思えることが今後あるのでしょうか。 もちろん私の両親も自分の親とのお別れを経験しているわけですし、人はそうやって生きていくものだと思いますが、こんなことを夜な夜な考えてはこの先の未来に影を落としてしまいます。 少しでも前向きに考えていけるようになりたくて、ここでお話しさせて頂きました。 わかりにくい文章で申し訳ございませんが、何かお言葉を頂けたらと思います。