三年前に母が亡くなり、色々あった為遅くなりましたが、昨年の11月に 真言宗のお寺に永代供養で納骨しました。私が長男で我が家の家系では 唯一の男子なのですが、縁なくずっと独身のため、お墓はつくりませんでした。 母が生前ずっとお参りしていた仏壇が浄土真宗のものでしたので私の家系が、浄土真宗だと思っていましたら、この御仏壇というのは母方のもので 実は違うということを最近知りました(父方は浄土宗でした) 今年の三月に私の家に仏壇を購入しまして、位牌を三基(父方の先祖、母方の先祖、母)真言宗のお寺で開眼していただきました。母方はお参りする人がいないと思って位牌もおつくりしたのですが、実際はいたようで、母方の御先祖様を私のところでみるのは不自然というような指摘をうけました。 この様な場合、母方の位牌というのは閉眼していただいて、お炊き上げするものなのか、また位牌を永代供養にだすのかどうしたらよろしいでしょうか? また、浄土真宗ですと位牌もないのでどうしたらいいのか分かりません。 私が無知なため、宗派などもめちゃくちゃになってしまっていますが、教えていただければ幸いです。
お釈迦様に料理を供して、結果的に死に至らしめてしまったチュンダの話。 チュンダはその後、どうなってしまったのでしょうか? 自分と重ね合わせて考えてしまいます。 神経難病で長い闘病の末、89歳で亡くなった父親。 ほぼ末期に近いと医師からは言われ、せめて自分に何が出来るか考えて、 父の大好きなコーヒーを許可を得て持っていくことにしました。 10日程経って、ある日突然父が腹痛と嘔吐を訴え、吐血をし、 それを誤嚥したことがきっかけでみるみる容態が悪化、 1か月余で亡くなりました。 仕事をしながらの介護・入院・看取り・葬送、 その後の諸々と振り返る余裕もなく時は過ぎましたが、 少し振り返れるようになった今になって気づいたことがあります。 吐血をした前の日、 いつもの通り仕事帰りに病院に行き、 夕食介助の後、私は父に持ち込んだインスタントコーヒーをトロミをつけて飲ませました。 父はあまり声が出なくなったのに、 「あぁ、コーヒーはやっぱり美味しいなぁ」とその時はハッキリ言いました。 それが本当に美味しそうだったので、今もありありと思い出します。 そして、翌日の昼頃に腹痛と嘔吐を訴え吐血したのですが、 あのコーヒーがその原因ではなかったかと。 会社で私も飲んでいたインスタントコーヒーを夕方ポットに作って持って行ったのですが、 そのインスタントコーヒーは何か月も前に開封したものでした。 健康体の私には特に差支えはなくても、父の弱った体には酸化したコーヒーが害があったのではないかと。 内視鏡検査も出来ない全身状態で、原因を特定できなかったのですが、 一日でも長く生きて欲しいと心から願っていたのに、 私が父の命を縮めてしまったのではないかと。 取り返しがつかないだけに苦しいです。 こんな罪を背負って、生きていっていいのかと思います。 私が死んで詫びたところで、どうにもならなのは承知です。 救いが欲しくて、読んだ仏教の本の中に、 チュンダのことが書かれていました。 チュンダは自分のせいでお釈迦様が亡くなったと、苦しみ続けて それでも尚生きたのでしょうか? 私はどう償えばいいのでしょうか?
母の遺骨の納骨について悩んでいます。先に逝った父の遺骨は高野山で永代供養してもらったので、母も同じところでと考えています。ただ、10年ほど前に母が亡くなった時に家族葬はしたのですが、お金がなくて、ずいぶん長い間納骨できませんでした。そうこうしているうちに、妹が、「納骨できないなら遺骨は私が納骨する」と言って持ち去ったのです。しかし、妹は軽度の精神障害者のため、さほど収入があるわけでもなく、どうやらそのまま母の遺骨は妹のところにあるようなのです。仲が悪いので音信不通で、確かめることができません。団地の湿気た、冷たい部屋に置いてあると思うといたたまれないのですが、取り返すこともできず。最近、ようやく経済的に落ち着いてきたので、貯金して永代供養したいと考えています。しかし、遺骨を取り返さないことには、それも叶わず。裁判を起こして、遺骨を取り返すべきでしょうか。妹は働いているので、昼間、母は一人であの冷たい部屋にいることになります。喪服にカビが生えたと言っていたような部屋なので、遺骨もどういう状態か推して知るべしです。できることなら取り返したい。でも、そう簡単には取り返せない。しかし、このままでは母が浮かばれないのではと思い、相談いたしました。心の整理がつきかねております。よろしくお願い申し上げます。
昔、犬を餓死させてしまいました。 夜職をやっていた当時仕事が忙しく構ってる暇も無かったため水や餌を置きっぱなしにして出かけることもしばしばありました。 昼は学校夜は仕事、帰ってきたら爆睡してしまい朝ドタバタと支度をする毎日でした。 置き餌を食べていると思っていましたが食べてない日もあったようでそれにも気づかないくらい私自身も疲労しており、朝気づいたら息をひきとっていました。 現在旦那と猫を飼っていて 餌や水、体調管理などきっちりやってます。 ただふとした時に餓死させてしまった犬の事を思い出してすごく後悔してしまいます。 きっと犬に恨まれているだろうなと思い生きています。 わたしにはペットを飼う資格がないと思います。 今の猫も幸せなのかわかりません。
どうかお坊様方のお考えを教えていただきたいです。 自分は小学生の頃から仏像が好きでして、仏壇は有りませんが最近、コツコツと自分の部屋に不動三尊とお釈迦様と四天王の像をお祀りしていますがまだ開眼供養をしておりません、昨今の新型コロナウイルスの件やお寺様に納める御布施ももうちょっと貯金してから行いたいと思いお盆が終わった辺りに菩提寺にて法要をして頂こうと思っています。 そこで質問なのですが複数の仏像の開眼供養をしてもらいたいと思った場合は一度にしていただいたほうが宜しいのでしょうか?(複数の場合は御布施の金額も相場より上がるのでしょうか?)またはお1人ずつ開眼して頂いても宜しいのでしょうか? 長文、駄文失礼致しました。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
元々、お寺さんに行くと落ち着くのでたまに寺社を巡ります。 最近のブームもあり、御朱印を知ったのは最近です。御朱印をただ頂くのではなく、本来の方法。納経して頂きたいな〜と思っています。 納経するのも、私としては先祖供養の為、菩提寺(曹洞宗)にしたかったのですが、確認の為に電話をしたところ、怪訝そうな対応をされてしまいました。 『檀家さんで写経したものを持ってくる人はいるけど…』と。 ダメです!と、断られた訳では無いのですが、言葉尻というか、声のトーンから、歓迎はしていないと感じました。 電話対応して下さったのは、住職ではなく、お嫁さん?です。 住職、大住職がとても優しい方なのもあり、ショックでした… 先祖供養をしたい為の納経でも、断られることはあるのでしょうか? 無知でお恥ずかしいのですが、ご教示頂けますでしょうか。
先日は、ありがとうございました。 教えていただいた写経と、朝晩の読経を毎日やって彼の為に過ごしております。 実は、どうしても彼に会いたいのと、四十九日までお参りがしたくて、毎日彼のご実家に了承を得て伺わせて貰い、数分で帰る日もあれば数時間 彼の話をご家族として帰る日もあります。 最初は、7日ごとに伺おうかとも思いましたが、どうしても毎日行きたくなり、自分勝手とは思いつつ寂しさを埋めてしまいます。 これはいけない行為でしょうか? 毎日お参りしては、修行頑張ってね。私も写経頑張ってるよと、励まし合うように自己満足をして泣かない様にして、彼への後悔を考えないようにしています。 あと、四十九日が終われば、どの頻度で彼のご実家にお参りに行けばいいでしょうか? もちろん、毎日は行きません。 週に一度くらいは大丈夫でしょうか? それとも隔週くらいなら? 月命日は、毎月伺いたいと考えています。 どうか、教えてください。 よろしくお願いします。
40代主婦です。三児の母親です。 私が小学生の頃から教育虐待、過干渉に悩まされ、就職を機に家を出て30年以上実家とはほぼ交流がありません。私の兄弟やその配偶者は親の望むような高学歴高収入で自慢の子供たちで、私だけ絶縁状態です。かつては私も勉強が好きでしたが、虐待によるPTSDを発症しました。父親の罵声を思いだし全く勉強できなくなりました。 両親の選民意識が強く、交遊関係(友人の親の職業を確認されていました)が狭められ、習い事、塾も親の意志で決められ、成績が悪いと罵倒されてきました。両親からは「アホな(低学歴な)人間はうちにはいらない」と言われ続けてきました。 私の子供の1人に軽度の知的障がいがあります。過去数回会いましたが「ばあばとじいじには会いたくない。」と嫌がります。夫が高卒のことも気に入らないので結婚式も呼ばず、里帰り出産も一度もしていません。 子供たちは高校生以上になり、特に私の実家には思い入れもありません。 両親も高齢になり、歩み寄ろうと何度かしましたが、父親の暴言や身内自慢で私の精神状態が悪くなりそれっきりです。このまま絶縁のままで良いのでしょうか。 先祖供養は、お墓参りはできないのでお遍路や高野山に参拝しています。位牌はありませんがご本尊様に毎日家でお線香や仏飯を供えています。幸いお姑さんが慈悲深い方で大きな愛情で私を育て直してくれて希死念慮は消えつつあります。お姑さんは大変な苦労をされてきた方で過去に数回一緒にお参りしました。夫は子供たちに沢山手を掛け愛情を注いでくれたので、「これが本当の愛情なんだ」と何十年来の傷が癒されてきたところです。 実家との関係をどうすべきなのか答えが出ません。感謝しなければならない年齢にきたのはわかっています。良きアドバイスを頂けたら幸いです。
昨年に続き、今年も餓鬼についてご相談させてください。 今年実父が亡くなりました。問題は母、叔母、墓のある在家団体です。 母は自己中心的でお金に執着し、他人の悪口で自分が優位に立つことばかりいい、また他人の財産を狙ってばかり。母方祖母の相続では叔父と相続トラブルを起こし絶縁状態、私や父との生活でも自分が優位なようにと常に画策。父の葬儀後は、遺産相続に奔走、四十九日も行わず、遺産はほとんど全て母のものにして、さらに私の夫の遺産や収入等も当てにした生活を要求、私ともトラブルになっています。 私が何か言えば、「私は母親なのに」「あなたは冷たい」と逆切れ、不法侵入を繰り返す等犯罪めいたことも。知らない人には都合のいいことを言うなど、人格障害レベルの自己愛です。 叔母は父や私が在家団体と一定の距離を置く(叔母の信仰の仕方に従わない)ことに不満があるらしく、父の葬儀に戒名はつけない、墓にも入れない等と言い出しトラブルに。夫の納骨、三回忌についても、納骨法要だけで三回忌法要はなしと決めてきました。元々在家団体の活動で勝手に父や私の名前を使ったり、金銭トラブルを起こしています。在家団体の方も叔母に都合のよい対応で曖昧にする部分があります。 亡父は、在家団体の信者である祖母、叔母が家族を放り出し、開祖等への供養に熱心である様子に対し、家族に対して最低限の対応はすることと供養の対象は三界萬霊の方と私に言っていました。 お墓は私の方で維持するため在家団体との最低限のお付き合いはしますが、夫の三回忌法要を断られたこともあり、今後、身延山で本願人として夫と父のお位牌を立て、ご供養は移すつもりです。また、このお盆にあたり、身延の方でお塔婆供養を申込しました。 以前にご相談した際に「触らぬ餓鬼に祟りなし」「人の振り見て我が振り直せ」「「善導の精神」こそが菩提心なのであり、衆生済度の精神」とのご回答をいただきました。 仏教的に母、叔母、在家団体に対して今後どう対応すべきか、他にできることがないか、ご意見をいただければと思います。また、日蓮宗の信徒というわけでもなく身延山にお位牌を立てる形になるので、日蓮宗の方からのご意見もいただければと思います。
同じ年頃を育てるママさんと知り合いになり、宗教に勧誘され、憤りを感じています。子供の成長の悩みをダシに宗教に勧誘されました。 私は故郷から離れて暮らしていますが、毎年欠かさず先祖の墓参り、亡くなった祖父母の事も忘れたことなどありません。 共に過ごした亡くなったペットの墓参りもしていますし、もちろん忘れた事などありません。 「この宗教は他人の先祖ではなく自分の家の先祖に対して拝むんです。先祖供養をしなければ、『因縁』がある限りあなたはずっと悩むことになり、その因縁は子供にも影響を及ぼすから、会費を払いお札に向かって毎日拝むだけで、先祖か供養され全てあなたの良いようになっていくから。子供の成長に悩んでいるのも因縁のせいかもしれないから。入信して悪いことはないから。私もとても金回りが良くなったし、子宝にも恵まれた。」 と不快になるほど口説かれました。 私が先祖の墓参りもしているし、忘れた事もないと話したのですが…。 先祖は会費を払って拝まなければ供養されないのでしょうか。 子孫を守ってはくれないのでしょうか。 先祖が仮に不幸だったからといって子孫に自分と同じような不幸を背負わせるのでしょうか。 何か良くない事が起ればすべて『因縁』のせいにして、拝むだけで解決していると思い込んでいるこのママさんを不快に感じますし、学校などの集まりで会うのも嫌です。 人の不安を煽り、入信させようとしてくる人に不快に思わされ迷惑しているのですが、どう対処したらよいのでしょうか。 もう2回断っています。
娘を自死で亡くしました。供養になればと、八十八箇所参りを夫婦で巡礼中です。 現在、娘はどのような気持ちでどのようにしているのか、いつも心配して涙が出てきます。 娘は成仏できているのでしょうか?
彼氏がいるのに不倫をし、どちらの子か分からないという理由で2回も中絶という過ちを犯しました。今まで自分の罪と真正面に向き合う事をせず供養も何もしていませんでした。最近子宮頸がん検査で再検査になり死に対する恐怖を感じました。それと同時に自分がしてきた行いが人殺しと変わらないと思うようになりました。当たり前に生きていた日々が当たり前じゃない。気づいた時には遅過ぎました。私は今から現世で徳を積んでも天国に行くことはできないのでしょうか。あの子たちは今どこで何をしているのでしょうか。同じ過ちをした私のことを憎んでいませんかね…私が現世であの子たちに出来ること、そして水子供養の仕方を教えて頂きたいです。
初めての投稿で至らない事があると思いますが宜しくお願いします。 今月の頭に母が末期癌で73歳で永眠しました。 八月の家族旅行から帰宅した数日後に調子が悪いと病院へ行ったところ大きい病院を紹介され検査入院し10月に癌と診断されてからあっと言う間でした。 もっと親孝行したかったのに、、でも母自身が一番、悔し思いをしてしてるのではと後悔ばかりで毎日、涙が流れてしまいます。 恥ずかしながら母の死を迎えるまでは初詣以外、宗教に触れる事が有りませんでした。 しかし、故人の供養、心の拠り所として必要なんだという事がわかりました。 でも、泣いてばかりでは前に進めないので初七日過ぎてから思い出とともに母の部屋を掃除していたところ、風呂敷に包まれた遺骨と遺品がクローゼットから出てきました。遺品から母の母(私の祖母)もののようです。母は結婚する際、実家から勘当されうちは短命家系の為、おばあちゃんは亡くなっていると子供頃に聞かされておりました。 しかし遺品を見た限り、14、5年前までは存命しており施設で生活していたようで写真もありました。私は一度もあった事はなく、顔も写真で初めて拝見しました。 母は何も話してくれず逝ってしまった事に自分が頼りにならなかったのか信頼されていなかったのかと悲し気持ちにもなり、また祖母のお骨がクローゼットにずっとあったかと思うと寂しかったのではとか成仏できてるのかと可哀想になってしまいました。 なので母と祖母を一緒に供養してあげたいのです。 ただ、祖母がいつ亡くなったのかわからないので、来月、母の49日を迎えるのでその際に一緒に供養して頂いて大丈夫なのでしょうか? 祖母はお骨だけで位牌はありませんでした。物心ついた時からお大師様へ毎年初詣の際に護摩札祈祷して頂いていた為、兄と相談して母は真言宗で戒名を頂きました。 今は母のお骨の横に祖母のお骨を置いて毎日、お線香をあげています。 祖母も戒名を頂いて位牌を作った方が良いですか? お墓は経済的に直ぐに用意出来ませんが出来れば母と祖母を一緒に納骨してあげたいと思います。 取り留めのない文章になりましたが、母と祖母の供養についてお知恵をお貸し願います。
はじめまして。 今月はじめに祖父がなくなり、9月中旬に家で四十九日法要をします。 しかし金銭面などの問題からお坊さんに読経して頂かないことにしようとしているのですがどうなのかと思い、質問させていただくことにしました。 生前から先祖供養として祖母がお経を朝晩読んでいたのでそれをききながら 「素人でも供養する気持ちが大事なんだよ」と祖父も言っていました。 生前のことを考えると祖母に読経してもらうのもいいと思うのですが四十九日が一番重要だそうなのでどうすれば良いと思われますか?
死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。
今から10数年前のことです。 私は元々シングルマザーで、当時3才の娘を育てていました。そして付き合っていた人の子供を妊娠しました。しかし、その人が「おろしてほしい、今いるお前の子供もかわいくない」と。他にも酷い事を言われ、精神的に追い詰められてしました。産みたかったけれど、彼と別れてシングルで上の子と父親の違う子供を産む…当時の生活環境を考えると一人で産む決断はできませんでした。その時は上の子も片親にしてしまい哀れな子だと思えてしまい、おなかの子を産んだところで不幸な子を増やしてしまうだけだと思ったのです。 それから数年が経ち、違う人と結婚することができました。その人との子供も産まれました。夫は私の連れ子の事も可愛いと大切にしてくれます。とても幸せです。中絶した子供の事も心のどこかで置き去りにしていました。だからなのか、ここ数ヶ月前から急に思い出し、毎日思い出しては泣いています。今の幸せはあの子を犠牲にした上で成り立っていると思うと自分が憎らしくて許せません。それに、産んであげたかった。父親が誰でも私の子なのに。子供に罪は無いのに。今いる2人の子を見ていたら余計につらくて、どう生きて良いか分かりません。毎日、「子供たちの為に生きるべき」「いや、私は許されるべきではない」と自分に自問自答して毎日過ごしています。今更後悔したところでどうすることもできないのに、つらくてつらくて、自責の念しかありません。自分で解決の糸口を探してももうどうすることもできません。私はどうしたら良いのかアドバイスください。お願いします。
念願の第一子を出産したのが39歳。高齢出産であっため、難産を経験。 実家の両親は、私(妻)が高齢であるし、家のローン返済のためにも、今後の生活のためにも育児休暇は3年と考えていて、私たち夫婦が2人目の子どもを考えているとはまったく考えていなかった。両親は一人目の難産も知っているし、子どもにとっても高齢の母はデメリットの方が多いし、体の負担や今後の負担を考えて、二人目の出産には大反対。 周りのママは自分とは一回りも違って若く、2人子どもを出産している人ばかり。子どもがかわいいあまりに今後の将来のこともよく考えずに、ただ授かったらありがたいという考えだけであった私は最初は喜んでいたのに、あまりに母の心配と反対に圧倒され、中絶を決意。 先日手術というときになって、せっかくできた命を殺すことがあまりにも悲しくなり、涙止まらず。 手術してしまった後は、せっかく授かった命を産むべきではなかったのか、一人の人間として最低なことをしてしまったと自責の念が止まらず。 今まで通っていた支援センターに行って、他の赤ちゃんを見るのもつらくなってしまった。今まで当たり前に笑ってい日常が、心から笑えなくなってしまった。 何よりも子どもを望んでいた夫、兄弟がいたらもっとコミュニケーション豊かにそだっだであろう息子に申し訳ない気持ちでいっぱい。 しかしやはり、年老いた両親、これまで苦労をかけた両親のためにも、自分がしっかりとしていかなければならないし、これ以上心配をかけてはいけないと思う自分。 今は、何もやる気が起きず、どう気持ちを整理し、前に進んでいったらいいのかがまったく見えません。 どうか、こんな私に考え方、今後の気持ちの持ち方、今後の生き方をアドバイスください。 どうかよろしくお願いします。
今月頭に大好きだった彼氏に一方的に振られました。 相手からの猛アプローチに押されて付き合いましたが、いつのまにか私が大好きになってしまいました。 そんな中の突然の別れだったのですが、色々と問題があった彼氏なので、いつか別れなければいけない…と思っていましたが、その反面、こんなにかっこいい彼氏には2度と出会えない…という気持ちが勝ってしまい、私から別れを切り出すことができずにいたので、別れられたことは良かったのだと思っています。 それなのに、とても苦しいのです。 理由は、私のことをあんなに好きだった人が去って行ったことが悔しいのだと思います。 彼じゃなきゃダメだ…という気持ちは全くありません。でも誰かに想われていないと寂しくて寂しくて仕方ないのです。 昔から彼氏がいなくなった途端、新しい出会いばかりを求めてしまうのです。自分磨きや趣味を見つければいいのに…と思いながらも男の人との出会いを最優先してしまいます。それで好きでもない人に身体を許してしまうことが何度もありました。 こんな私に男以外の大切なものを教えていただけないでしょうか。
先日、インターネットに、死者の供養の為の護摩や、護摩木に「為○○之霊位」のように、死者の名を書いて奉納することを批判している書き込みを見ました。 そのかたが言うには調伏や増益など5、6種類の護摩の中には死者に関するカテゴリーがないから、と。 匿名掲示板のことですし、そのかたに直接聞こうにも書き込が数年前のものでしたし、素人かプロか、宗派も分からないかたでしたが、やはり護摩木を奉納する時に気になります。 しかし今は「護摩の種類」も参拝者に知らせてるわけではないし、現場でもそんなに気になさらないものでしょうか? 護摩での死者の供養をなさっているお寺には失礼な質問かもしれませんが… 私は宗派問わず参拝いたしますので、護摩祈祷をなさる色んな宗派や寺院のお考えをご教授いただけたら幸いです。
私は浄土真宗の檀家です。しかしいくらか私のしている霊的ワークと食い違う面があるようなのです。 1 毎日全ての命が永遠に幸せに暮らせる浄土の到来を1日何十回と祈る →浄土真宗に祈りの習慣は無い 2 敬愛する阿弥陀さまを参拝する →「阿弥陀如来なんて死後しか助けてくれないから自分の死期を早めるだけだよ」と言う人が居る(主に創○学○など) 3 信徒として、マントラでもお題目でもいいから何か功徳を積みたい(「見返り無く人を愛することは当たり前」というポリシーが強いて言えばそれらしきものです) →「ただ阿弥陀さまを信じるだけで浄土に永住できるから何もしなくていいんだよ」と、キリスト教の一部のプロテスタントのような意見がある (浄土永住に向けた生きる道での修練を知りたい) 4 仏壇の仏像には曹洞宗のお坊さんに開眼供養してもらった →浄土真宗に開眼供養は無い ↑それじゃただのインテリアになってしまうのでは… これらについて深掘り解説をお願い致します。ここまで読んでくださった方も永遠に幸福でありますように