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問答一覧
検索結果: 396件

宗教や宗派ってそんなに重要ですか?

宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?

有り難し有り難し 61
回答数回答 5
2023/10/26

元妻を深く傷付けて辛いです。

元妻と離婚して6年半になります。結婚を決めたのは、キリスト教の導き、を信じたからでした。勿論彼女が立派な人だと言う前提があったからこそですが、、人の出会いは導き、と信じ込んでしまい、彼女が私の結婚相手として、神が私の前に遣わされた人という様に信じてしまいました。でも本当に不幸な事に彼女は私のタイプの方では無かった。結婚時に、宗教の世界から現実に立ち返り深く後悔しましたが、どうにも出来ず。一年程結婚生活をしましたが、苦しさが募りました。自分を偽っていたからです。彼女に別れを切り出しましたが、号泣されて私の胸は引き裂かれました。別れたくないという彼女を心を鬼にして吹っ切ったのですが、、彼女の愛情を裏切り、背を向けて、深く傷付けた事が本当に辛いです。こんなに深く人を傷付けた事はありません。悔いていますが彼女が癒される訳でもなく、私の苦しみが軽くなる訳でもなく、、苦しいです。神の導きによって、この様な事が起きている、と考える事も辛さに拍車をかけていると思います。神も信じられなくなってしまいました涙。 どうしたらいいのかなぁ、、疲れました、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1
2022/11/06

信者の質

 いつもお世話になっております。昨日、キリスト教の教えを騙る、 危険な宗教団体の構成員が近所をうろついて勧誘活動をしていた のを、追い払いました。近所には友人知人が住んでおり、友人に 関しては、最近になり、宗教に興味を持ち始めました。  私は、今回の安倍元首相射殺事件を受け、改めて、「宗教とは なんだろう」と思うようになり、また、昨日の一件(連中は 私の住んでいる地区を縄張りにして、昔から勧誘活動をやって いたので、今今始まったことではないのですが)を受け、恐ろしい まやかしを語って人々を貶める輩から、自分や身近な人を守り たい、そのためには、正しい教えを身に着ける必要があると 思い立ち、教会のお説教を聞きに行ってみました。  お忙しい中、お説教の後、牧師さんが時間を取ってくださり、 私の疑問に答えてくださいました。  そこで、キリスト教と、私の宗派、浄土宗の共通点を見つけ ました。  キリスト教では、 「私たちは、常に罪を作りながら生きている。本来なら処される べきは私たちなのだが、キリスト様が、私たちの罪を肩代わりして 磔になってくれ、神となって私たちを許し、救ってくれる。私たちは、 罪を重ねつつも、そのみ恵みに報い、許してくださるからこそ、 誠実に生きねばならない」  浄土宗でも、 「我々は、罪深き暗愚の凡夫である。戒律も守れない。しかし、 阿弥陀様が戒律や修行を代わりにこなしてくださっていて、 お念仏をすれば、許して救ってくれる。許してくれるからこそ、 誠実に生きねばならない」 と教わりました。  しかし、私は気になりました。 「似たようなありがたい教えを説いているのに、信者さんの 質が全然違う」  クリスチャンの皆様は、とても謙虚です。しかし、以前通って いた浄土宗の大寺の説教会に来ていた人たち(お坊さんまでも…) は、とても傲慢でした。 「念仏しない奴は、地獄に落ちる」 「念仏してても、他の仏や神を拝んだら、阿弥陀様に見放される」 と平然と抜かしました。  牧師さんや教会の皆様は、 「実は私は仏教徒なのですが…」 と言っても、嫌な顔をしませんでした。目指す所は違っても、 この世でするべき事は同じ、と言うと、喜んでくださいました。 「通じるところが、ありますものね」 と…  この差は、何だと思われますか?先生方のご高見、 拝聴したく存じます。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

自分に合う仏教の宗派

 生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。  大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。  キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。  そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。  私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。  伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。

有り難し有り難し 166
回答数回答 6

自分の信じる『神』や『仏』が何者かわかりません

はじめまして。 うまくお話しできるか、わからないのですが… ここ最近、自分の思想がどこにあるのかわからず、お話を聞いていただきたいと思い、投稿させていただきました。 まず、私は特に、何教徒である、ですとか、特定の宗教には属しておりません。 ただ、色々と自身の考えと当てはまるものを探すなかで、最も共感できるのが仏教でしたので、こちらにおります。 私は漠然と、神様が存在していると思っています。 神が人間を作ったと思っています。 しかし、それは聖書にあるような、直接的に人間を作り出すようなものというよりは、 人が一冊の本を作り上げるようなものだと思っています。 『神』が、この世界を作り上げ、そのなかで『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といった… 語弊を恐れずに申し上げるならば、『地球というなかの物語の設定としての宗教』を作り上げているのではないか、と思ってしまうのです。 そうした、なんでもできてしまう神のような、宇宙の外にある大きな力が、私は怖くてたまりません。 あまりに苦しいとき、そうした『神』が、私に何かバチを与えているのではないか、とさえ感じます。 しかし一方で、仏教の『因果応報』という教えを知ったとき、どこか救われるような感覚がありました。 私が苦しんだり、喜んだりするのは、宇宙の外にある神のせいではなく、自分自身の行いの結果なのだ、と。 それから、少しずつ仏教について調べ始めていますが、やはり何か神様のようなものの存在は、否定できずにいます。 そもそも、誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば、キリスト教の神も、イスラム教の神も、はたまた新興宗教の神であっても、存在していると思うし、それを否定したくないのです。 自分の信じるもののために、誰かが信じるものを否定したくありませんし、ないものにしたくありません。 一方で、どこか神様のようなものに怯えている自分がいますし、こんな自分が仏教の教えに惹かれることは、それこそバチが当たるのではないかと思います。 うまくお話しできたかわかりませんが、心のもちようがわからず、難しく感じております。 なにかアドバイスなどありましたら、ぜひ教えてください。

有り難し有り難し 69
回答数回答 4

信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 34
回答数回答 3
2023/12/26

阿弥陀如来の存在を確信できません

浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

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