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検索結果: 298件

彼を諦めて、一人で育てるしかないのか

妊娠6ヶ月、授かり婚です。 彼とは昨年6月から交際し12月に妊娠発覚。一緒になろうと言ってくれた彼。 3月に入籍すると決め、両親に報告、承諾を得て順調に話が進んでいました。 しかし3月1日、入籍しようとしたところ、彼のお義母さんが、結婚は待ってくれ、子供は諦めろと急に言われてしまいました。 理由は昨年7月にスキルス胃がんが発覚し、余命1年と言われた(私も彼も知っていました)から、それまで待ってほしい。 待てないなら縁を切る、と言われました。 私は同棲もしていなく、一人暮らしのため、つわり期間は1人で乗り切り、これから楽しい妊婦生活、そして赤ちゃんに会えるのを待っていたため、納得はできません。 私の両親も不信感を抱いています。 彼は結婚したい、子供と一緒にいたい、でも許してもらえないなら結婚はできないと。 1ヶ月このやりとりをして、やっと4月の頭には籍を入れようと言ってくれました。それなのに、なかなか籍を入れてもらえません。 仕事も退職したため、保険証がなく困ってると伝えても、わかったからと。 彼を支えてあげたい気持ちもありますが、はっきりしてほしい気持ちが強くなってしまいます。 お義母さんの事を思うと、私は彼との結婚を諦めるしかないのでしょうか

有り難し有り難し 22
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父を亡くしてどうしたらいいかわかりません

父が2週間程前に癌で亡くなりました。享年70歳でした。1年7か月の闘病でした。最後は肺に転移してしまい発作ばかりで苦しい上にせん妄も起き、話が通じているのか通じていないのかわからない状態でした。 最初の1年くらいは胃を切除し抗がん剤をして、普通の生活を送れましたが、やがて抗がん剤が効かなくなり食べ物を食べては吐くの7か月になってしまいました。余命宣告を一切父にはしてこなかったのですが、自分の体調と私達の様子で自分の命は残り僅かだと気が付いていたとは思います。 亡くなる1週間くらい前に病室で父がボソッともう少し生きてーなーと言ってきました。それから発作が起きたときは、私に殺せと言ってきて、お前は生きるからいいじゃんと言われました。はっきりと本人から俺は残り僅かなの?とか聞かれたことは一切なかったんですが、本当は余命宣告されたとき本人に告知しておけば悔いない人生を送れたんじゃないかと後悔しています。 2週間経つ今まで悲しいはずなんですが、あまり悲しみがなかったのに、今となり毎晩夢に出てきたり、悲しくなってきました。なんでも直してくれたり、家の物を作ってくれたりする父にもう何も頼めないのかとかちょっと天然な父にはもう笑わせてもらえないのかとか考えれば考える程つらいです。時間が解決してくれるのを待っていては、身が持たないような気がしてきてしまいました。 人間と言うものは寿命が決まっているのでしょうか?私はこれからどういう気持ちで生きていけばいいか整理がつきません。悲しみを乗り越えるためには、どう考え生きていけばいいでしょうか?

有り難し有り難し 5
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今 向き合うべき事がわからない

現在実家の母が末期がん、余命はあと数日と言われています。 私は遠方に住んでいますが母のがんが発覚して、できるだけ顔を見せるようにしてきました。先日母から「自分の家庭があるのに頻繁に来るな、まだ母親が必要な子供が家で待ってるだろう。来られるとその事を考えて心配で神経が高ぶる。やめてほしい。」と強く叱られました。 母の心配する気持ちを受け止めましたが、自分が辛い時にも娘の事を思ってくれる母を思うと胸が張り裂けそうでした。 それからも実家には行きますが母の部屋には入らず(母はベッドから動けません)、介護は姉が、私は家事を手伝う位です。 母は私が来ていることを知りません。 宣告はしていませんが、あまりにも身体が辛いので母は自分の命の期限に気がついていると思います。 ただ私が行く事でもっと母を辛くさせてしまうけれど、もういつ逝ってしまうかわからない母に会っておきたい気持ちと、とはいえ、日々衰弱していく母を見るのは辛いのも確かです。 あと、未婚で実家に同居している姉が心の病があり、思い通りに行かないと家族に暴言を吐く、などしてきました。その拠り所であった母の死を恐れながら、懺悔するかのように今は献身的に介護しています。 その姉から、とにかく夜一人で母の死を想像するのが怖いから、実家にいてと言われています。姉がいっぱいいっぱいになり爆発するのも私は恐れています。自分の家に中々帰れません。でも母の顔は見れません。 今私がやるべき事は、一体何なのか。 自分の考えだけでは行動できず、私自身も意思を貫く事ができない弱い人間である事を目の当たりにするだけの毎日です。

有り難し有り難し 22
回答数回答 1

無念さが時折邪魔をします … 。

余命宣告1年が 半年過ぎました。 仕事にケジメをつけ 退職し 自宅は介護ベッドと最低限必要なもの以外はすべて処分し 実家と病院の出入りで生活と治療を続けています。 老後にと貯めていた貯金で 両親の自家用車を購入し  実家の台所を全リフォームし  自分と息子の墓石 両親の墓石  そして  お寺で両親の戒名と私の葬儀のお願いを聴いていただき 余命1年の会計と財産分与をすませ 日々は 病院での治療日誌を毎日詳しく書きしたため 抗がん剤治療が出来なくなったあとの ホスピスも手配ができたところです。 優しい息子 看病してくれる両親には ただ ただ感謝しかなく 自分のできる範囲で余命生活を 共にしています。 病院関係では 主治医 緩和Dr看護師 整体 薬剤師 みなさんによくしてもらい 落ち着いて治療 療養できていますが ガンの痛みと副作用は  容赦なく襲ってきて 毅然に生きていると思っていても 一人涙が溢れたり  どうしようもない無念さに 心が折れそうになります。 特に 発見前 今の主治医に 「ガンではないか!」と ひつこく受診し 薬服用しても効果ないと通院していたにも かかわらず 大病院で受診したら 膵臓ガンだとわかった経緯は どうしても許せなかった…のですが 大病院は遠方なので やむを得ず ガンをみつけれなかった今の病院で 治療をすることになっているので 毎日 思わない日はありません ・・・速く見つかっていれば 手術できたり 治ったり 余命1年ってことはなかった・・・ と そのキモチを収めるために 朝晩お経を唱え写経したりするのですが 痛さとの戦いのよぅです 医療麻薬のせいにはしたくはありません この先 痛みと無念さに負けず 心穏やかに 自分らしく生きたい そのためには どんな心積もりでいるべきでしょうか お知らせ下さい

有り難し有り難し 12
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初めて身内の死を経験してから

3年半前、祖母は余命2~3ヶ月の末期癌と診断されました。 ですがよい病院に巡り会え、度々余命宣告されても、家での治療を続け元気な姿を見せてくれました。 その祖母も、春に余命2週間を宣告され、そのとおりに亡くなりました。 亡くなる数日前までは酸素も回復し、本人も「みんなでお花見しよう」「退院したら○○へ夕飯行こう」なんて楽しそうに話していて。 突然危篤状態になり、次の日にという流れでした。 私はこの3年間延命してる姿を見て「こんな笑ってる人が死ぬわけない」と思い込み、祖母に優しくできなかったことをとても後悔しています。 仕事を理由に何度も誘いを断り、私が口ベタなこともあり話のキャッチボールが少なかったり。 まともな思い出も去年秋の旅行と、亡くなる前の誕生日会くらいです。 亡くなって2ヶ月半経ちますが、かなりの頻度で夢に出てきます。 街中で同年代のお年寄りを見かけるだけで悲しくなります。祖母の願いであった私の結婚報告も、式の参列へも、叶えられなかったことを考え泣いてしまいます。 亡くなる数時間前、駆けつけた私を見て涙目で手を握ってくれました。 必死に抱きしめようとしてくれましたが、医療器具やベッドの柵が邪魔で出来なかった悲しみや、死の直前まで生きたいと願っていた祖母の姿が頭から抜けません。 死の悲しみは誰もが通る道だとは分かっていましたが、、 どうすれば前向きに生きられるでしょうか。

有り難し有り難し 15
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2021/05/09

先日彼氏が亡くなりました。

私は34歳差の彼氏(相手は72歳の方)とお付き合いさせていただいていました。 相手の体の調子がよくなくなったことをきっかけに病院に行くと、すでに末期がんで転移しているとのことでした。 余命一ヶ月と言われました。その時は3月1日です。 しかし私と彼の共通の知人というのがいませんでした。 そして今日(5月9日)になり、既に亡くなってしまったということを知りました。 亡くなったのは一ヶ月まえの4月10日です。 彼と私は愛し合っていました。 ここに行きたかったなぁ、まだ行きたいとこあったなぁと私に話してくれてました。 ならどうして私に連絡くれなかったんだろうて、 すごく感じました。 私は彼が心配で3月半ばまで着信を残していたのに、彼はこちらに連絡をくれませんでした。 それなのに、他の人には少し連絡をとったりしてたみたいです(息するのも苦しいみたいでほんのすこしだったみたいですが。) このままでは、どうして連絡くれなかったの?!という相手がいないためぶつけることのできない責めた思いをいだきながら彼のことを想いそうです。 彼にとって私はそんなに大切ではなかったんでしょうか? 私はこの複雑な気持ちをどうすればいいのでしょうか?

有り難し有り難し 33
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元彼が1年前に亡くなりました

3つ年上の彼氏と付き合って2年で「別れてほしい」と言われ、好きだったのですが仕方なく別れました。 その時彼は余命宣告をされていたのですが、私は何も知りませんでした。 彼が病気でもうダメかもしれないと友人に聞かされ、彼に会いに行った時に彼に「別れてからも好きだった。でもこれからは新しい人と仲良くしてね」といわれ、心が激しく動揺しました。 その後、彼はすぐに亡くなり、私は精神的に不安定になってしまいました。 それから一年が経ち気持ちの整理がついたと思っていたのですが、命日が近づくととても苦しくなって突然泣いたりしてしまいます。 これから好きな人をつくって付き合ったりしたいし、結婚だってしたいです。 でも人と付き合うことを意識した瞬間に、元彼に申し訳なく思ってしまいます。また、お付き合いする人に対して失礼なのではないかと思ってしまいます。 そして、彼の病気をしり現在医療職を目指しています。しかし、彼と同じような患者さんと出会った際に自分が動揺してしまうのではないかとものすごく不安です。 これから新しい人と付き合うため、また医療職として病気の方と接するため、彼を思う気持ちを忘れた方がいいのでしょうか?

有り難し有り難し 32
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皆さんの考える最期の迎え方とは

昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 15
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2021/06/03

祖父の死、後悔が尽きません

癌の余命宣告を受けていた祖父が旅立ちました。宣告されていた余命よりも長く頑張りました。 幸いにも、亡くなる1週間ほど前までは元気で、薬は飲んでいたものの、入院することもなく、亡くなる前日まで散歩をしたりしていました。 私は祖父と同居していたこともあり、おじいちゃんっ子でした。 海外に住んでいるため、コロナ禍ということもあり、祖父が亡くなるまで一度も日本に帰り会うことはできませんでした。 そのため、毎日祖父にビデオ電話をかけて、お喋りすることにして、連絡を取り合っていました。でも、毎日と決めていたのにも関わらず、3日間連絡が空いてしまうことや、祖父の話をちゃんと聞いていなかったときもあったなあ…もっといろいろ聞いて、もっと闘病中の祖父を労ってあげればよかった、という後悔で押しつぶされそうです。闘病中でしたが、ご飯もよく食べ、散歩もし、元気だったため、その姿に甘えて、寄り添ってあげれてなかったのではないか…実は苦しかったのにそれを見せなかっただけだったのか…考え出すと苦しくて涙が止まりません。人間未熟な自分が嫌になります。 まとまりのない文章で申し訳ございません、いまの素直な感情を書かせていただきました。私もいつか祖父のいる場所に行く時が来たら、また会えると信じています。また会いたいです。

有り難し有り難し 5
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家族との向き合い方について

初めまして。 実は我が家におこる様々な災い?について、不安で仕方がありません。 十数年前に父が経営していた会社が倒産し、家も車も貯金も全て失いました。 やっと苦しみから脱し、普通の生活が送れるようになったのに、三年前に父親が癌である事が判明... 余命二年と言われ、未だ抗がん剤治療を続けております。 父が旅立ってしまったら、気丈に振舞っている母親の事が心配で堪らず、兄と二人で支えていこうと話してました。 その矢先、その兄が鬱病を発症してしまいました。 責任感の強い兄なので、今後長男である自分が何とかしなきゃと奮い立たせていたのですが、仕事のストレスもあり、限界を超えてしまったようです。 私も昔心疾患になった事があり辛さは痛いほど分かるので、そんな兄を見ていても何も出来ない自分に不甲斐なさを感じます。 私の主人も体調を崩しており、あまり心配掛けたく無いので、明るくつとめてますが、私自身も精神的に限界近くなり、そろそろ心が折れてしまいそうで怖いです。 今後家族とどのように向き合い、子供として妹として妻として、何をどうしていくべきなのでしょうか。 何故こんなにも辛い出来事が次々とおこるのか... 私の何がいけないのでしょうか。

有り難し有り難し 13
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母を失ってから2年社会復帰ができません

2年前にガンで母を失い、それ以来うつ病になり社会復帰もままならず、不甲斐ない自分が恥ずかしく辛いです。 余命宣告で1年以上時間はあったので、本人には伏せて、家族で出来る限り良い時間にしようと好きだった仕事も辞めて母第一で過ごしました。自分の出来る限りを尽くす時間をもらえたので悔いは少ない方だとは思いますが、それでも尽きません。 しかし悔いはもちろん辛いですが、何よりただただ母がいないことが受け入れられません。生活は何とか慣れましたが、共に残された父や弟はそうそうに自分の生活を取り戻し、日常に帰っていく中、私はひとり悲しみに潰されて、2年近く心療内科に通い今も治療を続け、社会復帰がかなっていません。 仲の良い友人の好意でリハビリを兼ねたアルバイトをさせてもらっていますが、それさえも身体がついてこず、休みがちで迷惑をかけ、それでも責めずに心配してくれる友人への感謝と申し訳なさからさらに体調を崩す悪循環を招いています。医師には先日そのリハビリのアルバイトさえ辞めるように言われました。 母とは悔いの少ない時間を過ごさせてもらえて、家族や友人や恋人にも恵まれていて、本当に幸せな方だと思います。そんな恵まれた環境でも上手く生きられない自分が情けないと思いながら、父と母が全てを注いで育ててくれた恩を考えると自分をなげうつ事も出来ず、自分に過度に期待してしまいます。 将来も不安です。将来を誓った恋人にも自分で自分の身を立てられるようになるまで待ってもらっています。恋人の家族にも大変可愛がられ楽しみにしてもらい、あとはもう自分の頑張り次第であるのに上手くいきません。 こんな自分で母は心配してゆっくり休むことも出来ないだろうと思うと1番辛いです。どう考えて感情を整えれば良いでしょうか。

有り難し有り難し 9
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義父の終末についての家族の考えに疑問です

よろしくお願いいたします。 同居している義父が大病を患い、入退院していましたが、昨年頃から容態が芳しくなく、春頃より入院しっぱなしでした。 最近になり、とても親切なお医者様やスタッフの方々のおかげで、少し持ち直し、一時帰宅も頻繁になってきていましたが、先日、義父の弟さんが同じ病で亡くなりました。 義父は、私や孫の前では気丈でしたが、遠方まで行って葬儀を終えた義母が帰ってくる頃、やはり気落ちしたのか少し悪くなってきています。 義母は、以前より、義父の容態が少し良くなると家に帰り私の前であからさまにがっかりして見せ、「早く…(とても書けません)」と言うことがあり、先日私がそれに嫌悪感をのぞかせるとそれ以降あまり言わなくなりましたが、相変わらず義父の容態が悪いとそわそわして…どこか楽しそうに見える気がしてしまいます。 そんな矢先、余命宣告をされたとそんな義母から聞きました。 主人もが、今週の一時帰宅が最後だろうから私に義父の写真を撮れと言うのです。 私も父を同じ病で亡くしていて、主人の言葉の意味も気持ちもわからなくはないのですが、何か違う…と違和感を感じています。 写真なんて、そんな気持ちでとるなんて、嫌です。 私的にはこの山を越えてもらってまた持ち直してもらいたいと思うのに、なぜ本当の家族達はこんなに冷めて冷たいのでしょうか。 父の代わりじゃないですが、勝手ながら義父には少しでも長生きして貰って孝行させていただきたいです。 でもいざという時はやはり私は部外者で蚊帳の外、もどかしくさえ思います。 義母や夫から義父の話を聞くのが嫌です。 どうすれば、どう考えればいいのか、心の置き場に迷い困っています。 分かりにくい文章ですみません。うまく言えませんが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 20
回答数回答 1
2021/11/01

両親を亡くして一年が立ちました。

二年前に父が余命宣告を受けました。 「話がある、早く帰って来い」 ぶっきらぼうなメッセージだと思いつつ、それに従い、いつもより早く帰宅した私。 ドアを開けると誰も死んでいないのにリビングはお通夜状態で、目に涙を浮かべながら強がる父と、すすり泣く母がいました。 膵臓ガンだと、完治する可能性は低いと、医者曰く余命は3ヶ月か半年だろうと。 母にどうしたいのかと聞くと「一緒にいたい」というので、父も母も仕事を辞めることに。 それから父と母はいつも一緒でした。 どこにいくのにも。 なにをするのにも。 「新婚みたいだね」とからかうと母は嬉しそうにしたあと、少し辛そうに笑ってました。 母は父のためになんでもしました。 外に出るときは父の荷物を母が持ち、支払いは母がして。 父が「あれが食べたい」と言えば作ったり、買ってきたりと。 そんな最後の新婚生活を送っていた時間だけはとても幸せだったのだと思います。 半年を過ぎたころ。 父の体調は一気に変化しました。 歩くだけで疲れるようになり、ベッドで横になっている時間が長くなっていき。 そして余命宣告から一年後に亡くなりました。 棺に入った父から 「お母さんがいたから半年も長く生きれたんだよ」 「ありがとう」 そんな言葉が聞こえました。 父を亡くした母はその後、大変でした。 葬儀中は気力で耐えてたもの。 昔の職場にも戻れるような精神状態でもありませんでした。 精神科にいくことを勧め。 私は普段の生活リサイクルを続けていました。 そんな、ある日。 母が亡くなりました。 脳梗塞だったと。 私が仕事に行ったあと、脳梗塞で倒れ、助けを呼べず、そのまま亡くなったのだと。 父が亡くなってから三か月後のことでした。 父の側にいた母は 父を最後まで救けていたのに 母の一番近くにいた私は 母になにもしてあげていなかった その事実だけが今も胸に残ります 母は生前から「人を騙したり、貶したり、憎んだり、憎まれるようなことはやめなさい」と言っていました。 母は自分のことを後回しして家族を愛していましました 母は私のことを愛していたのに、私は母を愛してあげれてなかった 私みたいな親不孝は生まれてくるべきじゃなかったと 母のことを想うと 自分の不甲斐なさで嗚咽がとまりません 私は生きてていいのでしょうか?

有り難し有り難し 25
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