仕事柄ご遺族の方とお話しする機会が多くなってきたのですが、その際に故人の宗派が分からなくて話しの内容を誤ってしまうことがとても心配です。 たくさんの宗派があるとは思いますが、たとえば仏壇にこの仏具あったらこの宗派、故人がこの念仏を唱えていたらこの宗派 など 各宗派を簡単に見分けるポイントなどがあれば教えてください。 宜しくお願いします
仏教にとって、急速に進む少子化は悪なのでしょうか? 仏教に「産めよ増やせよ」の概念は基本的になく、悟りによるこの世からの卒業を目指す宗教だと思います。 そもそも社会から隔絶して悟りを目指す 集団が仏教のオリジンでもあり、その後世俗化やらが進んでからも、浄土真宗以外の僧侶は独身が基本という建前(崩壊してますが)もあるはずです。 如来や菩薩がこの世に戻ってくるのも、まだ救うべき衆生(一般ピーポー)が残っているからという理屈ですよね?救出すべき対象がいなくなれば、救急隊員は現場から引き揚げるし、それを心から望んでいるはずだす。 このあたりの矛盾に真摯に答えている回答がネット上に見つかりませんでした。いかに寺の収入を維持するか?しか頭にない方が大半に見えます。 人々のために寺があるのか?寺のために人々が利用されてるのか?どちらなのでしょうか? このままなら確実に日本人口は縮小するし、外国人が増えて仏教自体も駆逐される可能性が高いです。 こうした状況を踏まえ、仏教が本来取るべきスタンスはどんなものか?ぜひお教えください。 個人的には、少子化は必然として放置で良く、国と同じように宗教組織もダウンサイジングすれば良いと思っています。仏教はそれに抵抗すべきではない、という考えです。 ごまかしのない回答には御礼をお支払いします。
これまで理系学部の大学院を卒業し、現在エンジニアとして働いていますが出家を考えています。理由としては、自分の悟りたい、この世の真理を知りたい、その上で人に貢献したいという気持ちは人生をかけるに値する一番の目標なのではないかとここ数年考えているためです。ただ、現在の生活にある程度満足しており、不退転の出家の覚悟があるかというと言いきれないため悩んでいます。本当は俗世の喧騒が嫌だと感じ、ただ逃げるために出家したいのではないか?という自分に対して疑う気持ちもあります。 急がずともいつか自分の気持ちが定まったら出家すれば良いとも思うのですが、そうするとこのまま何となくの人生になってしまいそうです。自分の心が決まり納得出来れば今の生活を続けるでも出家して新しいスタートをするでもどちらでも良いのですが、やはり、このように揺らいでいる状態では出家するのは難しいでしょうか?どうすれば自分の心が定まるでしょうか?
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
苦しむこともなく安らかに息を引き取り、お浄土へ修行に出られた我が父のことで少々ご相談致したく。 確かに父は死を迎え、我が家からは表面上姿を消しました。 然しながら何かにつけて見え隠れする父の存在の大きさに息子として見ると詠嘆するばかりです。 「それに比べて我が身のなんという小ささよ」 とふと、自分が卑下の心にとらわれてしまいます。 無論、こんな心にとらわれるのは馬鹿げていて何も生み出さないのですが時折熱病のように我が身を襲うのです。 超えられなかった父の存在、超えるべきであった父の存在。 両者の間で惑う自分がおります。 「僕は父のようになれただろうか?」 「僕は父のようになれないのだろうか?」 「父」という存在が未だ自分を動かしている。という事実が苦しいのです。 如何ともし難い現状ですが、少しでも抜け出せるお言葉をいただけたら幸いでございます。 合掌。
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。