先日祖母を亡くしたことで相談させていただいた者です。 その節はありがたいお言葉をいただき、何度も何度も読み返しては涙を流しております。 本当にありがとうございました。 祖母の死をきっかけに、死について考えるようになりました。 死は決して避けられないものであるということ、そしてその期限はわからないということ。 誰にも確実な明日はありません。 明日どころか、1秒先もどうなるかわかりません。 もし両親が突然亡くなったら…もし自分の家族が突然亡くなったら…しばらく会っていない祖母でこれだけ悲しいのだから、もっともっと悲しいにちがいない。 でもそんな日は突然ではないかもしれないけど、いつか必ず来る。そのとき私は耐えられるだろうか。 今でも祖母に会いたくてたまらないのに、これ以上の悲しみに耐えられるだろうか…と、ふとした瞬間にこんなことばかり考えてしまいます。 突然の別れに後悔しないようにと、どれだけ回りに尽くしたとしても、必ず後悔や悲しみの感情はあると思います。 尽くせば尽くすほど、悲しみは倍増するのかな…とか。 それに、私自身にも必ず死の瞬間がきます。 そのとき私はどんな感じなのだろうか、少なくとも私の家族や友達は悲しむだろうな…少しでも回りの人の悲しみを和らげるために、遺書というものになるのかもしれないけど、手紙を残しておいたほうがいいのかな…とか、私はどんな死に方をするんだろうとか考えてしまいます。 まだ祖母が亡くなって日にちが浅いからかもしれませんが、毎日このようなことを考えてしまい、一人では何の解決もできず、もやもやしっぱなしです。 この前教えていただいた、後悔を感謝の思いに変えることや供養の行いについても私なりに考えさせていただいているのですが、その答えを見つけて、人や自分の死を受け入れて生きていくのはもう少し時間がかかりそうです。 先日も同じような質問で本当に申し訳ないのですが、こちらでしか相談させていただけず、またこちらにお邪魔してしまいました。 お忙しいところ、とりとめのない長文で本当に申し訳ありません。
このタイトルの質問は多くたくさんは拝見するのですが、少し私は考えが違うかもしれませんので、投稿させていただきます。長文御容赦ください。 私は死について考え出したのは小学6年生の時でした。 そのときは、死んでしまうともうこの世には帰ってこれないし、今楽しいと思うことはもう二度とできない。といったものでした。 そして、考え方は年々変化しました。 今は以下のことを考え、夜になると吐き気をもよおすこともあります。 ・死んだらどんな姿になるのか ・姿が変わっても親や妻、夫に会えるのか、また後から来る人にも会えるのか ・生まれ変わるというが、今実際前世何かだったという記憶も多分ありません… ・あの世でも老化ということがあるのか?あればどのくらい前の人まで会えるのか?なければ老けない姿でどうやって会いたい人を探すのか? ・なんといっても向こうでも働くのか?食べるのか?ずっと活動するのか? といったことがこれでも一部ですが、考えてしまいます… 誰も死に逢ったことはないし、わからないものです。 ですが、かといってこういうふうな捉え方をするなと言われてもできそうにはありません… ありがたきお言葉をお待ちしております……
死に対して怖くてしょうがありません。 もしかして死んでしまうかも知れないという状況に何もできなく、見にも行けなくて、聞くのもつらい、その人、その物などなくなるのが怖くて耐えられないのです。あの世に行ったらどうなるんだろうとか、死ぬ時には苦しいんだろうか? もう会えなくなると思うだけで眠りないこともあります。あの世はこの世の延長で終わりではないとか、誰かの言葉をみて言い聞かせたけど、いざ自分の身内の なくなったり、危ないと聞くと震えて過呼吸になり、パニックになり、安定剤を過剰に飲んだりしました。みんな同じ思いなのに、私だけ出来ない受け止められない、現実逃避してる自分が苦しいです。助けて下さい。全般性不安障害を持ってます。だからといって避けられるものでもないし、もっと強くなりたい。
大切なものほど失いたくないのはみんな同じだと思っています。 特に家族に対して、いつ病気になるか、いつ死んでしまうのかと考える日々が多くなり毎日不安と恐怖に襲われています。苦しくて苦しくて心が落ち着かなくなります。 考えたくないのに考えてしまったり、どう自分を落ち着かせたらいいのか分からないです。なぜいきなりこんなことを考えるようになったのかも分からないです。ただニュースなどのノンフィクションでも映画やドラマのフィクションでも死についての情報をかなり拒むようになりました。 どうしたらよいのでしょうか。
人は生き物は死んだら無になるのかならないのかその点について詳しく教えて下さい 私は正直言って死ぬのが怖いです
こんにちは、おはようございます いつも死に、ついて考えています。質問者の中に、自死されて深刻な質問もある中、こんな質問もなんだと思いますが、自分が死ぬことは、肯定は出来るのですが、死ぬことに、恐怖があります。人間は、何時か亡くなるときが来ます。恐怖を感じないようにするには、どうしたらいいと思われるでしょうか?
初めて投稿させて頂きます。 最近、生前親しくしていた叔父と叔母が続けて他界しました。 叔父は老衰で、叔母も老衰でしたがコロナに感染していたためコロナ死として扱われました。 叔父の時はお葬式があり最後にお顔を見ることが出来ましたが、叔母はコロナ死のため直葬になり顔を見ることなくお別れをしました。 叔母のお骨を拾いながら、生前親しくしてくれた時の思い出がよみがえり、コロナ感染の有無でこうも死への扱いが違うのかと憤りを感じると共に死というものの無常さを感じざるを得ませんでした。 叔父の死は納得して送り出せましたが、叔母の死をまだ受け入れられない自分がいます。 日々死に向き合っていらっしゃるお坊様に心の持ちようを教えて頂きたいです。どうぞよろしくお願いします。
先日、私の大好きな韓国のアイドルグループのメンバーの1人がこの世を去りました。 自殺でした。 まだ彼は27歳でした。 彼の遺した遺書には 「今まで大変だった。お疲れ様と言ってほしい。最後の挨拶だ。」などと書かれていました。 彼が亡くなって既に1週間が経とうとしていますが、私は未だにその死を受け入れられません。 私が見る彼の姿はいつも画面を通しての姿だけでした。いつも笑顔でファンのことをとても大切にしてくれる優しい人でした。 ですがそんな彼にしか分らない葛藤や悩みがあったんだなと思うととても辛く、そしてどうしてその苦しみに気づけなかったのかと後悔してしまいます。私なんて彼からしたらたくさんいるファンの中の1人で… 私1人が何かしたからといって彼の助けになれたのかは分かりませんが、それでも悔しい思いです。 私は今まで「人の死」というものに向き合う機会がありませんでした。 自分の身内にも今までほとんどそういったことがなかったからです。 だから尚更このやり場のない気持ちをどうすればいいか分かりません。 しかも彼は芸能人です。しかも隣の国の。 彼は私の存在を知らないし、私が勝手に応援してただけです。 そんな存在なのに、アイドルなのに、悲しくてしょうがないんです。どう乗り越えていけばいいのか分からないんです。 それなのに日中ではいつも通り仕事をして、人と話をして、笑って…何事もなかったかのように過ごしている自分もいて。 でもふと夜中に1人になると彼を思い出して涙が止まりません。彼を思っては、彼の歌を聴いては泣く、そんな日々です。 彼の遺書にあったように心から胸を張って 「お疲れ様」とか言えないです。 そう言えたらどんなに楽だろうと思います。 私はこれからどう彼の死を乗り越えていけばいいのでしょうか?
数日前、7年間一緒に暮らしていたペットを亡くしました。 ペットというよりは家族のように思っていて、私に一番なついてくれていて、とても頭が良いうさぎでした 火葬もしてもらい、お骨は家に置いてあります。 あの子がまだ生きている時は、あの子が死んでしまったら私はどうやって生きていけばいいのだろう。あの子がいなくなった時には後を追ってしまいたい。と思っていたのですが、今はそういった気持ちはなく、あの子は姿が見えなくて、撫でてあげることが出来ないけれど、ここに”居る”と思っているんです。 そう思ってはいるのですが、1人になったときや夜になると心臓がスカスカになった気分で、とても虚しいんです 死んでしまってもそばにいる。と考えていていて、いいのでしょうか…?それともだだ、私はあの子の死を認められなくて現実逃避をしているだけなのでしょうか?
死に対して気持ちが動きません。 父親の死は両親の離婚後何年も会っていなかったので他人事のように感じました。もう1つの理由に離婚前より母親から父親の悪口ばかりしか聞かず私なりの判断ができるほどの交流もなかったため父親像というものが母親からの話だけで固まってしまった事です。ですが長年可愛がっていたペットが亡くなった時もその瞬間は涙が出ましたが悲しみは長く続きませんでした。母親への感情も薄く扱い難い人なので死んでも悲しまないだろうと感じてしまう自分が嫌です。人として未熟なのでしょうか。
解決しない悩みばかり抱えて辛いです。 何年も前から、死にたいって願望があり自分の体を傷つけたり首を絞めてみたりしています。 死にたくなったらどうしたらいいですか?
僕は母、父が死んでしまったりするのが怖いんです。 世界まる見えであった人を人工的によみがえらせる方法、日本にも来るでしょうか… お母さん、お父さん、僕の死ぬ前にその技術を使って死にたくないです 僕はどうすればいいですか? 怖くてお腹がいたいです…( ;´・ω・`) 回答をお願いします 火葬した人のされる前とされた後の違いを見て怖くなったからです
最近海外では安楽死を認める国が増えていると聞きますが、私は安楽死は自殺と同じと考えているのですが・・・僧侶の皆様は安楽死についてどうお考えですか?
親が僕を生んでくれてここまで育ててくれたことはとても尊敬しているし、感謝しています。 僕は都内の学生なのですが、昨年髪が大量に抜け落ちるほどストレスを抱えてしまい、身辺整理したら死のうと思っています。そのあとの親や兄弟の気持ちを考えると、苦労ばっかりかけてきて最後まで申し訳ないと思ってます。ですが、自分で生きていく自身が持てなく、家にいると自責してただ無性に涙を流してしまいます。 あと数日の間に出来る限り恩返ししていこうと思うのですが、こういう時に思いつくあてもないです。お金に困ってるわけではないありません。今の僕にできる限りの恩返しを一緒に考えてほしいです。お願いします
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
私は今年33歳になる社会人男です。 現在は今年61歳になる父と二人で借家に住んでいます。 兄弟はいません。 母は私が高校生の時に離婚しています。原因は母の借金です。 精神病を患っており、今は施設で過ごしています。 また離婚はしていますが月1回、父は母のもとを訪れて、食事をしたりしています。 私も3ヶ月に一回ほど、会っています。 そんな訳で、高校生くらいから父と二人で暮らしてきました。 父は母の借金を返しながら私のために、大学まで出してくれて、自分は家も買えませんでした。 食事も毎日お総菜などですが、買ってきてくれています。 最近は私がつくることで、少しでも楽をさせてあげたいと思っています。 昨年父と母が60歳になり、ふとテレビなどで70代で亡くなる方のお話を聞いていると後10年で70歳になってしまうのか・・・ 父や母がそんなに早くいなくなってしまったら、自分は一人で寂しくて辛いのだろうなと思ってしまいました。また、祖父が昨年90歳で亡くなってしまったことも、原因の一つであると考えています。 それからは毎日、そんなことを考えてしまいます。 仕方がないことだとわかってはいるのですが、どうしても考えてしまいます。 特に兄弟もおらず、悲しみを分かち合える人がいないことも原因のひとつです。 こんなことを親に話すわけにもいかず、どうしたらよいのかわかりません。 お坊様の方々にどのように考えるのがよいのか、お話をお伺いしたいと思い、質問致しました。 長くなってしまいましたが、よろしくお願い致します。
私は今不安障害になり仕事を辞め病院に通いながら自宅療養中です。 病気のせいもあり急にいろんな事で不安になります。悩んでる時がないくらいに辛いです。その中でよく死ぬ事がとてつもなく怖く感じてしまいます。 死んだらどうなってしまうのだろうと考えてしまい、なかなか眠れなかったりします。 私は内気な性格で昔からいじめられる事が多くそのストレスで家で爆発してしまい両親や兄弟に当たったり傷つけたりたくさん迷惑をかけてしまい今思い返せば異常だったと思います。学生時代は悪口も言ってしまったり自分がされて嫌なこともしてしまっていました。 今は人にされて嫌なことはしないよう心がけていますが、過去は変えられないしもう手遅れかなと思ってしまいます。 こんな私はきっともし死後に地獄があるのならば地獄にいってしまうのかなと考えたら涙が止まりません。 死んだらその先ずっと苦しむのかと思ったら死ぬのがとても怖くなってしまいました。 何か死への恐怖を和らげる考え方はありますでしょうか。 もしよろしければご回答よろしくお願い致します。
生きてる時の未来にはワクワクしません。 死後の世界を想像するとワクワクします。 きっと私は生きることには向いてないんだと思います。 お坊さん、ごめんなさい。
ご無沙汰しております。 悩みというほどではありませんが、モヤモヤするので質問させていただきます。 まず、前提として、人間として生きている間に、できるだけいいこと(徳を積む?)をしなければならないと思います。学問を積んで本質を追求し気づいたことを伝えたり、ボランティアをして何かの役に立ったりすることが大事だと考えました。引きこもったり、ニートになったりしていても、何も考えたり感じたりしていないわけではなく、どうにかしたいともがいているはずで、その課題を解決した自分なりの答えを他の人に伝えることが大事だと気づきました。 しかし、絶対に自ら命を絶ってはならないということもないのではないかとも思っています。 なぜ、人は自殺したり、餓死(自殺に近いもの)したりしてはいけないのでしょうか? これには、いろいろな状況があると思います。 (1)本当にお金がなく、食費や水道代が払えず、餓死する場合、公的な機関などから門前払いを受け、誰にも気づかれず、死んでいった場合。 亡くなった人の選択肢として、コンビニやスーパーの物を盗み、生きるという選択肢もあったはずです。(窃盗犯という前科はつきますが)。その人は法を犯さない範囲で、できる限りの手は尽くしたでしょうし、周りの人も役割は果たしたでしょう。そこから社会の人が学べば、いい方向へ変わっていくはずですが、批判するだけして代案を考えないのは無責任のような気がします。 「悲しい」と嘆くのではなく、修行の末に亡くなったと捉え、学びに変えていくことが大切ではと思います。 (2)認知症や脳疾患のため、おかしくなった時を恐れて自殺してしまう場合。 (3)治る見込みのない病気(末期ガン)で、一切の飲食を絶った場合。 (2)も(3)も、周りに迷惑をかけないという思いからです。 生きることができるなら、負のもの(借金やネガティブ感情)を残さず、いいものを残すよう努力することが大事だと思います。自分自身の遺体をどう処理してほしいか伝え、そのための費用まで用意できると、責任ある人生を全うできるかなと思います。 うまく表現できず、申し訳ありません。 どのように死ぬかと考え、残された人への影響を心理面や費用面など分析することは、どう生きるかに繋がることだと思います。 死後も、しばらくは他人に影響を与え続けるので、生き方は大事だと思います。
死というイベントが良くわかりません。 死は所詮他人のイベントだと思うのです。 ご遺族が『後を追いたい』と言っても実行する方より生きている人の方が多いのでは無いでしょうか。楽しい思い出と時折思い出す悲しみはあるかとは思いますが、死に際の辛さは風化されていくように見える気がします。 また、亡くなられた際について周囲の方(ご遺族も含めて)の反応は 大往生された方には『立派』と褒め称えるように、 病気で亡くなられた方には『最期まで闘病して...』と勲章のように、 でも自死については世間に知られたく無い雰囲気が漂いますよね。 死にもランクがあるのでしょうか。私はランク付けされたくないです。 結局いくら周囲が『生きて、死なないで』と言ったところで、他人のイベントでしかない以上説得力がないと思っています。 このような考えの私はどこかおかしいのでしょうか?