こんにちは。 前回質問で、輪廻思想がどうも腑に落ちない、と主張した者です。 ただ、輪廻に限らず、事物が「ある」とも「無い」とも断定するのは中道の教えに反すると感じるので、輪廻思想の側からも質問させてください。 輪廻転生があるなら、私は六道あらゆる世界を見て、生きて来た事になりますよね。何しろ仏教の宇宙観は無数劫の時間スケールで成り立ってるのですから。 また、私は、いわゆる地球外生命というものも、必ずどこかの惑星で誕生し生を営んでいると信じています。 そうなると、私の魂(?)は天上界のめくるめく壮麗な世界も体験して来たし、地獄の底の恐ろしい責め苦も受けて来た事になりますよね? また想像を絶するような異星の光景も目の当たりにしてきたのではないでしょうか? 輪廻転生が教えているものって、 「そういう一切合切の有情は、別個に生きているのでなく、過去、現在通して、物質から魂のレベルまで、密接に繋がって生きてるんや。天人も地獄の衆生も、あらゆる命も決して他人事じゃおまへんで。なにせアンタがそれ自身だったんだからな。」 と言っているようにも思えるんです。なぜか関西弁ですが。 そういう所から、いわゆる慈悲って生まれるのでは無いでしょうか? 生前や死後を無記とするのは「智慧」ですが、また輪廻をわが事として受け止めるのは「慈悲」の根源なのかな?とも思います。 この2つの考えは矛盾するものではないとも、私には思えます。 お坊様方は輪廻と言うものをどのように受け止めてるのか、気になったので再び質問させて頂きます。 お考えを聞かせて頂ければ嬉しいです。
付き合って1年と少しになる彼氏がいます 1年経った今も変わらず彼のことが好きなんだと思います。 なんだと思います=別れを考えてしまっている原因があります。 彼は、いわゆるスピリチュアルに熱心に傾倒しています。私と付き合う数年前からそれを信じていてそれで自分は生きやすくなった。魂の傷が軽くなった。という経験があるそうです。 私は幼少期の頃から辛い経験をたくさんしてきたと思っています。 彼もそういう思いがあり、そういったものと出会って学んで乗り越えたからもっと成長したいと思って今も続けているのであれば、世間には偏見を持たれやすいものですが、 私としては肯定も否定もせず、そうだったんだね。そういう知識もあるんだねと言う会話をして受け入れてきました。 しかし、前提として私は幼少期の父親との死別のトラウマなど、心の傷が多く、苦しみが沢山あった中で熱心に信じれば救われる。神様だとか、宇宙だとか、波動だとか、守護霊だとか、そういったものに手を差し伸べてもらった経験もないし それを信じて救われるならばこんな思いはしてないはずだ。簡単だったじゃないかと思ってしまいます。 そういったものには頼らず、乗り切りたいと思ってしまうのです。自分の悪い癖だとも思っています。 そのくせに人から見放されたり人から嫌われたり一人ぼっちになるのは嫌なのです。 彼とはお互いにいろんなことを共有したり、気づかせ合って生きていけると思っていましたが、最近は彼の言動が受け入れられないことが多くなってきました 私が悲しい、不安だ、といったことを話しても全てそのスピリチュアル関連のことに絡められてしまいます。 彼にとっては、私を良くしたいとスピリチュアルな目線で私に話をしてくれているのですが、私は彼本人と向き合いたいし、彼本人の言葉で対話がしたいのにうまくいかないなと思うことばかりです。 苦しいです。 だけど、彼からすると私のためだと思ってやっていることなのに拒否してしまってもいいのか。私自身も変わりたいと思っていることがあるのに、彼と別れることで逃げてしまって、結局根本的には解決しないのではないかなどと日々葛藤しています。 私は彼のことが好きだと言う気持ちがあるならばまだ対話を続けてみてもいいと思います。ただ苦しみが生まれているのは事実です。毎日苦しくご相談させていただきました。乱文申し訳ございません。
こんにちは。 先日大学を中退しました。 辞めることについて1年間1人で考え続け、結果中退しました。 今思えば早くに親に相談をすれば良かったと思いますし、ひとりよがりになっていて、親に相談するという当たり前のことができませんでした。 中退を考えていた1年間は大学に行くことができず学費を無駄にしてしまいました。また、その1年は趣味に没頭しバイト代も注ぎ込んでしまって貯金もしていませんでした。 今は専門学校へ行こうと考えていますが、頭の中ではもっと早く親に相談しておけば学費も専門学校に回せたし早くに入学ができたのにとかわたしはなんでお金の無駄遣いばかりしたのだなど後悔ばかりです。 親は自分の親(わたしの祖父)から「お前の育て方が悪い」と怒られてしまったと言っていました。 どうしてこんなに出来が悪いのだろうと思います。 周囲の人と比べて劣っている気がしてなりません。 そういった気持ちのせいで自信がなく、世渡りがうまくありません。 あと、大学を辞めた際、親から「馴染めなかったんだね」と図星をつかれ少し腹立たしくなりましたが結局本当にそうで、これからもわたしはどこに行っても馴染めないのではないかと不安で仕方ありません。 話せる人がいないためこのような場があって良かったです。
50代後半の父母が認知症や病気になるのがとても恐ろしいです。 実際父母にそういった症状がでているわけではないのですが、 もし認知症になってしまったら…と考えると何もできなくなってしまい、その考えが頭から離れなくなってしまいます。 おそらく、認知症になって私や家族の事がわからなくなってしまうのが怖いのだと思うし、介護が出来る自信が全くありません。 親にこの不安を話して、気分を悪くさせてしまいました。 誰にもわからない将来の事を不安に思って、自分でもバカバカしいし、この歳になって何をやっているんだと呆れを感じています。 でも、どうしても不安で仕方がなく困っています。 どうか不安を軽減させるお力を貸していただけないでしょうか。
お世話になります。 少し前に長女が亡くなったことでご相談させていただきました。お言葉をいただきありがとうございました。妻と次女の為に頑張って行こうと思うことが出来ました。長女のことも姿はありませんが、存在と思いを感じ共に生きていこうと思います。 ただ長女のことでわからないことがあります。 長女は難病で闘病して亡くなったのですが、なぜ病気になったのでしょうか。長女の病気は小児に対して10万人に1人か2人と言われるような病気で原因もわからない病気です。しかも現在の治療では延命目的と言えるような治療しかありません。診断と同時に余命宣告されます。 これは運命、寿命といったことなのでしょうか。長女が誕生した時からの宿命なのでしょうか。6歳という短い人生の中で、何を伝えたかったのでしょうか。なぜ、このような人生が長女に与えられたのでしょうか。長女は私達を両親に選んで後悔していないでしょうか。長女のことを思い考えると、必ずこの疑問が出てきます。
最近、祖母に「早く死んでほしい」と感じてしまうのですが、やはりこれは悪いことでしょうか。 祖母はとてもプライドの高い人で結構家柄や学歴、職業(公務員や大企業など)を気にします。しかし孫の私にはそんなことはなく純粋に孫として可愛がってくれていたようにも思います。ところが、私が運良くちょっと良い大学に合格してから、どうもその期待が孫に向けるものではなく、かつて祖母の息子たちに向けていたものへと変化しつつあるのではないかと感じます。 私自身、将来は大学院に進学して研究の道に進みたいのですが、そうすると祖母が考える“立派な”将来(官僚や公務員など)にはなれず、生活的にも苦労することが多いと予想してます。 先逝く者のために自分の人生を決めさせたくない、でも祖母には最期にいい思いをして死んでほしい。最近では、私が就職する前に祖母が死んでくれれば、祖母も期待を裏切られることもないし私も自身の道を歩むのに後ろ髪引かれることはないと感じてしまいます。 祖父母には“素直な”孫として通っているので、このことを正直に祖母に伝えれば、ショックでそのまま失意のうちに死んでいってしまうかもしれません。かといってこのまま期待に応えられず、祖母が不満を少しでも漏らせば両親は激怒して祖母と絶縁すると思います。祖母は友人付き合いが悪く、祖父や叔母とも非常に仲が悪いのに、自分の息子(私の父)にさえ縁を切られたら、それもまた失意のうちに死んでゆくと思います。 最期はいい思いして死んでほしいけど、自分の人生には干渉されたくない。このジレンマにどう立ち向かえば良いのでしょうか。
地方の小さな寺で生まれ、寺だけでは住職の生活できない為に祖父の代から保育園を経営しています。 寺の為に保育園の給与から私費を投じていますが、半数以上の檀家さん(現在存命の方)からは「当然だ」という態度をとられて育ってきました。 現在伽藍の修復を計画していますが、法人が赤字であることを理解していただけなく、「何年も葬式や法事で布施を払ってきたんだからそこから出して、足りない分を住職一家が出せば良い」という意見が非常に多い為、伽藍の再建は難しそうです。 地方の過疎地域に建っている為、実際のところは保育園の閉園も視野に入れなければならなくなってきており、これ以上の私費投入はできないことを伝えて閉園と同時に一族が寺から出ていくことを真剣に考えています。 「寺に生まれたのだから寺を継げ」という方もいらっしゃいますが、檀家による再建ができない寺を息子に継がせたくはありませんし、私個人が信心して転居先で信者として、もしくはフリーランスの兼業僧侶として生きて行けば良いと思っています。 人生のうち数年間を修行という期間で過ごしたにしては、杜撰な自分と、求められる理不尽さに耐えられません。 ・修行、信心が足りない ・心構えが間違っている ・自分の生活を犠牲にしてでも寺に尽くすべき ・檀家さんのことを考えろ 等、耳障りの良い綺麗なことはいくらでも思いつきますが、僧侶であっても生き物であり人間です。 元々経済的な土台が崩れており、悪化しか見込めない地域の寺を、私が寺以外から得た収入でもって維持する必要はあるのでしょうか? 妻と二人で得る年収であれば、一般的な家庭として家を建てて暮らせる程度と思いますが、それを寺の会計に寄付し、息子に「檀家さんに住ませてもらっている」と言い聞かせて貧乏な暮らしをさせなければいけませんか?
付き合って半年以上の彼氏がいます。 私は、母親とトラブルがあって以来、家族とは疎遠になっています。 頼れる人がいない中、同い年の彼氏は、私のことを父親のように可愛がったり、とても支えてくれています。 将来のことなど、たまに話したり、幸せな未来を想像します。 そのとき、私は、人生の終わりの死まで考え始め、もし、ある朝、大切な彼氏がどんなに起こしても目覚めなくなったらどうしようと、不安と悲しさでいっぱいになりました。 大好きで大切な、家族のような彼氏が私より早く亡くなったら、もう笑いかけてくれないし、話をきいてくれたり、ハグしてくれなくなると思うと涙がとまりません。 人はいつか亡くなりますし、人生の長さも決めれません。 分かった上で、彼氏より先に私が天国に行ければとも考えたのですが、逆に彼氏が悲しむと思います。 絶対に死んでほしくなくて、私がいつも歩道側を歩きます。 ですが、考えつくのは、こうなったらどうしようという、悪い想像ばかりです。 もし、彼氏が先に亡くなったら、私は、この世界で生きていけないと思います。 それだけ、彼は、なくてはならない存在になっています。 今までいろいろ乗り越えてきましたが、彼の死は乗り越えられないと思います。 私の方が先に亡くなる可能性もあるのですが、彼の死に対して、気持ちを落ち着けようとしても、人生経験と、思考が足りず、どうすればいいかわかりません。 どうしたら、この不安な気持ちを落ち着けられますか。
これまで何かあると祖父に相談にのってもらっていましたが、今は出来ず、おじいちゃんならなんて言うかな、と想像はしても答えは出ず…誰にも相談できなくてこちらで話を聞いてもらいたいです。 会社の付き合いで飲み会に参加した夫が先月、今月と(その前にも1度)朝帰り。朝、子どもと食事してたり、出かける朝の準備をしていると帰ってくるのです。 会社での付き合いとはいえ、終電に乗れず、泊まって帰ってくるって普通の事なのでしょうか? 普段は仕事が終われば、帰ってきますが… 数回のことは目を瞑るべきですか? 私は、朝帰りは子どもにも見せるべき姿ではないと思っています。 その事を伝えると、分かったとは言いますが、結局自分がなんでこんな言われないといけないんだ、とものを投げたりします。 物を投げたりするのはやめてと、冷静に伝えました。 接待や、付き合いで行きたくなくても仕方ないのに、こんなふうに言われて…という感じで、逆ギレのような感じです。 ちなみに飲み会がダメとは言ってません。 私の伝え方が悪いのでしょうか。 こういう答えが返ってくるだろうことは、想像してましたし、想定内でした。 どうすればいいのでしょうか。 心の持ち方や、どうすればよかったか、などお声をいただけると助かります。 正直私も働いていて、疲れています。
最近彼氏にどう接したらいいのかわかりません。 彼氏はお坊さんの修行中で、遠距離2年目です。二、三ヶ月に一回くらい私から会いに行く関係が続き、婚約的なことまでしました。 先月の私の誕生日に会いに行く予定で、クリスマスと1日しか違わないので誕生日のお祝いも楽しみにしていました。 しかし、1日前に電話が来て、彼の祖父が危篤だと連絡があり、会うのを取りやめました。私の誕生日当日も、彼から電話があって慰めて欲しい的な内容でした。 とても自分勝手で最低ですが、わたしはこのことがあってから彼氏が少し好きではなくなりました。 会ってくれなかったことがショックなのではもちろんなくて、本当に気持ちの整理がつかないので理由がはっきりわかるわけではないんですが、、、、 その後もお正月は法事やらお寺のイベントやらで、何の連絡もなく、寂しいのに連絡も声も聴かせてくれない彼氏ならいらないとおもうようになってしまいました。 久しぶりに電話しても、仏教のことばかりでなんだか思想を聞かされているような気がして、彼氏と喋っている気がしません。 遠距離が始まる前に、いまは我慢して欲しい、そうしたら絶対幸せにすると言われたので今まで我慢しましたが、果たして住職になった暁に私のこの寂しさを埋めてくれるのか不安になってきました。 私がまだ未熟だから、未来の幸せより今の幸せを優先してしまうのは自覚していますが、私の時間も有限です。 婚約までしていますが、どう気持ちの整理をつけたらいいかわかりません。 まだ少し好きなので、なんとか前に戻りたいです。どうしたらいいのでしょうか。 長々とすみません。
私が小学生くらいだったと思います まだ小さかった頃 昔、飼っていた犬の夢を見ます 犬は、いつも暗い小屋にいました 小屋から出すと喜んで飛びはねる姿は、今でも印象的です 私は祖父・祖母の暮らす実家に住んでいました 母や他の大人は仕事で家にいなくて 祖母の手伝いで小屋の掃除や犬を洗ったりしました でも犬を小屋から出すのは、大人がいないとダメで 一人で散歩に行った記憶はなくて たぶん自分の判断では出来なかったのだと今は思います そんな犬のことを、大人になった今 こんな何十年も経ってから思い出します もっと小屋から出してあげられたら良かったな・・ もっと可愛がってあげられたら良かったな・・と後悔ばかりです ずっと頻繁には出さない暗い小屋に閉じ込めておいた家で育って 犬は幸せだったのか?と、犬の気持ちを思うと可哀想で涙が出ます 犬が亡くなった時は、姿を見るのが怖い気持ちが強くて 祖母が看取って、それが最後でした 特に供養などもなく、時々ふと夢で見て、こうして夜中に起きるのです なにか犬は言いたいのでしょうか? 私に何かしてあげられることがあるならしてあげたいと思いますし 自分も苦しみから解放されたいのですが、どうしたらよいのでしょうか?
以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。
私の祖母の話になります。 今から10年前にお風呂場で転倒し足が不自由になり 最初は祖母も自分で頑張っていたのですが日々の生活に支障が出て難しい性格の祖母は私の母や祖父に頼みたくない。孫の私に頼みたいとの事でした。 私も祖母が大好きだったので仕事も夜勤に変更したりして朝から夕方まで毎日買い物や愚痴を聞いたり持病もあったので必ず通院には一緒に行きましたが去年の6月に持病であった心臓病で突然亡くなりました。誰にも何も言わず1人で病室で逝ってしまいました。 入院の日また明日来るね。待ってるよが最後の会話でした 入院する前年に手術をすれば助かるかもと医師にいわれ説得したのですが頑固にしたくないと言われその時諦めた自分も責めてしまってます。 葬儀も無事に済み周りからは良くやった、楽になった等言われましたが自分でも楽になったのかなと思った時期もありました。 でも祖母が亡くなって3か月後にはうつ病、パニック障害、社会不安と病にかかり外出や電車にも乗れなくなり現在に至ります。 毎日祖母のことを思い出しては誰にも分からない様似涙がこぼれ つい会いたいや後悔、今どうしたら良いか祖母に聞いて見たくなりますがそう思ったりすると祖母は振り返り振り返りでさまよってしまうのではないのかなと思ってしまいます。祖母の死をきちっと認めなければいけないのでしょうか。
初めまして、質問させていたただきます。 つい先日、祖母が急逝しました。浴槽で孤独死していた所をデイサービスの方が通報して発見してくださったようです。 祖母は身体は強い方ではなく、生活習慣病等もありましたが、死の当日の数時間前の電話の様子では元気そうだったらしく、午前中には運動に行ったりしていたそうです。 実は、祖母の死の前日に、私は自転車で「ポケモンGO」をやっている最中、原木山妙行寺という日蓮宗の寺の山門の前まで立ち寄り、特に参拝や敬う等もせず、そそくさと帰ってしまったのですが、祖母は浄土宗なので、こちらの寺からお怒りを受け代わりに祖母が巻き込まれて亡くなってしまったのではないかと考えてしまいます。ご意見お願いします。 それともう1つ、実は私の家系は代々、死ぬ間際の行動に特徴があり、亡くなっている祖父も、死の一週間ほど前に久しぶりに故郷に帰り、普段は合わない親戚一同に挨拶をしてから帰り、その後突然死しており、祖母も死亡した日の前日に、久しぶりに祖母の弟と電話で話をした、ということを話していたり、死の数日前から遺産の整理をしようとしていたりといった行動をしていたそうです。 これらの行動は死期を悟っていたという解釈をして良いのでしょうか。また、突然の死でまだ心の整理が付かないのですが、どのような心持ちで葬儀に出れば良いのでしょうか。 質問が多くなってしまい申し訳ございません。よろしくお願いします。
はじめまして。今、本当に心が苦しくて頼れる人もいないのでここで相談させて頂きたく思っています。 私は、今23歳で6人家族の長男です。家族構成としては、父、母に妹が3人です。去年の11月に大好きな祖父が亡くなり正直なところまだ立ち直れずにいます。 そんな中、昨日父が自死で息を引き取りました。普段物静かな父は、自分のことは何も話さない性格で仕事のことも一切家では話さない人でした。話しかけると嬉しそうに話すのですが。 しかし、3年前から仕事がうまくいかないことを話していておれが死ねばお金が入るからおれは死んだほうがいいと言うようになっていました。当然私は怒り、死んだら許さないと言いました。 そして昨日父が首をつっていてすぐに119番通報で救急車を呼びましたが間に合いませんでした。普段からコミュニケーションをとっていなくて寂しい思いをさせてしまいまったと思っています。仕事のことなど1人で抱え込ませてしまいました。長男である私としては後悔と悲しみで心が壊れそうです。もっと普段から仕事のことなど話しかければよかったんじゃないか。もっと甘えればよかったんじゃないか。という後悔に押しつぶされそうです。私たち家族のために保険金などのために死を選んだと思うと死にたくなるほどの思いになってしまいます。 父は本当に安らかになれるのでしょうか。心が苦しくて本当に辛いです。
こんにちは。私には中学生1年生の甥っ子がいます。先日、甥から戦国時代や戦争について質問されました。その質問内容について私は考えたことが全くなかったので、上手く回答できませんでした。 今回は、その甥の疑問を質問をさせていただきます。稚拙な内容かもしれませんが宜しくお願いします。 ある番組で戦国武将ランキングをやってました。予想通り織田信長が1位でした。 私も信長が好きです。理由を語り出したら長くなるので割愛します。その反面、信長の残虐性は有名で、自身の野望のためなら邪魔者を殺害し、村を焼き払ったり身内を殺めたりする人物です。そんな冷酷な人物なのに魅力的に見えるのです。 信長に限らず秀吉も家康も、信長ほどではないにしても酷いことをやっていました。 正直、私も歴史は好きで武将達の生き様から学ぶところが沢山あり尊敬するところもあります。しかし冷静に考えてみると、そんな武将達がヒーローとして祭り上げられていることに少し違和感を持ちました。 あのアドルフ・ヒトラーと規模は違えど大量に人を殺害してる点では同じです。 戦争の悲惨さは、子供の頃に学校や祖父からよく聞かされました。NHKで戦争のドキュメンタリー番組を観るたび人命の軽視、人間の愚かさに胸が苦しくなります。 なぜ戦国武将は美化されるものなのでしょうか?戦争と戦国時代の違いはなんでしょうか?比べることが間違いかもしれません(ーー;)坊様の見解が知りたくてお尋ねしました。
いつも拝見させて頂いております。 中には自分の身に沁みる回答もあり、為になっております。ありがとうございます。 今回、初めて質問をさせてください。 先月父親が亡くなりました。 不思議な事に、父親の姉もその1週間後に後を追うように亡くなりました。 2人共に末期癌だった事もありますが、こんなにタイミングよく一緒に旅立つものなのでしょうか。 父親が同じ苦しみにある姉を優しさから連れて行ったのでしょうか。 また、偶然かもしれませんが私自身も、父親が倒れる数日前から連続して何故かパチッと明け方に目が覚め(普段は寝坊する方です)疲れてるのかな?等と考えていたら、父親が倒れたと連絡が入り、1ヶ月後に父親は亡くなりました。あれは虫の知らせだったのか?と思いました。 他にも昔祖父が亡くなった1週間後に、甥が産まれたりしました。 生まれ変わりとまでは思わないですが、その時も何かしらの縁のような物を考えました。 霊感も何も無い私ですが、このような目に見えない生死に関わる縁は有り得るのでしょうか。あるのであれば、世の中には悲しい事に虐待されてしまう子供も何かの縁でその親元に行き着いているのでしょうか。それとも、生まれるのも死ぬのも全てただの偶然で意味などないのでしょうか。 仏教の教えをご教示頂けたらと思います。
私は、夫婦ともども地方都市より都心に出てきて居を構え、菩提寺も信徒としてお世話になっているお寺もありません。 夫の実家は新興宗教信者の曽祖父から独立してできた無宗教の一家で、私の実家も引っ越しの際に墓じまいをしてお寺との関わりがないような状況です。 私の父方と母方の祖父母は浄土真宗と日蓮宗の檀家だったと思いますが、信心深い祖父母の家にいることが多かった私は、仏壇に手を合わせ読経して育ち、結婚して家に入る時には婚家の信仰するお寺のお勤めをするものだと思っていました。 ところが、夫の家が無宗教と聞いて愕然とし、結婚後、数年は我慢してきたのですが…最近になって自分の信仰の場を持ちたいと強く思うようになりました。 上記のことから、これから先、一生の信仰として信徒になり、励めるお寺を探しています。 ところが、コロナ禍になってからというもの、門が開いていてもお掃除の方しかおられないお寺も多く、法話会や写経会が中止となっているところも多々あって、僧侶のお人柄などに触れる機会が少なくなっている気がします。 このような中で自分に合った信仰の場を探すにはどうしたら良いでしょうか。 なお、宗派は浄土真宗、日蓮宗だけに絞ろうとは考えておりません。 住まいの近くには曹洞宗や日蓮宗が多いようですが、隣の区あたりまで範囲を広げて探すつもりでおります。 また、コロナ禍で外出が難しかった折にさまざまな宗派の教義や勤行等調べてみたのですが、どれもとても素晴らしく感じ、なお迷いが深くなってしまい困っています…。
いつもお世話になります。今回もご相談させてください。 高校生のときから気になり始めたことがあります。失敗をしたりして、人に謝ったりする時なのですが、へらへらしながら、笑顔をうかべながら謝ってしまうクセがあります。 高校を卒業して就職したとき、これが原因で「へらへらするんじゃない」「笑い事じゃない」「なんで失敗したのに笑ってるんだ」と怒られることが多かったです。そのクセを何度も繰り返すうちに会社に居づらくなり退職、転職を繰り返していました。今、務めている会社でも同じことを繰り返しています。 やらないように心がけているのですが、失敗したり、怒られたりすると反射的にへらへらしてしまうのです。自分自身が反射的に失敗をごまかそうとしているように思えます。 心当たりがあるのですが、これは私の過去のトラウマが原因になっているのではないかと思います。 私は祖母や母から家庭内暴力を受けてきました。彼女らの機嫌が悪いときや思いどうりにならないときに殴られたり、髪を引っ張っられたり、物を投げつけられたり、川に突き落とされたり、酷い暴言を吐かれたり等されてきました。一回だけですが、祖父の暴力の記憶もあります。祖母達と同じで自分の思い通りにいかなかった時に私を殴ったり蹴ったりした事がありました。 そのため、失敗を繰り返す度に「もう怒られたくない」という感情が顔にでてしまっているのではないかと思います。 他にも色々ありますが、もうこれ以上自分自身を責め続けるのはつらいです。でも、このクセを矯正するのにどうしたらいいのかわかりません。そこでお聞きしたいのですが、過去の呪縛から逃れる方法、自身をコントロールするには良い方法はないでしょうか? お坊様方の知恵をお貸しください。よろしくお願いいたします。
こんにちは。 仏教を勉強するうちに今まで誤解していた色々なことが明らかになって、例えば、今は無我もちょっとだけ納得できるようになりました。だいぶ落ち着いてきたのですが、実は因果応報について気になっていることがあるんです。よかったら、お暇な時に教えてください。 因果応報とは、良い事も悪い事も自分がやった事の結果が出て来るということなのですね。親や祖父祖母、そのまた上のご先祖様の代の因縁を自分が背負うなどということはあるのでしょうか。 借金など明らかなものではなくて、例えば何代も前の先祖の行いが悪くて人を泣かせていたから今度は子孫が泣かされるめぐり合わせになるとかそういうことです。そういうのは何代も前になれば事実関係を確かめられなくなっていきますし、気にしないで自分がしっかりしていれば大丈夫だ!と思うようにしてはいるけれど....でも、いかにも血のつながりで受け継がれていきそうな気がしないでもないんですよね。お坊さんのような人で先祖の因縁の話をする人がいたので、今でも時々ちょっと気になります。 因縁が受け継がれて子孫に因果応報が出て来るということはあるのでしょうか。 追伸 因縁を断ち切るお祓い数十万円とかいきなり言われたらさすがに怪しいと思うのですが、仏教の話もちょこちょこ入ってくるともっともらしく見えたりもするから....人の心って、もう大丈夫だと一度は思ったつもりでも迷ったりする頼りにならないものですね。自分で自分のあやふやさに笑ってしまいました。