私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。
こんにちは。すももと申します。 よろしくお願い致します。 さて個人の墓地に建てる五輪塔ですが、ネットで調べ供養塔だと分かりました。 いくつか見たサイトのうち、1つに自分の家の先祖だけでなく、他家の親戚も供養してくれると書いてありました。 本当でしょうか? うちのお墓に眠る人と血縁のある他家の人も供養してくれるのでしょうか? ちなみに私の家の宗派は曹洞宗です。
人間関係いろいろあり疲れて 本音として無理して笑いたくないです 今コロナでみんなマスク付けてて失礼ですが表情見てなくて私としては良いなと思ってしまいます 世間的?にやはり笑顔で過ごした方が良いのでしょうか まー私も面白いこと、お笑い番組とか見れば笑いますがいつかそれすらも笑えなくなってしまいそうです(なりかけ) ただ家族がいる限り、めちゃくちゃ笑ってるわけではないですが祖父母の前とかではやはり笑わないといけない気がして(うまくことばにできなくてすみません) 私が祖父母の立場だったら笑わない孫なんかかわいくないですし、悲しいですよね 祖父母だけではなくまぁ周りの人のために作り笑いしてます 無邪気だった子供の頃に戻りたいです 自分が灰色に塗られた感じです 理由を書くと長くなるのでかきませんが(たくさんある) あと関連して結構まじめに頑張って生きてるのに全然上手くいかなくていつまでたっても幸せになれないです 一生幸せになれない気がしてきました とにかくついてないです
<お位牌に関しての相談です> 両親のお位牌を本体とは別に作っていただき、現住所である海外の自宅に置いて手を合わせております。このことは、実家がお世話になっておりますお寺の御住職もご存知です。実家の宗派は真言宗です。 よかれと思ってやっていたことですが、最近日本に住んでいるきょうだい達が、私の身に何かあった際の、私の自宅にある両親のお位牌の扱い方に不安を覚えていると聞かされました。 ・私の主人は日本人ではなく日本語も話せないため、私の身に何かあっても、お仏壇(小型のものです)やお位牌に関して、日本にいる私の家族と話し合うことができない ・私のきょうだい達は、日本から両親のお位牌を受け取るためだけに、海外の私の自宅に来るようなことはしたくないとのことです。 ・予想される色々な状況を考えて、主人を含むこちら(海外)の義理の家族に後のことは頼めない。 結論としましては、大変残念ではありますが、私の存命中に両親のお位牌を手放して、きょうだい達の精神的負担をなくしたいと思います。 お世話になっている御住職に相談させていただくことも考えましたが、きょうだい達の耳に入ることを避けたいと思い、こちらでおしえていただければ有り難いです。 また、お位牌と共に日本から持ち込んでおります鈴、鈴棒などの仏具一式も手元にございますので、その扱いについてもおしえていただければ幸いです。なお、私自身は仏事等で年に一回は日本に行きます。 お位牌をそばに置いて手を合わせることばかりを考え、想定できたであろう問題について何も考えなかったのは迂闊であったと反省しております。
お世話になります。 私の家の宗派は両親ともに浄土真宗です。 一人暮らしをしているのですが、ご先祖様を供養したく、小さな棚を作り、そこに今は、お水、お茶、お菓子をお供えしております。 ろうそくやお線香は火災の危険と火災報知器があるので、置けないのと。 お花をお供えしたいのですが、家をあけることが多いので造花を考えております。田舎者なので造花にかなり抵抗があるのですが、造花でもいいものなのでしょうか? もし『その程度しかできないんだったらやめた方がいい』というご意見等がございましたら、仰ってください。 よろしくお願い致します。
初めて質問いたします 曹洞宗の家系です 私の家は昔からある菩提寺さんにお世話になっているのですが 家にも仏壇がありお釈迦様や道元禅師様などが祀られております、またお経も毎朝読むようにしております そこでふと思ったのですが、お寺に出向いてお坊さんにお経を唱えてもらうのはなにか意味があるのでしょうか? お仏壇にはお寺と同じお釈迦様が祀られておりますし、お経も自分で唱えております わざわざ高いお布施を出してまで行く理由がわからなくなってしまいました 宗派によって考え方が変わってくると思います できれば曹洞宗のお坊さんに答えをいただきたいです よろしくおねがいします。
配偶者側の親族で不幸が2年続けて向こうの宗派(浄土宗)の法事に参加してきましたが、自分は違う宗派(天台宗)で割と丁寧に細かく仏事をしてきたのであまりの簡素さに驚いた上、お坊さんにかなりの嫌悪感が湧いたので愚痴にならない様に気をつけますが相談させて下さい。 ・ご高齢(80)なのはわかりますが、毎度疲れた疲れた疲れたを連呼、「みなさんもおつかれでしょうから今日は〇〇(例:懴悔文などまとまり)はしませんから」とあたかもこちらの為のようにお経を省略(回を重ねるごとにどんどん短くなっていく) ・坊さんの送迎者にの2人きりの密室では法事に関する愚痴と嫌味を必ず言う ・ご子息の修行に連れてこられたこともありますがお坊さん1人分のギャラをしっかり取る ・家で葬儀、また田舎の村のため出棺の際に村中の方が黒装束をきて合掌してくださるのですが、鬱陶しいから目に入れたくないので窓を閉めろと言う 私の実家側でお世話になっているお寺のご住職の先代さんも現役さんも修行僧さんもそれは謙虚で有難く、尊敬させていただいているのですが、配偶者側のお寺には不信感と嫌悪感しかありません。 自分も将来配偶者側の宗派で…と思ったら本当に嫌でたまりません。 愚痴や嫌味はいつも送迎している喪主の方が 本当にストレスがたまって気の毒ですし しっかり修行させていないのか結局ご子息に継げずいつまでもお父様がお勤めされていますがこの親にしてこの子ありなのか。 合掌を鬱陶しいとはどういうことなのか。 早く帰りたい、疲れたばかりおっしゃってるのも良い気持ちにはなりません。 お経の省略が1番腹が立ちます。 自分のとこは故人のための勤めだとおもってますので本当にやるせないです。そもそもお布施もしっかりお支払いしていますのでその分はお勤めをお願いしたいです。 この寺や坊さんを指導や通報できるところはありますか? 自分の代の時はお寺を改める方向で親族に話が出来たとしても 【今の現状を"マシ"にすることや改善はできないのでしょうか?】 これからまだ忌明け初盆1周忌が待っていて憂鬱です。
妻の実家が初めて仏壇を購入しました。宗派は真言宗です 今年の8月が初盆で、そのときに仏壇の開眼供養を同時に行う。とのことで私も参列する予定です。 質問(1)その際の服装ですが、「喪服に黒のネクタイ」でよいでしょうか? 仏壇の開眼供養はお祝い事なので「喪服に白のネクタイ」と聞いたことがあるのですが初盆供養と一緒のためどうするのがよいでしょうか? 質問(2)その際は、仏壇の開眼供養用に「熨斗なしの祝儀袋で開眼御祝」と初盆用の「不祝儀袋でお香典」という対応になりますでしょうか? 教えて下さい。 よろしくお願いします。
祖父が亡くなって約1年経ちました。 世界一大好きな祖父です。慈悲の心を持った、まさに仏様のような祖父でした。無償の愛でいつもわたしを可愛がってくれました。 なるべく側にいたのですが、たった1時間ほど席を外した時にちょうど息を引き取りました。代わりにわたしの兄弟、父が看取りました。 看取れなかった、自分のタイミングの悪さに大変後悔しました。でも、心のどこかで看取るのが怖いという思いも少しありました。 大切な人が亡くなるという体験は初めてでした。 夢に出てくるかな?なにかわたしに言いたいことあるかな?といつも考えてますが、不思議な体験もなにもありません。 母方の祖父なので、お仏壇は母の兄に引き継がれました。 色々な事情があってお仏壇には行けないのですが、心の中の思いや拝みは届いているのでしょうか。(遠くに住んでいるのでお墓参りも年に1度くらいしかいけないです…) 祖父は浄土真宗、わたしは浄土宗です。 私が結婚したらまた宗派も変わってしまうかもしれません。それでもいつか自分が死んだ時に会いたいです。宗派が違っても、いつか会えるのでしょうか。毎日思い出します。あっちの世界でも、どうかしあわせでいてほしいです。 祖父の死から色々なことを学びました。いつも見守ってくれていると信じて生きたいです。
こんにちは 質問があり、メールいたしました 子供は親を選んで生まれてくる そう、私はある宗教家の方に言われました 普通に考えたら 精子と卵子が受精し、 子供ができるから子供が親を選ぶんじゃなくて、親が勝手にその子供を産むというのが通常な考えだと思うのですが それはあくまで生物学的なものでしょう 生物学的ではなく 宗教学的と申しますか、 スピリチュアル的にですかね そうした考えとしては 親が子供を選んで 子供が生まれてくる、いわゆるこれは通常の出産 または 私がその方に言われたように 子供が親を選んで生まれてくるのか、 それぞれお坊様に 考えを また間はそれぞれの宗派的な考えでも構いません お聞きしたく投稿致しましたが、 考えを教えていただけないでしょうか私はずっとその事について悩んでおります
質問させて頂きます。 私は結婚して16年になります。 夫婦いざと言う時の為、普段からの 先祖供養等の為にお寺に入りたいと 主人と常々話をしています。 でも、お寺の選び方等が全く不明で ずっと悩んでます。 20代後半時に友達からS宗教の事を 聞かされ何度も足を運んで話を聞いたりしましたが納得いかず・・・ 次、主人の叔父さんにKに誘われ、 付き合いで行ったのですが怖い思い をしながら断り・・・ 今はNSに入っていますが前の2つ と変わらない感じで抜けたいです。 主人曰く、新興宗教とやってる事が 変わらないと(私も同じ考えです)。 信者獲得で発表会で何人入信した、 その為のイベント等は大々的。 他宗教は邪宗で批判的、他の人を 幸せにしたいなら勧誘はするべき。 お題目、勧誘が出来ないと功徳が 無い等。 勧誘とかするつもりないですし、 新聞とるの当然と強制されたり、 自分の実家宗教を間違ってると否定 するのは間違ってると思うのです。 実家が入ってる宗教に入るべきとも 思ってないので何かあった時の為に 夫婦で生前に入りたいのです。 私も主人も詳しくないですが仏教が 好きですしお寺も大好きです。 お説法を聞いたり、お経を唱えたりするのも好きですし気持ちが落ち着きます。 でも今は仏教やお寺と言うものが、 信用出来なく嫌いになりそうです。 お話聞いてみたいと思ってもどうしたらいいのか直接聞けるとなると 上記の感じの所ばかりです。 今の状況を打破したいのですが、 お寺の選び方や直接お話聞いたり する事が出来たり等という方法は ありますでしょうか? 宜しくお願い致します。 長文、乱文失礼致しました。
事故現場などに遺族や友人などが花をお供えすることはよく目にします。 しかし、お供えをした方は大抵そのままにされていき片付けるのは近隣の住人が片付けて行きます。 遺族の方からすれば、突然家族を亡くし失意の中につらい場所へ亡くなった方への気持ちで訪れていらっしゃいます。 付近の住人からすると人が死んだ場所という嫌悪感を抱き、献花などはいずれ腐りゴミとなっていき片付けは概ね付近の住人か道路維持の職員です。 私も同級生を交通事故で亡くしており遺族の気持ちもわかります。 友人などが事故現場で献花をしたいと言った場合は事情を説明し2-3日後に片付けにいくように伝えています。 誰に聞いたか覚えていないのですが、事故現場でのお参りは亡くなった方がどこで安らかになっていいかわからなくなってしまうと聞いたことがあります。 事故現場でのお参り、献花というのは仏教として意味のあることなのでしょうか。
今年2月に父が急死しました。父と言っても母の再婚相手で養子縁組などしておらず、戸籍上では他人です。 父は高校卒業後、進学・就職の為家を離れて現在の場所を終の棲家とし、生家よりお仏壇を移動しておりましたが、母には仏事全般に関わらせてなく(再婚した時はお互い50代でご先祖さまは何年も前にお亡くなりになっており、母の性格上自分が関わりたくないことを強く拒絶する傾向にある為) 生前、「お前には迷惑や面倒をかけないから」と良く母に言ってたそうです。 きっと聡明な父は、1人で抱えてやってきたんだと思います。 今までもお仏壇にはお水を供えてお花や果物を供えてはいたようですが、 私が「ご飯やお茶は?」と尋ねると、「今までお水だけでいい!って言われてたから、しなくていい」と言います。 この度、母と一緒に暮すようになった為、今後は出来る限りきちんとしていきたいので、足らない仏具は買い足し、毎朝ご飯とお茶をお供えするようにしました。 私の育った環境が宗教とはほぼ無縁だった為知らないことばかりで、今ネットで調べたりしながら勉強中です。 ご先祖様のお墓も遠方で(車で3時間程の隣県)私は数回お参りに行った程度です。菩提寺には行ったことはありません。母も無いと思います。 父の葬儀も同じ宗派の近くのお寺を探してお願いしました。 今後、父のお墓はどうするか?ご先祖さまのことはどうするか?いろいろありますのでその都度相談させて頂きたいのですが とりあえず、毎日のお供えやお勤めはどうすればよいのでしょか? 調べてみますと、ご飯とお茶とお水の両方という意見もありますし、お茶かお水のどちらかとの意見もあります。 お経本はお寺さんより頂きましたが、今まで触れる機会がなかったので どこをどう唱えればよいかもわかりません。お寺さんに尋ねることを母が嫌がります。(きっと、年齢的にも何も知らないと思われることが嫌なんだと思います) 父を亡くして日も浅いので、母に意見するつもりはありません。母の自尊心を傷付けないようにしながら、私が出来ることからやっていきたいのです。 父方の親戚付き合いもあまり無いので尋ねる事も出来ません。 宗派は真言宗です。 お世話になった父の為これからいろいろ勉強していきたいので、よろしくお願い致します。
私の家の宗派は浄土宗で、私はよく、祈る時や心が苦しい時等に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えます。しかし、最近不安に思う事が有ります。 それは、念仏の唱え方と、阿弥陀様についてです。 私は、念仏を唱える際には、御仏を念じ、御仏の名を口にする事を心掛けています。ですが、それが本当に正しい唱え方(観想念仏、称名念仏)と言えるのか、御仏に失礼ではないか、と思ってしまうのです。 そしてもう一つ、阿弥陀様は、御釈迦様とは、どの様な関係が有るのでしょうか。私は、以前にネットに“阿弥陀様は御釈迦様の先生である”と書かれてあるのを見た事が有るのですが、果たしてそれが事実なのか、それを鵜呑みにするのを躊躇してしまいます。もしかしたら、私は阿弥陀様の事を勘違いしているのではないか。阿弥陀様の事も知らずに、御仏を信仰し、念仏を唱えてしまっているのではないかと思うと、不安で仕方無いので御座います。 これを御覧になって下さっているお坊様、正しい念仏の唱え方と、阿弥陀様の事について教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。
昔から宗教に興味があったので、キリスト系・仏教系問わず、新興宗教でも縁があった時は、資料を受け取ったり、話を聴いたりしていました。 しかし、いずれの宗派も絶対的な確信を持つことは出来ないので、入信することはありませんでした。 その中で、昔からの友人が「あなたを救いたい、あなたのために24時間勤行をする」などと親切心で熱心に勧誘しています。「その気は無い」と断りつつも20年になります。(最近は年に数回程度ですが) そして、数年前、主人の余命宣告を受けた時、私としては人生の中で一番宗教を求めていました。しかしながら、その数ヵ月間はまったく連絡がありませんでした。 その事から、最近は「私が一番必要としていた時期に縁が無かったのだから、あなたの宗教に入ることは絶対にあり得ない。」と明確に何度も伝えています。 「勧誘であれば、話をすることは無い。勧誘の話は聞きたくない。勧誘の電話はしないで」ということも何度も伝えています。 それでも、「そろそろわかってくれた?入信する気になった?」と連絡して来ます。 その友人と同じ仲間が他に数人いますが、熱心に勧誘されているのは私だけです。他の友人たちは最初の頃に断っているためにその後は勧誘していないようです。 できることならば、他の友人のように勧誘を止めてくれたならば、その友人が企画する同窓会にも参加したいのですが、私の顔を見れば執拗に勧誘をするので参加できませんし、他の友人たちとも疎遠になってしまってます。 今まで「宗教に興味がある」という態度をしていた私の責任でもありますが、20年かかりましたが、「入信しない」という結論が出たので、それで納得して欲しいのです。 20年分の期待感があるので、宗教抜きの友人関係は無理なのでしょうか? その子が中心の他の仲間たちとの関係も含めて、バッサリと縁を切るべきなのでしょうか?
お世話になります。先日は質問にお答えいただきありがとうございました。 7月に配偶者が亡くなり、しばらくは実家の母が色々と付き添ってくれ、葬儀等を済ませてきました。ただ、実家の母の言葉、態度が現在の私の負担になっており、ご相談させていただきます。 母ははっきりと自分の希望を口に出す人です。これまでも色々なことがありましたが、配偶者の葬儀等に関して色々ありました。母の中で、故人と我が家の宗派を卑下する気持ちと自己中心的な考え方があるようです。 ・葬儀に関して、葬儀社の言いなりにならないようにと、葬儀社との打ち合わせで、全てのものを最低ランクで選ぶように口を出す。 ・故人について、「頼りなかった」、「(仕事で海外に頻繁に行くが)大したお土産を持ってこなかった」、「(週末等休みも少なく働いていたことに関して)子供がいる人なら当たり前(ちなみに子供はいません)」と故人を悪く言う。 ・葬儀にあたり、気に入らない親戚には連絡しなかった。一方で、近所の人、自分の友人には、配偶者が亡くなったことを話し、「〇〇さんがお香典を持ってきてくれたけど、断ってあげた」と私に伝えてきた。 ・(コロナのこともあり家族葬にし、故人の友人、知人の参列、供花も断ったのに)母の友人(故人とは面識もない)がお経を上げに私の家に来てくれると言っていると、対応するように話を持ってくる。断ると不機嫌に。 ・仏壇の準備を考えている旨を話すと、「小さいのにして」、「(我が家の宗派の)あのお仏壇は嫌!」と(自分の家に置くわけでもないのに)。 私にお金がないわけではありませんし、故人はそれなりに社会的な地位もありました。しかし、母の中では、当家の宗派、故人が気に入らないこと、元々現実主義(「お金は生きている人が使うべき」と故人の葬儀で親族に公言)からこうした発言となっていると思います。 法要等をひとつひとつ実施していくこと、供養をすることは故人のこともありますが、私自身のグリーフワークでもあり、相応の想い、お金をかけることは意味があると思っています。だんだん母とは距離を置くようになりましたが、母のこうした発言、行動を思い出しますし、今後のことを考えるとストレスです。 どのように考えていけばよいか、お知恵をお貸しください。よろしくお願いいたします。
先日、告別式がありました。 その時、3人のお坊さんが来て、読経をしてくれた一人のお坊さんが髪が長く、ポマードをつけ、出棺のときに自分の白いスポーツカーに乗ったまま、ゴツい時計をして、タバコをぷかーとしてました。 一仕事終えたって感じでした。頭剃って、車は国産でいろ、タバコは吸うな、時計は安いものにしてと言っているわけではありません。けど、出棺のときは神聖な大事な時です。そんな無神経なお坊さんを見て、すごく嫌な気がしました。 僕は意識しすぎでしょうか? お坊さんは物欲とか煩悩を超越した存在でいてほしいと思うのは僕の思い込みでしょうか?教えて下さい。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
初めまして。私は仏教について学んでいるのですが、付近に頼れるお寺もなくこちらを頼らせて頂きました。 私は仏壇に向けて読経をする習慣のある家庭に生まれました。(宗派は真言宗です)家族には回向と言って、こうすると御先祖様への供養になり、地獄に落ちた先祖が居ても救われると言われました。 しかし最近になり別の場で聞いた話では、お釈迦様は水に沈む石を例えに読経で他人が救われることは無いと仰ったとの事でした。 お釈迦様も様々な相手に合わせた説法をされたとの事ですが、私は今まで続けてきた事は先祖の為になっているのか今になり不安です。どうかこちらでお坊様方の考えをお聞かせ願えませんでしょうか?
この度46歳の若さで実姉が他界しました。葬儀は東本願寺の系列のお坊さまにお願いし、お経と、法名をいただきました。私の住む近くに系列のお寺さんがある事を教えていただきそちらに納骨、ご供養お願いするつもりでした。ところが母が学会員という事で、三重県のとても不便な学会員専用の納骨堂に納める、法名は処分すると言い出し、今母と姉の遺骨の件で分裂しています。宗派不問の永大供養のお寺さんもあるようですのでそちらも当たってみようと話しましたが、聞く耳を持ちません。現在遺骨は母の家に安置してあり、私の家族、友人姉の恋人みんな近い方がいつでも行けるし、お母さんもいつでも会いにいけますよ、三重は遠すぎますよ、と、説得してくれましたが、五万円で永久に見てくれるし、私はもう嫁に行ったのだから、母と姉の問題だと譲りません。母が入る時にその三重に姉の遺骨も一緒に安置できるようにするから、それまでは近くでいつでも行ってあげたい、と言っても全く耳を貸しません。分骨も拒否されました。遺骨がなくてもお寺さんはご供養してくださいますか?また、法名も新しく、黒のお位牌に掘っていただかないといけないのですが、それを処分するなんて私には考えられません。学会員は母だけで、私たち姉妹は学校を出てからは無宗派です。