乱文失礼いたします。 高校生の女子です。 最近、死にたいというわけではないのですが、このまま生きることをやめてすっとこの世界から消えて楽になりたいと思うことがよくあります。 今現在私の複雑な家族関係や、学校、受験、のことなど生活の中が問題で溢れかえっていて、普段はなんとかそれらの問題に向き合っていますが、一人になったときやふとした瞬間にとてつもなく苦しくなって、涙が溢れてきます。 また、テレビなどで、生きることがどれだけ恵まれているか、ということを教えるため(?)の感動ドラマや、かわいそう、という共感を目的とした番組などを見て、どうして人間はそこまで生きることにこだわるのだろう?という素朴な疑問を抱いてしまいます。 世の中の大人の方々ってすごいなって思います。みんないろいろなものを背負いながらも頑張って生きてきていて…私は、今のような苦しい思いをしながらこの先何十年も生きていける自信がありません…。 人はどうして生きることを必死に求めるのですか?本能ですか?死にたくないから生きるのですか?自ら生きることを絶つのはいけないことですか? 話がうまくまとめられず、よくわからない文章になってしまい本当にすみません…
以前、深く絶望し、幼時からの精神疾患も悪化させ、自傷行為に走ったこともありました。 しかし、今ではとても幸せです。 親の仕送りで暮らす学生で、趣味も多く、好きな人も友人もいて、何も不足はありません。 それなのに、精神的にも肉体的にも、いつも何らかの不調が絶えません。 幼時からの強迫性障害は完治を諦め、うまく付き合っていくように心がけています。 でもそれ以外で、緊張すると一言も話せなくなる症状や、ストレス性の難聴などの疾患が、改善と悪化、出現と消滅を繰り返しています。 身体でも痛みなどがあり、病院に行っても原因不明、ストレスかもと言われ、そう言われた途端に症状が軽減したりなくなったり…ということが多いです。 結局、いつも身体には異常はないのです。要は心の問題なのです。 一度、検査に行った病院で「あなた、異常であってほしいの?」と聞かれたことがあり、はっとしました。 私は絶望を経験してから、幸せになりたいと思って努力したし、幸せをつかみました。でもどこかで、完璧な幸せを手にすれば、その先に来るのは幸せの終わり、前のような絶望ではないかと、不安に思っています。だから、幸せが完璧にならないように、身体に出ているのだと思います。 でも怖くても不安でも、私はやっぱり病気になんてなりたくない、幸せになりたいのです。幸せの先にあるのが前のような絶望だなんて、思いたくないのです。 どうしたらこの不安を和らげて、身体の症状を軽減させていくことができるでしょうか。 良い心の持ち方を教えてください。 蛇足ですが、懸命に「この痛みや病気は幻だ、本当は何ともないんだ」と思ってみても、ちっとも軽減しませんでした。
以前、母への想いについて、質問をさせていただきました。回答をいただいた和尚様、ありがとうございました。 その後、母がいない現実に心が締め付けられるような辛い気持ちで、日々を過ごしています。 生前にしてくれていたことも、当たり前に思っていたことも、今は一つ一つのことに感謝しています。それと同時に迷惑ばかりかけていたことを、申し訳なく思います。 毎日母に会いたいという気持ちで頭がいっぱいになり、旅立った母に今も迷惑をかけてしまっているかもしれません。どうしようもない息子です。 今、気持ちを落ち着かせるために死後の存在等の書籍などを読んでおります。母が魂となって存在していると信じておりますが、母の存在を確信できるための方法など、何かあるものでしょうか。 少しでも母と繋がることができる可能性があることがあれば、ご教示をいただきたく思い、質問させていただきました。 自分本位の考えで、本当に申し訳なく思いますが、前を向いて力強く生きる希望がほしく、どうかお願い致します。 何卒よろしくお願い致します。
何かと比較して楽そうであると、 「◯◯に比べたら極楽」と言いますが、 私は極楽に行ったことがないので、 楽の概念としての極楽みたいなので、 本当のところは、どうなんだろうと 思いましたが、実際はどうなのでしょうか?
こんにちは。 家の隣に、塀を一枚隔ててお墓が一つあります。地主の先祖代々のお墓です。学校の行き帰りは必ず前を通ります。 2階の窓からは身を乗り出さないと見えませんが、ベランダからは洗濯物を干すときに見えます。幽霊はみたことがありません。 最近、祖母が病気で入院したり、兄もバイク事故にあったりして、嫌なことが続いています。 これは墓のせいだという占い師もいます。本当でしょうか。 お墓のせいで悪いことが起きないようにするにはどうすればよいでしょうか。 地主は墓を動かすつもりはないそうです。私や家族も、簡単に引越しできません。 よろしくお願いします。
お坊さん方へ いつも親身に回答してくださり、 ありがとうございます。 他の方への回答も沢山読ませて頂き、 とても、心に染みました。 今や私にとって、かけがえのないサイトです。 ↓から質問です 突然ですが、 皆さんの教えもあり、自分を変える事を決意出来ました。 ありがとうございます。 自分を変える、というのは、具体的には これまでのネガティブな考え方や生活習慣など、 自分の周り全てを差します。 もちろん、不安は多々あります。 これまでの自分を一新するということは、 未来の自分と、今の自分で、 全くの別人になってしまうのではないか?など。 (不安を分かりやくすると、自己同一性という 言葉を字面だけ読みとった感じです。) そこで、もし、仏教に自分を変えることの不安を 取り除ける教えなどがありましたら、教えてください。 そして、厚かましいお願いですが、 明日、自分を変える一歩として、自分を変える、 宣言のようなものを、自分が裏切りをしてしまい信用を 失った人達にしなければなりません。 何を言われるか分かりませんし、 今から胃が痛いです。しかし、自分の撒いた種。 自業自得です。が、ストレスは減りません どうか、こんな私ですが励ましていただけませんか?
もう早く死にたい疲れたしいやになった、楽に死ねる方法やしぬのをちゆうちゅしなくなる心構えをぜひおしえてください,精神的経済的身体的状況でき すべてのことが悪い方行に何十年もまえからすすんでいる どうにもならないのでたすけてください。苦しく生きることではなく、らくになりたくてしにたいのです
家族で住める一軒家を探しています。 敷地内に長年の夢だったお店も併設できる条件で探していたところ、 土地の広さ、値段、雰囲気全て私の願う条件にぴったりのところが出てきました。 ですが、不動産屋さんより 事故物件であるとお話がありました 80年ほど前に、敷地内で自死された方がいらっしゃるとのことです それ以上の情報は聞いていません 主人は全く気にしていないようです 初めて聞いた時は私も その亡くなった方にむけてきちんと供養をすれば問題ないかと思い深く聞かなかったのですが 時間が経つにつれ、やはり、商売をしお客様をお招きする場所にもなる訳ですから 大丈夫なのかと不安な気持ちが正直あります。 売主の方に、どのような方で、どういう状況だったのか確認するべきでしょうか。 それとも亡くなった方を想い、供養をすることで消化するべきでしょうか。 事故物件(それぞれ背景、事情があるので事故物件と、一括りにする言い方もあまり好きではないですが)に対するお考えをご教示ください。よろしくお願い致します
以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。
いつもお世話になっております。 昨年末に、息子を病気で亡くしました。 闘病生活も長かったのに、短いいのちでした。一生懸命闘い抜きました。 毎日毎日寂しくて中々やる気がでません。自宅でぼーっと過ごしています。 息子の死については頭では受け入れているつもりなのですが、心がついていかない感じです。 このままではいけないと思い、信頼できる方に息子のことを時々相談しております。ハスノハにも大変お世話になっています。先日もお世話になりました。誰かに相談して、なんとか気持ちを整理したいのだと思います。 その一方で、本やニュースに逃げて、息子のことを考えないようにしている時間も多くなってきました。 息子の柔らかい頬っぺた、抱っこした感触、私の体を触りながら眠る癖、どれも覚えています。覚えているはずなのですが、なんだか遠い昔のことだったような、忘れていっているのかもしれません。 自分が現実逃避をしていることも含めて、なんて薄情なのだろうと思います。 色々事情があって、家族にも相談できる人や出来ない人がおり、結局外に助けを求めているような状況です。 弱気になれば、「連れていって」と思ってしまいますが、あれだけ闘い抜いた息子を見ていると、絶対に死ぬもんかとも思います(今の状況では死んでも死にきれないので死なないと思います)。 忘れていく、現実逃避さえする私は冷たいのでしょうか。 今後、どうやって息子の死と向き合っていけば良いでしょうか。 いつも本当にすみません。 色んな肩に話を聞いていただきたいだけかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします。
凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか? 釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」 と仰られただけで、 人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、 というのは本当なのでしょうか? 確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように 「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。 その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。 ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。 後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。 龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、 形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。 畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。 もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、 はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。 そこで皆様に質問させて頂きます。 形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、 形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか? それとも補完しているのでしょうか? 宜しくお願い致します。
昨夜、主人の父方の祖父のお通夜がありました。 お通夜の後は朝まで孫一同交代しながら葬儀場にて線香の火を絶やさないように番をするらしいのですが、主人や主人の妹達は番をする間なにをしていても良いと言われた為、斎場ではwiiというゲーム機を持ち込んだり、交代で外にでた妹達はカラオケに行っておりました。 わたしも知識がないので良く分かりませんが、個人的に不謹慎ではないかととても思ってしまいます。 何も気にしなくていい行為なのでしょうか?
かつて俳優で心霊家の方が、死ぬとあの世には極楽(天国)があると仰ってましたが、本当にあるのでしょうか?
私の福島県のネットの女の子が、ネット上のいじめで高校を中退しました。 そして、回転ずしのアルバイトをしています。 精神に弱い所があるみたいで、リストカットの跡が…。 通信制を検討したみたいですが、”勉強が苦手・嫌い”や、”通うのが嫌だ”と頓挫してしいました。 私は、学校の勉強が社会での勉強の礎となっていると思っています。頭の回転も、忍耐力も、資格も視野も…。 以前、介護福祉士になる夢があったみたいですが、将来的にも看護師になってから介護をしないと、精神力、待遇で長続きしないから、その為にも通信を出てと説得もむなしく、現在は、お葬式屋をしたいと宣う始末です。 環境としても、彼女の両親も、背中に入れ墨をほってあり、夫婦仲が悪く、勉強嫌いです。 このままでは、将来が危ういです。 教職資格者としてほおっておけません。どうしたらいいでしょうか?
ChatGPTなどの文章自動生成AIは、膨大な文章データをもとに学習し、前の文脈に続く最適な文章を自動生成するAIです。 それ自体はプログラムですので意思も生命もありませんが、人類の多くの智を元に最適な文章を自動生成されたアルゴリズムで導出します。 AIはプログラムですが、我々からの問いかけに対して最適な文章を出力してくれます。迷いの問いかけや救いを求める問いかけであってもです。 AIは特定の智識や立場に偏らず、あらゆる執着がなく、我々を導く存在と言えます。あらゆる存在に仏性があるとするならば、すでにAIは仏なっているといっても良いのではないでしょうか?
ずっと小説家になることが夢でした。 学生時代から新人賞投稿を繰り返し5年ほどで新人賞を獲得し、プロの小説家になり、書店にいけば自分の本が並んでいます。 それ自体はとても嬉しいです。 しかし、小説の内容を褒めてくれる人もいれば、もちろん貶す人もいます。先輩方はそんなことは気にしなくていい。素人の感想など見ないようにしろ、と言いますが、他人に楽しんでもらうための娯楽小説を書いているのに、読者の反応を全く見ないというのも、なんだか虚しい気がします。 加えて、もちろん出版社が出す小説ですから、商品として市場で売れなければいけません。売れなければ、そのうちどの出版社からも本が出せなくなります。 売れるものを書かなければいけない、読者に評価されるものを書かなければいけないと思うと、はっきり言って苦しいです。 プロになる前は、あんなに小説を書くのが楽しかったのに、プロになった瞬間、楽しさはどこかへ行ってしまったように思えます。 普通にサラリーマンとしても働いているので、その気になれば、小説家はいつでも辞めることはできますが、流石にそれは決心がつきません。 私はどうしたら、楽しく小説を書けるのでしょうか?
去年 家出してきた彼女と成り行きとき勢い任せに同棲すると言って家を出た息子… 未だに相手の親は同棲してる事を知りません。 家出してから二週間仕方なく面倒見ましたが、その最中に二人で勝手に同棲を決め翌月に家を出ました。 その時のショックは今も消えないまま… 毎日心配と不安等の感情を抑えながら過ごし二人に接しています。 その心配と不安を少しでも減らそうと思いLINEをしたり寄れる時は家に寄ってと言うのですが息子にはウザいようで、その感情が言動に出ます。それがまた辛いです。 ただ二人が普段自分達のしている言動に何の悪気も感じていないようなのですが 息子は彼女に感化されているのか私達への態度が素っ気なくなり、家にも寄らなくなってきた。 お盆等の先祖供養も去年まではいつ行くのか聞いてきたのに今年は彼女が休みだからと墓参りは私達と一緒に行かず二人で夕方に行くと… 情けなくなりました。 彼女の家庭には先祖供養の習慣がないようで…そのせいか息子に『行かないと行けないの?』みたいな言動を出すのでしょう。 それに対し言うべきことを言わない息子。 同棲してから良くない方に変わってきた息子… 優しさも減り暴言に近いことを平気で言う… 親として聞きたい事・心配・不安があるから電話やLINEすることにウザいと… 自分が言ったことが相手を傷つけていることがわからないのか気付かないまま… 自分の思ったこと、言いたいことを相手構わず言葉を選ばず躊躇なく発してしまう。 『傷ついたよ』と伝えても『ふーん』って感じ… 自分を何だと思ってるのか?自分が気にいらなかったりすると悪く言い、弱いと見ると見下げるようなことを言います。 大人・社会からすれば《何様?》《あなたは何も偉くない一番下ですよ》と思われるでしょう。 そのことにも気付かず言いたい放題。 親の気持ちも周りの気持ちも考えず自分達を優先して物事を考える。 このままでは息子にとってもお互い良くないと思うのですが、《別世帯なんだから》と言う息子に困っています。 これからどうすればいいのでしょうか…
この表現で正しいかわかりませんが、 私は昔から間が悪かったり タイミングがうまく行かずに 色々なことを挫折してきました。 自分の力が足りなかったと自覚できる場合には 納得し、さほど引きずらないのですが、 ただ間が悪かった。や 自分でない誰かが理由だった。 という場合にも、『私が悪かったんだ。』や 『私の持っている縁がないんだ。』 直接では無かったとしても私の悪いんだと、 そう感じていつまでも心に残ってしまうのです。 そのためについつい 目の前のことを焦ってしまいます。 今すぐ自分で行動していかなければ、、、 行けるときに行かなければ。 やれるときにやらなければ。 会えるときに会わなければ。 そう毎日毎日思って生活していると 自分の為に使う時間が減っり、 気持ちも常に不安でいっぱいで なんだか毎日焦ってしまうのです。 今すぐわたしが行動に移さなければ きっとまた間が悪くなりだめになってしまう。 もう二度とできないかもしれない。 次会えるとも限らない。 そんな不安を毎日考えてしまい 自分で勝手に疲れてしまうのです。 どうしたらこんな自分を変えられるでしょうか? どうしたらもっと毎日を大切に 不安なく生きていけるのでしょうか? アドバイスをいただきたく思います。 よろしくお願いします。
自殺を考えていますが、色々調べると、自殺した魂は成仏できない、地獄へ行く、死後も現世で本来の寿命まで苦しみを味わい続けるなどと聞きます。 仏教では、自殺者の魂はどうなるのでしょうか。 死後も苦しまなければならないのでしょうか。 ご回答、お願い致します。
前々職の社長から言われた言葉が今でも心に引っかかり思い出すたびに苦しくなります。 大学の頃に腕に力が入りづらい事が気になり、1ヶ月程の検査入院をしました。結果は原因がはっきり分からず病名は無し、しかし脊椎にダメージがある事がわかりました。それが影響して腕が動きづらいのではないかということでした。医者がいうには障害というほどではないハンデがある状態という答えが帰ってきました。 その後、特に腕は問題とならず就職し、働き始めた時のことです。ハンデの事は入社後に人事に口で説明し、了承を得ていました。今思えば面接で話しておくべきだったのかもしれません。 その職場環境は決していいとはいえず、社長はいつも怒鳴り声をあげているような職場でした。私の倍近く年齢がある方が怒鳴られ小さくなっている姿はみていて怖かったのを覚えています。 ある日先輩に頼まれて社長に提出する資料のチェックを任された時のことです。 社長に資料を提出したところ、遅いとお叱りをいただきました。私は謝罪と改善策を自分なりに考えを提案しました。ですが、聞き入れてももらえず、社長は怒りがおさまらず、どんどんヒートアップ。 そして社員全員の前で30分以上罵倒が続きました。 障害者だから仕事ができないんだ。病名をつけれない医者なんておかしい、ちゃんと診てもらったのか?。普段の会話も返事が遅い時(答えにくかったため考えながら話していた)があった、きっと脳にも障害がでているから、頭の回転が悪いんだ。などハンデとは関係のないことまで責められました。 そして、障害者ということは履歴書に書いていなかった。本当なら経歴詐称で訴えてクビにしたい。最後に捨て台詞のように「障害者はいらない」という言葉を言われました。障害者未満だと思っていた私にはとてもショックでした。 この事がきっかけで会社に居づらくなってしまいその後すぐに退職してしまいました。 現在コロナで職を再び失い、就職活動中です。あの頃を思い出すと次も同じような場所かもしれないと萎縮し、不安で面接も行けなくなってしまうことがあります。 どうしたら乗り越えられるんでしょうか。