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hasunoha 問答検索結果 : 「 宗教 」
検索結果: 2815件

どうすれば宗派を見つけられるのでしょうか

俺は、仏教からキリスト教に宗教を変えた両親の1番目の子として生まれ、何となくキリスト教(プロテスタント派)で過ごしてきました。(妹が1人います) ですが、俺が小学生の時に母親が牧師に洗脳され始めて、やれる事がだんだんと狭まって来てから「おかしいな」と思い始め、だんだんと「おかしい」から「確信」に変わり、11歳の時に自分からキリスト教を辞めました。 その後、小学校の修学旅行でお寺や神社の魅力に惹かれて、だんだんと「仏教の方が安心して信仰できるかも…」と思いました。 しかし、親には言えませんでした。その後、両親が離婚し、俺は母親に引き取られましたが、「なぜ我が子が教会に行きたがらないのか」を 母親は全然理解してくれず、母親が無理やり教会へ連れて行かされる事は毎回続き、教会までは行くものの、入らないで車で終わるのを待機してご飯だけを食べて帰るというのを繰り返し、母親の行為+教会のイエスに捧げる歌も全てが嫌になって行かなくなりました。 その後、俺が14歳の時に義父(仏教)と母親が再婚しました。 しかし、その数ヶ月後、母親と牧師と牧師夫人、担任から俺が通う高校を無理やり決められてから、本当に頭にきて(将来の事とかもあったので…)キリスト教を本気で切って辞めて、仏教に宗教を変える決断を決めました。 そして、義父に神社へ連れでって貰い、まずは初詣をしに行く事からスタートして、今は今年の一月に京都の色んな神社へ参拝しに行ったりもしました。 そして、最近いい事続きで今に至ります。 ですが、前にお伝えした通り、キリスト教から仏教に変えても俺には宗派がないです。 実の父親からは宗派を教えて貰った事ないです。 義父には宗派は教えて貰いましたがあちら側から縁を切ると言われたので、電話で話したりして聞き出す事は不可能です。 そこで質問したいのですが、どうやって宗派を見つければいいのでしょうか? 小学校ぐらいにある程度は宗派は習ったはずですが、覚えてないです。 回答よろしくお願いします

有り難し有り難し 10
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2024/10/09

あの世について

自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 御先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。

有り難し有り難し 15
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父親のことで家族の喧嘩が絶えません。

私は物心がつかないうちに母親を亡くしてから、父方の祖父母のところに預けられ、父親とは別に暮らすようになり現在に至ります。 父親は現在無職で、仕事を探しており、50歳です。 父親は毎日家に電話をかけてくるのですが、祖母が水子供養をしていなかったり、祖父が祖父や祖父の兄弟が先祖の供養していないから、自分は仕事が見つからないんだと言ってきます。これをほぼ毎日言ってきます。 父親はお坊さんと昔からの知り合いなのですが、そのお坊さんから言われているらしいです。そのお坊さんは、金取り主義ではないらしく、なにかあると父親の電話にかけてくるらしいです。しかし、いくらお題目をやってもまだ足りないといってくるらしいです なので、祖母は毎日お題目を唱えています。 祖母は父親を信じているので、宗教否定派の祖父と必ず父親のことで喧嘩になります。 私も毎日お題目を唱えているのですが、しょっちゅうそんなことを言ってくるので頭が痛いです。信じていないわけではないのですが、父親の全て親が悪い主義にはうんざりしています。 少なくとも祖父は父親に対して、生活費をあげたり、車をかってあげたりなどで何千万とお金をやったりしていたのですが、父親は祖父を不信心といい、罵っています。 これってどちらが正しいのですか。

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自分を好きになるにはどうしたらよいのでしょうか?

初めて質問させて頂きます。 私はどうしても自分を好きになれず 自分に自信が無いです。 中学1年生の時に両親が離婚し 私自身の意思で父のところに残りました。 家族構成は父、父の両親、弟2人です。 私はおばあちゃん子で育ちました。 離婚してから経済的に厳しくなり 父と祖母が喧嘩ばかりするようになりました。 私はそんな2人の喧嘩を見たくなくて いい子でいるように、勉強も頑張りました。 嫌われたくなくて捨てられたくなくて 一生懸命明るく頑張り続けました。 しかし、喧嘩は激しさを増すばかりでした。 祖母は高齢なのにまた、私達を 子供として育てて行くことにストレスを感じてました。 父は全く父親らしくなく 両親に甘えて生きてきていたので 私達を育てることを 重荷に感じていたと思います。 段々と私がうまれてこなければ みんな幸せだっただろうな。 と思うようになりました。 ある日、左腕を剃刀で切りました。 とてもとても痛くて血が流れ落ちました。 こんな自分消えてしまえ。と どんどん自分が嫌いになっていきました。 剃刀で切る傷も増え、切る深さも 深くなっていきました。 気付いたら左手首から二の腕まで 切った痕が線のように並んでいました。 汚い腕です。醜い腕です。 夏でも長袖で過ごしました。 時が経ち成人して仕事を始め 恋人ができ自分のことを ちょっとずつ好きになってきた時 恋人に振られました。 自己評価が低い。ネガティブな発言ばかり。 一緒にいて疲れる。と 私自身、知らず知らずのうちに そんな風に彼に思われていたんだと思い すごく衝撃を受けました。 自傷行為の傷痕も見られてしまい ため息をつかれました。 変わるから別れたくないと言いましたが わがまま言わないで、 人は簡単に変われないから、 君は変われない。 君と付合った事で恋愛がトラウマになった。 と言われ泣く泣く別れました。 今でもふとした瞬間 胸がズキズキと痛みます。 あの日から自分が大嫌いになり、 左腕の傷痕が汚くてたまりません。 こんな自分を好きになるには、 愛してあげるにはどうしたらよいのでしょうか?

有り難し有り難し 29
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喝を入れてください

はじめまして。私事で恐縮ですが、相談させてください。 私の職種は美術系なのですが、自分の中に湧き出る創作意欲や表現欲求が見つからなくなってしまい、困っています。創造を楽しいと感じられなくなってしまいました。創ることが本当に好きなことかもわからくなり、無気力に時間を過ごしてしまいます。 詩や小説、絵を描くことが好きでしたが、大人になってから書けなくなりました。最近の作品は、自分らしさを消し去った、抽象的なものばかりです。自信がないのだと思います。それを受け止めるのがつらく、依存に走り、現実逃避してしまいます。 少し話が逸れてしまいますが、私は子供の頃から、演技、歌、ダンス等、特定の自己表現が、極度に照れ臭くてできません。自我の殻を破りたくて歌を習ったり、ダンスに行ったりもしてみたのですが、あまり変わりません。今の自分の状況に影響していたりするのでしょうか。 どれも、美術、文学とは少し違った形で「今にある」芸術だと思うのですが、それが苦手とはどういう精神の特徴なのかと気になりました。 子供の頃から好きだったことが、本当にありがたいことに仕事になりました。こんなところでへたれていないで全うしたいです。どうか、喝を入れてください。よろしくお願い致します。

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相談に対するご回答に腹が立ちました

以前、こちらでの相談に対する回答の一つに腹が立っておりました。 いま言語化できる気がしたので、怒りをぶつけさせていただけます。 質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/5942 パスタファリアニズムについて、仏教徒の方々に宣教する気はないので、詳細は割愛しますが、私が腹を立てていた、今思い出して腹が立っているのは、次の一文です。 「それだけでパスタファリアンを名乗るのは本家パスタファリアンに失礼」です。 私は、信徒であることの証明書を持っております。 ちなみに、通販で、当時40ドル程度で購入しました。 重要なのは、パスタファリアニズム(空飛ぶスパゲッティ・モンスター教)は、宗教に対するパロディであること、つまり、信仰そのものがパロディであるべきだということです。 パロディとは風刺です、風刺とはつまり批判のことです。 上記で、頂いたご回答にいかに怒りを抱いているかわかると思います。 私は預言者が一人の宗教が大嫌いです。 なぜなら、その最初の一人の考えに引っ張られるからです。 以下何人弟子がいようと、何世代続こうと、その最初の一人の考えが根幹(root)として存在するからです。 だから私は仏教徒になりたくないのです。 そんな奴らの一員にされたくないからです。 失礼なことを申し上げているのは存じていますが、この怒りは紛れもなく事実です。 だから、私は死後戒名は「絶対に」つけてほしくないし、できれば葬式も上げてほしくありません。 なぜここに相談したのかというと、日本人なら否応なしに仏教形式の葬式を挙げられ、否応なしに戒名がつけられるからです。 私の意志とは関係なく。 だから、仏教徒の方にクレームを付けたくなったのです。 そして、そのシステムを作り上げているあなた方に、回避方法を聞きに来ました。 怒りが言語化できてとても満足していますし、申し訳ない気持ちも同時にあります。 ですが、あえて怒りをぶつけさせていただきました。 十数年ぶりに、怒りという感覚を思い出せましたので、とても満足しています。 怒りを感じていなかったのは、人に期待をしていなかったからです。 なぜなら、私はちょっと人とは違う考え方をするようですので、意見が合うことが少ないようでしたので。 ありがとうございました。 失礼いたしました。

有り難し有り難し 21
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将来お寺を継ぐ彼氏

ご覧頂き有難う御座います。 似たような質問があるかもしれませんが、私の方からもご質問させてください。 私は一般家庭家庭で育ち、両親も宗教事には無関心です。その為、言葉や表現におかしな記載もあるかと思いますがご了承願います。 サラリーマンの彼氏と結婚を視野にいれたお付き合いをしているのですが、将来実家のお寺を継ぐようです。 いつごろなのかわかりませんが、いずれはそちらの学校に通うことになるとのこと。 また、会話の中で「檀家さんが」と口にしていたので、「檀家さん」というものではないようです。宗派については、教科書にも載っている歴史ある宗派だと聞きました。 ご実家の話はよくしてくれるのですが、私の年齢(彼とは15歳差です)や結婚願望がなかったことなどを気にしているようであまり具体的な話にはなりません。 お寺のお仕事とはどのようなもので、どんな生活になるのか。 (彼には離婚歴があり、現在は持ち家での生活。12歳の女の子14歳の男の子がいる為後継の心配はひとまずないようです。) 彼も修行をすることになるのか。もしするのであればどれくらいの期間なのか。 私は何をすればよいのかなど、聞きたいことが山ほどあります。 お寺によって様々でしょうし、彼も教えてくれると思うのですが、どこまで踏み込んでよいのかわかりません。 まずはこちらで、お坊さんのお仕事や生活について少しでも教えていただけないでしょうか。 また、近場のお寺に行き、住職さんに直接お話をお伺いすることは可能ですか? 話も纏まらず、読みにくい文章ですが、お教えいただけましたら幸いです。

有り難し有り難し 22
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2023/01/21

神仏の経済的な消費について

お尋ねして良いものか悩みましたが、本職の方のご意見をお聞かせ願いたいと思い投稿しました。 お寺や神社への関心が経済的に消費されていることがどうしても受け入れられません。 とても嫌な言い方になってしまいますが、 パワースポットだ何だと聖域を土足で踏み荒らし、信仰するつもりもないのにその恩恵だけは受けたい利己的な人々。 スタンプラリーのように自己の収集欲を満たすためだけに御朱印を集めてまわる人々。 過度に美化された歴史上の人物や神々のキャラクター化。 大河ドラマなどに代表されるような、経済効果ばかりに目が眩む自治体や企業。 大多数の人はそんな事気にしないでしょう。これは私の認識の問題であって、自分が一方的なものの捉え方をしている事は理解しています。 でも、歴史って、信仰って、人の生きた証って、そんなふうに扱って良いものなのでしょうか。まるで見世物の様に経済的に消費されている様に感じてしまいます。 需要があるから供給されているという事はわかります。お寺や神社に多くの人に来てもらえるように所有する文化財や偉人との関わりを宣伝、アピールしていらっしゃる事も重々承知しております。拝観料などは支払って当然とも思っています。 そう言った事ではなく、自己の欲望のために喧伝・消費するような行動に、嫌悪感を覚えるのです。 法隆寺に参拝した際、夢殿にてご老人が何やら怒鳴っていました。 「救世観音が見られないとはどういう事だ!その為にカネを払ってるんだぞ!カネ返せ!」と。 何処かの檀家さんなのでしょうか、そのご老人は輪袈裟のような物を身につけていました。ある程度日本のお寺に詳しければ、救世観音像が秘仏である事は知っている筈です。知らずとも、金を返せと怒鳴り散らすなど言語道断です。 この時感じた猛烈な嫌悪感が、ずっと心に刺さっています。 このご老人を責めたいわけではありません。ただ、大げさとは思いますが、この出来事が信仰のある人にとって神聖なものや、歴史的価値のある物に対する、今の日本人の扱いの縮図に思えてなりません。 繰り返しになりますが、これは私の認識の問題です。苦しみの発生源は私自身の心です。いわゆる"無宗教"の一個人の考え程度に受け取って頂いて構いません。 誰も悪くありません。誰も間違っていません。ただどうしてもやるせなく、哀しいのです。自身の狭量に恥じ入るばかりです。

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母と祖父母へのお参りについてケンカしました

母とケンカしました。 ケンカが起きた原因は別ですが、その時に私が祖父母の位牌をおいているお仏壇へのお参りを渋ることを話に持ち出されました。 私はほとんど無宗教と言っていいほど神も仏も信仰はしていません。 母は私よりは信じているようです。 私がお参りを渋るのは、信仰していない自分があたかもそこに誰かいるかのように手を合わせる事に居心地の悪さや気持ち悪さを感じてしまうからです。 ケンカの際母にお参りを渋るなんて祖父母を蔑ろにしていると言われました。 私は蔑ろにしているつもりはなく信じられなく気持ち悪くなるからで、日頃から想っているのではダメなのか、手だけ合わせてれば満足なのかと聞きました。 母はそれは祖父母が生前望んだことであるから、その恩恵を受けている身としてはその願いを叶えるのがつとめだと思うからと言われました。 正直正論だと思います。でもお墓参りもお参りもいざやろうとするともやもやしてどうしてもやりたくなくなってしまいます。 やったほうが円滑に物事が進むのは分かっているし、外では取り繕えます。 でも家の中だと甘えが出てしまうのか、お参りしてきてと言われるとイライラしてしまいます。 もうどうしたらいいのかわかりません。何を優先したら良いのでしょう。どうしたらお互いに納得できるでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 46
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2022/11/08

宗派が違うとあの世でも別れ別れ?

仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で  かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?

有り難し有り難し 29
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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 38
回答数回答 3