まだ住職成り立てホヤホヤで、誰にも相談出来ず、恥ずかしながら、こちらにて、諸先輩方からの御指導頂きたく思います。 実は今日、檀家さんが相談事があるとのことで来寺されました。 その方曰く、『生前葬』をお願いしたい。 もう80で長くないし、どんな葬儀になるのか、また、自分の今までのご縁があった方が来るのか見たいとのことでした。 他にも様々な思いがある様子で、既に葬儀会館は押さえているようです。 私はその場では即答出来ず、教義的に可能かどうか、宗派の事務機関が、年末年始休みで問い合わせ出来ないと、その場しのぎの返答をしました。 個人的には、要は今回の件は、僧侶が、生前葬という名のエゴイズム丸出しの、パーティーのBGMに徹する事であろうと感じます。 お布施の誘惑と、宗教者としての確固たる立脚地との狭間で悩んでおります。 皆様はどう思われますでしょうか? 宗派を超えて、仏教者の忌憚ないご意見をお聴かせ願います。 追記 依頼者は裕福なお方です笑 あと、出来ればこの愚問の御解答は非公開だと嬉しいですが、如何でしょうか?
こんにちは(=゚ω゚=) 長年漠然と解決しないものがあり、単刀直入に質問をさせて頂きますm(__)m 『お坊さんとは一体なんなのでしょうか?』 職業としてあるが、お医者さんとは違い体に触れて治療はしない。 話によると事業者の税金は非課税。国民でない? いろいろ人生の相談にのってくれるが、近所の年長者とも違う。 悪い行いをしては善くないと諭すが、もちろん警察ではない。 いろいろ知っているが、哲学者などとも異なる。 誰にでも分け隔てなく門戸を開いている。 毎日毎日、修行やお経を上げているが、相撲のように、儀式や観戦のようにお客を湧かすわけでもない。 法律にある、『個人の思想の自由』を良い形で具現化し続けているもの? となると要は『宗教』なんでしょうが、究極の自己満足の生き方?それとも、やはり修行を死ぬ(一般的な意味で100歳の肉体)までやりたいマゾヒスト? もし、ある一定の地域(日本として)の全員が仏教をしたならば、そこの人々は桃源郷になるのでしょうか?ロボットを創る人も、パイロットも、芸能人も、ウェイトレスもいなくなるので、生活が戦国時代ぐらいになるイメージですが。 でも、そうなると、助ける人がいなくなると、お坊さんはすることがなくなる? 思い付くままに箇条書きにしていますので、僕の偏見や間違いもあるかと思います。すみません。m(__)m 大変失礼と思いましたが、ずっともやもやしていたので知りたいです(。-人-。) よろしくお願い致します(^-^)
お布施については既に回答して頂いている中に見ることできます。また、他のホームページにも沢山書かれいることなのですが、それでも解らない愚か者にご教授をお願い致します。 お布施とは三施のことである、といって間違いないと思います。 お布施は対価として支払うものではなく己の為の修行です、というのは理解できます。 しかし一方で、お布施はお礼ですと多くの方が仰っています。 また、お布施は謝礼ではありませんと仰る方もおられます。 謝礼は対価であるのか対価ではないのかということも、意見の分かれるところだと思います。 教えを説くことや読経も三施の中の法施ですから、見返りを求めないことが大前提でありますので、謝礼を受け取って良いのだろうか? と思います。 謝礼を要求することはしていませんと仰っても、謝礼を受けることはほぼ確実なので未必の故意というものです。 しかし私のような凡夫は、お布施をする時にお礼の気持ちを込めて無いのか?と問われれば、有りますと答えざる負えません。 お布施はお坊様が受け取るのではなくお寺に納めるものですと仰られますが、お坊様がお寺で生活をしたり給与を受けていれば、お布施を受け取っていないとは言えないと思います。 などと言ってますが、お寺やお坊様がお金を必要とすることを否定するつもりでは全く有りません。(重要) お坊様が畑を耕しているお寺もございますが、お釈迦様はそのようなことを推奨しなかったと信じています。むしろお布施を施したり受けることを積極的に推奨したと思っています。 しかし、新宗教の中には物欲を捨てるためにと言って多額のお布施を求めるものもございます。ここでは是非を問う事ができませんが、その様なことも考慮に入れてのご回答をお願いしたいと思います。 厳しいことを問うているように思われるかも知れませんが、「仏教しっかり頑張れよ!」っていう応援メッセージだと思ってください。 正しい気持ちでお布施できるようにご回答お願いいたします。
私の親しい友達Aが亡くなりました。 死因は事故死らしいと伝えられています。 本当は精神的な病に苦しんでおり自死だったみたいですが… Aが亡くなったと伝えてくれた友達が住職の娘で、彼女の父親が葬儀に住職として参加していました。 もちろん彼女も葬儀に参加してました。 私とAと住職の娘は同級生で昔からの親しい友達です。 Aが亡くなったと聞いた時に、どうして? なんで?と聞いても事故死みたいだよ、詳しいことはわからないと言ってました。 ただ、普段からポーカーフェイスな彼女が青白い顔をして大量の涙を流しながら話をしているのを見て、ただ事じゃないことが起きていたんだな思ってました。 Aが亡くなったとお寺に連絡があってそれを同級生に伝える役目はとても辛いものだと思います。質問攻めにもあっていましたし、 「お寺に連絡があったんでしょ?本当のこと教えてよ」とか「自宅で自殺したんでしょ? 運ばれていくところ親が見ちゃったよ」とか 「友達Aは檀家なんだろ? お墓はお寺にあることになるんだ〜気まずいね〜」なんて言葉をかけられたりもしていました。何を聞かれても耐えているその姿はとても見てられなかったのです。 ご遺族の意向で事故死と伝えるように頼まれてるのかもしれませんし、きっと彼女にしかわからないような苦しみを抱えていると思います。私はお寺の人間じゃないので彼女と同じ立場にはなれませんし… 苦しかったら、いつでも相談のるよと言ったら、「その気持ちだけで充分だよありがとう」と言われました。 友達Aの死の詳しいことをもしかして知っていたとして、彼女は誰にも相談せずにずっと心に秘めて苦しんでしまうのでしょうか? 正直、彼女は家族には心を開いていません。家族に相談とかは考えられないです。寺に住んでいて住職じゃなくても立場上何も話せないのは檀家さんの個人情報を守るため?守秘義務があるから仕方ないことなのですか? 友達Aのお墓の場所は彼女のお寺にあります。 それがまた辛いと思います。 彼女は抱え込んでしまうタイプの人間で精神的に不安定なところがあるのでとても心配です。友達Aのようにもしも万が一亡くなってしまったらと思うと怖くて怖くてたまりません。 私は彼女のために何が出来ますか? 何もしないことが優しさなんでしょうか?
10年以上前に亡くなった母の遺骨や、親族の遺骨が家にあります。仏壇に置いてあります。 うちは、墓はないです。母は亡くなった時に未婚でしたので遺族の私の元にあるのですが、海への散骨を考えております。 私自身の死後の希望も海への散骨です。 他の方に話すと、10年以上も遺骨を置いておくことをまず咎められます。 それから、散骨についても咎められます。 私の考えとしては、子供や孫に墓を気にかける事が必要なく過ごしてほしいし、海水浴に行って思い出したら、手を合わせるくらいでいいのではないかと考えております。 粗末にしてるとか、非常識と言われるのですが、そうなってしまうのでしょうか?。 やはり、永代供養などの方がよろしいのでしょうか? 後、主人は宗教をもっておりますが、私は無信仰者です。だけど、毎朝、主人の用意した仏壇に線香をたて、御先祖様に向かい手を合わせます。 信心深い友達に、お母さん、お父さん、などなど一人一人を思いながら、その数の線香をたてるものだと教えてもらいましたが、それも私には理解できません。私の知らない御先祖様もいらっしゃるし、主人の御先祖様や離婚して離れていますが、子供の父親の御先祖様にも手を合わせたい気持ちもあります。そんな気持ちを一本の線香に託すのは間違っているのでしょうか? 墓にしろ、毎朝の線香にしろ、形式じゃなくて気持ちが一番大事なのではないかと生きてきましたが、あまりにも、あなたは間違えていると多く耳にしますと考え直す必要があるのかと思い質問させていただきました。 無知すぎてお恥ずかしいばかりなのですが、御先祖様を大切に思い生きていきたいです。 間違えてるなら正したいです。 どうぞ御指南お願いいたします。
年が明けても、過去の辛かったことや後悔や自責の念を思い出してしまいます。 元旦だけはと何とか頑張り切ったのですが、気持ちが切り替わりません。 過去の負債を取り返そうと完全主義になり過ぎてしまうことが多かったのです。 頑張ったつもりでも、まだ足りない、まだ足りない、もっと、もっとの繰り返しでした。 断ち切らなければと思ってもこの20数年の癖を断てないのです。 自然体でいればと思うのですが、面と向かうと家族でさえも顔が緊張するのが自分でわかります。 常に緊迫感を持っていないと不安です、相手の心を傷つけることを恐れるあまり表情を観察しすぎたり、心の裏の裏まで書いて話をしようとしたりしてしまいます。 他人に従順になりすぎたり、自分なんて2の次3の次になったり、とにかく嫌われるのが怖く、自分では頑張ったつもりでも一つ失敗するごとに台無しになった気がして、それを取り返そうと必死になったりしています。 家では洗濯も、風呂掃除も、炊事も、買い物も、家族の一員のペットの世話も、灯油などのことも、全部自分が引き受けなければとなってしまいます。 失敗とは、買い物した時に一品買い忘れたとかのこともありました。過去の良い行いがそれでリセットされた気持ちになるのです。 言い訳かもしれません、幼少期から生真面目な性格でした。学校の消雪パイプを踏んでしまい、同級生に水がかかった時は自分の服がびしょ濡れになるまで浴びましたし、テストでは100点でなければ納得しませんでしたし、中学や高校の時の読書は宗教書や自己啓発書などでしたし、先の従順さもあり、利用されることも多くありました。高校の担任の先生はもっと高校生らしくハメを外すくらいの気持ちを持ちなさい、もっと遊びなさいと注意を受けました。 何か一つ失敗するのがトラウマになり、失敗しない人生を送るという気持ちが起きてしまい、日々落ち着かず自分の気持ちと向き合ったり、自分を愛し大切にすることすら長いこと忘れてきました。 過去の習慣を断ち切り、新しく生きたいのですがどうしたら良いですか? 感謝日記、瞑想、自分褒め、温泉などでのリフレッシュ、ウォーキング、色々試したのですがどれも上手くいかず困っています。 よろしくお願いします、乱文長文失礼致しました。
私の家は憑き物筋と呼ばれています。 実家の仏壇には箱に入った生き物の骨が祀られていて大きさも箱によって違います 母はそんな家を嫌がり近くに別のアパートを借りています。 祖父母は新興宗教にハマり仏壇の箱を放置しています 曾祖母に憑き物について教えて貰い面倒を見ないと災いを呼ぶと育てられていたので私が今お世話をしています お水を上げるのを忘れそうになる時にコトコトと動くことがあったり幼い頃の私を襲おうとした不審者が野良犬に襲われて私のことなど忘れて逃げたりとそういう存在を知らしめるようなことを時折してくるそれに最近まで愛着すら湧いていました。 最近、私の飼い犬の声でご近所トラブルがあった時の事です ケダモノの余所者は出ていけ と言われて塩をかけられました。それもショックだったのですがその夜に私に塩をかけたご近所さんが家の目の前で転んでしまい、気付かずに車庫に入れようとした娘さんの車に轢かれて足を折る怪我をしてしまったのです。 驚いてパニック状態になってしまった娘さんの代わりに2人の悲鳴で起きた私が救急車を呼んだのですが足を折ってしまった人ががずっと 大きな黒い犬や小さなイタチのようなものが私を押さえつけて動けなかったと顔を青ざめさせながら言うのです 思わずゾッとしてしまいました。私にとっては優しく、どこか愛らしいような目に見えないお隣さんのような存在が実は化け物かもしれないのです 憑き物筋について調べると犬神などのおぞましい造り方を知ってしまいました。 もしもうちの憑き物さんたちがそういう苦しみを味わった挙句今も尚家に縛り付けられていると思うとやるせない気持ちになります 憑き物筋の解放、供養などの仕方など教えては頂けないでしょうか? 家族は皆世間体を気にして周りに憑き物筋と知れ渡っているのにそれを秘密にしようとしてなかなかに大きく動けません 哀れでおぞましい獣たちを救う方法はあるのでしょうか
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
厚かましく、非宗教説を続けます。 釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。 先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。 仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。 これは中国の仏教を模倣したのでしょう。 釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。 次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。 元々葬儀には無関係だったようです。 確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。 釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか? 仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。 蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。 これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。 参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。 本堂は娑婆から切り離された死の世界です。 本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。 「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。 仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。 従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。 現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。 像は本堂を向くべきだと思います。 さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。
3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。
お忙しい中申し訳ございません。 このような投稿をするのがはじめてなもので分かりづらかったり読みづらかったりされるかもしれませんがご容赦ください。 だいぶ前から考えていた事なのですが自分の中で否定ができないもので、その筋の方にアドバイスをいただきたく投稿しました。 もしかしたら失礼なことを言っているかもしれないので宗教のことなど何もわからない愚か者の戯言と思ってください。 もし、輪廻があるとするなら今世で上手く生きた人(いわゆる成功者)と今世で辛いながらもなんとか生きた人(成功体験のすくない人)が同じスタートラインに立つのはフェアではないような気がします。 また、良心等に問いかけ来世が自ら重荷をかすような人生を送るならわざわざ悪人はそのような人生を選ばないのではと感じます。 輪廻に選択があるのならば人のためというものは苦労が伴うため善人と呼ばれる人ほどこの世を選び続け辛くなるのではと感じます これらの事からどんどん要領のいい悪人がこの世に居続けてしまうように感じます。 個人というミクロな考えでは輪廻転生という考え方は非常にポジティブなことかもしれないのですが世界というマクロな考えではこの輪廻転生が諸悪の根源であるような気がしてしまいまして。 現実として自然破壊の進行や昔では考えられないような事件の発生などあり、こんなかなしい考え方をどうしても否定しきれません。 仏教等でこのような価値観の否定などはあるのでしょうか。教えて頂けたら幸いです。
数年前まで、個人の思想が強く入った宗教団体(…今考えたらその考え方や教義すらも随分と怪しいものですが。。)のようなものに傾倒していました。 それまでは絶対だと信じてた教祖の男性の優しい態度や言葉も、ある事実がきっかけで嘘だと感じ出しました。自分の本当の理解者は家族であると気づかされ、家族の協力もあって無事に抜け出すことが出来ました。 残ったのは同じグループにいた信者の男性が作った連帯保証の借金だけ、儀式だとか実際そんなものがあったのかもわからない借金のため払い続けてきたお金を思うと、大人のくせにもう少しまともな考えを持てなかったのか、悔やんでも悔やみきれません。 確かに、私が今まで散々好き勝手やって来たなかで傷つけた人は思い出すだけでもたくさんいます。今回の件でも家族にはとんでもない迷惑をかけています。それだけでもきっと私は地獄に落ちるんだろうと思います。 ですが、教祖の元にいた時はあれほど強く抱いていた他人に対して抱いていた歪んだ優越感、恨む気持ち、妬む気持ちも「私の考え方こそが間違っていた、今まで勘違いしててごめんなさい」と思うだけでかなり楽になれました。ですが、そう考えて生きるのは間違いなのでしょうか? 「今まで皆さんを不用意に傷つけてごめんなさい。これから一生かけて償っていきます」と思いながら生きていくべきなのでしょうか? 同化お教えを賜れればと思います。よろしくお願いいたします。
過去、現在含め、周囲に足腰の弱った人が二人います。 一人はトイレに駆け込む前に排泄物を漏らし、もう一人は玄関で倒れて咄嗟に助けを呼んで助かりました。その時、二人とも同じことを言いました。 「なんで、こんな風になってしまったんだろう…」と。 二人はきっと、この時まで「自分のことは努力次第で、ある程度管理できる」と思っていたんだと思います。だけど、出来ない(出来なくなってきた)と強烈に感じて、ショックを受けたんだろうと思います。 健康は人がコントロール出来ないと実感し易い、最たるものだと思いますが、二人は咄嗟には納得出来なくて「何故?どうして?」と怒りと不満と絶望を感じたようでした。 その時、何となく閃くものがありました。 人間も含め、すべてのものは環境によって生かされていて、自らコントロール出来るものは実は何一つないのではないか、と。もちろん、生きるために嫌でも努力は必要ですが、それ以前に環境が整わなければ望み通りになることはない。それが当たり前の事実なのかな、と。 前置きが長くなってしまいましたが、その時、頭に閃いた文字が「他力」でした。私は宗教には不案内ですが、その言葉はぼんやりと知っていました。この生かされているという事実を「他力」というのでしょうか。でも、私はそれを有難いとは思いません。事実に有難いも有り難くないも、善悪も、良し悪しもないように思えます。 他力とは、有難いとは何でしょうか。
ネットで仲良くなった人がいるのですが、私が霊に憑かれやすいらしくて助けてあげたいと言ってくれてます。 お金を取られてる訳ではないのですが、写真や動画撮るように言われて私や家、車を映してLINEで送ると、あー、いるねって言われて具体的にここにはこんな人がいるとか、ほかっておくとヤバイからと言われて、その都度お経読んでくれたり、結界張ってあげるからと言われたりしています。 その人は私の住んでる所からかなり離れた所に住んでいるのですが写真写したら心霊写真みたいに顔など写ってたり、お経読んでくれてる時だけブチブチいったりするので怖くて言われたまま従っています。 私は一人暮らしをしているので何かあったらとビクビクしながら生活している為、精神的に疲れました。 先日その人と喧嘩してしまい、私の事がムカついたから結界全部剥がしちゃったと言われ、怖くてどうしたらいいかわかりません。 遠隔で除霊や結界を張ったり、霊を飛ばす事なんて出来るのでしょうか? これから私が出来る事があるのか… どうしていいかわかりません。 その人はまた結界張ってあげるから大丈夫と言っていますが、従った方がいいのでしょうか? 友達や家族は私が精神的にダメになりそうで気にしたらダメだよって言ってくれますが怖くて家にいるのが辛いです。
こんにちは。「葬式仏教」批判についての質問です。 時々ネット等で「お釈迦様は葬式をしたりお墓を作ることを否定した。だから日本の仏教は本来の仏教からかけ離れている。」といったコメントを見かけますが、お釈迦様は本当に葬式やお墓を作ることを否定したのでしょうか? この話の根拠とされる涅槃経(現代和訳)を読んだのですが、お釈迦様は自身の葬式について非常に細かく指示をだしており、さらに「遺骨は塔を作ってそこに収めよ」などお墓を連想させる記述もあり、少なくとも葬式やお墓を否定しているようには思えませんでした。 以前からこういった「日本仏教は本来の仏教じゃない!」といった批判に疑問を抱いていたので、この場をお借りして質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。
私は昔から神社仏閣が好きで、友人にも同じような方が多いです。 先日友人が、自分の集めている御朱印帳を見せてくれました。 神社仏閣にお参りした際は、いただいているのだとの事でした。 私も感銘を受け、御朱印帳集めをはじめてみたいと思うようになりました。 そこで、御朱印帳について質問があります。 神社とお寺とで分けた方が良いのでしょうか? ネットなどで調べてみると、私は気にせず1冊にまとめているという方もいらっしゃれば 神社で(またはお寺で)、お寺(神社)の御朱印のある御朱印帳を出したら怒られた、断られた、とも意見もあり、どのようにするのが良いか迷っています。 お坊さんの意見を聞きたいです。
家は、禅宗で、今お付き合いしてる方は、浄土真宗なのですが、たびたびお世話になってるお寺は、真言宗です。 真言宗のお寺で、護摩たき(字が間違ってたらごめんなさい)していただいたり、真言を教えて頂いたり、御守りを頂いたりしてます。 この様な事は、本来よくない事でしょうか? 実家とは、疎遠で、今後の付き合いもありません。が、それでも、禅宗の方法で色々と進めるべきでしょうか? と、言っても仏壇などありません。ので、特にいま何か出来る訳でもありませんが、私の様な檀家にもなってない人は、今後どうしたらいいのでしょう? 何か1つの事でも、アドバイスいただければ、ありがだいです。 よろしくお願いいたします m(__)m
こんばんは。 ずっと悩んでいることがあり、相談させて下さい。 私は1年半前に夫と結婚しました。その結婚の挨拶に行った時、夫の祖母に生年月日や氏名を聞かれ、後日祖母が信じる占い師に夫と私との結婚を占ってもらったそうです。 祖母は四柱推命の占いに傾倒しており、生活がそれで決まる人でした。夫の産まれた時に名前をつけてくれたのも、その占い師さんだそうです。 その結果が、 夫と私の相性は最低 私は病気になって一生苦しみ死ぬ運命 子供ができても親不孝者になる とにかく私の名前、生年月日は最低 だったそうで、別れた方がよい、結婚しない方がよいと言われました。 正直、ビックリし、私の名前は私の親が考えてつけてくれた尊いものだと思っていたので、急にそんなことを言われ腹が立ちました。 その後、私と夫話には四柱推命を信じているわけではないので、祖母には 四柱推命では結果がよくないかもしれないが、出会った縁を大事にして添い遂げたい と話し、結婚しました。 祖母は結婚式にも来てくれ、普通に接してくれます。 ただ、私は占いを信じていないのですが、あまりに最低だと言われ続けたのがショックで、なにかにつけ、「ああ、私の運命が最低だからこうなってしまうのだ」と思ってしまいます。 (私は精神的にあまり強くないので、占いに悪いことを言われて洗脳されないように今まで占いの類には近づかないようにしていました) 特に、少し前に持病が悪化し、手術、その結果不妊治療を行ってますが、あまり上手くいかず、そのたびに祖母の話を思い出し、祖母に言われた言葉が呪いのようにまとわりついている気がして、すごく苦しいです。 月に1回ほどは食事を一緒にしたりして祖母に会いますが、最近では祖母と会うのも怖くなってきました。 夫も私も子宝を望んでいますが、わたしの病気の為に恵まれないし、夫のみの占い結果は良いため、わたしではない人と結婚したほうが夫は子宝にも恵まれ、幸せなのではと思って申し訳ない気持ちでいっぱいになります。 夫は私を大切にしてくれます。優しい人のため、子供に恵まれなくても二人で生きていこうと言ってくれます。でも、自分が夫を不幸にしてしまうのではないかとおもうと苦しいです。 どうしたら前向きにこの占い結果を受け入れることができるのでしょうか? また、気にしないようにできるのでしょうか?
最近、私は命そのもの、生きることの苦しみについて考えています。 ◯生きること、それ自体は実は凄くグロテスクなものだと思います。 食物連鎖の頂点で生きる為に他の生物を殺して食べる。 仕方がないとは言え、酷い話です。その為の精進料理ですが、植物も穀物も、命の1つではないですか?結局、人は何かを殺さなければ生きれません。 (その為に「(命を)いただきます」という免罪の言葉があると思います) ◯そして、精神医学的に健常とされている私たちの多くは、"定型発達という病を抱えている"という表現に存在を揺さぶられました。 以下引用 福森 アメリカの自閉症協会のニューロティピカル(定型発達)=以下(NT)に関する定義がとてもおもしろいのです。要は多数派を占める私たち健常者のことです。 ・NTは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。 ・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。 ・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。 ・TVやCMなどを称賛し、流行を模倣します。 ・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。 ・NT症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。 ・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。 ある意味、人間ってこんなものなのかと悲しくなりました。 ◯生きる事は苦しみです。快が満たされても一瞬だけ。自分にも楽しい瞬間もあり、努力をして勝ち取ったものもあります。 しかし、認知症になった老いた家族を見ると、生きる事の無情さ、悲しさに打ちのめされます。(人は年老いて死ぬものだとしても) 私は無宗教なので輪廻転成や解脱を信頼していません(すみません) 人はなぜ新しい命を産みたがるのでしょうか?生物の本能だと思いますが、経済格差が広がり、苦しみと悲しみが多い世界に、親のエゴで子供を産む事を自分は良い事だとは思えません。 (自分の場合だけです) 苦しみだらけの世界でなぜ産むのか。 反出生の気持ちがあります。こんな自分は何かおかしいでしょうか?
よろしくお願いします。 長年精神疾患を患っていて、 その間色々な思想を見てまわっていました。 スピリチュアルな思想がもてはやされていたので、 新しい考え方で、時代にあってるのかな?と、 迂闊にもそちらの方に傾倒してしまったのですが・・・ 従来の神仏を捨て、 自由や物質的豊かさを目指すのが新時代の生き方だの、 今地球はバージョンアップしているから、 私たちもボジティブに生きて波長を上げよう という風潮に、だんだん恐怖を感じてきました。 個性豊かに・・・は大切だと思うんですけど、 スピリチュアル系の思想は、 とにかく「個を重んじる」で、 まずは自己愛なのが???です。 お陰様とか、自然の大切さとか、先人の努力あってこその豊かな時代とか、 日本や地球の諸問題の話とか、 そういう話が一切出て来ず・・・ こんな思想がもてはやされていて、今の日本は大丈夫なんだろうか? と不安に思う一方で、 かといって自分に何ができるのか?といったら、 大したことも出来ないし・・・。 「自由や物質的豊かさを求めるのも、個人の自由」と、 気にせずに、 自分は仏教などの、古き良きものや、周りの方々とのご縁を大切にして生きていけばそれでいい、 と割り切ってしまっていいのでしょうか? 長い期間、スピリチュアル系の情報や、それに傾倒する人達のことを見てしまったので、 「人類のせいで地球全体が危うい状況なのに、 大人のくせになんであんなに呑気なの?!」と怒りを覚えることもあります。 知らずに済めばよかったのに、知ってしまったので、気になってしまいます。 「深く考え過ぎ」 とよく言われますが、 宗教家の中には 「今の日本人は自分のことしか考えなすぎる!」と警鐘を鳴らす人もいて・・・ 個人の日々を大切にしつつ、 日本人の心のあり方や、社会や地球の諸問題・・・ にどう関わって行ったらよいのやら? 見当がつかず悶々します。 まずは、地に足つけて、日々努力していけば、 いつか心に余裕が出て、 グローバルな問題にも関わっていけるような人間になれるのでしょうか? なれそうにもない時は、そういう活動ができるような徳の高い方々におまかせで、 凡人は呑気に生きていってもよいのでしょうか?