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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 生きる 怖い」
検索結果: 4914件

憧れだった医師になったけど

はじめまして 私はこの4月から研修医として働き始めました。 小学生の頃、テレビドラマやドキュメンタリー番組を見て医師になりたいと思うようになりました。 中学、高校の頃は医学部を目指して全てを勉強に捧げ、1浪の末念願だった医学部に合格しました。 医学部生活は勉強や実習で忙しい時もありましたが、プライベートも満喫し楽しい6年間でした。 医学部を卒業するにあたり進路を考える際、病院の雰囲気や将来のことを考えて、どうしても就職したい病院がありました。医学生の中でとても人気が高く倍率が高かったのですが、最大限の努力をして何とかその病院での研修が決まりました。 決まった時は、それまでの人生の中で一番嬉しかったといっても過言ではないほど、嬉しかったです。 4月になり、いよいよ研修が始まりました。 けれど、あれだけ就職したいと願った病院だったのに、、仕事はあまり楽しくなく 毎日泣いてばかりです。 朝は早く、夜は日付がかわるかかわらないかまで病院にいて、業務におわれています。上の先生方は色々教えてくださいますが、業務に追われてほとんど吸収しきれていません。 夜の当直ではいつも一緒にいる先生とは違う上級医と組み、怒られてばかり、一睡もできない、目の前の患者さんにどう対応していいか分からない、で当直明けは疲労困憊です。また当直の番が回ってくると思うと憂鬱です。 同期の中には大学を首席で卒業した人もちらほらいて、その優秀さに少なからず引け目を感じてしまいます。 憧れの病院で、念願だった医師になったのに、毎日喜びを感じません。 あれだけ勉強して医師になったのに、役にたてず、怒られ、ただ雑用に追われる日々、、 医師でない仕事の方が良かったのではないかと思ってしまいます。 具体的に日々何か嫌なことがあったというわけでなくてもほぼ毎日わけもなく涙がでてきます。 新社会人はどの職種も辛いものだとも思うのですが、、 いつか医師になって良かったと胸を張って言える時がくるのでしょうか。

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この様な力は存在するのでしょうか。

10年以上前に亡くなった父方の祖母の話です。 若い頃から霊感が強いと言われていた人だったようで、父とその兄弟がまだ幼い頃には家の前の小径に向かって「狐が走り回る足音が煩い」と怒っていたり(祖母以外には見えていない)、電話で親類や知人の失せ物相談にぴしゃりと言い当てたりしていたそうです。 私も色々な事情があってこの祖母に7歳から10歳まで育てられましたが、私自身は虫封じをやってもらった事があります。筆で私の掌に文字を書きながら祖母がブツブツと何やら唱えると、私の指先から見えるか見えないかの細くて白い糸の様なものが何本ものたくりながら出てきました。祖母曰くこれが疳の虫だそうで。 またある時は私を抱っこしながら祖母が部屋の電気を消そうと紐を何度引っ張れど電気は消えず。「えぇい消えろ!」と強く言い放つと紐を引いてもいないのに電気が消えた事がありました。祖母曰く「霊的な何かがいたずらをしていた」そうで。 因みに祖母が写った写真の多くでは、祖母の体の一部が欠けて(後ろの景色は写っている)写っていました。 実の子供を男3人、それから孫を男5人、乳飲み子の時から大人になるまで一人で育て上げた祖母。毎日ひたすら家事をしている姿しか思い出せませんが、今は高野山に眠っています。 私は実の母を7歳の時に亡くしていますが、祖母にはよく「お母さんはずっと側で見守っていてくれてる」と言われていました。 今でも祖母を思い出せば、こうした不思議な力?の事も思い出されます。 いくつか祖母の力?を実体験として私も経験していますが、果たして本当にこの様な力や霊的な存在、姿の見えない狐などなど・・・これらは実在しているのでしょうか。 個人的に僧侶という職業は、本当にあるのならあの世に最も近しい立ち位置にあるように思います。なのでこうした力や霊的な存在の有無、または似たような話がお聞かせ頂ければと思い質問しました。 どうぞよろしくお願いいたします。

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

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新興宗教の勧誘の断り方は?

昔から宗教に興味があったので、キリスト系・仏教系問わず、新興宗教でも縁があった時は、資料を受け取ったり、話を聴いたりしていました。 しかし、いずれの宗派も絶対的な確信を持つことは出来ないので、入信することはありませんでした。 その中で、昔からの友人が「あなたを救いたい、あなたのために24時間勤行をする」などと親切心で熱心に勧誘しています。「その気は無い」と断りつつも20年になります。(最近は年に数回程度ですが) そして、数年前、主人の余命宣告を受けた時、私としては人生の中で一番宗教を求めていました。しかしながら、その数ヵ月間はまったく連絡がありませんでした。 その事から、最近は「私が一番必要としていた時期に縁が無かったのだから、あなたの宗教に入ることは絶対にあり得ない。」と明確に何度も伝えています。 「勧誘であれば、話をすることは無い。勧誘の話は聞きたくない。勧誘の電話はしないで」ということも何度も伝えています。 それでも、「そろそろわかってくれた?入信する気になった?」と連絡して来ます。 その友人と同じ仲間が他に数人いますが、熱心に勧誘されているのは私だけです。他の友人たちは最初の頃に断っているためにその後は勧誘していないようです。 できることならば、他の友人のように勧誘を止めてくれたならば、その友人が企画する同窓会にも参加したいのですが、私の顔を見れば執拗に勧誘をするので参加できませんし、他の友人たちとも疎遠になってしまってます。 今まで「宗教に興味がある」という態度をしていた私の責任でもありますが、20年かかりましたが、「入信しない」という結論が出たので、それで納得して欲しいのです。 20年分の期待感があるので、宗教抜きの友人関係は無理なのでしょうか? その子が中心の他の仲間たちとの関係も含めて、バッサリと縁を切るべきなのでしょうか?

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宗教とは

祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。

有り難し有り難し 38
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