hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 幸せ」
検索結果: 1901件

愛犬の埋葬について

悩みというか、心に引っ掛かることがあるので質問させていただきました。 先日、14年近く家族として一緒に過ごしてきた愛犬(マロン)が亡くなりました。 マロンは体が弱っちい子でしたが、平均寿命に近い年月を生きてくれました。私たち家族もとても大事にしてきました。 亡くなったと知ったときは勿論ショックでしたが、「大事にされて、最期も病院とかではなく自宅で、家族がいる時だったからマロンは幸せだったんだ」と言い聞かせてました。ですが、埋葬の時点で親が「市営の斎場に運ぶ。共同埋葬で遺骨は戻らない」と言ったので私は一度反対しました。 でもその時は、悲しみとショックで呆然としていたので流されるままに、皆で斎場に運ぶことになりました。 受付の条件で「ダンボールに遺体のみ入れてタオルやおやつなどは入れないでください」とのこと。。。亡くなる覚悟はしていたものの、老犬の介護の仕方や流動食の作り方等は調べていましたが、葬儀について調べたり準備もしていませんからちょうど良い箱が無く、ヨレヨレのみかん箱にキチキチに入れなければなりませんでした。 その光景がとても悲しかったです。 後で民間の葬儀会社等調べたら、桐の棺にフワフワのお布団やお花、お線香もついていて、市営のものとは差がありすぎて。。。 一番ショックだったのが、市の職員さんに「ここまでです。お預かりします」と言われ、遺体を手渡したのですが、その人はお盆でも運ぶように、まるで小包でも運ぶように、片手に箱を乗せて行ってしまいました。 遺族が、本当にマロンとお別れする場面でそんな扱いを見せられて、怒りを感じました。民間の葬儀会社程の手厚い対応は望めないにしても、手渡された遺体に何の情が無くとも、もっと丁寧に対応すべきでは・・・ ちゃんと火葬してもらえたかも見届けられませんでした。勿論遺骨(遺灰?)もありません。 亡くなったその日の午後に運んだので、火葬は翌日になったそうです。 冷蔵室で独り寂しい思いをさせてしまいました。 せめて一晩、自宅で過ごさせてあげればよかった事と、豪華でなくともきちんと埋葬してくれるところにお願いすべきだった事を後悔しています。 これは人間のエゴというか、勝手な「可哀想」と思ってしまう感情なのでしょうか? マロンは自分を大事にしてくれたと感じていると信じていますが、最期の最後で可哀想な事をした・・・と後悔しています

有り難し有り難し 57
回答数回答 3
2024/08/27

自分さえ居なければと思ってしまう

すべての苦しみから逃れたいという気持ちと、自死や自暴自棄などで身近な人に迷惑はかけられないという気持ちの間で葛藤しています。 私の悩みの種の大元は人間関係にあります。周りの人と同じように、誰かと暖かで安定した関係性を築くことができず、それがコンプレックスになっています。つかみはうまくいっても、関係が思い通りにいかなくなるといつも人が怖くなって逃げてしまいます。長く一緒に生きた家族との間でさえなんともいえない気まずさがあります。 人間関係で失敗して誰かを傷つけたり迷惑をかけたなら、反省して同じ過ちを繰り返さなければよいのですが、いつも私は反省するよりも先に拗ねてしまい、「私は相手の人生を損なった。私がいなければ最初から何も起きなかった。こんな私の存在のせいで誰かが不快になることもなかった。」と考え、人と関わることを避けたくなります。そして人とうまく関われない自分には価値がないと思い、自らの人生を虚ろに感じます。そうしているうちにやがて自死について思考が至りますが、私と関わった人に罪悪感を与えたり、家族に迷惑をかけたりする可能性があると思うとできません。自死もまた私の存在によって周りを不幸にさせる行動のひとつだからです。しかしこのストッパーさえなければ私はいままでのどこかのタイミングで自死を選んでいます。「自分が生きていても迷惑をかけるだけだ」と感じたとき、死ぬのもまぁ迷惑だけどそっちのほうがコストパフォーマンスがよく思えてしまいます。 私の不幸の根幹は私の深刻な逃げグセにあるのだと思いますが、だからこそ「変わる努力をしろ」という真っ当な言葉からも逃げたいんだと思います。自分自身の人生から逃げています。 全てが面倒です。 くじけずに生きていくことがすべてだとは分かっていますが、くじけずに生きていくための元気がありません。 自分に生きる価値がないと思っていながらどう生きていけばいいでしょうか。どのように考えればよいでしょうか。どのように考えれば死の魅力から逃れて、自分や他者を大切にできるようになるのでしょうか。

有り難し有り難し 17
回答数回答 3
2023/08/02

悲しみを憎しみで癒していた

いつもありがとうございます。 最近の気づきを聞いていただきたいです。 弟の死の悲しみをを父への憎しみで癒していたのかも。。。と最近気づきました。 両親が離婚し、弟と私は母と暮らしていました。 父への憎しみは父が亡くなってからより一層思いが強くなり、 弟の死の悲しみも、父への憎しみがあったから耐えられた気がします。 もし、憎しみがなかったら弟の死をも受け入れられなかったかもしれません。 ある意味、父への憎しみがあったから私は乗り越えてこられたのかもしれません。 悲しみと憎しみ。似て非なるもの。。なのでしょうか。 こういってはなんですが、父への屈折した思いがあったことに今では感謝さえしてしまうのです。 親子としての縁はとても薄かったけれど、娘からこんなに嫌われている父だけれど、なんだか許してくれるような気もします。 おそらく父へのこの気持ちをご相談するのはこれが最後となると思います。 私の中で決着がついたからです。 嫌ってもいいし、憎まれてもいいよと言ってくれているような気がします。 私の気のすむようにすればいいと。 実際に父と暮らしたのは5年か6年。父が何を考え、弟や私のことをどう思っていたのか、少しでもかわいいと思っていたのか、思っていなかったのか。 もうわからないけれど、もう手放せる気がします。 憎しみで大切な弟の悲しみを癒すというかごまかしていた気がします。 きちんと悲しむことも必要ですよね。 もう私は、私を幸せにしたい。 もちろん、不幸せではないけれど、憎しみを手放したい。 そんな気持ちをこちらで開放させていただきました。 とりとめもなく申し訳ありません。 なんだか少し優しい人間に近づけるような気がします。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

すべて自分が原因

最近、ある事がきっかけで初めてちゃんと自分と向き合いました。 亡くなった祖父が死の間際に、高校合格の知らせを聞いて泣きながら喜んでくれたのに、人間関係も勉強も何もかも嫌であまり学校に行かなかった事、仲良くなったのに急に相手を突き放して相手を傷つけた事、好きな事や夢のために努力し続けている人が羨ましくて嫉妬していた事、自分に価値があると思って輝いてる人に嫉妬していた事、人の意見を否定して自分が一番の状態にして努力しなくても優位になって安心感を得ていた事、夢は叶わないと決めつけていた事、親からの愛情を上手に受け取る事が出来ずに親を心の中で悪者にしたてながらもっと愛情を求めていた事、自分がどうでもいい事など、とにかく自分に甘くて逃げてばかりで幼くて情けないです。 どれだけたくさんの人に支えられてきたのか、迷惑をかけてきたのか、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 ですが、ここ最近、親や祖父母の事を思うと幸せにならなければと思いました。 自分は幸せになってはいけないと思っています。 今までの事を思うと本当に恥ずかしく、死にたいくらいです。 大学に行こうと思い直し、勉強し始めたのですが、勉強の楽しさややりがいを感じると同時に、急に勉強すらする価値が自分にはあるのかと、考えてしまい、今までにないほどの恐怖と不安と絶望にのみ込まれてしまいます。 この状況も現実から逃げているのだと思うと、本当に情けなくて涙が出て、でも涙を流す価値もないと考えてしまいます。 罪悪感は幼い頃からありましたが、比べものにならないほど強くなって苦しいです。 自分がすべて悪いので苦しくて当たり前なのですが、自殺は親が悲しむのでしません。 親はこんな私に幸せになってほしい、自分らしくいてほしい、自分の経験を活かしなさいと言ってくれます。 親には感謝してもしきれず、本当に幸せになってもらいたいです。 私は幸せになっても良いのでしょうか? 自分に価値があると思って良いのでしょうか? みんなみたいに一生懸命頑張っても良いのでしょうか? 自分で自分の事もまだよくわかりません。今までの自分の行いを考えると、傷つけた人たちに申し訳なくて、今はどこにいるのか、どれだけの人が傷ついたのかわからず、謝罪するにもできませんが、償いたいです。 私はどのように生きていけば良いのか、教えてください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

父が他界してからの心の穴

 私は3歳のころ母方のおばあちゃんの家に約一年間預けられて育てられました。そこでおばのやさしさとおじの厳しさに触れながら優しい子に育ったつもりです。しかしその後両親の家に戻り、両親に全く懐いてなかったせいもあってか、何事も兄優先でほめられたことなど一度もありません。何をやっても私には関心がなく愛されていないと確信したのも小学生のころでした。その後小学生中学生と人を悲しませる悪いことをしていましました。おばあちゃんの涙を見てしまったときから体の中に電撃が走ったような気持ちになり、このままではいけないと改心したのは中学生の時です。  高校になると部活動で誰にも負けたくなかったのでひたすら努力しました。勉強でもそれは同じです。しかしここで父親が登場します。私の努力をすべて無駄というかのような態度、言動をとってきたように感じました。父は敵。将来はお金をたくさん稼いでこいつを苦しめて、父が死ぬときは一番苦しい死を与えてやろう。愛されて育った兄が憎い。愛さなかった両親が憎い。死ぬ気で頑張って見返してやろうと努力をしてきました。  長くなりなりましたが本題です。大学一年の夏に父が急性心筋梗塞で他界しました。葬式で、父の亡骸をみてまた体の中に電撃が走ったような感覚に陥りました。父は、母は、私を愛していた。私が子供だっただけで何もわかってなかった。なのにわかったようなふりをしていただけのただのガキだったんだ。父が死んだのは私に対するストレスだ。なんてことをしてしまったんだ。罪の意識に苛まれたまま夏休みが過ぎ、ある決断をします。残った母を幸せにしてあげよう。そのためならどんな苦しいことでも頑張ると。  今まで私がとってきた態度のせいで母と兄からは邪魔者扱いされる日々です。すべて受け入れているのですが私の思いが通じなくてつらいです。  最近は何をしても楽しめません。母を幸せにする気持ちと父に対する罪を背負って生きていく覚悟は固まっているのですが、果たして本当に正しいのかもわかりません。どうやって生きていけばいいのですか。何をしても申し訳ないという気持ちしか湧いてきません。自分の幸せのために頑張ったことがないので自分の幸せを望むなど考えられません。いつも人と比較して負けないためか、相手を倒すためにしか努力をしたことがありません。こんな私でも自分の幸せを願っていいのでしょうか。

有り難し有り難し 21
回答数回答 3
2024/04/05

自死した両親への思いについて

初めて相談いたします。 自死で亡くなった両親のことについてです。 私の両親は3年前に自死で亡くなりました。 両親は米農家を営んでおり、3きょうだいの末の弟があとを継ぐ予定で一緒に住んでいました。 2021年6月9日、弟からlineで「2日前に出かけた両親と全く連絡がつかない。どこに行ったかもわからない。」と連絡があり、警察に探して頂いたところ、町外れの山中で2人共亡くなっていました。6月7日の朝出かけたあと、昼頃に自死したのではないかとのことでした。 後の警察の事情聴取では、父が地域やJAの役員活動が大変だと話していたこと、母の両親が貯蓄を使い込みお金の援助を求めてきていたこと、ちょうどコロナ禍で私も妹もなかなか帰省できず、友人に会うことも難しく寂しがっていたことなどがわかりましたが、日記や遺書もなく決定的な理由はわからずじまいです。 亡くなる2日前に母と電話したときにもいつもと変わらない様子だったように思えました。 急な別れだったため3年たった今でもなかなか心の整理がつかず、ふとした時に両親が何について自死するほど悩んでいたのか、私に何かできることはなかったのか、と考えてしまいます。 また1年前に私に子供(両親にとっての孫)ができたのですが、他のお母さん達が大変なときに実家を頼れることがとても羨ましく思えます。 やっぱり子育てについてもっと気軽に相談したかったし、助言や手助けしてほしかった。 私の子供が私の両親に会いに行くことはできないんだと、育児に少し疲れたときに涙が出てしまいました。 なんともいえないこの気持ちにも、いつか折り合いをつけられるのでしょうか? ひとりの大人として、親として、がんばっていくしかないとわかってはいますが、もっと両親に頼りたかったと思うのは甘えでしょうか? 長文、乱文を失礼しました。

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

死ぬことが頭から離れない

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 87
回答数回答 4

生きることの意味について

初めまして。 ご回答いただけると幸いです。 またもし可能でしたら、厳しいご意見でも、優しめにご回答いただけると幸いです。 ご相談させていただきたい内容は、 生きることが苦しい時、 心のもちようと、 生きることの意味について、 そして、生死の選択についてです。 私は、数年前離婚し、 結婚前までは健康でしたが、 離婚後より、次々と、 人には話しづらい完治の難しい体調不良や、その他の体調面での不良が起こるようになりました。 そして、今年に入ってからも更に次々と起こり、手術等もちらつき、 心がとても疲弊しており、 数年間その様な状況でおります。 そして、その事もあり、 この年齢で恥ずかしいことですが、 現在は単発のお仕事のみで、 数年間長く勤めることができていません。 今は、家族がいてくれるので、有難く、 就職活動をしながら、 今できる事を無心にしようとしています。 ただその一方で、一人っ子で、頼れる身内もいない為、 先にもし孤独なら、 情けないことかもしれませんが、 一人では寂しさで、生きていても、心が死んだようになってしまう事も経験から知っているので、 治療費の為に生き、もしも自分だけの人生の時、 生きることの意味が見い出せません。 そして、それなら、 信じれる家族と最期を迎えることも、幸せの形の一つなのではないかと感じるようになりました。 そして、どうしても生きることが苦しい時には、 安らかに死を選択できる事ができれば、 今を安心して生きられる事に繋がるようにも感じるようになりました。 人生は苦行と聞き、 それで自分を奮い立たせ、納得させようともしましたが、 人の心を傷つけても幸せに暮らす人がいる事を思うと、 その言葉は信じることが難しくなりました。 まとまりのない文で読みづらい部分があり、申し訳ありませんでしたが、 ご相談したい事は、 人生が苦しい時の心のもちようと、 生きる意味について、 そして、 苦しみから開放される方法が、例えば死以外にあれば、 ご教授いただきたいです。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1