私は先月再婚しました。ですが、娘が2歳旦那さんが21歳のときから19年間一緒に生活していました。 その娘のことなんですが。 友達は多く、愛想も良く外では申し分のない子なんです。 ただ、家の中では会話はなく、必要事項だけって感じなんです。 何一つとして手伝うことはなく、私が具合わるくても洗濯物ひとついれるわけでもなく、買い物頼んでもめんどくさいと行ってくれません。 ほんとに子育て失敗だと思ってしまいます。 娘は勉強ができ、運動もできる子だったので、いかなる時も娘中心で生活していました。 大学に入り、金銭面でも周りのひとはもっと親が出してるとか言ってきます。 細かい話ですが、うちの車を使って遠出してるのに、 ガソリン代も高速代も他の親は出してるのが普通だと言ってくるんです。 本当に苦痛で喧嘩になり出ていけと言ってしまいます。 本当に嫌いになってしまうんです。 ほんとに親に対して思いやりもなく、感謝の気持ちもありません。 使わな損みたいな感じでいろいろ言ってきます。 私の育て方がわるかったので感謝の気持ちや思いやりがないのでしょうか?
はじめまして 私はこの4月から研修医として働き始めました。 小学生の頃、テレビドラマやドキュメンタリー番組を見て医師になりたいと思うようになりました。 中学、高校の頃は医学部を目指して全てを勉強に捧げ、1浪の末念願だった医学部に合格しました。 医学部生活は勉強や実習で忙しい時もありましたが、プライベートも満喫し楽しい6年間でした。 医学部を卒業するにあたり進路を考える際、病院の雰囲気や将来のことを考えて、どうしても就職したい病院がありました。医学生の中でとても人気が高く倍率が高かったのですが、最大限の努力をして何とかその病院での研修が決まりました。 決まった時は、それまでの人生の中で一番嬉しかったといっても過言ではないほど、嬉しかったです。 4月になり、いよいよ研修が始まりました。 けれど、あれだけ就職したいと願った病院だったのに、、仕事はあまり楽しくなく 毎日泣いてばかりです。 朝は早く、夜は日付がかわるかかわらないかまで病院にいて、業務におわれています。上の先生方は色々教えてくださいますが、業務に追われてほとんど吸収しきれていません。 夜の当直ではいつも一緒にいる先生とは違う上級医と組み、怒られてばかり、一睡もできない、目の前の患者さんにどう対応していいか分からない、で当直明けは疲労困憊です。また当直の番が回ってくると思うと憂鬱です。 同期の中には大学を首席で卒業した人もちらほらいて、その優秀さに少なからず引け目を感じてしまいます。 憧れの病院で、念願だった医師になったのに、毎日喜びを感じません。 あれだけ勉強して医師になったのに、役にたてず、怒られ、ただ雑用に追われる日々、、 医師でない仕事の方が良かったのではないかと思ってしまいます。 具体的に日々何か嫌なことがあったというわけでなくてもほぼ毎日わけもなく涙がでてきます。 新社会人はどの職種も辛いものだとも思うのですが、、 いつか医師になって良かったと胸を張って言える時がくるのでしょうか。
10年以上前に亡くなった父方の祖母の話です。 若い頃から霊感が強いと言われていた人だったようで、父とその兄弟がまだ幼い頃には家の前の小径に向かって「狐が走り回る足音が煩い」と怒っていたり(祖母以外には見えていない)、電話で親類や知人の失せ物相談にぴしゃりと言い当てたりしていたそうです。 私も色々な事情があってこの祖母に7歳から10歳まで育てられましたが、私自身は虫封じをやってもらった事があります。筆で私の掌に文字を書きながら祖母がブツブツと何やら唱えると、私の指先から見えるか見えないかの細くて白い糸の様なものが何本ものたくりながら出てきました。祖母曰くこれが疳の虫だそうで。 またある時は私を抱っこしながら祖母が部屋の電気を消そうと紐を何度引っ張れど電気は消えず。「えぇい消えろ!」と強く言い放つと紐を引いてもいないのに電気が消えた事がありました。祖母曰く「霊的な何かがいたずらをしていた」そうで。 因みに祖母が写った写真の多くでは、祖母の体の一部が欠けて(後ろの景色は写っている)写っていました。 実の子供を男3人、それから孫を男5人、乳飲み子の時から大人になるまで一人で育て上げた祖母。毎日ひたすら家事をしている姿しか思い出せませんが、今は高野山に眠っています。 私は実の母を7歳の時に亡くしていますが、祖母にはよく「お母さんはずっと側で見守っていてくれてる」と言われていました。 今でも祖母を思い出せば、こうした不思議な力?の事も思い出されます。 いくつか祖母の力?を実体験として私も経験していますが、果たして本当にこの様な力や霊的な存在、姿の見えない狐などなど・・・これらは実在しているのでしょうか。 個人的に僧侶という職業は、本当にあるのならあの世に最も近しい立ち位置にあるように思います。なのでこうした力や霊的な存在の有無、または似たような話がお聞かせ頂ければと思い質問しました。 どうぞよろしくお願いいたします。
同棲して2年になる恋人がおります。 付き合いだしてから、彼の名前を一度も呼べないことに悩んでいます。 彼にいくつかあだ名を提案しましたが、結局は「呼ばれたことないのでしっくりこない」とやんわり拒否され、前妻・元彼女さんに呼ばれていたあだ名でしか返事をしにくい とのことです。 その言葉で私のほうは落胆してしまい、なかなか私から名前を呼ぶ気持ちにもなれず「ちょっと」「ねえ」などなど、ごまかし続けています。 私に対しては下の名前で呼んでもらっておりますが、彼の名前は発音し難いです。 今も上記の気持ちでいるのかはわかりませんが「いつになったら名前を呼んでくれるのか」と急かされています。 それ以外は、本当に仲良くしているのですが…。 やはり名前を呼べない不便も感じております。 軽い気持ちで呼んでみればいいことは頭で分かるのですが、喉まで出かかって、声が出なくなります。 この気持ちをあと一歩進められるよう、皆さまのお智慧をお借りしたいです。 ふと思ったのですが 仏教では「名前を呼ぶ」という行為にどのような意味があるのでしょうか…。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
世界の裏側ではいつも悲惨な戦争が起きてます もしもお坊様が目の前で愛する人が殺されてもそれは執着、煩悩、雑念と切り捨て 悟りを開く無の境地になれますか?
私は子供が産めません。 しかし、子供が大好きです。 なので2年前に赤ちゃん人形を作って貰いました。本物の赤ちゃんみたいに重さも3000g、大きさも赤ちゃんそのもの。 本当に我が子のように可愛くて、いっぱい話しかけました。 例えば、一緒に映画を観て、一緒に祝い日を過ごして、人間関係について人生の難しさを語って、夜になると毎晩のように子守唄を歌って… それから2年彼の異変に気がつきました。前は口元に磁石が内蔵されてる為おしゃぶりをつけれるのですが、ふと気がつくとおしゃぶりが移動していたり、外れていたり…いままでそんなことはなかったのですが、顔つきも前の写真と比べるとなにか…ちがいます。 そこで相談…質問です。 人形にも愛情込めて毎日接していたら、命が吹き込まれ、ピノキオではないですが本当の子のように見たり聞いたり感じたりしているのでしょうか? 教えて下さい。 そしてその子は私のことをどう思ってくれているのかも知りたいです。真剣です。お願い申し上げます。
この世についてどう思いますか。解釈ではなく本当のところリアルなお坊さんなりの真実をぶっちゃけていただきたいです。怒りですか。呆れですか。虚栄ですか。私利私欲ですか。 この前にふたつ質問しているのでそれにも答えていただきたいです。
86歳父親が肺がんになり食事するたびに胸がいたいらしいです 痩せてゆく父親に癌の告知するべきか悩んでます ボケてはいませんが、母がこのまま告知しないで死なせてといいましたが、私は癌とゆうことを父親に告知して何かしたい時間を過ごさしたいと思ってます。いろいろな考えがありますが よろしくお願いします。入院まだしてません
昔から宗教に興味があったので、キリスト系・仏教系問わず、新興宗教でも縁があった時は、資料を受け取ったり、話を聴いたりしていました。 しかし、いずれの宗派も絶対的な確信を持つことは出来ないので、入信することはありませんでした。 その中で、昔からの友人が「あなたを救いたい、あなたのために24時間勤行をする」などと親切心で熱心に勧誘しています。「その気は無い」と断りつつも20年になります。(最近は年に数回程度ですが) そして、数年前、主人の余命宣告を受けた時、私としては人生の中で一番宗教を求めていました。しかしながら、その数ヵ月間はまったく連絡がありませんでした。 その事から、最近は「私が一番必要としていた時期に縁が無かったのだから、あなたの宗教に入ることは絶対にあり得ない。」と明確に何度も伝えています。 「勧誘であれば、話をすることは無い。勧誘の話は聞きたくない。勧誘の電話はしないで」ということも何度も伝えています。 それでも、「そろそろわかってくれた?入信する気になった?」と連絡して来ます。 その友人と同じ仲間が他に数人いますが、熱心に勧誘されているのは私だけです。他の友人たちは最初の頃に断っているためにその後は勧誘していないようです。 できることならば、他の友人のように勧誘を止めてくれたならば、その友人が企画する同窓会にも参加したいのですが、私の顔を見れば執拗に勧誘をするので参加できませんし、他の友人たちとも疎遠になってしまってます。 今まで「宗教に興味がある」という態度をしていた私の責任でもありますが、20年かかりましたが、「入信しない」という結論が出たので、それで納得して欲しいのです。 20年分の期待感があるので、宗教抜きの友人関係は無理なのでしょうか? その子が中心の他の仲間たちとの関係も含めて、バッサリと縁を切るべきなのでしょうか?
17年連れ添った猫を失い、次の猫も家に来て二ヶ月目に交通事故で失いました。その子はまだ1歳にもなっていませんでした。 なぜあの子達は死ななければならなかったのでしょうか。 なぜ私は失い続けるのでしょうか。 悲しみ以外、涙以外、私は全てを少しずつ失い続けます。 仏様、私はあまりにも愚かです。私には真理を悟ることができません。何もみることができません。 私は死者の出なかった家のカラシの種が欲しい。 あの子が死なずにすむなら、何度でも車の前に飛び出したい。 仏様、私は救済に値しません。もう疲れてしまいました。ただただ疲れてしまいました。
こんばんは。 いつもありがとうございます。 今日はひとつ質問をさせてください。 49日の法要で、新しい位牌に主人の魂をいれていただいたと聞き、 今もこうして、同じ家に一緒にいるのだと考えていました。 昨日、提灯を出しお盆の準備をしながら、ふと思ったのですが、 なぜお盆になるとお墓に主人を迎えにいくのでしょうか。位牌にいるものだと思っていたので、なんだか不思議です。 ちなみに、昨年の新盆は、初めてのお盆は家に帰れない??とかで、お迎えに行きませんでした。 これまたよく考えると不思議です。 位牌やお盆、お墓、遺骨とは、どのような意味合いなのでしょうか。 初歩的な質問で、申し訳ありません。 何となく、気になりだしてしまいました。
いいこと何もなし
祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。