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問答一覧
検索結果: 466件

「天命」の意味とは

「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。

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亡き母が夢に出てきました

以前お墓のご相談にのっていただきましたものです。 その節はありがとうございました。 結局、以前よりお世話になっているお寺様の合祀墓に両親共入れさせて頂きました。 きっと両親も喜んでいると思いたいです。 そんなある日、初めて母が夢に出てきました。私は嬉しくて お母さん!と走り寄りました。 母はちょっと困った顔をしてため息をつきながら お母さんね、今はもうどこも痛くないし辛くないんだ。もう辛いことは思い出したくないんだ、わかるよね? というようなニュアンスの話をしました。私は そうだよね、ごめんね と母の元を離れました。 (私の顔を見ると現世で辛かっだことを思い出すから嫌だ と捉えました。) それから何度も母がいる設定の町や家(夢の中でいつも同じ)に行き、街中を探し、家の中を覗くのですが母は居なくて。 その夢を見てからどうしても仏壇に手を合わせる気が無くなってしまいました。 生前、母はなぜか私のことを全く信用せず、いつも頭から叱りつけるような人でした。自分で言うのもなんですが真面目でいい付けは守る学級委員タイプの子でした。 好かれたい一心で、母のところに行き、生活の手配をしたり、お金を渡したりしてきました。入院した時は片道一時間かけて見舞い、死後の片付けも一人でやりぬきました。 で、こんな夢を見てしまい、母の本質を見た気がしてならないのです。 生きていても、私がいかにダメか語ることしかしなかったとは思いますが、死んでもなお 母は私が嫌いなんだろうか?だとしたら 私の家に仏壇があるのは嫌なのか?とか色々考えてしまいます。 母が好きなお菓子や花を見つけると、つい仏壇にと持ってきて、はと気がつくのです。嫌なのかなと。 たかが夢、されど夢で辛いです。 母と娘という関係性に自信がなく怖くて、自分の娘が今反抗期ということもあり 親として全く自信がなくなっている状態です。

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父の死と死後の世界について

最愛の父が他界してから、死後の世界について考えています。 父は愛妻家かつ子煩悩で、死の3日前まで母と私に「大好きだよ」と言っていました。 大食漢で行動的な人でしたが、病のせいで食事も運動もままならない中、愚痴ひとつ言わずいつも笑っているような人でした。 死後の世界があるのなら、痛みからも苦しみからも解放されて、好きなものをたくさん食べて、好きなことをたくさんしているのだと思えます。 死後の世界がないのなら、大好きだった父は何処にもいないのなら、二度と会えないのなら、私も死にたいと考えています。 大学一年生の頃、仏教の講義が必修科目でした。 18歳だった私は宗教や死後の世界は生きてる人間のためにあるもので、死んだら無になると考えていました。 今になって死後の世界があって欲しいと強く思うのですが、長年否定していたものを肯定するのは都合の良い話に思え、抵抗があります。 祖父が亡くなった時は季節外れの蝶が部屋に舞い込んできたり、替えたばかりの蛍光灯が明滅したりと不思議な出来事があり、もしかしたら…と思える時もありました。 ですが「ずっと側にいるよ」と言った父の存在を感じることはなく、消えて何も無くなったように思えてしまい、胸が苦しくなります。 長文かつ乱文で申し訳ありません。 どのような心持ちで過ごせばいいのか、ご教示願います。

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仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

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死を考えています

もういい加減、生きているのが苦しいです。 あまりこういったところで書くべきではありませんが、簡単な経緯をお話しさせてください。 読み飛ばしていただいてもかまいません。 小学校に上がる前に父を亡くし、母が鬱病になりました。 祖父母の家と行き来しながら母と二人で暮らしていたのですが、あるとき父の知り合いでもあるという男が家を出入りするようになりました。 この男ははじめは優しく、母や私ともよく遊んでくれていました。 二人とも傷心でしたのですっかり信用しきってしまい、母は再婚し私は娘になりました。 これが間違いでした。 男の希望で私たちは引っ越し(ここから少しずつ家族や友人との関係を絶たれていきました)、隔絶された家の中で私たち母子はほとんど奴隷と言っていいような扱いを受けました。 男は毎日ささいなことで激怒し物を壊しては気の済むまで土下座させ、そのあと何度も殴るという有様でした。私を殴るのは母の役目です。 この頃にはもう逃げるなんて発想すらなく、常に死と隣り合わせで、恐怖で震えながら寝る毎日でした。 同時期には学校でいじめも受けていました。 もともと泣き虫でいじめられっこ気質ではありましたが、転校後のそれは教師も含めて大変悪質なものでした。 家にも学校にも休める場所がなく、毎日死のうかと考えていましたが、なんとか生き延びて今に至ります。 これらのことで精神を病んでしまい、様々な後遺症が残りました。 元から持っていたらしい発達障害と合併して生活が非常に困難です。 具体的には高校中退、大学にも行けず就職はおろかアルバイトさえろくにできません。 どうしても納得いきません。 例えば私が重大な罪を犯して、その報いとして今の状況があるなら納得はできます。 なぜ、私は真面目に生きてきたのに、他者から一方的に理不尽に人生を壊されなければならないのか。 世の中に善悪や法則などないのだから、なんでなんでと言っても仕方ありませんが、あまりに遣る瀬無いです。 人に優しく誠実に、と生きてきたつもりですがなにもかも無意味でした。 この先にも希望がありません。 私だってできることなら誰かに愛されたかったし、自分や誰かを愛してみたかった。 勿論自分にそれだけの価値や魅力がないことも理解しています。 生まれてこなかったほうがよかったとすら思います。 なにがいけなかったのでしょうか。

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悟りと解脱、輪廻転生について

こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。

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ご先祖様について

初めて質問させて頂きます。 先日、知り合いの葬儀に参列して、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。心にしみる良いお話だなと感動したのですが、ふと一つの疑問が生まれました。そのお坊さんは「49日まで生まれ変わりを繰り返し、そしてご先祖様として私達を見守ってくれる存在になります。ご供養をかかさないようにしましょう。」とおっしゃっていました。『ご先祖様』という存在は今まで何の疑問もなく受け入れてきましたが、興味本位で色々な仏教書を読んでおりますと「人は生前の行いにより、亡くなった後何に生まれ変わるか決まる」といった輪廻という考えがある事を知りました。 もし生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在するのならば、ご先祖様は存在しなくなるのでは?という疑問が生じて、先祖供養やお墓参りの時に誰に手を合わせているのだろう??と考えてしまいます。 「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれているという存在だと思っていましたが、生まれ変わるのならば、何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいるという事なのでしょうか? 長々とまとまらない文章で質問させて頂き恐縮ですが、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 85
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転身してお坊さんになられた方々への疑問

初めまして、この度自分では消化できない思いが芽生えまして。 お時間のある時に疑問に答えて頂けたらと思います。 先日、身内に「お坊さん方が相談にのって下さるサイトがあるんだよ」とこのハスノハを紹介したところ、身内が「なんか脱サラして僧になった人や元プロレスラーの僧がいるんだな……」となにやら神妙な顔で呟いたなと思いきや、 「この人らって僧になる前に大なり小なり犯した罪ってどうしたんかな?」 「人の悪口を言ってしまった、ネットで誹謗中傷してしまっただの相談に説教かましてる坊主がいるけど、この坊主らは今までやってきた前職でおかしてきた罪や行いはどう折り合いつけたんだ?」 「例えば元プロレスラーならそういう職業とはいえ汚い言葉で相手に暴言吐いたり殴ったりしただろうに」 「仏の道に入るんだから前に殴った相手だとか1人1人にちゃんと謝罪したんかな?それとも仕事だから別に悪い事じゃないとか思ってんのかな?もしくは過去は過去ってことでその事は切り捨てたり忘れたりしてるのかな?仏道に入ればそういう行い全部帳消しになったつもりでいたりするんかな?」 「なんにも過去を清算してない坊主が、ここで必死な思いでどうしたら良いか相談しに来られてる方々に説教してる姿に違和感がある」 「自分の事棚に上げて説教してるんならある意味偽善者よりタチが悪い気がする」 と、そのような事を言っておりました。 私はそれを聞いた時にギョッとしたものの、確かに…とちょこっと共感するところがありました。 お坊さんになられる前の職業でいろいろあった方々がいらっしゃると思いますが、過去の自分の行いにはどのように向き合っていらっしゃるか教えて頂きたいです。とても気になります。

有り難し有り難し 278
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何の為に生きているのか

何の為に生きているのか、わからなくなる時があります。 後継の為に生まれたのか、自分の人生とは何か、眠れなくなるほどです。 何故、後継の話が出てくるのかというと、私の実家はお寺だからです。 特に、ここ数年は私が後継として見られるようになりました。 私には男兄弟がおらず妹が二人だけなので、後継として見られるのは自然なことだと思っており、またそれを受け入れているつもりでした。 そんな中で、私は後継の為だけに生きているのかという思いが出てきました。 理由として、周囲の友人が次々と結婚し出したのもあり、自身の結婚を焦っていること、また、難病を発症してしまい、妊娠・出産できるかわからない身体となったことです。 もし結婚できなかったら、もし子どもが作れなかったらと思うと、後継としての意味が無いのでは?と思い悩んでいます。 それでも、まだ若い妹たち(学生)に実家を任せる訳にはいかず、ましてや実家を手放す気にはなりません。 私は何でお寺に生まれたのかと思う始末です。 これも運命ならば仕方ないのですが、今後をどうしても悲観的に考えてしまいます。 家族には迷惑をかけると思うと相談できず、自分でもこんなことで悩むなんて…と泣けてきてきまいます。 長々と申し訳ありません。 少しでも心を軽くできたらと思い、投稿ささていただきました。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 80
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