2回目の質問です。1回目に答えてくださった僧侶の方々、本当にありがとうございました。 今回は小5の次男の問いについての相談です。私は時折、子供達に質問を投げかけることがあるのですが、たまたま「仏教とは?」と聞いた時に次男が間髪入れずに 「フリーメイソン!!」と言ってきて、私がそれは違うんじゃない?と言うと「宗教やってる奴なんてみんな、フリーメイソンなんだよ!」と譲らず。 なぜそう思ったのか聞くと、宗教ってお金払わないと真実を教えてもらえないでしょ?フリーメイソンのシステムと一緒だよと。 私が不勉強なのもあり、彼が納得いく答えを出すことが出来ませんでした。 でも、高校生の長女が訳のわからないお経にお金を出すのは勿体ないと言うと、「お経は天国に行けるパスポートなんだから、パスポート代だと思えばいいと思う」と言ったりもして、なんか不思議な子で笑 こんな次男に仏教はフリーメイソンじゃないって教えてあげるにはどのような言葉かけが必要でしょうか? ちなみに次男はフリーメイソンの意味をきちんと、とらえています。
とても迷ったのですが、どうしてもお坊様方のご意見が聞きたく御相談をさせていただきます。 近年より相次いでおります、自ら命を絶つ行為。 学生時代の自分も、現世から逃れたくて何度も命を絶つ決意、そして行動を行っておりました。あれから時が経ち、大切な家族・神様、仏様方との出会いで改心し、今は大好きな神様・仏様方、家族と共に今を生きております。 それはさておき、今は見なくなりましたがこのご時世の始まりの当初はよくニュースを見ていました。感染者数を知りたくテレビを付け、情報を収集していたのですが、それ以外である人が自らの命を絶たれたとのニュースを見ました。関連のニュースを見る度、ふと思いまして、亡くなられた方の魂が何処に向かわれるのか疑問になりました。ちなみに私の祖母は、輪廻の一番下に行くと話していました。ですが、仏教を勉強する内に祖母の話が本当なのか微妙です。数々の本にも触れられてなく、疑問が膨らむばかりです。そこで、各お坊様にお聞きしたいのですが、自ら命を絶たれた方の魂は、どちらへ向かわれるのでしょうか? 命を絶たれる決意をされている方々に対して刺激が強い内容になってるのではと心配で、利用規約にも反していないか不安ですが、どうしても気になり質問させていただきました。
現在の職場で働き始めて7年目になります。 2年くらい前から社風や職場の雰囲気になじめなくなり、毎日辛くて転職したいと思う気持ちが強くなってきました。 子供の幼稚園入園を控えており、転職により一時的にでも収入が減ることに躊躇いがあります。しかし、収入のためだけにと割り切って、仕事にやる気を出せず職場にいるのも、毎日気持ちが辛いです。 転職に踏み切るか踏み止まるべきか悩んでいます。
はじめまして。こんばんは。 私は現在、恋人と婚約しており同棲しています。今年の冬に結婚する予定です。 恋人とは、3年半程付き合っております。 2年前に疑心暗鬼になり恋人の浮気を疑い、心の弱さに負けて自分が浮気をしてしまいました。 一度目に浮気をしてしまった時は、恋人と話し合いをした際に自分から裏切ってしまった事を告白しました。 『恋人はこれからも付き合い続けたいから許す。ただ変わってくれないと困る。』と言われました。 酷く反省し、それからもう二度としないと誓ったはずなのに、馬鹿な私は変われず。 それから3ヶ月後恋人との関係に不安を感じた際に、お酒に飲まれ記憶をなくし また同じように浮気をしてしまいました。 本当に本当に後悔しました。消す事ができるのなら存在すら消えてしまいたい程でした。 恋人を苦しめたのに、二度罪を犯さないと気付く事ができなかったのです。 恋人を失う事が怖くて、二度目の罪を告白できずにいます。 この2年間ずっと罪の意識に苛まれており、プロポーズをされた時でさえ考え込んでしまいました。 いつも誰かに監視されている気分で、誰かが恋人に伝えてしまうのではないかと思うと恐ろしくて夜も眠れなくなります。 (私が二度目の浮気をしてしまった事は複数の知り合いが知っております。) こんな酷い事をした私ですが、どうしても恋人を失いたくないのです。 私の全てが恋人なのです。 過去に色々あり、正しく人を愛する事など生涯できないだろうと諦めておりました。 恋人が私の道を正しく直してくれたのです。愛する事、人を信じる事を教えてくれました。変わる事ができました。 しかし、今どんなに誠実に恋人を想っていても、私が過去に犯した罪は変わりません。 私のようなやつが、本当に恋人とこのまま罪を黙ったまま結婚してもいいのかずっと考えています。 恋人の為には、罪を告白し、今後の関係性を決めてもらうべきなのでしょうか? 正直告白を考えると、血の気が引き具合が悪くなるほど怖いです。 もしこのまま自ら罪を明かさないのなら、墓場まで持っていき、一生罪悪感を背負い、恋人に尽くそうと決めております。 どうするのが、正しい道なのでしょうか…何千回と悩んでも決める事ができなくて 長文で申し訳ございません。 読みにくく矛盾している点も多いと思いますが、ご意見を伺えたら幸いです。
1ヶ月くらいまえに、失恋をしました。 相手が仕事が忙しくて、なかなかあってくれないし、あっても好きといってくれない人でした。都合いい存在になりたくなかったので、別れはこちらから切り出しました。 3週間くらい自分の気持ちにとても鈍感で友人にあって悩み相談をしても、なにも言えない状態がつづきました。 正直、恋愛にかけるエネルギーがつよかったため、放心状態です。 仕事を頑張ろうとしても、イマイチうまくいきません。昨日なんか、上司に注意されたことに、傷つき、意固地になってます。 仕事にいきたくないです、でもいきます。 好きな女性アイドルをみても、かっこいい男性がでてくるドラマもみても元気がでません。 まるで、ここ1週間ぐらい魂のない身体を引きずって生きてるみたいです。 この状況から脱出したいです
現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
畜生道に行ったとし、犬猫になったとしたら、お盆に帰るとされるのは空想上のは犬猫ですか?現実世界の犬猫は、なんなのですか。人と畜生は、現実世界に存在するので、二層空間の世界観なのですか?
率直な意見が聞きたいです。 わたしは現在23歳で、生い立ちを簡単に説明します。元々兄弟や親戚は全くいない状態で、幼い頃から両親の虐待、いじめ、父親に捨てられてから母子家庭、父親と離婚した理由をわたしのせいにする母。その後の生活も母親の言葉の暴力や生活的支配【極端に厳しい門限や私の意見や行動の否定的発言】が続いた状態です。 そんな中私が大学に進学し1年目、母が癌で亡くなりました。わたしは天涯孤独になりました。その時の感情はあまり覚えていませんが、幸せになるために生きようという前向きな気持ちだったことは確かです。母の死後学費や生活費をアルバイト掛け持ちや奨学金で賄い、無事に大学を卒業。その後新卒で正社員として働き出しました。ですがここまでの過程で私の人生がおかしくなります。大学当時一回り年上の彼氏がいました。その人とは半年ほどお付き合いしていましたが、経済的価値観などが合わずお別れしました。お別れしたのが社会人になる2ヶ月前です。別れを告げたのは私の方なのに、別れた後パニック障害と鬱になり、生きる気力を失っていました。簡単に表現すると肉体は生きているのに心が死んでいました。その時心療内科に通院し、なんとか四月から働き出すことができました。しかし働いた会社が外れで、さらに精神的負荷がかかり、入社5ヶ月目で突発性難聴になり現在休職中です。社会人になり、朝から晩まで働いて最低限の収入を得る。この無意味な生活をこの先もずっと続けていくのかと思うと気が狂いそうになり、正直復帰するどころかもう死んだ方が楽だなって思います。というのも別に働くことだけが辛いのではなく、ただでさえこの若さで天涯孤独だの精神疾患だの普通の人にはあまりない状況に置かれてる中で健常者の中に混ざって生きていくことにもう疲れました。なんのために生きてるのかもわからないし、鬱の薬飲んでもイマイチ気持ちが晴れないし、希死念慮が強いため入院も勧められこんな現実。正直もうみたくない。皆さまがわたしの立場ならどうしてますか?意見聞かせてください。
もうかなり前のことになりますが、身内の一家心中未遂により母親を亡くしました。 事件直後からしばらくは、心から尊敬していた、加害者となってしまった身内の変わり果てた姿と、思春期特有の衝突を乗り越えてようやく人間同士として関わり始めていた最愛の母との突然の別れに頭の中がぐしゃぐしゃになりました。 それでも、両親が応援してくれていた夢に向かい立ち止まるわけには行かない一心で、また、共に強いトラウマを受けた弟の頼れる兄であり親代わりになるべく、ガムシャラにここまで走り続け、仕事の面では今ではそれなりに少年時代に思い描いていた立場になりました。 しかし仕事の性質上、どうしても日常の中で考えてしまうのです。 最愛の両親を守れなかった自分が、他人様のために昼夜問わず身を粉にしている虚しさを。その場では必死にやりながらも、どこかその姿を冷めた目で俯瞰で見ている自分がいるのです。「お母さんを死なせたくせに。この道に進まなければきっとお母さんも今は生きていたのに。結局ここまでの道のりは全て単なる自己満足でしかないじゃないか。」と。 このような日々が続いて今更、30過ぎにもなって情けなくもお母さんに会いたくて仕方がないのです。自分の頑張りを親に認めてもらいたいという幼稚で卑しい願望から来ている気持ちである事は理解しているのですが。 自らも親となったことではじめて親の愛情の深さを知り、尚更今の自分の姿、孫の姿をどうしても見てもらいたくて寂しくて切なくてたまらないです。 どれだけ人様から見て成功して見えようとも、この後悔と自責の念を抱えてあと数十年生き続ける事が辛くて恐くてならないのです。 子供たちが誇りに思える父として、この先も前向きに走り続けるために、どのようにこの深い悲しみと向き合えば良いのでしょうか。
お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?
死んだ両親は典型的な毒親でした。悔しい事に母に関しては死後2年経ち毒親だったことに気付きました。死人に鞭打つなとか聞いたことがありますが、生前の極悪非道、人の親としての義務を放棄した(ネグレクト)、その他様々な罪は消えません。私の心の中にしっかりと生き続け、恐らく毎日毎日死ぬまで私を苦しめるでしょう。両親が犯した罪はきちんと裁かれ、私同様の苦痛を味わうべきです。そうでなければ神も仏もありませんし、存在価値は皆無です。両親の位牌は私の激しい怨み憎しみ怒りが抑えきれす、金槌で叩き壊しました。その後は少し気分が安らぎました。両親の悪霊を退散させるために、護符を数枚購入し、毎日2回ご真言を唱え、香を焚いています。私の人生を台無しにし利用するだけして捨てた両親を生前のうちに仕返し出来なかったことが悔しくて堪りません。ポジティブシンキング、今後は自分のために生きよ、趣味や友人を作ろうといった、ありきたりの回答ならば必要ありません。
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
以前相談させて頂いた者です。 前職場にて、恋愛感情と仕事の人間関係のもつれで精神的に追いやられ異動をしました。 あれから10ヶ月が経ち、心の傷もかなり癒えたと思っていたのですが未だにフラッシュバックに苦しみます。 最後の1日まで嫌がらせや冷やかしなどの屈辱が続いた部署でした。異動することで距離も離れ、ほぼ顔を見る事もなくなったのですが…。最近その部署の人達と偶然出会う事もあり、消えたと思っていた屈辱感と侮辱感が蘇ります。 苦しさを押しつぶして前向きになり、やりがいも見つけてきたはずなのに。前職場で拭いきれなかった誤解が後悔されてなりません。 その上司がたまたま廊下の反対側に居ると気づいた時には、反射的にトイレへ駆け込んで耳を塞いで暫くうずくまっていました。 信頼していた上司との間に出来てしまった埋めきれなかった溝。その上司への想いを間に入って邪魔され、冷やかしや嘲りに耐えられなかった事。 潰された心は疼いて仕方ありません。 本当に苦しいです。 もう、今の職場や生活の中で新しく築いた信頼関係を崩したくないし、あのような無残な恋愛もしたくありません。 しかし嘘の上手い人には、人間は勝てないのだろうかと、突然悔しさや恐怖がやってきます。 あの時の誤解が晴れるなら…私は根拠と方向性を持って仕事に励んでいたと理解されるなら、少しは気持ちが軽くなるのですが。 彼に対する想いがあったのに言えない事情もあった事。そこに他の事を吹き込んでいた女性がいるがその内容は事実ではない事。 誤解の中、上司とその女性が一緒になって私の足を掬い、踏みにじり続けた事に傷ついていた事。 前職場の人達とすれ違っても、挨拶はしても笑顔は返せません。心が笑えない、怒り狂っているのです。 拭えなかった事実は私の力不足でしょうか。堪えるのがやっとの日々から抜け出せた事だけでも幸いでしょうか。 新しい気持ちや出会いを必死に繋いで過ごしていますが、過去の辛い思いはまだ私を引っ張ります。自分自身が変わってしまったように感じる事もあります。 今の職場にも嘘の上手い人はおり、同じ事の繰り返しになるのが怖いです。 自分の中にある何かが、同じ繰り返しを呼ぶのではと思ってしまいます。 もう一度、今の自分に前向きになれるようになりたいです。酷く重く心を傷つけた過去は忘れる事ができるのでしょうか?
小学生の頃から難病の事でイジメられていました。その頃から自殺願望が有り10年前、5年前、振り返っても自殺願望が有ります。もう48才になるのに、産まれてきて良かった!生きていて良かった!って感じた事有りません。自殺未遂も繰り返しなかなか死ねません。自殺も寿命なら寿命が来れば死ねますか
何度も相談してすみません 全身にある激痛(本っっ当に痛いのです…) 凄まじいスピードのめまい感 たたみかける幻覚幻聴… 両親は努力すればこの世に治らない病気など無いと常に言っています。なので両親には治るように努力してるようにみせかけていますが、本当は治る希望なんて全く持てていないし、どんなに元気になりたいと望んでも叶わない事もある。と思っています。 精神薬による薬害の症状なので痛みを取る薬はなく、最後に望みをかけて通っていた病院では霊をお祓いをしてからでないとこれ以上の治療は出来ないと不思議な事を言われ通うのを辞めました。 私はもう治そうと努力する事に疲れ、どうせ報われないし無駄なのだと心がボッキリ折れました。苦しんで苦しんで、痛みでのたうちわまり後は死を待つだけの状態になっています。母は漢方の様なお茶を注文して飲めば絶対治る!と言うので、私は全く信じてませんが取り敢えず従い飲んでいます。 生きている楽しさを少しでも見出そうと必死で考えてみますが、どう考えても早く死んでしまいたいというゴールにたどり着いてしまいます。何度前向きに考えを持っていこうとしても身体が辛すぎるため心はついてこられず「もう死にたい…」にいきつきます。 痛みとめまいで泣き叫んでても、隣にいるのに何もしてくれない両親にもつい腹が立ってしまい、行き場を無くした感情が爆発し暴力をぶつけたりしてしまいます。(皿を割ったり物を投げたり) 回復の見込みがある人は今が辛くても我慢して将来に楽しみや希望を持てるかもしれませんが、末期癌並の痛み、ALSのように硬直して動かない身体、脳が回復する事がなく生きてるのが苦痛でしか無くなってしまってて、死ぬのが1番の楽しみ、だがそれでも生きねばならない時、何を考えて死ぬ以外何を楽しみに生きればいいのでしょうか?そんなのは自分で考えるべきと思いますが何度やっても死にたいにいってしまい答えが出ないので救いになる考え方があれば教えてください。
誤解を減らすため、具体的に書きたいのと、問題が複雑で複合的なので1000文字ではどうしても足りません。 思い出すのも向き合うのも辛い中、丸一日考えましたが、どうしても1000文字以内にまとめられません。
私は今仕事をしています。マネージャーが変わり、嫌だなっと思う事も結局言いくるめられてしまい、いつも自分が我慢すれば…と思ってしまいます。 まだ、歴が浅いので中々反論もできず悔しい毎日です。 どうしたら楽になりますか? でも今の仕事は本当に好きです。
私には昨年末に別れた相手がいます。10歳年下の遠距離恋愛でした。別れたのは縁が無かったのだと思っていましたが、実はずっと裏切られていました。 相手の女性は自分の両親に対しても平気で嘘をつき、ご両親はその言葉を信じて娘を庇って第三者が聞いても理不尽な内容でも僕へ向かって言葉を発してました。 しかし年が明けて全てが嘘偽りだったことが少しづつ明らかになってきました。そして相手の親御さんも一時は謝りたいという話まで行きましたが、急にまた一切連絡が取れない状態へなりました。 最後の最後でまだ「謝りたいから会ってください」という言葉や、親御さんも一緒に謝ると言っていた事までが全て無かった事になってます。 こんな嘘に嘘を重ねられてもう人間不信です。ここまで相手の心を裏切る事や自分の過ちを謝る事も出来ないものなのか。 約束を平気で覆せるものなのか。 もう何を信じればいいのかわからなくなってしまいました。 最近はお寺へ行って仏像やお不動さんに手を合わせてどうすればいいのかと話してますが、、、 何もかもが怖くて人を信じるのも怖い状態です 今はとにかく休みの日には仏様へ会いに行って少しでも気持ちを軽くできるように手を合わせています。 相手の事に対しての気持ち、今後出会うであろう人への心構えなども自分で全くわからなく制御できません。 恨み心、不信感、怖さというものが渦巻いている状態です 夜も寝れないのがますます精神的に悪いんだと思いますが・・・ 何かアドバイスお願いします。 ※乱文雑文申し訳ありません。
私の相談をお読み頂きありがとうございます。 前回、仏壇の参り方もご教授頂き本当にありがとうございます。 その後も変わらず、お世話?お参り?させて頂いていると思っております。 今は色々簡素化されて来ており、私の周りにも、「自分が亡き後は我が子の負担になりたくないから法事等も不要だ」と申す者もおりますが、私自身は代々引き継いでもらえればと思う部分もあります。きっとご先祖様はそんな姿を見て下さっていると信じております。 またまた無知な私の質問ではありますが、仏様とご先祖様の関係性が分からなくなってきました。ご先祖様は仏様とは違うのでしょうか? 先ほども仏壇のお世話は私自身は代々引き継いで欲しいとお申しましたが、純粋なお供養の気持ちだけかと言われれば、正直なところ、お恥ずかしい限りですが見返りを求めている部分があるのかもしれません。私は適齢期を過ぎてもまだ独身であります。私がこのまま独り身で亡き後、甥なり姪なりが、どこかで私を思い出してくれれば…だから今は私のやっていることを見て、「あー、叔母さんあんなことしていたなぁ」と頭の隅にでも置いてもらいたいと思っていたします。 そして… 仏様は私たちの願いを叶えて下さるわけではなく(冷酷とかそのような意味ではないです。)温かいお心で私たちを見守って下さっているのだと今現在私は考えております。では、ご先祖様は? ご先祖様も私たちの傍で見守って下さる存在なのだとは思いますが… 悲劇のヒロインを演じたいわけではありませんし、もっともっと大変な方々がいらっしゃる事も承知ですし、こんなこと序の口だとは思いますが、家庭内で上手く行っていないことが長きに渡ったり、ずっと頑張っている婚活が全戦惨敗中で、自分の力不足を棚に上げて気持ちのはけ口をご先祖様に向けているだけなのかもしれません。 ご先祖様はご先祖様のお役目だったり修業があるのだとは思いますが、私たち子孫が温厚な日々を送れる手助けなり道しるべなりを頂戴したいと思うことは私のエゴであり愚かな事なのでしょうか? もちろん、日々私たちがこうしていられるのはご先祖様あってのことですし、軽んじているわけではなく、感謝はしており、だからこそ毎日仏壇のお世話も続けられています。