我が家は臨済宗の妙心寺派です。 臨済宗のお経の本の中には50以上のお経が書いてあります。 お盆やお彼岸にお坊さんに家に来て頂いて仏壇にお経をあげて頂いてるのですが、お盆やお彼岸に読むお経は般若心経、坐禅和讚、舎利らい文、大悲呪などその時によって違うと思います。 ① お坊さんは仏壇の前で 1)お盆の時、2)お彼岸の時にはそれぞれ何を 読んでいるのか? ② 1)お盆の時、2)お彼岸の時に、家族が墓参りに行った時には何を読め ば良いのか? ③ 普段の日に仏壇の前でお経を読むとしたら何を読めば良いのか? 教えて下さい。 父が亡くなってから母は 舎利らい文、般若心経、延命十句観音経、坐禅和讚 を②③の時に 読んでました。 今では私も同じ事をしています。
理趣経について調べますとこのような事が書いてありました。『理趣経』を使った『理趣経法』は、四度加行を実践して前行をしてからでないと伝授してはならないという厳しい規則があると調べますとありましたが日常の勤行に理趣経を唱える事も四度加行を終わらせてからでないと唱えれないのでしょうか?
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
私は生まれた時から家が仏教をしていて仏壇に向かってお経をあげるのが普通になっているのですが、 お経をあげるという事はどう言う事なのか何故お経をあげるのか? 小さい頃に反抗期でなぜお経しないといけないの!と仏具を投げてしまった事があります。 今ではあげていたら先祖が喜んだりお婆ちゃんお爺ちゃんもあの世で見てくれて喜ぶのかな?と思いながらあげています。 実家にいる時は毎日あげていましたが、ここ最近結婚をし家を出て仕事の疲れや家事に忙しくてなかなかあげられていませ。 毎日あげないとやはりいけないのでしょうか?
今回はお経について質問が三つあります。 1.『浄土宗のお経』という本を読んでいます。初心者向けの本です。毎日のおつとめで読まれるお経が収録されています。懺悔偈のところで、「普賢菩薩が毘盧遮那仏の前で〜過ちを反省して、許しを請う偈文」と説明されているのですが、普賢菩薩が毘盧遮那仏に許しを請う、というのはどのようなエピソードでしょうか?普賢菩薩といえば、智恵を司り、白い象に乗ったクールなイメージなので、意外に感じて伺う次第です。また、毘盧遮那仏、普賢菩薩、阿弥陀仏はどのような関係にあるのでしょうか? 2.法要の時に「サンバラ〜サンバラ〜」と聞こえることがあるのですが、何というお経の一節かお心当たりがありましたら、教えてください。上記の『浄土宗のお経』を「サンバラ〜」と読めそうなところに注意して見てみたのですが、それらしいところが見つからないのです。 3.今度七回忌があるのですが、そこで読まれるお経とその順序は「浄土宗勤行式次第」と同じでしょうか?法要で読まれるお経が聞き取れるようになりたいです。 教えていただけるとありがたいです。よろしくお願い申し上げます。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 先日、祖母のお葬式がありまして、お坊さんが何のお経を読むのか興味深く聴いておりました。 私はお寺に参拝すると過去に四国遍路をした慣習で読経します。 (開経偈、懺悔文、三帰、般若心経、観音経、ご真言など) しかしお葬式のお坊さんの読経の半分くらいは聞いたことが無くあまり分かりませんでした。 お坊さんが唱えていたお経の名称が知りたいです。またお葬式用の経典を一般の人が手に入れる事は出来ますか? ちなみに今回のお葬式は曹洞宗でしたが、親戚には臨済宗と真言宗の方もいるので、どれか一つに関する事で構いませんのでご回答頂けると有り難いです。 よろしくお願い致します。
私は家で毎日般若心経を唱えているのですが、休日になると経本に書かれているお経を全てではないですが、唱えるようにしてます。 順番は合唱礼拝→懺悔→三帰→三竟→十善戒→発菩提心→三昧耶戒→開経偈→百字偈→観音経偈→舎利礼文→般若心経→本尊真言(大日如来様、弁財天様、大黒天様)→十三仏真言→光明真言→御宝号→祈願文→回向と唱えています。 仏前勤行次第に百字偈と観音経偈を追加しているのですが、この唱え方はやはり間違ってますか? あとお経を唱える際に心掛けるアドバイス等あれば教えて頂きたいです。 よろしくお願いします。
度々、申し訳ありません。 私は以前、禅宗のお坊様から教えて頂いた「十句観音経」という短いお経を、例えば恐怖を感じた時や落ち込むような事があった時に、心の中でとなえています。お守りのようにしています。 では、ものすごい怒りで心がいっぱいになってしまった時に、平常心に戻る為に心の中でお唱えできる短いお経やご真言がありましたら教えて頂けないでしょうか。 できましたらそのお経やご真言の意味も教えて頂けると、大変ありがたいです。 よろしくお願いいたします。
おはようございます。いつもありがとうございます。 先日、友達とご先祖様について話ていて 友達のご両親は亡くなっていて、亡くなった時にお寺が遠かった事もあり宗教は関係なく葬儀屋さんに頼んで和尚様を呼んでもらってお経をあげてもらったそうです。 その後、跡取りもいなくて友達の嫁ぎ先に別のお仏壇を準備してお参りしているそうです。 お仏壇にお参りはしているそうですが、無宗教なためお経はあげてないと言ってました。 私的には、仏様のためにお経をあげた方がいいんじゃないかと思ったのですがいかがでしょうか? また、法事の時にあげるお経はその時その時で 違う宗教のお経でも仏様には大丈夫なのでしょうか? 友達はお経をあげなくても、手を合わせるだけでいいと思うと言っていました。 仏様はあの世でどうなのか知りたくて質問させていただきました。 よろしくお願いします。
初めましてこんにちは。 大般若経600巻のお経 後にも先にも一度だけよみたいのですが 経本を購入するのは難しいのでそれ以外では可能でしょうか? 理由は時間があるなど自分のためです。 どうぞよろしくお願いいたします。
元々、お寺さんに行くと落ち着くのでたまに寺社を巡ります。 最近のブームもあり、御朱印を知ったのは最近です。御朱印をただ頂くのではなく、本来の方法。納経して頂きたいな〜と思っています。 納経するのも、私としては先祖供養の為、菩提寺(曹洞宗)にしたかったのですが、確認の為に電話をしたところ、怪訝そうな対応をされてしまいました。 『檀家さんで写経したものを持ってくる人はいるけど…』と。 ダメです!と、断られた訳では無いのですが、言葉尻というか、声のトーンから、歓迎はしていないと感じました。 電話対応して下さったのは、住職ではなく、お嫁さん?です。 住職、大住職がとても優しい方なのもあり、ショックでした… 先祖供養をしたい為の納経でも、断られることはあるのでしょうか? 無知でお恥ずかしいのですが、ご教示頂けますでしょうか。
はじめまして。 大切な家族を失い、法要などからお経に触れる事も多くなり、自宅でもお経を唱えたいという気持ちから朝夕唱えるようになりました。 当方は天台宗です。 お仏壇を購入した際にいただいたお経を唱えていますが、 例えば「懺悔文」の場合は、 がしゃくしょぞうしょあくごう〜 と唱えるものと、 我昔より造れる所の〜 とあります。 「開経偈」にしても、 むじょうじんじんみみょうほう ひゃくせんまんごうなんそうぐう〜 と、 無上甚深微妙の法は百千萬劫にも遭遇こと難し など、 意味は同じだと思うのですが、お経として唱える場合、どちらがいいのでしょうか。 また、 三礼、懺悔文、開経偈、十如是、自我偈、圓頓章、舎利禮文、本覚讃、光明真言、隨求陀羅尼、観経文、念佛、回向文、佛説阿弥陀経、般若心経、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五 を唱えたい場合、どの順番なのか、 その他唱えた方がいいものがあれば教えていただきたいです。 どうぞよろしくお願い致します。
祖父の遺品整理をしているとたくさん納経帳が出てきました。処分に忍びず 母が実家に持ち帰りましたが、納経帳は棺に入れられないことを初めて知り、 まあ祖父の血を引くといいますか、私も10冊の納経帳を持っており、これを 遺品整理屋に任せるに忍びず、生前に処分しようと思うのですが、そもそも 社寺に行っても礼拝するのみで納経帳類はお願いするべきではなかったの でしょうか?お軸もあり某寺に納めようと相談したら・・まあ、処分料がそこそ こかかるとのことで弱っております。
お経を読む蛇腹の本は宗派のお寺でお金をお渡ししたらいただけるのでしょうか。 最近はネットで検索すると通販であったりしますが、私の宗派(西山浄土宗)が見当たりません。近くのお寺と連絡が取れず、遠方ですが、総本山に問い合わせをしてます。しかし、連絡が取れておりません。失礼をしてしまったのでしょうか。 余談でお経本が必要になっている理由ですが、家族が亡くなり、勤行を曽祖父などがしておりましたが、非常に古くめくるだけで破れてしまうためです。
初めて質問させていただきます。 なぜ、耳でお経を聞くのでしょうか?文字ではなく、声に出して読まれるのは何故ですか。 それらはどんな効果があるのでしょうか? お経を読んでいただく際の心構えを教えてください。 葬式や法事など…お経を耳に入れる事は、私にとって非日常の事になります。 一つ一つの言葉の意味はわかるようでわかりません、漠然と「最後は仏様のところに行くんだろうな…」と思いながら、葬式の時は故人に思いを馳せ、時には眠気と戦ったりもしてしまいます。 一昨年、祖母が亡くなりました。祖母の葬式の際、父親は最前列で船を漕いでうとうとしていました。 父親は喪主ではありませんでしたが、祖母の一番近いところに住んでいたので、車を出したり通夜でご遺体と過ごしたり、とにかく疲れていたのだと思います。私は、父がお経を聞いている間に休息が取れているなら、安らかに睡眠が取れているなら十分だと微笑ましくなりました。 しかしそれは私の考えであり、実際には父は「早く終わってくれ」と思っているのかもしれません。 ありがたいお言葉を、故人の前で私たちに聞かせてくださっているのは理解ができます。批判の気持ちは全くありません。 聞く人間により、状況によりお経を聞く気持ちがばらばらになっているのも事実だと思います。(もちろん一人一人が違う視点を持った人間なので当然だと思います。) 長い間、この儀式が続いているということはやはり効果があるからで、一言で済むかもしれない(とても失礼なことを言っているのは承知ですが)ことを、長々とお伝えいただくのはやはり意味があってのことなのだと思います。 タイトルに戻るのですが、どのような気持ちでお経を耳に入れたらいいのでしょうか? 正解というのはあるのでしょうか? ・故人のこと、生死について考えさせられる ・安らげる、眠くなる ・だるいと感じる人もいる ・時間的な拘束で、現世から引き離す(?) ・パワーを感じる ・意味を理解し、有り難がる 全てが正解ならば、それはそれで納得します。 母親が先日難病を診断され、近々お葬式をやるかもしれません。こう言っては悪いのかもしれませんが、唯一無二の葬式ですので、後悔のないようにのぞみたいです。 面倒な疑問かもしれません、失礼だったら申し訳ないです。まとまりのない疑問ですが、ご回答頂けますと幸いです。
2023年11月に義理の父が亡くなり、今年の8月に初盆を迎えます。 宗派は真言宗です。 義理の父の家から8月1日に「新盆棚経」を行う。との連絡をもらいました。 義理の父の家の地域は、 8月1日に「新盆棚経(お寺様に経を読んでもらう)」をおこないますが、 8月15日のお盆も行うのでしょうか? 8月1日に「新盆棚経(お寺様に経を読んでもらう)」をおこなったら 8月15日のお盆はおこなわなくてもいいのでしょうか? 教えて下さい。
私は普段『仏前勤行次第』を使用していますが、『念彼観音力』の読み方は『ねんびかんのんりき』となっています。 しかし他の観音経の経本を見ると読み方が 『ねんぴかんのんりき』となっています。 『ねんびかんのんりき』『ねんぴかんのんりき』どちらが正しいのでしょうか? 『び』と『ぴ』の違いなのであまり気にしなくて好きな方で唱えたらよいのでしょうか? 私はずっと『ねんびかんのんりき』と唱えていたので『ねんぴかんのんりき』はなんかしっくりきません。
いつもお世話になっております。 iPhoneでお経を聞いてるうちに唱えることに興味を持ち始めました。 ただ、どう唱えたらいいかがわかりません。 我が家には仏壇もありません。 拝む対象もまったくわかりません。 強いて言うなら、歌うようにお経を唱えたい(例えが悪くて申し訳ありません)と思います。 信仰心は少しずつ芽生えてはきていますが、独学のため常に右往左往している感じです。 こんなにフラフラしているのに、歌うように唱えたいというのは失礼にあたるのではないかとモヤモヤしています。 どう唱えるのが一番いいのでしょうか? お経の言葉には言霊がたくさん詰まっていると思うので、軽々しく口にしてはいけないような気がします。 申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
おはようございます。 いつも、質問に答えていただきありがとうございます。 私は趣味でお経を現代語訳していて、般若心経と正信偈から取りかかっています。 最初は親鸞様が人なのか、仏像なのかもわからない所からだったので、初めて知ることばかりで楽しく、ノリノリで現代語訳にしていたのですが、最近スランプというか、行き詰まり気味です。 まず、私の知識が皆無なので一節を読みくだくのにかなり時間がかかるのと、お釈迦様や阿弥陀様を信じていることが前提での言葉が多くて、まだ信じるという境地にはほど遠い私のような者がお経を読みくだいていくというのは申し訳ないというか、身分不相応ではないかとモヤモヤします。 モヤモヤしたまま、取り組んではいるのですが最初のスラスラ出来た時とは違い、毎回「難しい〜💧」と頭を抱えてしまうことが多く、手が遠のきそうになっています。 お経を現代語訳にするにあたって、これは手話で伝えることが出来ないだろうか?という野望もあって、とりあえず今、取り組んでいることは草稿みたいなもので最後まで出来たら、もう一度手話と照らし合わせて読み砕いていこうとは考えているのですが、なにぶん独学であることと、知識のなさで「これで合っているのか?」と日々、悩むことが増えてきました。 こんなにモヤモヤした気持ちでお経と向き合ってもいいのでしょうか? 私の気持ちとしては、続けたいのが本音です。でも、この状態で続けるのは仏教を愚弄しているんじゃないかとも思います。 私の中で答えを出せばいいことなのに、相談してしまってごめんなさい。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 長い間、西欧の古典音楽に親しんで、楽器もやってき来ました。特にバッハをアホのように延々と弾いたりします。 上手くなりたい訳でもなく、人に聴かせる目的も無く、いったい私は、どうしたいんだろうと思っていましたら、このところ経の響きに惹かれます。経典を読むことと、譜面を読むのを同じように考えても良いかもしれないと思いましたが、情の在り方、祈りの在り方、随分違うような気がします。 お坊さんは、ドレミの音楽があふれている世の中で、経を上げられると思います。違いを、どう感じておられるのでしょうか。また、簡単な事ではないと思いますが、心構えのアドバイスを頂けたら幸いです。