なぜ、仏教では宗派を問わず、誰もが持つ死への恐れを信者から取り去るためのありがたい話をせず、「死後のことは分からない」と突き放すような言い方をされるのでしょうか。比較するのもおこがましいと思われますが、キリスト教でもイスラム教でも、一応はそれなりの死後はどうなる的なお約束を説教してくれるのに。
いつもお世話になっています。以前、本や聞いた事があるのですがお釈迦様は弟子に死後の世界を説かなかったと聞きましたが本当でしょうか?死後の世界かあるのかという弟子の質問に対して、矢か刺さればまず抜く事だ!だから死後の事など考えず、今ある生を精一杯生きなさいと言ったような気がします。本当にお釈迦様は死後の世界は説かなかったのでしょうか?ある人の本によると仏教は哲学に近く、また無神論に近く、中世ヨーロッパでは無を広める宗教だと恐れられたそうですがその事についてはどう思いますでしょうか?お考えを聞かせてください。
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
初めまして。長らく辛い日々が続いています。一年半ほど前に片親を亡くし、その後、彼女(婚約者)に別れを告げられました。 その後、ボロボロの心で何かに惹かれるように巡礼に出かけ霊場各地を巡りました。自分の未熟さに気付くとともに大切な人を失くす前から平凡な事が至極の幸せであると思いながら過ごしてきたにも関わらず、それすらも理解し切れていなかったのではないかと思い知りました。 巡礼の途中、京都で事情を知った尼さんから、「辛いことがあっても試されてると思ってしっかり生きて行けば、必ず仏さんは見てくれている」という言葉が心の支えとなっています。 一時は吹っ切れたと思っていましたが、やはり辛いという気持ちに変わりはありません。親を亡くし、事後処理に追われ半年ほどのちに婚約者は僕の元を去りました。恐らく、色々なことにいっぱいいっぱいになっている僕が頼りなく思えたのでしょう。 周りの友人や、同年代の人が結婚したり街でカップル等を見かけると胸をえぐられるように辛いです。 また、亡くなった母に対しても子供として何も恩返しできず、これからもっとしてあげられるはずだったのにと申し訳なさと、なぜ救ってあげられなかったのかという気持ちでいっぱいです。 正直なところ、なぜ周りの人は物事がトントンすすんでいくのになぜ自分は思わぬところでつまずいてしまうのかと辛くなります。 しかし、最後はどこかで必ず自分にも幸せが訪れると信じで日々過ごしております。こんな僕にこれから日々を過ごして行く上でのアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。
最近は、犬や猫などの小動物はペットというよりも家族、という感覚になってきていて久しいですが、その反面酷い動物虐待の事件が後を断ちません。 ネットが出来てからというもの、わざわざそういう動画や画像をネットに流したりする外道も多いです。 殺処分も同様ですが、そんなひどい目に遭った子たちは、ちゃんと成仏できるのでしょうか? 恐怖と苦しみを引きずったまま、この世を彷徨っているのではないだろうか? そしてそんなことに楽しみを見出す外道にはちゃんと罰が下るのでしょうか? 最近立て続けに酷い事件を知ったので、どうなのだろうとずっと思っています……。
こんにちは。 よく夏になると心霊番組をやっています。 そういう番組がやっていることを考えると日本人は霊魂を信じている人が多いのだと思います。 しかし私は霊魂について疑問を持っています。 ほとんどの宗教では霊魂の存在を認め、人は誰でも死ねば不変不滅の霊魂になると言われています。 しかしそうなるとこの世は霊魂だらけになってしまいます。 一方、仏教では不変不滅の霊魂については否定し、あらゆるものが輪廻すると説いています。 仏教では輪廻するものに魂が宿り、霊魂単体では存在できないという考え方なのでしょうか? だとすると霊魂は体に依存した物質的な存在という事になります。 また解脱した場合は無になるとお釈迦様は仰っています。 無になるとは具体的にどういう状況ですか? 寝ているときのような意識がない状態を指すのでしょうか。 あるいは別の次元に行くことなのでしょうか。 疑問に思ったので教えていただきたいです。
大学で仏教の授業を受けてから、仏教がとても怖い教えだと思うようになってしまいました。 仏教は怖い教えではないですか?
カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。
足りない。どうしよ。不安。やらんと。
故人が一番喜んでくれること、故人への何よりの供養、私ができることはどんなことか教えて下さい。 自分なりにこうだと思っていることもありますが、本当の供養をお坊様からご教示していただきたいのです。 私が供養したいのは、20代前半でバイク事故で亡くなった彼です。 私は40代半ばで既婚、こどもが二人います。 どうぞ宜しくお願い致します。
私の職場は従業員10人ほどの小さな会社です。 職場に怖い人(70歳)がいて、耐えきれず「あの人が怖いので辞めます」と工場長に言いました。 辞めてほしくないようで、ずっと話を聞いてくれて「社長や僕からあの人に話をする」と言っています。 何回か言い方がキツいなど注意をしてはいるようですが「私はなおせん」の一点張りのようです。 従業員さんが私が怖がっているから優しい言い方にしてほしいと言ってくれたようですが怒ってしまい私に「あんたにはなんも教えん」と言ってきました。 それからますます怖くなりトラウマです。 それ以降さらにキツくなり、態度も明らかに不機嫌です。 まだ社長からは話をしてないみたいですが今の状態で話をしたら悪化しそうで怖いです。 もう同じ場所にいることすら無理だと思い何回も辞めると言いましたが会社は聞いてくれません。 正直私もほんとは辞めたくありません。 あの人が怖いだけで、仕事内容も好きで職場の方もとてもいい人ばかりです。 仲良しの従業員さんからは「心が心配だからすこし休んで!辞めてほしくない」と言われます。 工場長や社長もその考えのようです。 ですが近々、心療内科にいきます。 あの人といると動悸、めまい、耳なりなどの症状が出てきたからです。 何をしていても考えてしまい憂鬱です。 それにますます嫌われてしまい、ずっと休んでいるのに今さら出勤するなんて出来るのかと考えてしまいます。 きっとまたキツいことを言われる...結局、私が我慢することになる。と思ってしまいます。 あの人が辞めたら、居たい職場なのに...我慢して働くのか...いやでも今さら出勤できるのか...心療内科に行くほどしんどいのだから仕事を辞めるべきだ...いやでもお金いるしな... とずっと考えてしまいます。 我慢して出勤するか? あの人がいる限り同じことの繰り返しになるから辞めるか? 意見をいかせていただけたら嬉しいですm(_ _)m 何を言いたいのかよくわからない文章ですいません。 長文すいません。
大乗仏教の救いについて教えてください。 大乗仏教では出家者ではなくとも、救われるとの教えだと学びました。 では大乗仏教の救いとはなんでしょうか。 出家をしないで煩悩が消せるとは思えません。 人間はいつも何か欲しいと思ったり、仕事に不満を感じていたり、何かしらの煩悩を持っていますよね。 煩悩を持ったままでも悟れるのでしょうか。 大乗仏教の悟りとは煩悩がなくなることではないのでしょうか。
私は先日中絶してしまいました。 上の子の事はプロフィールに書かせてもらいました。 上の子が小学校に入るまえは年も 離れてきた事から3人目を望んでいました。 上の子が小学校に入ってしばらくは普通 でしたがだんだんと確認してくる事が 多くなり妊娠に気づいた時にはかなり 酷い状態で喜べませんでした。 家族崩壊のようでした。 夫婦で話あい自分の子なのに中絶してしまいました。 毎日が辛くて地獄のようです。 中絶していい理由なんてありませんが 理由をつけるために上の子を理由に しようとする自分も許せません。 前を向いていいのか向けるのかも 分かりません。ただ毎日会いたいなと 思ってしまいます。罪が大きすぎて 子供の前でも笑えなくなってしまいました。泣くのは我慢してます。 私は生きていていいのでしょうか?
最近そのような思いで毎日過ごしています。 それによって特に強く落ち込んだりはしてなくても、単純に楽しくないです。かわいいとか馬鹿じゃないとか、否定してもらっても納得もできません。自分の良いところを見つけられなくなってしまいました。でも別に自分嫌いなわけでもないです。 私ってバカだしブスで最低だな〜 こう思わなくなった方がいい気がするのですが、どうしたらいいでしょうか?
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
私50歳の会社員です。 配偶者ありで、子供はおりません。 昨年末に転職を行いました。 小さな会社で、社長が私のキャリアを評価してくれて、転職を行いました。 現在事業部長職を与えられております。 私なりに、早くこの会社に馴染めるように、社内の皆さんとの付き合いや、仕事の取り組みに対し、努力を行ったつもりです。 しかしながら、ちょっとした行き違いや企業文化の違いにより、誤解を生んでしまい、社長のみならず、 周りから、不信感を与えてしまい、嘱託社員扱いに降格となりました。 仕事に対しては、最期までやり抜くという、責任感がないと思われているようです。 私自身、厳しい局面または判断に躊躇する状況では、まだ入社期間が浅いため、わからないことが多く、社長にも相談したのですが、 (事業部長という)立場上、もっと自分で判断してほしかったのではないかと思います。 社長からは、今年の12月末迄は面倒をみるが、そのあとは退職してほしいとの話がありました。 私としては、前職時代にある程度の預金も出来、住宅ローンや子供の教育費もなく、年金をもらえるまでは、なんとか生活が出来そうなので、第一線から身を引き、 必要な時はアルバイト程度の仕事を行うような生活をしようかと考えております。 また50歳ということで、新たな転職は難しく、今の気持では転職を行うというような気になれません。 30歳代の頃に、仕事に苦しんだと時があり、なんとかがんばって乗り越えてきましたが、その時の苦しみにトラウマがあり、厳しい局面では、どちらかというと、逃げたくなる自分があります。 かみさんは、お金ではなく、乗り越えてるいけるような人間ではないと、駄目ではないかと言われます。 毎日、毎日に行くのが憂鬱です。 なにかアドバイ頂けましたら、幸いです。 宜しくお願い致します。
見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。
初めまして、この度自分では消化できない思いが芽生えまして。 お時間のある時に疑問に答えて頂けたらと思います。 先日、身内に「お坊さん方が相談にのって下さるサイトがあるんだよ」とこのハスノハを紹介したところ、身内が「なんか脱サラして僧になった人や元プロレスラーの僧がいるんだな……」となにやら神妙な顔で呟いたなと思いきや、 「この人らって僧になる前に大なり小なり犯した罪ってどうしたんかな?」 「人の悪口を言ってしまった、ネットで誹謗中傷してしまっただの相談に説教かましてる坊主がいるけど、この坊主らは今までやってきた前職でおかしてきた罪や行いはどう折り合いつけたんだ?」 「例えば元プロレスラーならそういう職業とはいえ汚い言葉で相手に暴言吐いたり殴ったりしただろうに」 「仏の道に入るんだから前に殴った相手だとか1人1人にちゃんと謝罪したんかな?それとも仕事だから別に悪い事じゃないとか思ってんのかな?もしくは過去は過去ってことでその事は切り捨てたり忘れたりしてるのかな?仏道に入ればそういう行い全部帳消しになったつもりでいたりするんかな?」 「なんにも過去を清算してない坊主が、ここで必死な思いでどうしたら良いか相談しに来られてる方々に説教してる姿に違和感がある」 「自分の事棚に上げて説教してるんならある意味偽善者よりタチが悪い気がする」 と、そのような事を言っておりました。 私はそれを聞いた時にギョッとしたものの、確かに…とちょこっと共感するところがありました。 お坊さんになられる前の職業でいろいろあった方々がいらっしゃると思いますが、過去の自分の行いにはどのように向き合っていらっしゃるか教えて頂きたいです。とても気になります。
人の死はそんなに悲しく辛いものでしょうか? 私の友人が死んでもうすぐ一年になります。 葬式であれだけ泣いていた周りの友人達は何も変わることなく今日を生き笑っています。 もう、死んだ友人の話をすることもありません。 彼がいなくなっても、寸分の狂いもない日々が続いています。 死んだ彼がたいした人間じゃなかったから? 今を生きる人間は死んだやつにかまっていられないから? 今後も僕たちは彼の死を忘れ、のうのうと生きていくのですか? 一番悲しんだであろう彼の親だってすぐに人生を終えてしまうというのに! 私は人生上手くいっておらず、そろそろ潮時かと考えております。残された人間が悲しまないのであれば人生リタイアしやすいのですが… うわべではなく、人の死に悲しむのは極わずかのこころの弱い人々ではありませんでしょうか? 「あなたが死ぬと私は悲しい」 本音をお教えください。