本当に欲しかったものに気づいた時
先日は素敵なお言葉を本当に有難う御座いました。再度のご相談で恐縮ですが、どうか聞いてくださると嬉しいです。
夫との関係について(プロフィールをご一読頂けると幸いです)、私には大きな持病がある中別居をしています。
大病を患い長期入院中、命を落とすことすら覚悟した瞬間に、私が本当に欲しかったものは『広くて綺麗な家』でも『憧れのバッグや服たち』でもなかったこと。
ただ好きな人と平和になんてことない日々を過ごしたい、傷つけるより温かな言葉をかけ合いたい。綺麗事だと思っていたものが欲しくて欲しくて堪らなくて、ただそれだけだったんだと気づきました。もし死なずに退院できたら自由にやりたいことを探すことも自分自身に誓いました。
退院してすぐ、夫からの心ない言葉を浴びた時、今まで言われてきた言葉たちも昨日のことのように思い出して、私があんなにも切望した『平和な日々を過ごす相手』は人を見下してばかりのこの人なのか。考えてしまいました。夫ではなく、私の価値観が変わってしまったのです。
なんて我儘で、傲慢で自分本位なんだと自己を律する気持ちと、それでも反発する心が相反しておりいくら考えても答えが出ません。
ただ、生活の基盤なしに自由がないのもよく分かっています。狡猾ですが結婚したままであればこんな私でも夫のお陰である程度自由に暮らすことはできます。ですが、入院中に自分に痛い程誓った、『好きな人』が彼に該当しないのです。
それに『離婚したところでこんな病気だらけの私を良いと言う人は居ないかも』『こんな私と結婚してくれただけで有難いと、心ない言葉は聞き流すべきでは』『不満を持つことすら傲慢では』と弱い自分が警鐘を鳴らします。
それでも思い悩むなんて、浅ましく欲深い人間だと、一度手に入れたものを手放す怖さを知っているのに実行しようとする自分の無謀さが怖くなります。
苦難に遭って尚求めることをやめられず、無欲とは程遠いところにある自分が嫌にもなるのです。それでも切望してしまいます。
◎現状を有り難いと感謝して改善や我慢をすることが私に足りない価値観なのか
◎自分のまだ見ぬ可能性に希望を持って新たな道に進むことは身の丈に合わないものか
客観的な御意見を頂けたらと思います。宜しくお願い申し上げます。
有り難し 5
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